02/17の日記

17:29
【宮沢賢治】『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(10)

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 こんばんは (º.-)☆ノ






 『銀河鉄道の夜』草稿の失われた“欠落部分”の内容を推理してみようというこのシリーズ、今回からがクライマックス。

 興味をもたれた方は、シリーズの最初から読んでいただけたらと思います。そのほうがよく分かります:



 ⇒:『銀河鉄道の夜』の成立過程

 ⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(1)

 ⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(2)

 ⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(3)

 ⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(4)

 ⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(5)

 ⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(6)

 ⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(7)

 ⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(8)

 ⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(9)






【3.2】 ブルカニロとは何者か?



 『銀河鉄道の夜』の〔第3次稿〕までのいわゆる“初期形”に登場するブルカニロ博士は、“銀河の旅”から帰って来たジョバンニの前に現れるだけであるのに、この童話全体のストーリーとその意味を左右するほどの重みを感じさせます。そして、〔第4次稿〕では、ブルカニロ博士は、そのほとんどすべての関連箇所とともに消し去られているのです。

 博士のそうした“重み”は、どこから生じているのかを考えてみますと、


 (1) 登場場面(ジョバンニ帰還後の「天気輪の丘」場面)での博士の発言の重要さ。

 (2) 博士が語る声と思われる「セロのやうな声」の発言内容の重要さ。

 (3) 博士の現れ方・去り方、また「セロのやうな声」の聴こえ方の特異性。

 (4) ジョバンニの“夢”の中に現れた博士の“分身”と思われる「大きな黒い帽子」の男の発言内容と役割。

 (5) ジョバンニの“旅立ち前”の“欠落部分”で博士が語ったと思われる内容とその意味。


 これらのことが、ブルカニロ博士の存在に“重み”を与えていると言えます。さらに、これまでの読者、研究者によって指摘されてきた↓つぎのような問題も、検討しておく必要があるでしょう:


 (6) 博士が「さあ、切符をしっかり持っておいで。」「その切符を決しておまへはなくしてはいけない。」と言う「ジョバンニの切符」にこめられた“意味”は何か。

 (7) ブルカニロ博士は、じつはカムパネルラの父であるとの見解がある。

 (8) 「ブルカニロ」という名前の由来、およびそこにこめられた寓意。



 そういうわけで、これから最終回までは、これら8つの点について、テクストの関係箇所や研究者の議論を整理して見ていきたいと思います。

















【3.2.1】 ジョバンニ“帰還後”シーンでのブルカニロ博士の発言





「『ありがたう。私は大へんいゝ実験をした。私はこんなしづかな場所で遠くから私の考を人に伝へる実験をしたいとさっき考へてゐた。お前の云った語はみんな私の手帳にとってある。さあ帰っておやすみ。お前は夢の中で決心したとほりまっすぐに進んで行くがいゝ。そしてこれから何でもいつでも私のとこへ相談においでなさい。』」

『銀河鉄道の夜』〔第3次稿〕より。



 ブルカニロ博士の↑この発言は、さまざまな問題を孕んでいます。

 博士は、“銀河”から帰還した、あるいは“夢”から醒めたジョバンニに対して、【A】「ありがたう。私は大へんいゝ実験をした。」と言うのです。博士は、ジョバンニを被験者として、何かの「実験」をしたことになります。博士が科学者のように設定されていることから見て、この「実験」とは、実地の体験といったような意味ではなく、科学者が、ある仮説を検証するために一定の条件のもとで現象を生起させその過程と結果を観察する科学的な「実験」のことだと考えなければなりません。

 しかも奇妙なことに、博士はすぐこれに続けて、



【B】
「私はこんなしづかな場所で遠くから私の考を人に伝へる実験をしたいとさっき考へてゐた。」



 などと言うのです。【A】では完了形、【B】では過去の願望形です。【A】によれば「実験」はすでに行われた。しかし【B】によれば、「実験をしたいとさっき考へてゐた。」‥‥

 「さっき」したいと「考へてゐた」実験を、たったいま「した」ということなのか?






「入沢 そこで『私はこんなしづかな場所で遠くから私の考を人に伝へる実験をしたいとさっき考へてゐた』というさっきという言葉ですが、これは、前々から考えていたという意味にもとれるけれど。

 天沢 しかし、ジョバンニが夢を見る前に、つまり例の破棄された5枚分の中でブルカニロ博士に会っていて、しかも、博士は以前からこういう実験をしたいと思っていて、それがはからずもここで実現した、とすれば、このさっきという言葉も、そのままの意味でつながらないということはない。

 入沢 そうですね。」

入沢康夫・天沢退二郎『討議「銀河鉄道の夜」とは何か』,新装版,1990,青土社,pp.55-56.



 天沢・入沢両氏の発言にもあるように、【A】と【B】を矛盾なく読もうとすれば、ジョバンニの“旅立ち”前の“欠落部分”に登場した時に、博士は、「こんなしづかな場所で遠くから私の考を人に伝へる実験をしたい」と思った、そして、その後のジョバンニの“旅”の中で、じっさいにその“実験”をすることができた、ということになります。「さっき」とは、“欠落部分”に登場した時だと見るのが、もっとも合理的であることになります。

 それでも不可解な部分は残ります。「遠くから」と博士が言っていることです。

 博士の「実験」がテレパシーの実験だとすると、すぐ近くで行なっても意味がないのかもしれない。対面していれば、相手の表情やしぐさで、その考えていることがわかりますし、言葉や身ぶりを介しない感情の伝達・感応ということだって無いとは言い切れません。それらはテレパシーではないからです。

 しかし、博士が「遠くから」実験をしたとすると、丘の上で寝ているジョバンニに、すぐそばに立って「考へ」を伝えても、「遠くから」ではないことになります。博士は、“欠落部分”でジョバンニに宇宙天文学の話をした後、いったん丘から離れて‥‥たとえば、丘の麓にある博士の研究室(?)に戻って‥‥「遠くから」テレパシー実験を開始したのか?‥

 そんなまわりくどいことを想像するよりも…、むしろ、ジョバンニの“銀河の旅”は単なる睡眠時の夢ではなく、じっさいに“銀河世界”――異世界への“旅”だったから、地上からの博士の“通信”は「遠くから」なのだ、と考えたほうが良いかもしれません。前回(9)で述べたように、“覚醒”ないし帰還の際のジョバンニの状態が、夢からの目覚めと言うよりは、“幽体離脱”していた心霊と身体の合体というべき事態なのだとしたら、「遠くから」を、こう理解するほうが適切でしょう。





 





 つぎに、ブルカニロ博士は、



「お前の云った語はみんな私の手帳にとってある。」



 とジョバンニに言います。



「入沢 
〔…〕ところで『お前の云った語はみんな私の手帖にとってある』と、ここでまたという言葉ができます。

 天沢 これはパロールですね。

 入沢 そう。それでなぜ手帖にとったのでしょう。ジョバンニの夢の中の決心の保証人という役割をするということになるのかな。

 天沢 と同時に、ブルカニロ博士という人物と作品の語り手の像とが重なってくるわけです。われわれはその手帖に書いてあることを読んだようなものだから。」

入沢康夫・天沢退二郎『討議「銀河鉄道の夜」とは何か』,新装版,青土社,p.56.



 天沢・入沢氏はこのように議論しておられますが、ギトンが気になるのは、それよりももっと前提の部分、つまり、博士はなぜ“夢”の中での―――あるいは異世界である“銀河世界”での―――ジョバンニの発言を、聴き取ることができたのか?…という点です。

 博士の“テレパシー実験”は“双方向”だというのが、ひとつの解釈です。博士は、“異世界”の、あるいは“夢”の中のジョバンニに、自分の「考へ」を送るのと同時に、ジョバンニが体験している世界やジョバンニがそこで述べている発言は、博士にも見える・聞こえるのだ、ということになります。

 心霊学の想定するテレパシーというものがどういうものなのか、ギトンはよく知りません。このような“双方向”のものなのか?…また、宮沢賢治はどう考えていたのか?‥‥実証的に、たとえば当時の心霊学の文献を調べて探究することはできそうですが...

 しかし、もうひとつ、もっと大胆な“文学的”解釈は、天沢氏が述べているように、そもそもジョバンニの“銀河の旅”全体が、ブルカニロ博士の手の内にあるのだと…、すべては、博士が「実験」によってジョバンニに見せている“まぼろし”なのだと……そう解釈することです。

 この解釈は、ある意味で、〔第3次稿〕までの『銀河鉄道の夜』を、たいへんつまらない教訓話にしてしまうかもしれません。“銀河の旅”それ自体、そのすべては、博士がジョバンニを鍛えて、力強く現実世界を「大股にまっすぐに歩いて行」く男にするため仕組んだ大がかりな“幻影”にすぎなかった―――ということになるからです。

 ともかくこの解釈によれば、博士は単に、入眠中の――あるいは“異世界”の――ジョバンニに思念を送るだけの役割ではないことになります。天沢氏の言うように、すべてはブルカニロ博士(≒作者宮沢賢治)の創作した夢物語だ‥と解釈することも可能ですが、むしろ、ブルカニロ博士とは、地上世界と銀河の“異世界”とのあいだの行き来さえもコントロールすることのできる…、科学者を超えた霊能力者、あるいは神のような存在だと考えることもできるでしょう。

 そう考えれば、たとえば(3)で見たような、ジョバンニの“旅立ち”の際の「三角標」などの人工装置的な挙動を、よく説明することができます。

 この↑あとのほうの理解は、ギトンにはたいへん魅力的に思われます。テクストの中で、ブルカニロ博士の“超人性”を示すかのような記述は、ほかにも何ヶ所かに現れてきますので、このあとそれぞれの箇所でまた検討することにしましょう。






「そしてこれから何でもいつでも私のとこへ相談においでなさい。」



 ブルカニロ博士の↑この発言も、よく考えてみると奇妙です。

 ジョバンニはブルカニロ博士と初対面なのに、いったいどこへ「相談に」行けと言うのか?博士は、自分の自宅か“研究所”かを、ジョバンニに教えたのか?‥“欠落部分”に、そういうことが書いてあるのか?

 あるいは、博士が科学者を超えた神的な存在だとしたら、ジョバンニがどこにいようとも、「博士、相談したいことがあります」と一心に祈れば、今回のようにブルカニロ博士が、どこからともなく「遠くから」現れて来るのかもしれません。






「天気輪の柱」の画像化 左:ますむらひろし氏 右:みずのまさと氏






 もっとも、その場合でも、博士が「私のとこへ‥‥おいでなさい。」と言っているように、「天気輪の丘」へ来る必要はあるのかもしれません。

 キリスト教、イスラム教などの一神教の神は普遍的存在で、いつでも、どこにでも居るとされるのとは対照的に、日本の神道などの多神教の神々は、それぞれが特定の場所と強く結びついています。あの山、この山に、それぞれの土着の神が定位しています。ある土地を開くには、“地鎮祭”を行なってその土地の神を鎮める必要があるのです。仏教も、日本では、そうした特定の場所と結びついた神々の形態をとっていると言えます。寺々は堂ごとに特定の仏様を祀り、その偶像を置いて、そこがその仏様を呼び出す場所であることを示しています。



「祀られざるも神には神の身土がある」



 という賢治詩の一節
(#313「産業組合青年会」1924.10.5.)が想起されます。






 このように考えると、「天気輪の柱」というあの謎の物体についても、ある解釈が可能になるでしょう。「天気輪の柱」は、神社の拝殿、あるいは寺院の仏像にあたる存在で、ブルカニロ博士は「天気輪」の“神”なのかもしれない‥

 「天気輪の柱」のモチーフのもとは、寺院や墓地にある「マニ車」
(円筒の周りに経文が書いてあって、回転させるとお経を唱えたことになる装置)らしいですし、「五輪塔」だと言われたりもします。いずれも、“銀河世界”を死者の世界とする解釈と結びつきます。しかし、〔第3次稿〕までのテクストでは、「天気輪の柱」そのものが「三角標」になったり、死者の世界へ跳ぶための装置になったりするわけではありません。そうした役割をするのはもっぱら「琴の星」の青い「ひかり」です。「天気輪」自体は、その下で“異変”が展開する特異点の場所を標示するもの、神社の拝殿や寺院の本尊像にあたるものなのです。






【3.2.2】 「セロのやうな声」は、ブルカニロ博士か?





「入沢 ところで、ウル『銀河鉄道の夜』
〔〔第3次稿〕―――ギトン注〕では、賢治はこの銀河ステーションへの導入部を相当丹念に書いていたけれど、それが現行のテクスト〔〔第4次稿〕―――ギトン注〕ではすっぽり削除され、いきなり本題に入っている。

 天沢 セロの声の相当入っている箇所だから、いろんな理由が挙げられるでしょうね。

 入沢 それで、そもそも、この声は何であるのかということ、それからなぜ削ったのかということが問題になる。おそらく、声の正体は、欠落している5枚分の原稿にブルカニロ博士の登場があってそれが後の方と対応しているのではないか、とすれば、これは彼の声であると考えるのが一番自然だ。

 天沢 ジョバンニとカムパネルラはここで『あの声、ぼくなんべんもどこかできいた』『ぼくだって、林の中や川で、何べんも聞いた』と言っているわけです。林の中や川で賢治が聞いた声といえば、風の声であり水の音であり、たとえば『注文の多い料理店』の序文や、『鹿踊りのはじまり』『サガレンと八月』などにはっきりあらわれてているように、あの、童話を最初に語りだす声、作品の語りの声なわけです。

 入沢 しかも、後で人間の形をして出てくるわけだ。これは、世界のあらゆる文学を見ても、例のないことだ。(笑)実に興味深いところです。セロの声はここで解説者の役割もしているわけです。最初から、非常に高いところにいて非常に深い知恵をもっている。そういう意味で『ひかりの素足』に出てくる『大きな人』との相当な類似性を感じる。」

入沢康夫・天沢退二郎『討議「銀河鉄道の夜」とは何か』,新装版,p.33.



「天沢 夢から醒める時の前後関係から言って『セロのような声』と、『講義をした歴史学者』と『ブルカニロ博士』とが、三位一体であるということがわかる。」

入沢康夫・天沢退二郎『討議「銀河鉄道の夜」とは何か』,新装版,p.55.






 入沢氏は、「セロのやうな声」はブルカニロ博士「の声であると考えるのが一番自然だ。」と言い、天沢氏は、「『セロのような声』と‥‥『ブルカニロ博士』とが、三位一体である」と言い、若干ニュアンスは違っても、「セロのやうな声」の主とブルカニロ博士は同一人物だということで一致しているようです。

 これに、ブルカニロ博士はジョバンニに対して、テレパシー(?)の「実験」をしているという事実を重ねると、「セロのやうな声」は、ブルカニロ博士がテレパシーで送りこんで来る彼の思念の“声”にほかならない――ということになります。







 







 ところがその一方で、「あの声、ぼくなんべんもどこかできゐた」「ぼくだって、林の中や川で、何べんも聞いた」というジョバンニとカムパネルラの会話があるのです。カムパネルラが、“銀河の旅”に出るよりずっと前から、地上での生活のなかで、「林の中や川で、何べんも聞い」ていたとすれば、それがすべてブルカニロ博士のテレパシー実験だったとするのは、無理があるように思われます。

 そもそも、ここでの「セロのやうな声」は、ジョバンニにもカムパネルラにも同じように聞こえているようです。他の“銀河鉄道”の乗客にも聞こえているのでしょうか?――テレパシーというのは、ラジオのように誰にでも聞こえるものなのかどうか‥‥ちょっと違うような気もするのです:



「『この汽車石炭をたいてゐないねえ。』ジョバンニが左手をつき出して窓から前の方を見ながら云ひました。

 『石炭たいてゐない?電気だらう。』

 そのとき、あのなつかしいセロの、しづかな声がしました。

 『ここの汽車は、スティームや電気でうごいてゐない。ただうごくやうにきまってゐるからうごいてゐるのだ。』

 『あの声、ぼくなんべんもどこかできいた。』

 『ぼくだって、林の中や川で、何べんも聞いた。』

 ごとごとごとごと、その小さなきれいな汽車は、そらのすゝきの風にひるがへる中を、天の川の水や、三角点の青じろい微光の中を、どこまでもどこまでもと、走って行くのでした。

 向ふの席で、灰いろのひだの、長く垂れたきものを着たひとが、ちょっと立ちあがって、そのえりを直しただけ、ほんたうにそこらはしづかなのでした。」

『銀河鉄道の夜』〔第3次稿〕より。



 そうしたことから、天沢氏は、この「セロの声」は、「林の中や川で賢治が聞いた声」「風の声であり水の音であり、たとえば『注文の多い料理店』の序文や、『鹿踊りのはじまり』『サガレンと八月』などにはっきりあらわれてているように、あの、童話を最初に語りだす声、作品の語りの声なわけです。」と、大胆な解釈を述べられています。この天沢氏の指摘は、非常に示唆的であると思います。

 そして、入沢氏もこれを受けて、賢治作品の「語りの声」である「セロの声」が、「後で人間の形をして出てくる」のがブルカニロ博士の登場にほかならないとされます。ブルカニロ博士とは、単なる科学者でも霊能力者でもなく、賢治作品を生み出している「風の声」や「水の音」、つまり詩や童話を賢治に語りかける自然世界からの「語りの声」そのものである――ということになります。


 【参考】
(賢治における《風》)⇒:【宮沢賢治】《心象》の原風景(2)



 奥村文幸氏と栗原敦氏によれば↑、賢治作品の「語りの声」としての《風》は、読者にとって既知の“世界”と未知の“世界”とをつなぐものであり、ある場合には《異世界》からの情報を、地上の人間にもたらしてくるものなのです。そして、鉄道や列車もまた、《風》と同様の役割をする“媒体”にほかなりません。『銀河鉄道の夜』の↑上の引用部分で「セロの声」が、“銀河鉄道”の列車を動かしている動力について語っているのは、偶然ではないかもしれません。

 「あのなつかしいセロの、しづかな声」という地の文の呼び方も、「林の中や川で」聴こえてくる、世界の本質を語る「語りの声」にふさわしいでしょう。



 しかしながら、登場したブルカニロ博士自身が「私は大へんいゝ実験をした。」と言っています。この「セロの声」は、博士によるテレパシー「実験」にほかならないと思わせる部分もまた、テクストに歴然としてあるのです。

 しかも、「セロの声」がジョバンニらに語る発言内容を見て行くと、それらはいずれも科学的な、あるいは空想科学的な解説であって、“《風》が語る自然童話の世界”とは、およそ異質なものです:



「(ひかりといふものは、ひとつのエネルギーだよ。お菓子や三角標も、みんないろいろに組みあげられたエネルギーが、またいろいろに組みあげられてできてゐる。だから規則さへさうならば、ひかりがお菓子になることもあるのだ。たゞおまへは、いままでそんな規則のとこに居なかっただけだ。ここらはまるで約束がちがふからな。)」

「(水が流れてゐる?水かね、ほんたうに。)」

「『ここの汽車は、スティームや電気でうごいてゐない。ただうごくやうにきまってゐるからうごいてゐるのだ。』」

「『もう帰りたくなったって。そんなにせかなくてもいゝ。まだ二分もたってゐない。まあ安心しておいで。いつでもその切符で帰れるから。』」★



 ただし、最後の★を付けた発言は〔第2次稿〕にあって、〔第3次稿〕では削除されています。

 「セロの声」は、賢治作品のエッセンスを運んで来る《風》の声、「語りの声」だという天沢・入沢氏の構想は、たいへん興味深いものですが、じっさいに「セロの声」の発言内容を見ると、これはどう見ても「《風》の声」というよりは、ブルカニロ博士がジョバンニたちに指示し語りかける声なのです。













 このように、「セロのやうな声」の性格には、どうも二面性があるように思われます。それは、ブルカニロ博士の性格の二面性にも及んでいます。賢治は「セロのやうな声」に対して、まったく性格の違う2つのモチーフをこめようとして、それらをうまく調和させることができず、けっきょく〔第4次稿〕では「セロのやうな声」を全面的に削除することになったのかもしれません。



 以上まとめますと、「セロのやうな声」がブルカニロ博士の声であることは間違えなさそうですが、それは博士による“テレパシー実験”なのかというと、そう思われる面もあり、単なる“テレパシー実験”を超えているような面もあって、統一的な理解がむずかしいのです。

 思うに、ひとつの解決法としては、「セロのやうな声」イコール・ブルカニロ博士の声――というように決めつけないで、

 たとえば、カムパネルラが“銀河の旅”以前の「林の中や川で」聞いた「なつかしいセロの、しづかな声」は、ブルカニロ博士とは無関係だと解釈することもできるかもしれません。そして、ブルカニロ博士は、そのような“通信手段”を利用して「実験」をしているのだと理解すればよい。「かしわばやしの青い夕方」や「十一月の山の風のなか」(『注文の多い料理店』序)で聴こえてくる自然世界からの「語りの声」――博士はそれを利用して、“テレパシー実験”をしたのだと考えるのです。

 もっとも、その場合でも、博士は、そのような超自然的な「語りの声」を利用しコントロールする能力を有していることになります。つまり、科学的な意味での「実験」を超えた霊能力者、ないし神的な存在であると見ないわけにはいかなくなるのです。。。






ばいみ〜 ミ




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カテゴリ: 宮沢賢治

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