05/30の日記
10:53
【宮沢賢治】旅程ミステリー:近畿篇(3)
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白川道に立つ石標(病ダレ/音羽谷 出会い点)
こんばんは (º.-)☆ノ
前回からの続きです:⇒《あ〜いえばこーゆー記》旅程ミステリー近畿篇(2)
【2】 ルートB 「白川道(一)」――「桜茶屋」から「大鳥居」まで。
地図(比叡山西南面 白川道(一))
「桜茶屋」の先で道はいくつかに岐れるのですが、まずは、いちばん楽な―――大正時代に楽だったw―――道を行ってみます。
「桜茶屋」から数分歩くと、東海自然歩道との分岐に出会います。ここで右折して、比叡山ドライブウェイをトンネルでくぐり、ゆるやかな坂道を下りて行きます。
病ダレ谷
病ダレ谷
このへんは「やまいだれ谷」というそうです。地名の由来が知りたいですねw
現在は簡易舗装された林道になっていますが、おそらく昔から幅の広い緩やかな道だったと思われます。谷が広くて、急な勾配がありません。
病ダレ谷と音羽川の出会い点に立つ石標(正面と右側面)
病ダレ谷と音羽川谷の出会い点に立つ石標(正面と左側面)
病ダレ谷と音羽川の出会い点に立つ石標(裏面)
「病ダレ谷」が、比叡山頂(四明岳)方面から来る音羽川に合流する地点に、↑古い石標がありました:
「右 無動寺 辨才天道
(左側面)
不動明王 道
蕎麦喰木像
(右側面)
左 山みち
(裏面)
明治十□年三月建之」
ほかに「発起人」一同の氏名などが刻まれていますが、どうやら建てたのは西宮の人たちだったようです。
「不動明王」は、無動寺にある「明王堂」のこと。「蕎麦喰木像」は、「無動寺・大乗院」にある親鸞聖人ゆかりの木像です。
無動寺・明王堂
合流した「音羽川谷」をさらに下って行きます。ゆるやかな歩きやすい坂道が続きます:
音羽川谷
正面に「大鳥居」が見えてきました。
明治時代の古い石鳥居で、現在は「大鳥居」と呼びならわしていますが、本来は「二之鳥居」にあたるそうです:
「大鳥居」
鳥居には:
「明治廿八年二月吉祥日」
と刻まれています。「発起人」一同の氏名も並んでいますが、摩滅していてよく読めません。
傍らの一対の石燈籠には、どちらにも:
「十明院」
「辨財天」
「一巳組」
と刻まれています。
「十明院」は、明治時代にあったお寺なのでしょうか? 調べているのですが、いまのところ不明です。
↑「大鳥居」を、裏側(麓側)から撮しました。
鳥居をくぐって下ってゆく道(赤矢印)は、谷伝いに「地蔵谷」(地蔵谷温泉)に下りて行きます。これがかつての主要参道「白川道」です。「地蔵谷」で、「山中越え」(京都市北白川と大津を結んでいた古い峠路)に合流します。
鳥居の北側をまいている道(黄矢印)は「一乗寺道」で、しばらく尾根に沿って行った後、急坂になって、京都の一乗寺(詩仙堂と曼殊院のあいだ)に下ります。
↓下記の参考文献によると(p.97)、ここには
「右 一乗寺村 道
左 白川村 道」
と刻まれた「明治時代の石造道標」が倒れていたそうです。現在では見あたりません。どこかの博物館にでも納められているのでしょうか?
宮沢父子がここを通ったとすると、白矢印のほうから来て、赤矢印、黄矢印のどちらかへ下って行ったはずです。
地図(比叡山西南面 白川道(一))
⇒:比叡(7)――一乗寺道
ここで参考文献を紹介しておきましょう。
⇒:竹内康之『比叡山1000年の道を歩く』,ナカニシヤ出版,2006.
比叡山と京都東山をめぐって、古い道も新しい道も、徒歩道を網羅して解説しています。修行僧の回峰行のルートもあれば、いまは廃道化している古い峠路や参道も探索して書かれています。
↓こちらは著者様のサイト。同書出版後に増補されたルートもあります:
⇒:TAKECHAN の比叡山系を歩く
ばいみ〜 ミ彡
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