05/29の日記

00:44
【宮沢賢治】旅程ミステリー:近畿篇(2)

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比叡山から琵琶湖を望む(坂本ケーブル延暦寺駅)  









 こんばんは (º.-)☆ノ






 宮澤政次郎・賢治父子が珍しく二人ででかけた 1921年春の“関西巡礼旅行”は、ミヤケンの数ある伝記でも詳しく取り上げられているエピソードです。

 この年はじめに、突然花巻から家出して上京滞在中の賢治のところへ、親父がこれまた突然訪ねてきて、急転直下、二人仲良く(?)寺社巡りの旅行とあいなったのですから、伝記作者の関心を惹かないはずはない状況ではあるのです。

 ところが、諸伝記に書かれている父子の旅程を検証してみると、…いや、はっきり言って矛盾だらけ!‥‥当時の時刻表と照らし合わせても、父子が歩いた道をじっさいにたどってみても、およそありえない日程が、諸伝記には書かれていることが判明します。

 そこで、前々回と前回は‥1年以上前になってしまいましたが‥比叡山に登り着くまでの父子の旅程の矛盾について、当時の時刻表を見ながら検討し(↓東海篇(2))、下山の旅程についても、すこし見ておきました(↓東海篇(3)):



 ⇒:《あ〜いえばこーゆー記》旅程ミステリー東海篇(2)

 ⇒:《あ〜いえばこーゆー記》旅程ミステリー東海篇(3)






 もっとも、↑これらを書いた時点では、ギトンはまだ比叡山に行ったことがなかったので、詳しい検討は、じっさいに現地を見てから‥‥、としておいたのでした。



 その後、比叡山へ行きまして、父子の歩いた道を自分の脚で確かめた結果を、《ギャルリ・ド・タブロ》のほうに6回にわたって、――写真中心ですが――書きました(比叡(1)〜(6))。そのうち下山路にかかわるのは、↓つぎの2回です:



 ⇒:比叡(4)

 ⇒:比叡(5)






 ↑(5) のほうで、現地踏査の結果を踏まえて父子がたどった下山路を推定し、可能性の高い2本の道すじに絞りこんだのですが、その後の文献調べと踏査の結果、まだまだ検討が不十分だということがわかってきました。

 最近の踏査は、↓こちらですが、比叡山から京都への下山路について、現在の市街地図や登山地図には出ていない当時の道すじが、ギトンにも、ようやく少しずつわかってきた次第です:



 ⇒:比叡(7)








【1】 「桜茶屋」まで





 前回のアップから1年以上たってしまったので、まずおさらいをしておきましょう。

 比叡山延暦寺は、比叡山の広大な山並みのあちこちに、天台宗のみならずさまざまな宗派の聖地が軒を接するように並んでいる、言ってみれば日本仏教のデパートのような大伽藍群ですw

 延暦寺に属する数多くの寺社・塔坊は、ふつう4つのセクションに分けて概観されます。中心部にあって、「根本中堂」「大講堂」、また法然が得度した「法然堂」などを含む「東塔(とうどう)」地区。その西にある「西塔(さいとう)」地区。北のほうに離れた奥場所で、日蓮の「定光院(じょうこういん)」や源信、元三大師の聖蹟のある「横川(よかわ)」。そして、もっとも南の地区で、親鸞が修行した「大乗院」などのある「無動寺」地区。

 江戸時代以降には、徳川幕府の宗教政策で浄土真宗が“国教”待遇になったことから、真宗に関連の深い「無動寺」地区が、広く信仰を集めたようです。その「無動寺」のなかでも、明治以降は、弁財天女を祀る「弁天堂」に京都市中から何本も参道が延びて、おおいに賑わったと言います。







地図(比叡山の4つのエリア)




無動寺(弁天堂への下り口)




無動寺(弁天堂)






 第2次大戦後、延暦寺には、琵琶湖側から「坂本ケーブル」、京都側からは「比叡山ロープウェイ」が備わり、「比叡山ドライブウェイ」も開通して自動車で楽に上がれるようになったので、参詣はたいへん便利になりましたが、かつて徒歩の登拝者で賑わった参道は、まったく廃れてしまいました。

 ハイキングとして、登山の格好をして比叡をめざす人は現在も少なくありませんが、現在のハイキングコースは、かつての参道とは必ずしも一致しておりません。ハイキングと参詣は目的が違いますから、おのずから好まれるルートも異なってくるのです。

 そういうわけで、大正時代に宮澤父子が徒歩でたどったコースを推定するのは容易なことではないのです。机上の地図の上でできることではありませんし、現地を踏査しても、古い時代の参道をよく探して行かなければ、まったく見当違いの道を歩いてしまうことになります。

 ケーブルカーや自動車で行って事足れりとするわけにいかないのは、言うまでもないでしょう。



 宮沢父子の延暦寺への登路については、とくに難しい点はありません。琵琶湖岸・坂本から「東塔」への参道は、ひろい道(「本坂」)が1本あるきりで、まちがえようはないからです↓


 ⇒:比叡(1)

 ⇒:比叡(2)






 「東塔」の「根本中堂」「大講堂」を参詣したあと、父子は、「無動寺」の「大乗院」へ向かったと推定されます。ここまでのルートは、まずまちがえないでしょう。







地図(無動寺)




無動寺(大乗院)







 「無動寺」から先ですが、時刻は午後4時を回っていたと推定できますから、父子は、できるだけ安全な最短経路を選んで、京都の街へ下りたはずです。

 そうすると、「桜茶屋」を経由して、京都・北白川ないし一乗寺方面へ向かう数本の下山路が有力です。「無動寺」から「桜茶屋」までは、現在でも“東海自然歩道”の一部として整備が行き届いているハイキングコースです。

 しかし、「桜茶屋」の先で道はいくつかに分かれていて、父子の歩いた道を推定するのは、なかなか容易ではありません。


 ⇒:比叡(4)









「無動寺弁天堂」から「桜茶屋」跡へ(東海自然歩道)




地図(比叡山西南面)




「桜茶屋」跡









「桜茶屋」跡 弁天堂側から見る。
鳥居の柱に「明治四十三年十一月」「玉照院」と書かれている。
「玉照院」は無動寺にある寺院。




「桜茶屋」跡 麓側から見る。
鳥居の柱に「奉納」「京都漆器 同業組合」と書かれている。




「桜茶屋」跡 山側の擁壁
石垣の石は成型されていて、明治以後のものです。




「桜茶屋」跡の南約10分 東海自然歩道の道標








 












ばいみ〜 ミ




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カテゴリ: 宮沢賢治

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