08/15の日記

05:04
【宮沢賢治】“異世界”に踏みこむ充実のセミナー――7/28-29 イーハトーブ館にて(3)

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岩手山。松川温泉付近から。  









 こんばんは (º.-)☆ノ




“異世界”に踏みこむ充実のセミナー――7/28-29 イーハトーブ館にて(1)
“異世界”に踏みこむ充実のセミナー――7/28-29 イーハトーブ館にて(2)

 のつづきです。






 【3】 語りきれぬものは、語り続けなければならない ――― 信時哲郎さん





 信時哲郎さんは、2010年に、宮沢賢治が晩年に書いた『文語詩稿五十篇』の評釈を刊行し、現在は『文語詩稿一百篇』の評釈を準備中とのことで、賢治文語詩の専門家として知られていらっしゃいます。

 本の著者に会う、壇上に見るのでもよいのですが、そのひとつの楽しみは、本で読んだ時の著者のイメージと実際の人が、同じだったり違っていたりすることです。しかし、信時さんの場合は、イメージがビックリするほど正反対でしたw

 上記の『「文語詩稿五十篇」評釈』は、作品ごとに、語の意味、大意、内容の解釈などを、きちんと欄に分けてまとめてある、まるで高校の古文の注釈本のように体裁の整った本でした。そこから、ギトンは何となく、気むずかしい漢学の先生のような著者のイメージを持っていたのでした。まぁ、その「漢学の先生」というイメージ自体が勝手に作り上げたイメージで‥、ギトンの習った高校の漢文の先生が、たまたまそういう偏屈以外には取柄のない人だったんですよねw

 ところが、じっさいの信時さんは、それとはまさに正反対の方でw、背が高くハンサム、語り口はやさしく、さわやか。神戸の女子大学の先生をしてらっしゃるそうですが、さぞかし学生たちに人気のある方なんだろうな、と見るからに思われたのでした。

 信時さんは、秋枝さんの学問的な講演の後で、たいへん大ざっぱな話をすると前置きして語り出されたのですが、たしかに、宮沢賢治と《異世界》という、この扱いにくい難しいテーマを、わかりやすく読みほどいてくださったと思います。







三ツ石岳から東岩手山を望む。








「賢治がもちまえの感覚を生かして異空間をさまよった記録が心象スケッチだということについて、大きな異論はないだろうと思う。

 賢治のアイデアは一念三千、つまり自分の心の中にある三千の世界を見るという修行から思いつかれたもので、『なんのことだかわけがわからない』『粗硬な心象のスケッチ』であっても、これらを書き溜めていくことによって『ある程度まではみんなに共通いたします』ことが明らかになり、いつかは『信仰も化学と同じやうになる』と夢想していたのではないかと思う。

 賢治が山野を跋渉したのは周知のことだが、その最も大きな目的は、異空間に出会うことであったように思う。」

信時哲郎「発表要旨」より。



 しかし、信時さんは、会場での講演では、賢治は


「心霊体験がはじめにあり、それを跡づけるために仏教を参照した。」


 ともおっしゃっています。

 宮沢賢治は、霊的なふんいきの濃厚だった当時の東北地方でも、とりわけ宗教色の濃い敬虔な真宗信徒の家庭に生まれ育っています。おそらく物心ついた時には、それとは意識しないふだんの生活のなかに、仏教的な観念が浸透していたにちがいありません。そのなかでの“神秘体験”ですから、いったい“神秘体験”が先なのか、仏教的な観念や修行体験が先にあるのか、ほとんど区別できなかったのではないかと思います。

 もっとも、前回に引用した初期(14-17歳ころ)の賢治短歌を見ると、たしかに“神秘体験”ないし《深層意識》の体験を窺うことはできても、“心霊体験”と言えるかどうかは疑問に思います。具体的に死んだ誰彼の霊に出会った体験とか、神仏を目睹した体験は、そこには詠まれていません:


「70 寒行の声門たちよ鈴の音にかゞやきいづる星もありけり

 74 巨なる人のかばねを見んけはひ谷はまくろく刻まれにけり」

『歌稿A』〔初期形〕より。



 「声門
(しょうもん)」は仏教用語で、“教えの中から真理を学んでいる状態”。修行のいちばん初期の段階を指します。

 寒行をしている信徒か修行僧を詠んでいながら、賢治の心に映る形象は「鈴の音」「かゞやきいづる星」で、それは宗教的彼岸世界でも、“心霊”的なものでもありません。

 #74番は、おそらく岩手山の山腹を麓から見た景観が、巨大な人の死骸に見えたというのですが、それはたしかに深層意識的ではあっても、死者の霊や魂に出会う体験ではありません。



 本格的な“心霊体験”が、賢治短歌にたまさか現れるようになるのは、中学卒業後ではないかと思います。その頃以降には、《異世界》的な風景の体験を記すなかに、薬師如来などの仏の名を詠みこんだ歌が登場します:


「155 そらはいま蟇の皮にて張られたりその黄のひかりその毒の光り

 156 東には紫磨金色の薬師仏 空のやまひにあらはれ給ふ」

『歌稿A』〔初期形〕より。




 こうして、賢治の作品史から見ると、仏教的な観念の浸透した日常生活のなかで、まずしばしば“神秘体験”があり、短歌に歌われ、その後、中学高学年で島地大等編纂の《法華経》を読んで開眼したと言われる頃以降に、“神秘体験”を仏教で意味づけるようになり、同時に“心霊体験”にも進んでゆくように思われます。



 前々回、平澤さんの基調報告にちなんで少し書いたのですが、信時さんも、賢治の“神秘体験”と“心霊体験”をあまり区別しておられないようです。しかし、ギトンには、その二つの関係がひじょうに気になっています。

 賢治の場合、“心霊体験”は、かなり大人になってからではないのか? たとえば、トシが亡くなった後で、自前の仏壇の前で祈っていると、トシの霊が現れて去ろうとしない‥といった体験が、賢治からの伝聞として伝えられていますが、20代後半になってからです。賢治が少年時に“心霊体験”をした、語った、というようなことは、まったく伝えられていないのではないかと思います。

 賢治にとって“神秘体験”は、遅くとも中学低学年以来、無意識に見てしまうもの、体験のほうからやってきて、彼をとらえてしまうものでした。しかし、“心霊体験”のほうは、多分に意識的に、修行や瞑想や、↓このあと信時さんのお話にも出てくる“調息法”によって、見ようと努力して見たのではないかと思われるのです。






 
   翠ヶ池,白山,石川県






「たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
 記録されたそのとほりのこのけしきで
 それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
 ある程度まではみんなに共通いたします

(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
 みんなのおのおののなかのすべてですから)」

『春と修羅』「序詩」



「私はあの無謀な『春と修羅』に於て、序文の考を主張し、歴史や宗教の位置を全く変換しやうと企画し
〔…〕たのです。」
宮沢賢治書簡[200]1925.2.9.森佐一宛。



 賢治が、ここで構想しているのは、世界中の人々が自分の“神秘体験”を記録して報告し、その“スケッチ”を集積するならば、現在の科学が知る世界をはるかに超えて存在する広大な《異世界》の存在が明らかになり、歴史も宗教も完全に覆されるだろう―――ということでした。

 中学生時代に、ほかの誰にも理解されない《異世界》を覗き見ていた賢治は孤独でした。しかし、その後、幾人かの親友と《異世界》を共有する経験を経て、“神秘体験”の「スケッチ」をまとめた『春と修羅』を出版する頃には、“独我”の外に搏いてゆく、このような“科学的宗教”の構想を抱いていたのです。






一、十界を否しえざること、 序 科学に威嚇されたる信仰
                    本述作の目安、著書、

  一、異空間の実在 天と餓鬼、 分子―原子―電子―真空―異構成―異単元
     感覚幻想及夢と実在、

 二、
  二、菩薩佛並に諸他八界依生の実在
     内省による及実行による証明

  三、心的因果法則の実在
     唯有因縁

  四、新信行の確立。

  五、

宮沢賢治「思索メモ1」(『春と修羅・第2集』#74〔東の雲ははやくも蜜ののいろに燃え〕〔下書稿(二)〕裏)



 この著作構想メモは、1924年4月20日の日付がある口語詩(作品番号 #74)の改作清書稿の裏に書かれており、用紙は、1925年前後に主に使われた〔赤罫詩稿用紙〕です。したがって、1925年頃以後のメモと思われます。晩年かもしれませんが、1924年の『春と修羅』刊行より前ではありません。

 「十界」は、人界、畜生界、餓鬼界、修羅界、地獄界、天界、声門界、縁覚界、菩薩界、仏界、の10の世界。同時に人間の心のすべての境地を表すとされる。しかし、賢治の場合、彼の言う「十界」は、「分子―原子―」等と並べられていることからわかるように、人間の心の中などではなく、人間の外に存在する客観的な世界そのものでした。



 このメモから、賢治は《異空間》を深刻に考え、その実在を証明したいと考えていたことがわかります。そして、一方では、「分子―原子―電子……」といった物質科学的な説明に結びつけ、他方では「十界」という仏教世界観に結びつけて説明しようとしています。

 その科学的な説明にしても、「電子」から先の極微な(?)レベルとして、「―真空―異構成―異単元」と記しており、なにやら人間の感覚が届かない《異空間》の存在を構想しているように思われます。

 こうして、賢治は、《異世界》を自分の眼で見る“神秘体験”“心霊体験”から出発し、そこに立脚しながら、科学理論や仏教知識の助けを借りて、独自の心霊的世界を構想して行った‥‥‥あるいは、しようとしていた‥‥‥と思われるのです。「新信行の確立」は、そうした新しい世界観に関係してくると思われます。



 宮沢賢治が、『春と修羅』「序詩」を書き上げた後、1925年ころに考えていたことは、世界中の人々が記録した“心霊体験”を集めて科学的に分析すれば、現在の科学が知る世界をはるかに超える広大な《異世界》の存在が明らかになり、歴史も宗教も完全に覆される―――ということでした。

 そして、賢治が予想していた、‥いや願望していたのは、‥“心霊体験”の集積によって、《法華経》に書かれていることはすべて真実で正しいことが明らかになるだろうということでした。「十界」の存在が証明され、仏教こそは科学そのものだと世界が認めるようになることでした。それが“法華文学”だと、彼は考えたのです。

 それゆえに賢治は、自分の書く童話に、仏教の教訓を書き込もうと思わなかったのです。ただ自分の見た“神秘世界”の美しさ、おどろおどろしさ、怪しさ、恐ろしさをそのまま書いてゆくだけで、それは《法華文学》たりうると考えたのでした。













 じつは、“神秘体験”には“方法論”があり、一定の方法を実践すれば、誰でも見ることができるのです。もちろん、そうして見られた《異空間》は、人間という種の生理的特性から来る、万人共通の幻覚にすぎない、と考えることは可能です(実際のところ、ギトンは、またおそらくは信時さんも、《異空間》《異世界》は、客観的には単なる幻覚だと思っています)。しかし、ここで重要なのは、それが幻覚なのか現実なのかということではなく、それは誰でもが見ることのできるものだということです。

 オウム真理教をはじめとするオカルト宗教は、“神秘体験”の方法論をマニュアル化することによって、数多くの信徒を集め、マインド・コントロールすることができたと言えます。

 宮沢賢治もまた、人里離れた山野を夜間に彷徨したり、性欲を抑圧したりして、自分を極限状況に追いやることによって、《異空間》に入りこみやすい状態を意識的に作り出したと考えられます。たとえば、森荘已池が記録しているところによれば、賢治は、岩手山麓のある場所で《異空間》体験をすると、その後は繰り返しその場所を訪れることによって、神秘体験を重ねて行きました。そういう自己暗示を、意識的に行なったように思われるのです。

 また、中学生時代の賢治が熱心に試行した「静座法」ないし「調息法」というものがあります。一種の過呼吸を繰り返すことによって意識を喪失させ、幻覚を体験させるもののようです。幻覚を見るだけではなく、無意識に脚が痙攣して、ぴょんぴょん跳びはねたりするそうです。ヨガの修行で“空中飛行”などと言われているものも、実際のビデオ映像を見ると、この“ぴょんぴょん”をしているにすぎませんw

 通常の人ならば、数回目の修行で、この“ぴょんぴょん”が現れるところ、賢治は、初めて行なった時に“ぴょんぴょん”を始めたとのことです。オカルト体験をしやすい体質だったと言えます。

 賢治は、晩年の『雨ニモマケズ』手帳にも、「調息法」を記載しています。晩年に至るまで、その実践をしていたと思われるのです。



 ところで、教え子の沢里武治によると、賢治は、そうやって見た《異空間》にいる存在、「化けもの」を、たいへんに怖がっていたそうです。花巻農学校の裏手にある「五本杉」で「大入道」を見た体験を賢治が語った時に、その場にいた同僚の教諭が、賢治を脅かして、「そら来た!」と言って机をたたいたところ、賢治は「顔色を変えて飛びあがった」と云います。

 ここで沢里が「五本杉」と呼んでいるのは、「花巻農学校の裏手」と言っていることから見ると、↓こちらの“四本杉”のことだと思います。4本とか5本とか、呼び方はけっこう大ざっぱなのですねw


∇ 関連記事(四本杉)⇒:【ギャルリどタブロ】ハームキヤ(7)







「夜の湿気と風がさびしくいりまじり
 松ややなぎの林はくろく
 そらには暗い業の花びらがいっぱいで
 わたくしは神々の名を録したことから
 はげしく寒くふるえてゐる」

『春と修羅・第2集』#314〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕1924.10.5.〔定稿〕より。



 「わたくしは‥‥はげしく寒くふるえてゐる」とは、単なる体温の問題ではなく、《異空間》を見たことによる恐怖を言っていると思われます。








 ここには、オカルト宗教特有のスパイラルがあります。人は“神秘体験”によって、それに惹かれてゆき、ますます深く“神秘体験”をしようとして、自己を極限に追いやる“修行”に呑めりこんでゆくのと同時に、“神秘体験”の恐怖はますます倍化して行きます。



「天野 
〔…〕あくまでも神聖な体験なのに、それを解脱だとか、成就だとか、エゴを満たす手段としてつかってしまった。〔…〕解脱のライセンスとして扱っている。自動車の免許みたいに、そこに〔オウムの――ギトン註〕致命的な過ちがあると思います。

    
〔…〕〔ギトン註――神秘体験を重ねると〕場合によっては強烈なエネルギーを制御できなくなることもあるんですよ。そうなるとものすごい恐怖を感じると思いますよ。そういう状態のとき、どうすればいいか、指導してくれるところがあれば、そこに流れるのは必然でしょう。

 永岡 
〔…〕そういう現象をどう解釈していいかわからなかった人に、正しいかどうかはわからないけれど、オウムではとりあえずの説明をしてくれた。〔…〕わからなくて説明がほしければ安心はする。安心感が生じれば、それによりかかる。そして、これが正しい、これが真理だ、となれば立派なオウム信者の誕生ですよ。」
『オウムをやめた私たち』,2000,岩波書店 より



 こうして、“神秘体験”の恐怖と不安が、特定の宗教への帰依をもたらす流路が存在するのです。



 宮沢賢治の場合にも、これと似た経路をたどったように思われます。日蓮宗の中でもある意味で特殊な『国柱会』への帰依も、この流れから理解することが可能です。その宗派の教義が極端であればあるほど、“神秘体験”の恐怖を覆い、安心させるに適しているのだと思います。



「今度私は
  国柱会信行部に入会致しました。即ち最早私の身命は
  日蓮聖人の御物です。従って今や私は
  田中智学先生の御命令の中に丈あるのです。」

宮沢賢治書簡[177]1920.12.2.保阪嘉内宛より。



 ↑このような、教養も分別もある賢治にしては異常とも思える盲信的な帰依は、“神秘体験”の恐怖からの脱出を求めてのことと考えれば、理解可能になると思うのです。






 






 もっとも、以上のように“神秘体験”が賢治の生涯の重要な局面に関わっているからといって、それが賢治の全生涯だったとは言えません。彼は、結局はオカルトの教祖にも、神秘主義思想家にもなりませんでした。

 たとえば:



「(早池峯も姫神山も
  あんなに青くひっそりだ
  おい もっとしづかに草笛を吹け)

   (先生 先生 山の上から あれ)

   (お月さんだ まるっきり潰れて変たに赤くて)

 (それはひとつの信仰だとさジェームスによれば)」

『春と修羅・第2集』#152「林学生」1924.6.22.〔下書稿(一)〕より。


 ウィリアム・ジェームズ(William James, 1842-1910)は、アメリカの哲学者・心理学者。超常現象に関心が深く、宗教的経験の根底には超常的な神秘体験があるとした。著書に『宗教的経験の諸相』がある。

 「それはひとつの信仰だとさ」という賢治の言い方は、神秘体験を根底におく宗教観に対して距離をおいているように思われます。

 宮沢賢治は、“異空間体験”“神秘体験”に対して、中途半端だったと言えます。彼は、科学と、神秘的宗教のあいだで、どっちつかずでした。中途半端だったからこそ、現在私たちが見るような宮沢賢治がある―――と、信時さんは締めくくられました。






 【4】 コメントおよび会場質疑



 初日のコメンテーター岡村民夫さんのコメントは、多岐にわたったのですが、ここでは2点にしぼってご紹介したいと思います。

 ひとつは、宮沢賢治の生涯における 1918-19年の重要性です。岩波茂雄宛て書簡には、


「六七年前から歴史やその論料、われわれの感ずるそのほかの空間といふやうなことについてどうもおかしな感じやうがしてたまりませんでした。」



 と書かれていました。この「六七年前」を計算すると 1918-19年になるのです。18年に賢治は、地質調査のために山奥に入って野宿を重ね、その中で“神秘体験”を経た状況は、『青木大学士の野宿』などに描かれています。また、奥山文幸さんは、「宮沢賢治の1919年 心象スケッチへの助走」(奥山文幸『宮沢賢治「春と修羅」論』所収)で 19年に書かれた初期短編『猫』『ラジュウムの雁』『女』『うろこ雲』に注目しています。猫やヒノキや道に生える草といった固体が解体して、粒子状、あるいは網目状の世界になる、このような描写は、この年に賢治が接したと思われる萩原朔太郎の詩集『月に吠える』を想起させます。しかし、奥村さんが指摘するように、賢治はすでに朔太郎を越えています。

 朔太郎の詩に描かれた「竹」の根や「すえたる菊」のようなオブジェは、それぞれが、「生命」の象徴であったり「原罪」の象徴であったりするために、怪異なすがたに描かれています。しかし、それらはどこまでも象徴としてのオブジェであり続けるのです。いかに根が得体のしれぬすがたで広がって延びようとも、「竹」というオブジェが解体してしまうことはありません。

 ところが、賢治の初期短編の場合には、《地》に対する《図》であるべきオブジェが液状化して解体し、《地》としての背景の中に溶けこもうとしています。あるいは、“歩行する猫”というオブジェが、運動感覚それ自体のなかに溶けこみ、解消されていきます。



「朔太郎が『月に吠える』で詩における象徴という領域を斬新に切り開いていったとすれば、1919年の賢治は、その象徴を成り立たしめる基盤
〔一定の観念に照応する形態(オブジェ)の自立性、確実性―――ギトン注〕を根底からくつがえす文学行為を開始しつつあった。」
『宮沢賢治「春と修羅」論』,1997,双文社,p.27.






 さて、第2の点は、宮沢賢治の神秘体験と山伏・修験者との関係です。賢治が関係した山には、修験者とかかわりの深い場所が少なくありません。このイーハトーブ館がある胡四王山に、賢治はしばしば訪れていましたが、ここに現在ある胡四王神社は、もとは胡四王寺と呼ばれ、山伏の修行スポットでした。また、早池峰山も修験道との関係が深く、平澤さんの基調報告で引用されていた「河原坊
(かわらのぼう)」は、もと山伏の拠点があった場所、そこで賢治の幻覚の中に現れた「坊さん」は、そのようすからして、ふつうの僧ではなく修験者です。

 しかしながら、宮沢賢治と山伏の山岳宗教との大きな違いは、修験者が神秘体験をそのまま受け入れ、信じたのとは異なって、賢治の場合には、神秘体験の意味を冷静に反省し、問う能力を備えていたことです。たとえば、「小岩井農場・パート9」で、賢治は一方では「ユリア、ペムペル」の出現をありのままに記述しながら、他方で、その認識を疑い、その意味を解析しようとしているのです。













 岡村さんのコメントのあと行われた会場質疑、講演者との討論にも、特筆したい点が多々あったのですが、ここではひとつだけ、賢治詩と賢治童話の関係についての討論をご紹介したいと思います。

 


「   鬼言(幻聴)

 三十六号!
 左の眼は三!
 右の眼は六!
 斑
(ぶち)石をつかってやれ」
『春と修羅・第2集』#383「林学生」1925.10.8.〔下書稿(二)〕



 詩には、↑このように、これ自体を読んだだけでは何のことだか、まったくわからないものも多くあります。(この詩の意味は、〔下書稿(一)〕を見ると、もう少し分かるようになります。)しかし、童話には、こういうわけのわからないものはありません。

 つまり、賢治は、詩を書く際には、ふと覚えた印象をそのままパッと書くことも多かったのに対し、童話は、物語として再構成して書いたと思われるのです。(もっとも、ギトンはそれだけではないように思います。たとえば、上の詩は、改稿によってかえって意味が解らなくされていることを、どう考えるのか。文語詩の改稿過程には、それは非常に多いと思うのです。)

 賢治が母木光の求めに応じて、母木の創作童話を批評した手紙の中で、つぎのように書いているのが注目されます:



「たゞ、作の構造としてははじめの父の行衛不明が、それが全く不明になったと断はってあるにも係はらず、どうも童話としては何かの期待を終りまで持ち越し、それがたうたう解決されないといふ気分を齎さないかと思ひます。この点こどもらに読んで聞かせてあとでそっと質問して試してごらんになれば、答ははたぶんまちまちだらうと思ひます。

 それから、物語がはじめも中頃も現実に近い人物を扱って、終り頃風魔といふ神秘的なものが一つだけでてくること、これは神秘を強調するためには有効で、作を一つの図案或ひは建築として見ると不満があるでないかと存じます。

 たとへばこの作をガラス製のパンテオン(希臘神話ですか)の模型であるとしてその一本の隅の柱だけが色ガラスであるといふやうな感じです。前の父の行衛不明をこの模型にはめれば、向ふの柱とこっちの柱とが互に対応しないといふやうになりませう。けれどもかういふことは却って意図してやる事もありませうし、あんまり対称的な完成した図案こそむしろ却くべきでもありませう。」

宮沢賢治書簡[421]1932.6.21.母木光宛より。




 つまり、童話を建築に喩えているわけで、賢治には物語の形を構成するという意識が顕著にあったことがわかります。童話にするには、単なる“スケッチ”のレベルを越えた構成意識が必要だ、ということです。弟・清六氏の回想によると、賢治は映画を見ている時でも、観客を納得させる間合いの取り方を見て、研究していたということです。賢治は、童話に関しては、読者に対して説得力のある構成のしかたをよく研究していたと思われるのです。

 『銀河鉄道の夜』をはじめとする賢治童話に関して、こんにち引き合いに出されるのは“ファンタジー”です。ファンタジーは、1950年代に成立した物語形式で、その特徴は、現実界と《異世界》との往復に、一定の手続を必要とすることです。一定の手続を践むことによって、登場人物は両世界の間を往き来することができる、というのがファンタジーの成立する構造です。

 その点で言うと、『注文の多い料理店』の2人の紳士も、一定の手続を践んで(騙されて践まされることによって ?)人間を料理して食べる山猫の《異世界》に移っていることがわかります。(『銀河鉄道の夜』で云えば、「琴の星」または「天気輪」の異変が、その手続かもしれません。)賢治童話は、ファンタジーの概念が成立する 20年以上前に、すでにその枠組みを先取りしていたと言えるでしょう。






 さて、講演と会場討論の後は、詩の朗読があり、さらに、会場を「山猫軒」に移して懇親会が開かれました。詩の朗読については、2日目の最後にまとめて批評したいと思います。また、懇親会への出席は、惜しみつつ今回は遠慮しました。というのは、これだけたくさんの内容豊富なお話を筆記して、ギトンのノートは、賢治の作詩手帳もかくやと思われるような「手宮文字」の殴り書きで埋まっていたからです。もう、一刻も早くホテルに戻ってノートを整理しないことには、翌日の講演に備えられない――というわけで、夕陽が落ちようとする街道を、足速やに新花巻駅へと向かったのでした。



   こちらへつづく↓

 “異世界”に踏みこむ充実のセミナー――7/28-29 イーハトーブ館にて(4)






ばいみ〜 ミ



 
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カテゴリ: 宮沢賢治

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