03/03の日記
05:06
【BL週記】“いびつな結晶”のかがやき(2)
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こんばんは (º.-)☆ノ
【5.4】 “銀河の旅”はジョバンニの夢ではない。
前回(1)の続きを始める前に、書いておきたいことがあります。それは、〔第4次稿〕の“銀河の旅”は、ふつうの意味での“夢”ではありえないということです。
ジョバンニは、丘の上に倒れ込んで“夢”を見るまでの間、川岸へ行ったカムパネルラたちに何が起きているか、まったく知らないのです。にもかかわらず、“夢”の中でカムパネルラがときどき口にする謎の発言といい、出会った際にカムパネルラの服が濡れているように見えたことといい、カムパネルラの・いかにも他界へ去ったかのような消え方といい、‥そもそも、カムパネルラと乗り合わせているこの“列車”じたい、死んで他界へ向かう人ばかりを乗せているのは、‥‥これらはすべて、カムパネルラに水死ないし水難が起きたという事実に基づかなければありえないデテールです。
つまり、ジョバンニの“夢”には、それが“夢”だとしたら、ジョバンニの知らない情報があまりにも多すぎるのです。
この点は、〔第3次稿〕までであれば、ブルカニロ博士が情報を送っているとか、カムパネルラの“夢”をジョバンニに送って見せているとか、説明することもできるでしょう。しかし、〔第4次稿〕には、ブルカニロ博士はいないのです!
これを無理に“夢”として理解しようとすれば、ジョバンニは“予知夢”を見ているとでも考えるほかはないでしょう。同時並行的に起きていることがらを夢に見るのですから、“予知”ではないかもしれませんが。。。
けっきょく、ジョバンニは、“夢”を見たような形をとりながら、カムパネルラとともに他界へ、あるいは現世と他界の間にある過渡空間へ‥‥、ともかく何らかの意味での“異空間”へ旅したのだと考えなくてはならないでしょう。
そんなことができるジョバンニは、超能力者なのでしょうか?‥そう考えられるような根拠は、〔第4次稿〕テクストのどこにもありません。むしろ、“異空間飛行”を惹き起こすことのできる能力があるとしたら、カムパネルラの方でしょう。カムパネルラは、死亡によって、生きた人間の制約から自由になっているかもしれないからです。
もしカムパネルラの能力だとすれば、カムパネルラはその意志で、ジョバンニを異空間に連れ込み、ジョバンニとの“旅”を実現させたことになります。生きた人間の世界に別れを告げるにあたって、カムパネルラは何としてでもジョバンニともう一度つきあっておきたかったことになります。
もうひとつ考えられるのは、丘の上に立っている「天気輪の柱」、ないしその上にある(?)「天気輪」という謎の物体の作用で、二人の“銀河の旅”が実現したのではないか、ということです。たしかに、〔第4次稿〕では、「琴の星」に替わって、「天気輪の柱」が「ぼんやりした三角標の形にな」り、それが“銀河世界”への飛躍の合図となっています。
その場合には、ジョバンニは、たまたまカムパネルラの水難時に「天気輪の柱」という“次元跳躍装置”の下にいたので、その作用で、地上の“次元”から離脱したカムパネルラを引き込んだか、または“異次元”に飛翔してゆくカムパネルラを追いかけて、二人の“旅”が実現した―――ということになります。
前回分を書いた後で、こんなことを考えてみましたが、〔第4次稿〕はまだまだ掘り下げて行ける部分がたくさんありそうです。これまでの批評家も研究家も著名な読者も、『銀河鉄道の夜』について書いた人のほとんどは、世代から言って、ブルカニロ博士と水難捜索が両方入っているテクストを最初に読んでいるでしょう。高齢の人は、水難捜索に立ち会った後でジョバンニが“夢”を見るテクストを、読みなれているかもしれません。それらのテクストから得た先入観が残っていれば、〔第4次稿〕を読んでも見落としは多くなるはずです。
〔第4次稿〕を『銀河鉄道の夜』の正統なテクストとして最初に読んだ世代によって、この物語のイメージが塗り替えられてゆくのは、まだまだこれからなのだと思います。
それでは、↓前回(1)の続きを始めたいと思います。
【5.5】 サソリの火とグスコンブドリ
前回見たように、「琴の星」は改稿の過程を追って次第に影が薄くなって行きます。かわって前面に出てくるように思われるのはサソリ座――「蠍の火」です。ただ、「蠍の火」の場面は、〔第1稿〕からずっとあって、変更や加筆があるわけではありません。
ともかく、この「蠍の火」のシーンを見て行きたいと思います。
「川の向ふ岸が俄かに赤くなりました。楊の木や何かもまっ黒にすかし出され見えない天の川の波もときどきちらちら針のやうに赤く光りました。まったく向ふ岸の野原に大きなまっ赤な火が燃されその黒いけむりは高く桔梗いろのつめたさうな天をも焦がしさうでした。ルビーよりも赤くすきとほりリチウムよりもうつくしく酔ったやうになってその火は燃えてゐるのでした。『あれは何の火だらう。あんな赤く光る火は何を燃やせばできるんだらう。』ジョバンニが云ひました。『蝎の火だな。』カムパネルラが又地図と首っ引きして答へました。『あら、蝎の火のことならあたし知ってるわ。』
『蝎の火って何だい。』ジョバンニがききました。『蝎がやけて死んだのよ。その火がいまでも燃えてるってあたし何べんもお父さんから聴いたわ。』」
「『さうだ。見たまへ。そこらの三角標はちゃうどさそりの形にならんでゐるよ。』
ジョバンニはまったくその大きな火の向ふに三つの三角標がちゃうどさそりの腕のやうにこっちに五つの三角標がさそりの尾やかぎのやうにならんでゐるのを見ました。そしてほんたうにそのまっ赤なうつくしいさそりの火は音なくあかるくあかるく燃えたのです。」
この「サソリの火」の描写には、一種の矛盾が見られます。一方では、それは「ルビーよりも赤くすきとほりリチウムよりもうつくしく」、「まっ赤なうつくしいさそりの火は音なくあかるくあかるく燃えたのです」と、透きとおった明るい光のイメージで語られます。しかし、他方では、「川の向ふ岸が俄かに赤くなりました。楊の木や何かもまっ黒にすかし出され」と、静寂で鉱質な“銀河世界”のふんいきを破壊するかのような、おどろおどろしい光景が映し出され、「その黒いけむりは高く桔梗いろのつめたさうな天をも焦がしさうでした」とまで書かれています。
「〈銀河鉄道〉のめぐる天上界は周知のごとく美しいキリスト教的イメージをもって彩られる。〔…〕窓の外には、いくたびか近く、遠く、美しい十字架が並び輝き、青じろい雲は後光のようにかかり、すべては青白く透きとおるまでに敬虔な光景が纏綿する。そのなかに燃える〈蠍の火〉は、その『桔梗いろのつめたさうな天をも焦がしさう』に燃えているという。
ここには宗教的世界の敬虔への共感と同時に、そのとりすました〈つめたさ〉、いうならば既成の宗教への作者のつよい異和と批判が込められてはいないか。〔…〕しかもうつくしく、すきとおるように燃える火が黒々とした煙を放って天を焦がすという時、その描写の矛盾は批判とともにまた、これが賢治におけるアガペーの究極の祈りを託したものであると同時に、己れのうちにくすぶり、たえまない葛藤を続けるエロスの所在、その故の苦悩、相剋を語るものであろう。」
『佐藤泰正著作集E 宮沢賢治論』,1996,翰林書房,p.172.
佐藤泰正氏のプロテスタント・キリスト者としての読みの深さには敬服するのですが、“アガペーとエロスの相剋”と言われても、あまりにも一般的で、ギトンのような下賤な者にはピンと来ません。ここでの実体に、もう一歩迫ってゆくことはできないかという気がするのです。「桔梗いろのつめたさうな天」は、一面では宗教的敬虔さを指しているかもしれませんが、ジョバンニとカムパネルラの“銀河世界”の“星の無い天空”を、最初から最後まで覆っていることを考えると、それだけではないようにも思われます。
解明のひとつの鍵は、「酔ったやうになってその火は燃えてゐる」という部分ではないでしょうか。「サソリの火」は、「ルビーよりも赤くすきとほ」っているときでも、「酔ったやうに」燃えているのです。
「ジョバンニは僕もまた『あのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか、百ぺん灼いてもかまはない』という。この祈りが作中に具現すれば、『グスコーブドリの伝記』となる。」
『佐藤泰正著作集E 宮沢賢治論』,p.173.
『グスコーブドリの伝記』の初期形『グスコンブドリの伝記』では、ブドリが“自己犠牲”を買って出て、火山島カルボナードを爆発させた3日後、
「『イーハトーヴの人たちはそらが変に濁って青ぞらは緑いろになり月も日も血のいろになった』のを見る。「みんなはブドリのために喪章をつけた旗を軒ごとに立て』て、ブドリの死を記念する。」
『佐藤泰正著作集E 宮沢賢治論』,p.177.
このクダリは、“英雄的行為”と言う以上に、自らの鮮血で大空を真っ赤に染めるおどろおどろしい姿を印象づけます。ギトンには、そう感じられるのです。ともかくそれは、『銀河鉄道の夜』の「天をも焦が」すサソリの火の「黒いけむり」と並行しています。また、「僕のからだなんか、百ぺん灼いてもかまはない」というジョバンニの誇大な気負いも、同じ方向を向いているように思われるのです。
「『グスコンブドリの伝記』の終章で、クーボー大博士が〔…〕『爆発するときはもう遁げるひまも何もないのだ』というと『私にそれをやらせて下さい。』『私はその大循環の風になるのです。あの青ぞらのごみになるのです』とブドリはいう。〔…〕
この『グスコンブドリの伝記』にみる昂ぶりとは何か。〔…〕
妹ネリと別れ、、苦難の末イーハトーヴ火山局の助手心得に採用されたブドリは、その使命に感激してむやみにはねあがる。折にふれ『ブドリははね上りました』『よろこんではねあがりました』と繰り返される。ペンネン技師にはじめて対面し、『これからの仕事はあなたは直観で私は学問と経験で、あなたは命をかけて、わたくしは命を大事にして共にイーハトーヴのためにはたらくものなのです』と言われ、『ブドリは喜んではね上』る。『あゝ私はいま爆発する火山の上に立ってゐたらそれがいつ爆発するかどっちへ爆発するかそれはきっとわかります。そしてそれがみんなの役に立つといふなら何といふ愉快なことでせう。〔…〕』という。
私が『いま爆発する火山の上に立ってゐたら』と言い、それがみんなの役に立ったら『何といふ愉快なことでせう』という。これは献身の情熱という以上に、一種エロス的な昂揚というほかはあるまい。〔…〕
〈はねあがり〉のグスコンブドリ、自身の英雄的な献身の情熱に酔うかにみえ、時に道化じみてさえみえる、〔…〕ネネムの〈立身〉物語は、グスコンブドリの〈献身〉物語へと変身するが、なおそこに己れの情熱に酔う、アガペーならぬエロスの匂いはつよい。」
『佐藤泰正著作集E 宮沢賢治論』,pp.177-179,182.
サソリの、透きとおった静逸な赤い光と、その反面、酔ったようにゆらぎ天をも焦がす黒い煙。「国柱会」への熱狂から始まり『春と修羅・第1集』前半の詩篇にも見られた「生命主義」的・自我主義的な“熱い”情念は、それがいったん沈静化した 1924年以降にも、このような形をとって続いたのかもしれません。
【参考】⇒:《ゆらぐ蜉蝣文字》8.1.12〜
しかし、それを
「酔ったやうになって」
と書く作者自身は、醒めた眼でも見ていることになります。賢治は、決して“自己犠牲”を礼賛しているのではなく、“自己犠牲”に酔うことの危険性をも見つめていると思うのです。それが「英雄ならぬ――無名のものとして消えてゆくという‥‥無償の愛」への志向(『著作集E』,p.183)となり、『グスコンブドリの伝記』から『グスコーブドリの伝記』への改稿を促したことを、佐藤氏は指摘しています。
最終形『グスコーブドリの伝記』の、リアルに整えられたストーリーで読むと、ブドリの火山島の“決死行”の背景には、彼と妹の食料を確保するために自らの斃死を選んだ両親の存在が重く横たわっています。両親の人知れぬ無償の“自己犠牲”の前では、ブドリの見かけに華々しい“英雄死”などは、ものの数でもないとさえ言えます。しかも、『グスコン』ヴァージョンでクーボー大博士が、
「『いや、きみ、そんなにあせるものでない。〔…〕イーハトヴ川が一ぺん氾濫すれぱ幾億の野鼠が死ぬかもきみに想像がつくだらう。落ちつき給へ。』」
とブドリに言うように、ブドリの両親のような犠牲者は「幾億」いるかわかりません。このような悲惨な現実の重圧による「焦慮」が、「サソリの火」の「黒いけむり」にも含まれているとは考えられないでしょうか?
【5.6】 『双子の星』
そうすると、『銀河鉄道の夜』の場合には、どうなるでしょうか?
こちらについても、改稿の過程を追う必要があります。と言っても、「サソリの火」場面そのものは、〔第1次稿〕から〔第4次稿〕まで変化が無いのです。しかし、そのすぐ前には、比較的まとまった書き加えがあります。
〔第3次稿〕で、「サソリの火」の直前に、タイタニック遭難者の姉弟が「双子の星」について語る会話が挿入されています。内容は、↓つぎに見るような一見たわいないものなのですが、そこに込められた作者の意図をさぐってみると、たいへん含蓄に富んでいることがわかります。(この部分のテクストは、〔第3次稿〕も〔第4次稿〕も同じです。)
「『双子のお星さまのお宮って何だい。』
『あたし前になんべんもお母さんから聴いたわ。ちゃんと小さな水晶のお宮で二つならんでゐるからきっとさうだわ。』
『はなしてごらん。双子のお星さまが何したっての。』
『ぼくも知ってらい。双子のお星さまが野原へ遊びにでてからすと喧嘩したんだらう。』『さうじゃないわよ。あのね、天の川の岸にね、おっかさんお話なすったわ、………『それから彗(ほうき)星がギーギーフーギーギーフーて云って来たねえ。』『いやだわたあちゃんさうじゃないわよ。それはべつの方だわ。』『するとあすこにいま笛を吹いて居るんだらうか。』『いま海へ行ってらあ。』『いけないわよ。もう海からあがってゐらっしゃったのよ。』『さうさう。ぼく知ってらあ、ぼくおはなししやう。』
川の向ふ岸が俄かに赤くなりました。〔…〕」
弟が「ぼくおはなししやう。」と言ったとたんに、列車の外のけしきが真赤になる「サソリの火」が現れたので、「双子の星」の話は語られないまま、この会話は中断しています。
この部分で、賢治は読者に、自分がかつて書いた童話『双子の星』を参照するように促していると言えます。
『双子の星』は、2日間にわたる話ですが、↑上の引用部分で遭難家族の弟が語りだそうとしたのは、「ほうき星」の登場や、「双子」が「海へ行って」いることから、2日目の話であることがわかります。
「双子の星チュンセ童子とポウセ童子は天の川の西の岸、小さな水晶の宮に向かいあって座り、毎夜星めぐりの歌に合わせて銀笛を吹くのが役目だが、この無垢なる存在は何ひとつ疑うことを知らず、さまざまな危険やたくらみにさらされる。邪悪な大烏(星)や蝎(星)の争いに巻き込まれ」傷を負った彼らを助けようとして「あやうく〔ギトン注―――銀笛を吹く〕定めの時刻に遅れそうになると稲妻がやって来て、ふたりをもとの宮の座に運んでくれる。〔ギトン注―――ここまでが1日目。以下、2日目〕また乱暴ものの彗星にだまされて海底に落ちた時もまた、海蛇の王によって救われ天上界に還ることができる。しかもすべては天帝のめぐみの眼のなかに納められ、明るく自足の内環を閉じる。
この余りにも予定調和的な明るさ、楽天性を類型に過ぎるとして過小評価する論もあ」るが、賢治は表紙に尋常小学校「4年以下の分」と書いており、「その無垢なる世界の充足性の強調は、作者の意図」であった。
『佐藤泰正著作集E 宮沢賢治論』,pp.162-163.
ちなみに、「双子の星」が「さそり座」の前に登場するのは、星座配置にかなっているという草下英明氏の指摘があります。草下氏によれば、この「双子の星」は“ふたご座”ではなく、「さそり座」の尾の位置にあるλ星、υ星だからです。
【参考】⇒:《ゆらぐ蜉蝣文字》8.6.1〜
ところで、佐藤泰平氏が注目しているのは、2日目に「双子」が彗星にだまされて海に落ちる場面の↓つぎの描写です:
「二人は青ぐろい虚空をまっしぐらに落ちました。
彗星は、『あっはっは、あっはっは。さっきの誓ひも何もかもみんな取り消しだ。ギイギイギイ、フウ。ギイギイフウ。』と云ひながら向ふへ走って行ってしまひました。二人は落ちながらしっかりお互の肱をつかみました。この双子のお星様はどこ迄でも一諸に落ちやうとしたのです。
二人のからだが空気の中にはいってからは雷のやうに鳴り赤い火花がパチパチあがり見てゐてさへめまひがする位でした。そして二人はまっ黒な雲の中を通り暗い波の咆えてゐた海の中に矢のやうに落ち込みました。
二人はずんずん沈みました。けれども不思議なことには水の中でも自由に息ができたのです。
海の底はやわらかな泥で大きな黒いものが寝てゐたりもやもやの藻がゆれたりしました。」
「ポーセさん、チュンセさんと、端正な言葉をかわしながら展開してゆくこの童話のなかでただ一箇所、ふしぎに情念の息づきの感じられる所だが、もちろんそのかなめは、この双子の星が互いに抱き合って、どこ迄も一緒に落ちてゆこうとする所にある。〔…〕ここにはふたりの男の星の童子を描きながら、〈対幻想〉ともいうべき、一種エロス的な感触がつたわって来る。」
『佐藤泰正著作集E 宮沢賢治論』,pp.163-164.
童話『双子の星』草稿に使用されている「10/20(イ)イーグル印原稿紙」は、1921年に東京で使用されたものです。“家出”東京滞在中の伝説的な童話大量執筆のなかでまとめられた作品と思われます。
当時、トシ子はまだ女学校の教師をしており、病気がちではあっても瀕死の病床にあったわけではありません。この童話の創作は、トシとは無関係と考えるべきでしょう。↑上の部分も、素直に読めば、同性愛ないし少年愛のエロスを描くものです。
また、『銀河鉄道の夜』での言及も、トシ病死の影響がまだ色濃かった 1924年の〔第1次稿〕には無く、〔第3次稿〕で挿入されたことを考えれば、少年どうしの「双子」を兄妹に置き換えて読む必然性はないと思います。(佐藤泰正氏とは違うのですが)トシとは切り離して読んでよいと思うのです。
【5.7】 水いろの愁い
ところで、このBLエロスを示唆する会話を、「サソリの火」の前に挿入した作者の意図は何だったのでしょうか?
弟が「ぼくおはなししよう。」と言ったまま中断してしまうのは、『双子の星』のような“予定調和”は、現実の「町」で引き裂かれてきたジョバンニとカムパネルラには通用しないからなのでしょう。『双子の星』では、法則にしたがって廻る星辰のように、すべてがコスモスの秩序に沿って動いており、ほころびは必ず修復されます。しかし、ジョバンニたちの現実は、そううまくはめぐらないのです。
しかし、それにしても、『双子の星』を挿入した意味は何なのでしょう?
ここで、『双子の星』の創作よりも前にさかのぼって、賢治の高等農林学生時代の短歌を見ておきたいと思います。1916年4月頃のもので、関西地方への修学旅行から帰って来て、盛岡で詠んだものと思われます:
※
双子座の
あはきひかりは
またわれに
告げて顫ひぬ 水いろのうれひ。
※
われはこの
夜のうつろも恐れざり
みどりのほのほ超えも行くべく。
※
伊豆の国 三島の駅に
いのりたる
星にむかひて
またなげくかな。
『歌稿B』#283-285.
#283 で見ているのは“ふたご座”ですが、賢治の「双子の星」つまり“さそり座 λ,υ”と相同と思ってよいでしょう。たとえば、前回引用した、双子が海へ落ちてゆくシーンで、たがいに「肱をつか」んで抱き合うようにしている格好は、“ふたご座”の星座の形を象っていると思われます。賢治の描く「双子の星」は、両方のイメージを持っていると思います。
「淡きひかり」「水いろの愁ひ」――人恋しい悩ましさが感じられます。おそらく、そらの“ふたご”のような調和にみちた結合を求める渇望‥それは同性愛の感情です。
#284 の「みどりの炎」については、1914年浪人時代の短歌に↓こういうのがあります。「水いろの愁ひ」と同様に、さびしさ、悲しさに通じるイメージでしょう。
※
そらに居て
みどりのほのほかなしむと
地球のひとの知るや知らずや。
『歌稿B』#160.
#285 の「三島の駅に/いのりたる/星」とは何か?‥修学旅行の帰途に下車した三島駅で詠んだと思われる短歌は↓つぎのうちにあります。
※
あゝつひに
ふたゝびわれにおとづれし
かの水いろの
そらのはためき。
※
さそり座よ
むかしはさこそいのりしが
ふたゝびここにきらめかんとは。
『歌稿B』#265,267.
いかでわれふたゝびかくはねがふべきたゞ夢の海しら帆はせ行け
『歌稿A』#266.
#285 の「いのりたる/星」は #267 の「さそり座」か、その主星アンタレスでしょうね。それにしても、「むかしはさこそ祈りし」とは、いつ、何を祈ったのか?‥これも 1914年の短歌を見ると↓つぎのものがあります。
※
南天の
蠍よもしなれ 魔ものならば
のちに血はとれまづ力欲し。
『歌稿B』#169.
いさゝかの奇蹟を起す力欲しこの大空に魔はあらざるか
『歌稿A』#170.
さそり座、または赤い主星アンタレスを「魔」「魔もの」として、奇跡を起こす力を与えてほしいと祈っているんですね。悪魔と取引、みたいな感じです。
しかし、三島駅での「いのり」は、それとは少し違うようです。「ふたゝびここにきらめかんとは。」と言っていますから。むしろ、#265 の「かの水いろの/そらのはためき」、#266 の「夢の海」と関係していそうです。けっきょく、#283 の「双子座の/淡きひかり」「水いろのうれひ」と同じものではないかと思われます。
こうして、「大空の魔」であるサソリが祈りの対象として出て来ることによって、純な友情願望の反面に、性愛の暗い情念がほの見えてきました。
こうしてみると、『銀河鉄道の夜』〔第3次稿〕で、「サソリの火」の前に挿入された『双子の星』は、それじたいがすでに悩ましい衝動を喚起しているように思われます。佐藤氏の指摘する“抱き合って落下するシーン”の衝迫的なエロチシズム、また、沈んで行った海の底は「やわらかな泥」で、「大きな黒いものが寝てゐたりもやもやの藻がゆれたりし」ていたという、おぞましさと快感が入り混じったような感覚を伴っています。その『双子の星』が語られようとした時に、それをさえぎって、「サソリの火」が車外を赤く染めるわけです。
『双子の星』の中断によって、そこで語られなかった悩ましさが、そのまま「サソリの火」となって表現されているとも言えます。あるいは、“ふたご”の「水いろの愁ひ」が、「サソリの火」のおどろおどろしさに飛躍したとも言えるでしょう。
しかし、反面において、『双子の星』は、大気圏に突入して火花を散らし、「まっ黒な雲」をつらぬいて落下しながら、たがいの身体を離すまいとする一途な結合を示していますし、「サソリの火」は、透きとおって「音なくあかるくあかるく燃え」ているのです。この反面は、学生時代の短歌には見られないものです。
『銀河鉄道の夜』では、「サソリの火」が燃えるに至った伝説的由来を「女の子」が語ります。サソリは、いたちによって井戸に追い詰められて水死しようとする時、「わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない‥‥どうか神さま‥‥こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかひ下さい」と祈ったところ、サソリの身体は星となって燃えだし、夜の闇を照らすようになった。
ばいみ〜 ミ彡
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