05/31の日記

21:32
【宮沢賢治】旅程ミステリー:近畿篇(4)

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無動寺谷     









 こんばんは (º.-)☆ノ









 前回からの続きです:⇒《あ〜いえばこーゆー記》旅程ミステリー近畿篇(3)








【3】 ルートB 「白川道(一)」――「大鳥居」から「地蔵谷」まで。









地図(比叡山西南面 白川道(一))






 はじめに、前回の訂正をしておかなければなりません。

 前回行った時には、「大鳥居」のそばにあるはずの“倒れた石標”と「丁石」が見当たらなかったのですが、その後見つかりました。

 どちらも、「大鳥居」から、無動寺谷への道(白川道(一))を少し下りたところにあります:







石標は、ふたつに折れて倒れていました。




文字部分の拡大



「右 一乗寺村/左 白川村 道

 (側面)明治廿五年 有志中」



 宮沢父子が来た時には、この道標が鳥居の脇に立っていたのでしょう。







丁石




丁石の拡大



「三十五丁」




 35丁は、無動寺弁天堂までの距離でしょうか? このあと見るように、地蔵谷にある石標には、弁天堂まで 53丁と記されています。






  ――――――――――――――――――――――



 さて、「大鳥居」をくぐり、「白川道」をたどって無動寺谷に下りて行きます。

 『比叡山1000年の道を歩く』によると、「白川道」は、山中町のほうにもう1本あるので、こちらの白川道は、著者の竹内氏にならって「白川道(一)」と呼ぶことにします。

 無動寺谷に下りて行く坂道も、それほど急ではありません。また、道幅が広くて歩きやすいです。谷に入っても、しばらくは沢崖の中途を高巻いて、徐々に谷底へ下って行きます。やはり、参道として歩きやすく造られていたことがわかります。










無動寺谷 「大鳥居」から谷へ下りて行く。




無動寺谷 「大鳥居」のほうを振り返る。




無動寺谷 倒木が谷を塞いでいる。荒れてますねえ...




無動寺谷 このように道の形が残っている場所もある。
もとは、広い道があったように思われます。




無動寺谷 花崗岩の岩塊。
石材を伐り出した跡かもしれません。




無動寺谷 参道の石垣の跡でしょうか?




無動寺谷 ここも、流れに沿って細長い
平らな場所があります。道の跡でしょう。




無動寺谷 これは明らかに石垣の跡ですねえ。




無動寺谷 地蔵谷に近づくと、流れは緩やかになって
土砂を堆積させています。花崗岩が風化した真白い砂利です。




無動寺谷 同じく、花崗岩が風化した白い砂利。
道の形は見えません。








地蔵谷に到着。温泉旅館と 不動堂
(左、赤い幟が並ぶ)




地蔵谷 来た道を振り返る。路傍に古い石標が立っています。




地蔵谷 石標の近写






 「地蔵谷」で、「白川道(一)」は、「山中越え」の峠路(現在は自動車道)に合流します。「山中越え」を西に下ってゆくと、まもなく北白川・仕伏町で京都市街に入ります。

 逆に麓のほうから見ると、「地蔵谷」は「白川道(一)」参道の起点になるので、「弁財天道」の石標が立っているわけです:






「比叡山/無動寺 大辨財天道 是より/五十三□

 (裏面)明治廿五年十月吉日建之」





 「大鳥居」の建立年代は明治28年、その上の病ダレ会合点の石標は明治10年代でした。「白川道(一)」は、明治10-20年代(1877-1896年)に参道として整備されたと考えられます。

 無動寺谷は、現在では荒れていて、ふつうの靴では歩けないほどですが、宮澤父子が比叡山に来た 1921年には、まだしっかりした道があったでしょう。

 『比叡山1000年の道を歩く』,p.79. によると、



「地蔵谷には、かつて一ノ鳥居が建ち、
〔ギトン注―――白川道(一)は〕京都からの主要な道であった。」








 






ばいみ〜 ミ




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カテゴリ: 宮沢賢治

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