03/02の日記
23:52
【BL週記】“いびつな結晶”のかがやき(1)
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こんばんは (º.-)☆ノ
シリーズではもっぱら、『銀河鉄道の夜』の〔第3次稿〕“ブルカニロ博士篇”について書いたのですが、作者賢治の最終的な意志の結晶は、やはり現行の〔第4次稿〕です。
ただ、〔第4次稿〕については、ギトンはまだ検討中途です。
もう、こちら↓の外篇とは言えないくらい勝手放題な書き散らしなので、「ブルカニロとは何者か」シリーズとは、いちおう切り離してお読みいただきたいと思います←
⇒:『銀河鉄道の夜』の成立過程
⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(1)
⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(13)
⇒:【BL週記】自然の信号、受信の記憶
【5.1】 永遠の愛、一瞬の愛
あの『銀河鉄道の夜』の〔第4次稿〕―――いま本屋で入手できる“現行テクスト”を読んでみると、〔第3次稿〕までのヴァージョンにあった教訓臭さが消えて、ほんとの意味での少年小説‥少年愛小説になっているという気がします。
シリーズの中でも書いたんですが((3)【1.7】参照)、カムパネルラのジョバンニに対する態度が、“銀河の旅”に出たとたん、地上の「町」にいたときとは豹変するw まるで昔からの親友だったように振舞うんですね。
しかも、カムパネルラは、自分の命を落としてまで、ジョバンニの“恋敵”であるザネリを救っているのに、です(⇒:成立過程)
“銀河の旅”はジョバンニの“夢”なのだから、ジョバンニの望みのままになっているのだ―――という理解もありうるでしょう。吉本隆明氏はじめ、多くの理知的な人たちは、そう読んでいるのかもしれません。
しかし、作者賢治の構想は、そんなリアルな枠からははみ出してしまうようにも思えるのです。たとえば、“列車”の中で聞こえる「セロの声」は、ジョバンニにもカムパネルラにも聞こえます。もしかすると、まるで車内放送のように、ほかの乗客たちにも聞こえているのかもしれません。そしてその声を、地上で生活していた時にも聞いたことがあると、二人とも言うのです((12)【3.2.6】)。また、〔第3次稿〕までのヴァージョンでは、ジョバンニは、“夢”の中で“発見”した「切符」を、目覚めた後で博士から渡されるのです。
“銀河の旅”は、実はジョバンニの“夢”ではなくカムパネルラの“夢”なのであり、ジョバンニは、ブルカニロ博士の「実験」によって、カムパネルラの見ている“夢”を見せられている―――という読み方もあるほどです(大沢康史「『銀河鉄道の夜』は誰の見た『夢』か?」, in:立教大学『日本文学』,54号,1985.7)。←この読み方で行くと、カムパネルラはジョバンニ以上に、二人の“銀河の旅”を願っていたのであり、“列車”の中でのカムパネルラの友愛にみちた態度は、彼の真意なのだ‥ということになります。
この説は、ギトンにはたいへん魅力的に思えますw ともかく、“銀河の旅”はジョバンニのひとりよがりな“孤独な夢”などではない……そう考えたほうが、作者の意図に沿うように思われるのです。
しかし、それでは、カムパネルラの“豹変”は、いったい何なのか?‥なぜカムパネルラは、〔第3次稿〕の地上の「町」では、あんなに素っ気ないのか?‥「十字路」で、ジョバンニが同級生たちに嘲られた際、カムパネルラは「気の毒さうに‥‥見てゐ」るだけで、すぐに「高く口笛を吹いて」皆と川遊びに行ってしまうのです((3)【1.6】)
“列車”の中でのカムパネルラの↓つぎの独白は、解明の手がかりになるような気がします:
「『おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだらうか。』
いきなり、カムパネルラが、思ひ切ったといふやうに、少しどもりながら、急きこんで云ひました。
〔…〕
『ぼくはおっかさんが、ほんたうに幸になるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだらう。』カムパネルラは、なんだか、泣きだしたいのを、一生けん命こらえてゐるやうでした。
『きみのおっかさんは、なんにもひどいことないぢゃないの。』ジョバンニはびっくりして叫びました。
『ぼくわからない。けれども、誰だって、ほんたうにいいことをしたら、いちばん幸なんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思ふ。』カムパネルラは、なにかほんたうに決心してゐるやうに見えました。」
この部分のテクストは、〔第3次稿〕も〔第4次稿〕も同じです。
カムパネルラが、「おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだらうか。」と言っているのは、地上で生きている母が、カムパネルラの死を悲しむにちがいないことを言っているのだと思います。別の読み方―――たとえば、カムパネルラの母はすでに他界している、など―――もできそうな気がしますが、いまはこの通説の読みに従っておきます。
たしかに、息子に先立たれた母の悲しみは、並大抵のものではないでしょう。しかし、それは「ゆるす」とか「ゆるさない」というようなことなのか?‥賢治の時代から 100年たった現在の私たちには、違和感が感じられます。
たしかに、“親に先立つのは親不孝”と言うような儒教的な考え方をここに見ることはできるし、賢治が書いた当時には、それが日本人の一般的な考え方だったかもしれません。ジョバンニがカムパネルラの気持ちを理解できず、「びっくりして」いるのは、カムパネルラが死者となったことを知らないからでしょう。
しかし、カムパネルラはイタリア人ではなかったのか?!
ここでギトンが考えるのは、この「ゆるす」「ゆるさない」は、むしろカムパネルラの母の気持ち以上に、母の背後にある“この世のしがらみ”を意識しているのではないかということです。カムパネルラは、自己の死によって、“この世のしがらみ”から抜け出て、ここに来てしまっているのです。そして、その結果として、ジョバンニの念願する‥‥またカムパネルラ自身も念願していたかもしれない二人の“銀河の旅”が実現しているのです。
考えてみれば、地上の「町」の世界では、二人のあいだに障壁が多すぎました。ここからの読みは〔第4次稿〕が中心になるのですが、カムパネルラの家は裕福で、
「『ザウエルといふ犬がゐるよ。しっぽがまるで箒のやうだ。ぼくが行くと鼻を鳴らしてついてくるよ。ずうっと町の角までついてくる。もっとついてくることもあるよ。今夜はみんなで烏瓜のあかりを川へながしに行くんだって。きっと犬もついて行くよ。』」
ジョバンニは毎朝新聞配達に行くのです。この“カムパネルラの家”のモデルは、花巻にある旧・菊池捍邸だという説があります。菊池捍氏は、岩手県農業試験場長、北海道・明治製糖工場長を勤めた人物で、当時の花巻では珍しい洋館建築。
【参考】⇒:花巻ガイドブック・旧菊池捍邸
つまり、金持ちと言うよりエリート・インテリゲンチャで、ジョバンニの「町」での“カムパネルラの家”の位置がうかがわれます。カムパネルラの「お父さんの博士」の書斎には、天の川銀河の望遠鏡写真の載った「巨きな本」(百科事典?)があり、「まっ黒な頁いっぱいに白い点々のある美しい写真を二人でいつまでも見たのでした。」と、「午後の授業」章に書かれています。
しかし、それだけの社会的ステイタスには制約も伴うわけで、川岸の水難捜索場面でカムパネルラの父が表明する“打ち切り宣言”↓は、そうした制約の意識が背景にあると思わないではいられません:
「けれどもみんなはまだ、どこかの波の間から、
『ぼくずゐぶん泳いだぞ。』と云ひながらカムパネルラが出て来るか或ひはカムパネルラがどこかの人の知らない洲にでも着いて立ってゐて誰かの来るのを待ってゐるかといふやうな気がして仕方ないらしいのでした。けれども俄かにカムパネルラのお父さんがきっぱり云ひました。
『もう駄目です。落ちてから四十五分たちましたから。』
ジョバンニは思はずかけよって〔…〕」
父としては、まだ全く諦められないのが本心だったはずですが、もはや客観的には救助の可能性がないのに、おおぜいの人々がなおも捜索を続け、捜索者が遭難する二次災害さえ起こりかねない状況を見ては、「町」の人々を指導する立場にある博士としては、打ち切り宣言を下さざるをえなかったのではないでしょうか。
また、「牛乳屋」の下の「十字路」で、同級生たちがいっせいにジョバンニを嘲罵した際にも、カムパネルラは、
「気の毒さうに、だまって少しわらって、怒らないだらうかといふやうにジョバンニの方を見てゐました。」
と書かれています。カムパネルラが同級生たちを窘めることもなく、ただ傍観していたのも、同級生に対する遠慮と言うより、ジョバンニが怒って喧嘩にでもなっては、この場にいる自分の“責任”が果たせなくなる。何事も起きないように“まるく”収めなければならないという、“責任ある階層”―――しかも学校では級長―――の意識が働いたとは言えないでしょうか。
そう考えれば、カムパネルラが、まるで同級生たちの先頭に立つように「高く口笛を吹いて‥‥歩いて行ってしま」ったのも、理解できない行動ではありません。カムパネルラとしては、同級生たちをジョバンニから早く引き離して、衝突を避けようとしたのではないでしょうか?‥一見“非情”なカムパネルラの行動を、ジョバンニがまったく恨みに思わないのも、カムパネルラのそうした立場を理解しているからかもしれません。
ジョバンニの父が戻って来なくなり、犯罪を犯して服役中だとの噂が立って以来、カムパネルラがジョバンニと遊ばなくなったのも、ジョバンニがアルバイトで忙しくなった事情もさることながら、カムパネルラと彼の家に課された社会的制約を、そこに見ないわけにはいかないでしょう。地上の「町」で二人の間にあった障碍は、ジョバンニの父が戻って来ない、あるいは、ジョバンニの家が窮迫したといった外的事件のためというよりも、それらの事情によって惹起された“社会的制約”“この世のしがらみ”のためだと言ったほうが本質的です。
そうした“しがらみ”から、ポンと抜け出して、二人は“銀河世界”に来てしまっているのです。カムパネルラが、
「ゆるしてくださるだろうか」
と思い悩む意識の向う側には、そうした“行動”をとる結果となったことに対する懸念があると言うべきでしょう。たとえば、もっとリアルに、二人が家出して「町」の駅から夜汽車に乗ってしまったという場合を考えてみれば、彼の後ろめたさは理解できるのではないでしょうか。
しかし、これを逆に、それぞれの本心の希望通りになった“銀河世界”の側から眺めれば、地上の“しがらみ”からドロップアウトしてはじめて、二人は二人だけの時間を持つことができたとも言えます。
しかも、カムパネルラは、ジョバンニの“恋敵”であるザネリのために命を落とすという、これ以上はない重大な犠牲と引き換えに―――なのです。
“この世のしがらみ”に引き裂かれようとする二人が、自らの生命と引き換えに愛を全うする―――何のことはない、“心中もの”のお決まりのパターンだ‥と言ってしまうこともできるかもしれません。しかし、片割れであるジョバンニが、カムパネルラを喪ってもなおこの世に戻って来て、生きて行こうとしていることは、伝統に埋没しないだけの強靭さを、この物語に与えていると思います。
ところで、これほど重大な犠牲を払って、ジョバンニが“この世”から贖った“カムパネルラとの時間”は、“銀河世界”の時間にして5時間足らずなのです。“二人の願い”が実現されない地上と、おそらくは“節理”にしたがってカムパネルラが消えて行った“向う側の空間”との狭間で、たった数時間に限って実現した愛。
しかも、〔第4次稿〕では、この時間は、地上の時間では数時間どころか一瞬にすぎません。“旅”から戻って来たジョバンニが見たのは、“旅立ち”の時点からほとんど変っていない星座の位置でした:
「ジョバンニはばねのやうにはね起きました。町はすっかりさっきの通りに下でたくさんの灯を綴ってはゐましたがその光はなんだかさっきよりは熟したといふ風でした。そしてたったいま夢であるいた天の川もやっぱりさっきの通りに白くぼんやりかゝりまっ黒な南の地平線の上では殊にけむったやうになってその右には蠍座の赤い星がうつくしくきらめき、そらぜんたいの位置はそんなに変ってもゐないやうでした。」
カムパネルラが列車の中に現れてジョバンニと出遭うのは、川で遭難して、級友たちから姿が見えなくなった後だと考えてよいでしょう。“銀河の旅”から帰って来たジョバンニは、丘の上で“目覚”め、「牛乳屋」の牧場を再訪した後、「十字路」でマルソーからカムパネルラの水難を知らされて川岸に駆けつけた時、カムパネルラの父・博士は、「落ちてから四十五分たちましたから。」と言っています。そうすると、丘から川岸まで歩いて来るのに15分、牧場にいた時間が10分としても、ジョバンニが“銀河世界”でカムパネルラと過ごした時間は、地上の時間では20分以内だったことになります。
〔第4次稿〕のジョバンニ“帰還”場面には、
「ジョバンニは眼をひらきました。もとの丘の草の中につかれてねむってゐたのでした。胸は何だかおかしく熱り頬にはつめたい涙がながれてゐました。」
と書かれています。カムパネルラを見失って「咽喉いっぱい泣きだし」た後、「眼をひら」くまでに、頬に流れた涙が「つめた」く冷えるだけの時間が経過していたことになります。銀河での“夢”の終りと、丘の上での“目覚め”の間には、時間の経過がるのです。そうすると、上で計算した「20分以内」は、もっと短いかもしれません。
“カムパネルラとの旅”は、リアルな地上世界の物差しでは、ごくわずかなひと時にすぎなかったのです。
“銀河世界”の時間と地上の時間との関係については、〔第3次稿〕までの逐次稿では混乱が見られます。〔第4次稿〕ではその点が整序されて、矛盾が無くなっているのですが、その際に賢治が、このように、地上ではほとんど時間が経っていないようにしたのは、二人の“愛”の不可能性を印象づけるためであったかもしれません。
しかし、『春と修羅・第1集』収録の「一本木野」には、↓つぎのような詩句があります:
こんなあかるい穹窿と草を
はんにちゆつくりあるくことは
いつたいなんといふおんけいだらう
わたくしはそれをはりつけとでもとりかへる
こひびととひとめみることでさへさうでないか
ロマンチックな青臭い観念‥と言ってしまえばそれまでですが、宮沢賢治はその生涯の最後の時まで、こんな激しい“愛”の気持ちを抱いていたのだと思います。
【5.2】 恋する眼にはすべてが輝く
〔第3次稿〕から〔第4次稿〕への改稿で、ジョバンニの“銀河の旅”は、カムパネルラの消えた後に「大きな黒い帽子の大人」の登場場面が加えられたほかは、大きな変容をこうむっていません。
その中で少し気になるのは、きらきらと輝く天の川や銀河世界の野原の美しい描写が、一部消されたり、場所を移されたりしていることです。その結果、〔第4次稿〕ではこれらの描写は、カムパネルラがジョバンニのそばにいる時に限って、存在することになるのです。これはおそらく偶然ではなく、作者の意図したことだと思います。
つまり、ジョバンニにとっては、カムパネルラ無くして“銀河世界”の神秘も輝きもありえない―――そのことを、作者は強調したのだと思います。
たとえば、
「見ると、いまはもう、そのきれいな水は、ガラスよりも水素よりもすきとほって、ときどき眼の加減か、ちらちら紫いろのこまかな波をたてたり、虹のやうにぎらっと光ったりしながら、声もなくどんどん流れて行き、野原にはあっちにもこっちにも、燐光の三角標が、うつくしく立ってゐたのです。遠いものは小さく、近いものは大きく、遠いものは橙や黄いろではっきりし、近いものは青白く少しかすんで、或ひは三角形、或ひは四辺形、あるひは電〔いなづま〕
や鎖の形、さまざまにならんで、野原いっぱい光ってゐるのでした。ジョバンニは、まるでどきどきして、頭をやけに振りました。するとほんたうに、そのきれいな野原中の青や橙や、いろいろかゞやく三角標も、てんでに息をつくやうに、ちらちらゆれたり顫へたりしました。
『ぼくはもう、すっかり天の野原に来た。』ジョバンニは呟きました。」
↑「顫へたりしました。」までの段落は、〔第3次稿〕ではジョバンニがカムパネルラと会う前、“銀河列車”に乗りこむ前の場面ですが、〔第4次稿〕では、列車の中でカムパネルラと落ち合った後の場面に移されています。
また、
「そのときまっくらな地平線の向ふから青じろいのろしがまるでひるまのやうにうちあげられ汽車の中はすっかり明るくなりました。そしてのろしは高くそらにかゝって光りつゞけました。『あゝマジェランの星雲だ。さあもうきっと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カムパネルラのためにみんなのためにほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ。』ジョバンニは唇を噛んでそのマジェランの星雲をのぞんで立ちました。天の川を数知れない氷がうつくしい燐光をはなちながらお互ぶっつかり合ってまるで花火のやうにパチパチ云ひながら流れて来向ふには大犬座のまばゆい三角標がかゞやきました。」
「天の川を数知れない氷が」以下の1文は、〔第3次稿〕への改稿のさい、その前の「青じろいのろし」と「マジェランの星雲」の部分は〔第4次稿〕への改稿のさいに、それぞれ削られています。
【5.3】 「琴の星」からアンタレスへ
ジョバンニが「琴の星」を見つめていると、「琴の星」の光の形に“異変”が起きる場面は、〔第3次稿〕では、“旅立ち”前に2回、“帰還”後に1回、合計3回ありますが、〔第4次稿〕では“旅立ち”前の1回だけに減っています。そして、“帰還”後にジョバンニが見つめる空には、「琴の星」ヴェガに替って、「蠍座の赤い星」アンタレスが描かれるのです:
「ジョバンニはばねのやうにはね起きました。〔…〕そしてたったいま夢であるいた天の川もやっぱりさっきの通りに白くぼんやりかゝりまっ黒な南の地平線の上では殊にけむったやうになってその右には蠍座の赤い星がうつくしくきらめき、そらぜんたいの位置はそんなに変ってもゐないやうでした。」
それと関連するのが、“銀河列車”が通過する「琴の宿」のけしきです。漢文では、星座のことを「星宿」と言いますから、「琴の宿」とは“こと座”のことでしょう。「琴の宿」のほうは、〔第1次稿〕から〔第3次稿〕にかけて、やはり役割が縮小していきます。
〔第1次稿〕から順に見て行きますと、
「そして青い橄欖の森が見えない天の川の向ふにさめざめと光りながらだんだんうしろの方へ行ってしまひそこから流れて来るあやしい楽器の音ももう汽車のひびきや風の音にすり耗らされて聞こえないやうになりました。
『あの森琴(ライラ)の宿でせう。あたしきっとあの森の中に立派なお姫さまが竪琴を鳴らしてゐらっしゃると思ふわ、お附きの腰元や何かが立って青い孔雀の羽でうしろからあをいであげてゐるわ。』
カムパネルラのとなりに居た女の子が云ひました。
それが不思議に誰にもそんな気持ちがするのでした。第一その小さく小さくなっていまはもう一つの緑いろの貝ぼたんのやうに見える森の上にさっさっと青じろく時々光ってゐるのはきっとその孔雀のはねの反射だらうかと思ひました。」
『銀河鉄道の夜』〔第1次稿〕より。
「〔…〕川下の向ふ岸に青く茂った大きな林が見え、その枝には熟してまっ赤に光る円い実がいっぱい、その林のまん中に高い高い三角標が立って、森の中からはオーケストラベルやジロフォンにまぢって何とも云えずきれいな音いろが、とけるやうに浸みるやうに風につれて流れて来るのでした。
青年はぞくっとしてからだをふるふやうにしました。
だまってその譜を聞いてゐると、そこらにいちめん黄いろやうすい緑の明るい野原か敷物かがひろがり、またまっ白な蝋のやうな露が太陽の面を擦めて行くやうに思はれました。
〔…〕
向ふの青い森の中の三角標はすっかり汽車の正面に来ました。そして譜がにはかにあの聞きなれた主よみもとの歌にかはったのです。青年はさっと顔いろが青ざめ、いちばん大きな姉はまたハンケチを顔にあてました。それがすぐとなりの小さな妹に伝はったもんですから、ジョバンニまで何だか鼻が変になりました。けれどもいつともなく誰ともなくその歌は歌ひ出されだんだんはっきり強くなりました。思わずジョバンニもカムパネルラも一諸にうたひ出したのです。
『主よみもとにちかづかん
のぼるみちは十字架に
ありともなどかなしむべき
主よみもとにちかづかん。』
〔…〕
そして青い橄欖の森が見えない天の川の向ふにさめざめと光りながらだんだんうしろの方へ行ってしまひそこから流れて来るあやしい楽器の音ももう汽車のひゞきや風の音にすり耗らされて聞こえないやうになりました。
『あの森琴(ライラ)の宿でせう。あたしきっとあの森の中にむかしの大きなオーケストラの人たちが集まってゐらっしゃると思ふわ、まはりには青い孔雀やなんかたくさんゐると思ふわ。』
カムパネルラのとなりに居た女の子が云ひました。
それが不思議に誰にもそんな気持ちがするのでした。第一その小さく小さくなっていまはもう一つの緑いろの貝ぼたんのやうに見える森の上にさっさっと青じろく時々光ってゐるのはきっとその孔雀がはねをひろげたりとぢたりする光の反射だらうかと思ひました」
『銀河鉄道の夜』〔第2次稿〕より。
「橄欖の森」の中に立つ「高い高い三角標」は、“旅立ち”の際の異変で、「琴の星のひかり」が三角標に変化したことを踏まえています。この部分が〔第1次稿〕に無いのは、草稿の欠失のためかもしれません。〔第1次稿〕は、上に引用した部分が現存する草稿の冒頭なのです。
讃美歌「主よみもとにちかづかん」の合唱も、〔第1次稿〕からあったかもしれません。
〔第2次稿〕では、「女の子」の話から、「竪琴を鳴らして」いる「立派なお姫さま」が消され、「むかしの大きなオーケストラの人たち」に変っています。この「お姫さま」は、作者のモチーフとしては、賢治の叔母にあたる「琴子」の死にかかわるものです:
【参考】⇒:《ゆらぐ蜉蝣文字》8.4.18〜
【参考】⇒:《ゆらぐ蜉蝣文字》9.3.15〜
“銀河の旅”全体のキリスト教的な色彩も、亡き「琴子」への追想を背景にしているかもしれません。しかし、「琴子」のモチーフは、逐次推敲のなかで払拭されて行きます。〔第3次稿〕では、「あの森琴(ライラ)の宿でせう。」以下の「女の子」の発言も、
「『あ孔雀が居るよ。』
『えゝたくさん居たわ。』女の子がこたえました。」
と、簡単になってしまいます。「琴(ライラ)の宿」という呼び名じたいが消滅します。
〔第4次稿〕も〔第3次稿〕と同じです。
このように、〔第1次稿〕から順次〔第4次稿〕へ改稿されるにしたがい、「琴の星」の役割はだんだん少なくなって行きます。
他方、〔第4次稿〕の“帰還後”場面では、「琴の星」に替わって、「蠍座の赤い星」アンタレスが「うつくしくきらめ」いています。“さそり座”とアンタレスも、“銀河の旅”の中で車窓に登場します。この「サソリの火」の場面は、“銀河の旅”のなかでもとりわけ重要な意味をもったシーンだとされています。
ただ、この場面は〔第1次稿〕から〔第4次稿〕までずっとあって、ほとんど変更を受けていないのです。
ばいみ〜 ミ彡
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