02/03の日記

00:11
【宮沢賢治】『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(9)

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 こんばんは (º.-)☆ノ






 『銀河鉄道の夜』草稿の失われた“欠落部分”の内容を推理してみようということで、連載の9回目です。

 興味をもたれた方は、シリーズの最初から読んでいただけたらと思います。そのほうがよく分かります:



 ⇒:『銀河鉄道の夜』の成立過程

 ⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(1)

 ⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(2)

 ⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(3)

 ⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(4)

 ⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(5)

 ⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(6)

 ⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(7)

 ⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(8)






【2.5】銀河世界の“実在感”



「『ぼくはもう、すっかり天の野原に来た。』ジョバンニは呟きました。『けれども僕は、ずうっと前から、ここでねむってゐたのではなかったらうか。ぼくは決して、こんな野原を歩いて来たのではない。途中のことを考へ出さうとしても、なんにもないんだから。』ところが、ふと気がついてみると、さっきから、ごとごとごとごと、ジョバンニの乗ってゐる小さな列車が走りつづけてゐたのでした。ほんたうにジョバンニは、夜の軽便鉄道の、小さな黄いろの電燈のならんだ車室に、窓から外を見ながら座ってゐたのです。」

『銀河鉄道の夜』〔第3次稿〕より。



 ↑ジョバンニが“銀河鉄道”の列車に乗り込む――というより、乗っていることに気づく場面ですが、ここで検討したいのは、



「僕は、ずうっと前から、ここでねむってゐたのではなかったらうか。」



 というジョバンニの独白です。

 「ここ」とは、「天の野原」です。この独白の時点で、ジョバンニは、まだ列車には乗っていません。(↑引用のテクストをよく見てください。)

 「ぼくはもう、すっかり天の野原に来た。」と呟いた時点で、ジョバンニは、「天の野原」の〈実在感〉――「天の野原」に自分がいるという無意識の確信――をすでに得ています。しかし、「途中のことを考へ出さうとしても、なんにもない」、つまり、どうやって「ここ」に来たのかは、どうしても思い出せないのです。周囲いちめんに「野原」が広がっている以上、そうとうの時間をかけて「野原」を歩いて来たのでなければならないのですが――それは、ジョバンニの日常意識、現実意識が、当然に要求するものです――、彼にはどうしても「こんな野原を歩いて来た」ような気がしないのです。

 そこでジョバンニは、「僕は、ずうっと前から、ここでねむってゐたのではなかったらうか。」と思うのです。これは、論理的に考えてそう思うというより、無意識の感覚として、そう思われるわけです。獲得した〈実在感〉・現実感によって、記憶が再解釈され、合理化されている(塗り替えられている)と言えます。

 「ずうっと前から、ここでねむってゐた」という感覚は、「ここ」すなわち「天の野原」の〈実在感〉を、いやがうえにも強めます。自分が意識する以前から、この場所は存在していた、つまり、この“銀河世界”は、彼の意識を超越して実在することになるからです。

 そして、ジョバンニの意識では、彼がもと居た「町」や「天気輪の丘」の世界とは断絶があります。それらの有る世界から、この「天の野原」に来るまでの「途中のこと」を思い出そうとしてもできないし、それを知識によって考えようとしても「なんにもない」のです。体験としても、知識としても、もと居た“世界”と、いま居る“世界”のあいだはまったくの空白であり、2つの“現実”は、相互の関係がまったく不明なまま、宙ぶらりんに並び立っているのです。
















「ぼくはもう、すっかり天の野原に来た。」



 というジョバンニの〈実在感〉は、既知感をともなっています。彼は、「ここ」が「天の野原」であることを“知っている”からです。つまり、当然に“知っている”という原因不明の確信があるのです。

 このような既知感は、この少し前に、「銀河ステーション、銀河ステーション」という「ふしぎな声」を聞いた時からありました↓。この点は、すでに(6)で検討しました。



「するとこんどは、前からでもうしろからでもどこからでもないふしぎな声が、銀河ステーション、銀河ステーションときこえました。そしていよいよおかしいことは、その語が、少しもジョバンニの知らない語なのに、その意味はちゃんとわかるのでした。」

『銀河鉄道の夜』〔第3次稿〕より。






【3.1】ジョバンニは立っていたか?



 『銀河鉄道の夜』の〔第3次稿〕を読んでいると、地上の「町」や丘と、“銀河世界”の、いったいどちらが“現実”なのか、わからなくなってきます。“銀河世界”は、その特質ある《統合的組成》を顕示しながら、現にある世界としての実在感をもたせるための工夫が随所にめぐらされているのに対し、地上世界のほうは、ジョバンニらの学校も、家も、アルバイト先も、じっさいの場面として描かれることが(回想場面としてさえも)なく、もっぱらジョバンニの独白によって説明されているだけです。飾りつけを除いた「町」の《地》の部分は、闇の中に深く沈みこんでいるかのようです。

 地上世界では、場面に現れる人物も少なく、ジョバンニのほかには、ブルカニロ博士が唯一の登場人物と言ってよいほどです。カムパネルラ、ザネリら級友たちは、ほとんど通り過ぎるだけで内実がなく、「ジョバンニ、らっこの上着が来るよ。」以外にはセリフもありません。かろうじてジョバンニとの間で対話があるのは、牛乳屋の「下女」ですが、カテゴリックな拒絶の態度を見せるばかりで、「しぃんとして誰も居」ない「牛乳屋」の「黒い門」とともに風景の一部でしかありません。人物としての内面をそなえた存在ではないとも言えます。

 そこで、地上の世界と“銀河世界”とをつなぐ、ジョバンニの“旅立ち”の場面、および“帰還”ないし目覚めの場面が重要なのですが、そこに5枚の草稿“欠落部分”の失われた内容が関わってくるのです。

 今回の考察の最後に、あらためて5枚の“欠落部分”の内容を推測し、物語の進行に重要なカギを握っていたと思われるブルカニロ博士の人物像について考えてみたいと思います。



 1970年代における天沢退二郎氏・入沢康夫氏による『校本宮澤賢治全集』のための草稿調査と編集・発行によって、現行の〔第4次稿〕〔第3次稿〕などのテクストが明らかになったわけですが、それ以前の段階で、すでに天沢氏は、ジョバンニの入眠ないし“旅立ち”の場面と、目覚めないし“帰還”の場面を比較して、2つの不整合を指摘しておられました↓。

 これらの不整合は、“旅立ち”直前の5枚の“欠落部分”を読むことができないために生じていると想定されました。



「この覚醒の箇所と、さっきの入眠直前の箇所とを対応させてみるとき、いくつかの不適合と、いくつかの適合とがたちまち明らかになる。不適合の第一は、なんといっても《あのブルカニロ博士》の唐突な出現であり、第二は、丘の草の上に身を投げて眠ったはずのジョバンニが、目がさめたとき《まっすぐ草の上に立ってゐる》という、姿勢の不自然きわまる変化である。適合しているのは、草の丘という場所、
〔…〕

 作者が《あのブルカニロ博士》が目ざめたジョバンニに近づいてくると書いた以上、そのブルカニロ博士なる人物はジョバンニの入眠以前に登場していたにちがいないのであり、目ざめたジョバンニが草の丘にまっすぐ《立って》いた以上、入眠以前のジョバンニもまた、立っていたにちがいないのである。この二つに適合する箇所があのノンブル11〜15の欠落箇所にあったことはおそらく自明であろう。」

『討議「銀河鉄道の夜」とは何か』,新装版,pp.80-81.



 つまり、現存するどの草稿でも、ブルカニロ博士はジョバンニの“帰還”の後にはじめて登場するのに、その登場のさいに、



「遠くからあのブルカニロ博士の足おとのしづかに近づいて来るのをききました。」

『銀河鉄道の夜』〔第3次稿〕より。



 と書かれていることの矛盾。そして、「丘の草の上に身を投げて眠ったはずのジョバンニが、目がさめたとき《まっすぐ草の上に立ってゐる》という」矛盾です。




 






 これらの点から、天沢氏は、“旅立ち”直前の5枚の“欠落部分”の内容を、↓つぎのように推定しておられました:



「さらにここで、『六、銀河ステーション』という小見出しのすぐあと、すなわちこの第6章の書き出しの部分の初稿が、《(さっきもちゃうど、あんなになった。)ジョバンニが、かう呟くか呟かないうちに、……》となっていたことは意味深長である。《あんなになった》とは、琴の星が蕈のように長くなったことをさすのは明らかで、この、琴の星が長くのびるというのは、さき引用した最後の行からもわかるとおり、夢あるいは夢のはじまりの指標である。《さっきも……あんなになった》というからには、銀河鉄道の旅の夢に入るこの入眠のすこし前にもやはり、夢のはじまりをジョバンニが体験したことを示唆している。

 かくして、私たちにとって推測可能な11〜15の欠落部分の内容は、

  1、ジョバンニ、丘に横たわったまま、琴の星が長くのびるのを見る(入眠)。

  1、その夢の中か、または一度目ざめてからか、ブルカニロ博士に会う。

  1、そのブルカニロ博士の導きで(一種の催眠実験であろう)、立ったまま空の星を見あげながら、入眠直前の状態にいたる。

 というような項目に整理されるのではあるまいか。」

『討議「銀河鉄道の夜」とは何か』,新装版,p.81.






 まず、最初の点については、その後天沢氏らが賢治の草稿を調査した結果、“欠落部分”の直前にも「琴の星が長くのびるのを見る」記述があったことが発見されて解決しました。

 ただ、「琴の星」の異変が直ちに「入眠」を意味するのかどうかについては疑問があります。天沢氏自身、入沢氏との対談では、ジョバンニの夢の中ではなく、覚醒状態のジョバンニの前にブルカニロ博士が現れて面談する推定に傾いておられます
(『討議「銀河鉄道の夜」とは何か』,p.56)

 むしろ「琴の星」の異変とジョバンニの“入眠”とは別ではないか?…、“旅立ち”以前に、“欠落部分”で一度入眠したと推定する必要はないのではないか?…と思われます。“欠落部分”では、ブルカニロ博士が登場して宇宙の話などをレクチャーしていると推測される以上、むしろその時点でのジョバンニは、目覚めた状態で博士と会話していると考えたほうがよいのではないか?――というギトンの考えを(1)で述べました。

 2番目の点―――“欠落部分”の丘の上でブルカニロ博士が登場し、ジョバンニに会う―――については、ギトンもそのとおりだと思います。

 そこで、問題は第3の点です。天沢氏は、「目ざめたジョバンニが草の丘にまっすぐ《立って》いた以上、入眠以前のジョバンニもまた、立っていたにちがいない」として、“欠落部分”の入眠は、「立ったまま空の星を見あげながら、入眠直前の状態にいたる」というようになされる。そして、これはふつうに人が眠りに入る姿勢としては不自然なので、「ブルカニロ博士の導き」で「一種の催眠実験」が行われるのだろうと推定されたわけです。

 本節では、この第3の点について、〔第3次稿〕のテクストを詳しく検討してみたいと思います。



 まず、はじめに見ておきたいのは、目覚め(帰還)の場面です。目ざめたジョバンニは、「草の丘にまっすぐ《立って》い」るでしょうか?



「あのセロのやうな声がしたと思ふとジョバンニはあの天の川がもうまるで遠く遠くなって風が吹き自分はまっすぐに草の丘に立ってゐるのを見また遠くからあのブルカニロ博士の足おとのしづかに近づいて来るのをききました。」

『銀河鉄道の夜』〔第3次稿〕より。



 テクストをよく見てください。「ジョバンニはまっすぐに草の丘に立ってゐました」とは書かれていません。「ジョバンニは‥‥自分はまっすぐに草の丘に立ってゐるのを」と書かれています。違いは「見」というたった一文字ですが、見逃すことはできないと思います。

 これは、目が覚めてみたら、自分は丘の上に直立していることに気づいた…足もとに生えている草や木や、丘の下の町の風景が見えた……という意味に読むこともできなくはありません。しかし、書いてあるとおりに、すなおに読めば、ジョバンニは、丘の上に「まっすぐに立って」いる自分の姿をその眼で「見」た、「見」ているジョバンニ自身は、空中にただよっているのか何かわからないが、とにかく丘の上にいる自分の姿が彼には見えた……という意味になるでしょう。

 このように読むと、すぐあとの「遠くからあのブルカニロ博士の足おとのしづかに近づいて来るのをききました」の部分も、意味深長に思われてきます。ブルカニロ博士は、丘の頂上にいるジョバンニに向かって、「遠く」から歩いて来るのではなく、遠い“銀河世界”から下りて来るジョバンニに向かって、地上の世界とともに近づいて来る、という意味にとれます。「足おと」が聞こえる以上、ブルカニロ博士が丘の上を歩いて来るのはまちがえないわけですから、ジョバンニが遠い遠い“銀河世界”から、博士のいる地上の丘へ近づいてゆくにつれ、丘の上の博士の足音が近くなって来る、ということかもしれません。

 その点はともかく、目覚めた時にジョバンニは、自分が「丘に立ってゐるのを見」たという点、これはテクストにはっきりと書いてあってまちがえがえようがありません。














 ここで参考になるのは、賢治童話『インドラの網』の次の記述です。この場合は、語り手が草の上で“入眠”する“旅立ち”のようすが描かれています:



「そのとき私は大へんひどく疲れていてたしか風と草穂との底に倒れていたのだとおもいます。

 その秋風の昏倒の中で私は私の錫いろの影法師にずいぶん馬鹿ていねいな別れの挨拶をやっていました。

 そしてただひとり暗いこけももの敷物
(カアペット)を踏んでツェラ高原をあるいて行きました。」
『インドラの網』より。



 語り手「私」は、秋風の吹く草の上に疲れて倒れ、その「昏倒の中で」自分の「錫いろの影法師」と「別れの挨拶」をして、「ツェラ高原」へ移って行ったと書かれています。

 「私」がもといた場所は、秋風の吹く「草穂」の「底」であり、東北にも多い萱の野原のように思われます。ところが、「ツェラ高原」のほうは、「こけもものカアペット」が敷き詰められた、木の草もない高山なのです。両者はまったく別の場所であり、「私」は、昏倒状態の夢のような中でテレポートしていると考えなければなりません。

 そうすると、「錫いろの影法師」とは、「私」の身体から抜け出した「私」から見た自分の抜け殻で、「私」は“魂魄剥離”をしている‥‥“魂魄剥離”という語がピッタリかどうかはわかりませんが、そのような状況と思われます。語り手は、「私」とその「影法師」に分裂して、「影法師」のほうは東北の萱野原に残したまま、「私」の本体がテレポートして行った、…あるいは、現実には昏倒した自分をそのまま東北の萱野原に残して、意識だけがテレポートして行ったと思わなくてはなりません。

 〔第3次稿〕までの『銀河鉄道の夜』に書かれていたジョバンニの“帰還”の場面も、このような“魂魄剥離”を思わせます。草の生えた丘の上に戻って来たジョバンニは、自分がもとの場所に「まっすぐに‥立って」いるのを「見」るのです。

 そうだとすると、丘の上に残された分身が、“旅立ち”の時とは姿勢を変えていたとしてもおかしくはないのかもしれません。“銀河世界”へ行ったジョバンニ“本体”の知らない間に、分身が別の動きをしていた、というようなこともありえなくはないでしょう。

 ただ、じっさいには、ジョバンニは、「まっすぐに‥‥立って」いる自分の姿を見たあと、その身体の中へ入って一体になるのでしょうから、けっきょく、ジョバンニは「目がさめたとき《まっすぐ草の上に立ってゐる》」という天沢氏の認定は、それでよいのかもしれません。



 それでは、「入眠」ないし“旅立ち”の時のジョバンニの姿勢は、どうでしょうか?“欠落部分”を挟んで少し前から見ていきたいと思います:






「@ジョバンニは、頂の天気輪の柱の下に来て、どかどかするからだを、つめたい草に投げました。

 A町の灯は、暗の中をまるで海の底のお宮のけしきのやうにともり、子供らの歌ふ声や口笛、きれぎれの叫び声もかすかに聞えて来るのでした。風が遠くで鳴り、丘の草もしづかにそよぎ、ジョバンニの汗でぬれたシャツもつめたく冷されました。Bジョバンニはじっと天の川を見ながら考へました。

(ぼくはもう、遠くへ行ってしまひたい。みんなからはなれて、どこまでもどこまでも行ってしまひたい。
〔…〕ぼくはもう、空の遠くの遠くの方へ、たった一人で飛んで行ってしまひたい。)

 野原から汽車の音が聞えました。Cその小さな列車の窓は一列小さく赤く見え、その中にはたくさんの旅人が、苹果を剥いたり、わらったり、いろいろな風にしてゐると考へますと、ジョバンニは、もう何とも云へずかなしくなって、Dまた眼をそらに挙げました。あの青い琴の星さへ蕈のやうに脚が長くなって、三つにも四つにもわかれ、ちらちら忙しく瞬いたのでした。

 『あゝあの白いそらの帯が牛乳の川だ [以下原稿五枚なし]
 


Eら、やっぱりその青い星を見つゞけてゐました。

 ところがいくら見てゐても、そこは博士の云ったやうな、がらんとした冷いとこだとは思はれませんでした。それどころでなく、見れば見るほど、そこは小さな林や牧場やらある野原のやうに考へられて仕方なかったのです。そしてジョバンニはその琴の星が、また二つにも三つにもなって、ちらちら瞬き、脚が何べんも出たり引っ込んだりして、たうたう蕈のやうに長く延びるのを見ました。



        銀河ステーション


 (さっきもちゃうど、あんなになった。)

 ジョバンニが、こう呟くか呟かないうちに、愕いたことは、いままでぼんやり蕈のかたちをしてゐた、その青じろいひかりが、にわかにはっきりした三角標の形になって、しばらく螢のやうに、ぺかぺか消えたりともったりしてゐましたが、たうたうりんとうごかないやうになって、濃い鋼青のそらの野原にたちました。
〔…〕
『銀河鉄道の夜』〔第3次稿〕より。








 







 @のところで、ジョバンニは丘の頂上の草の上に横たわっています。もっとも、ここも意地悪く読めば、



「からだを、つめたい草に投げました。」



 と書かれているだけで、横たわったとは書かれていません。この点が問題になるのは、すぐ次のAで、「町の灯」を眺めているからです:



「町の灯は、暗の中をまるで海の底のお宮のけしきのやうにともり、」



 ジョバンニは丘の上から、ふもとの町の夜景を眺めているのですが、これを寝転んだ姿勢で眺めるのは、かなり無理があるのではないでしょうか?

 この「天気輪の丘」の頂上の地形については、少し前のところに、



「川のうしろはゆるい丘になって、その黒い平らな頂上は、北の大熊星の下に、ぼんやりふだんよりも低く連って見えました。」



 と書かれています。「ゆるい丘」であり、「平らな頂上」ですから、その上に寝転んだ姿勢で、ふもとの景色が見えるかどうか疑問があります。むしろ、丘の斜面にしゃがんだ姿勢がふさわしいように思われます。もちろん、立ち上がって見れば、もっとよく見えるでしょう。

 Bでジョバンニは、「じっと天の川を見ながら」長い独白の思考をしています。これは、しゃがんだ姿勢でも、あおむきに寝転んだ姿勢でも可能です。天の川は天頂から低空までかかっているでしょうから、まっすぐに立った姿勢でも可能でしょう。

 しかし、Cでふたたび麓の風景が現れ、「野原から汽車の音が聞えました。その小さな列車の窓は一列小さく赤く見え、」という部分は、しゃがむか、立っているかでないと困難です。

 Dで「また眼をそらに挙げ」、「青い琴の星」を見ています。「琴の星」ヴェガは、天空のどんな位置にあるのでしょうか?…作者の想定した星座配置を考えてみる必要があります。

 この童話(〔第3次稿〕)の季節は、夏の終りから初秋にかけてと思われます。“銀河の旅”のなかでですが、カムパネルラが、



「もうすっかり秋だねえ。」



 と言っています。登場人物の服装を見ると、ジョバンニは「きうくつな上着」を来て歩いていますが、級友たちは「白いシャツ」の姿です。また、「ケンタウル祭」というこの日のお祭りは、灯籠流しのように「川へ青い烏瓜のあかしを流したり」「青いマグネシヤの花火」をしたりと、いかにも夏らしい風情です。

 そこで問題は、この「町」の緯度経度ですが、ますむらひろしさんは、花巻の旧盆の星座配置だと推定します:



「≪川のうしろはゆるい丘になって、その黒い平らな頂上は、北の大熊星の下に、ぼんやりふだんよりも低く連って見えました。≫

 『どれどれ』と星座早見盤を回し、大熊座を地平線より丘一つ分くらい上の位置に置き、そうして見ると、天頂の位置には、ジョバンニが眺める琴座のベガがチャンと来ている。
〔…〕

 ジョバンニは活版所から午後6時15分頃出たとする。
〔…〕天気輪の丘に着くのは、〔…〕午後8時から8時半の間となる。〔…〕

 『どれどれ、いつ頃なんだろ?』と、『午後8時から8時半』に示された月日を見た瞬間、体の中を、サーッとうすら寒い風が吹いた。

 『8月23日。これって……《お盆》じゃないか!』

     
〔…〕

 昔は8月23日あたりが花巻の旧盆とのことで、明らかに賢治はこうしたお盆の夜を意識して書いたのだ。」

ますむらひろし『イーハトーブ乱入記』,pp.136,140-142.






 〔第3次稿〕は〔第4次稿〕とちがって、ジョバンニが印刷所を出た時刻などは書いてないのですが、あたりが真っ暗であることや、子どもたちが川へ灯籠流しに出かけているのでそれほど遅い時間ではないことから考えると、やはり午後8〜9時ころは妥当な時刻の推定と思われます。

 「ジョバンニ」「カムパネルラ」といった人名はイタリア語のようですし、この童話の舞台はイタリアの町だという意見も有力なのですが、星座配置に関するかぎり、賢治が岩手県での星の見え方で書いていることは、いかにもありそうです。

 そこで、季節は8月後半、時刻は午後8〜9時ころ、場所は日本本州ということで星座配置を参照してみると、琴座のヴェガは、ほとんど天頂に輝いているのです:







8月15日頃午後9時の星空(関東甲信越)






 ↑これは関東甲信越を基準にしていますが、北海道や沖縄はともかく、東北までならばほとんど変りません。



 しかし、そうだとすると、ジョバンニはDでもEでも、天頂にあるヴェガを、そうとうに長い時間じっと眺めていたことになります。いくら「眼をそらに挙げ」たとは言っても、直立した姿勢では首が痛くなってしまうでしょう。この場合には、あおむけに寝転んだ姿勢がもっとも適合的で、しゃがんだ姿勢でも可、ということになります。

 さらに、“旅立ち”の一連の異変のあと、「天の野原」に到着したジョバンニが、



「けれども僕は、ずうっと前から、ここでねむってゐたのではなかったらうか。」



 とつぶやいていることから推しはかれば、この時点では「天の野原」の上に寝転んでいるようにも思われます。



 このように見てくると、ジョバンニはこの間に、何度も姿勢を変えているように思われるのです。はじめ草の上にドサッと倒れ込んだあと、上半身を起こしてしゃがんだ姿勢になったり、また寝転んだり、また起き上がったりといったことを繰り返しているように思われます。

 宮沢賢治という作家は、人物の姿勢の変化などはあまり詳しく書かない、ラフな描写をするように思われます。賢治の文章を読んでいると、視線の位置(風景の見え方)の変化から、人物の姿勢の変ったのがわかることも多いと思います。

 そういうわけで、“旅立ち”の直前Eでは、ジョバンニは仰向けに寝転んでいる、あるいはそこから上体だけ起こしてしゃがんでいる姿勢だったと思われますし、その後、文章に書かれていなくとも、彼が立ったり座ったり姿勢を変えることは十分にありえたと思われるのです。

 〔第3次稿〕では、ジョバンニの“銀河の旅”は4時間以上にわたっています。白鳥停車場が「十一時」きっかり、サウザンクロスが「次の第三時ころ」です。“銀河世界”での時間はそれだけ経過していますが、地上の時間としても、ジョバンニが“帰還”した時には、



「琴の星がずっと西の方へ移ってそしてまた蕈のやうに足をのばしてゐました。」



 と書かれていますから、やはり4時間かそれ以上経過しています。「西の方へ移って」とは、こと座のヴェガが、天頂から西の空へ下がって来たということです:








8月15日頃午前1時の星空(関東甲信越)








 この4時間以上にわたって、ジョバンニの魂の抜けた“意識喪失状態”の身体が、丘の頂上で「まっすぐに」立ち続けているというのは、おそろしく異様な構図ではないでしょうか?



「目ざめたジョバンニが草の丘にまっすぐ《立って》いた以上、入眠以前のジョバンニもまた、立っていたにちがいない」



 という天沢氏の推定は、無理があるのではないかと思います。

 むしろ、“帰還”の際にジョバンニが、自分が丘の上で「まっすぐに」立っているのを見たのは、“銀河の旅”のなかで、カムパネルラが突然いなくなったことに気づいて「まるで鉄砲丸のやうに立ちあが」ったことを踏まえているでしょうし、“帰還”したあとの丘の上でブルカニロ博士に向かって「僕きっとまっすぐに進みます。」と力強く表明する決意を予想させるものでもあります。その決意に充ちたジョバンニの姿勢は、“銀河の旅”へ出発する前と同じである必要はないのです。

 また、そのように理解すれば、“欠落部分”でジョバンニに対してブルカニロ博士が「一種の催眠実験」を行なったという天沢氏の推定も、必ずしも必要ではないことになります。

 もっとも、テレパシーの「実験」については、テクストの上で博士自身が述べていますから、行われた可能性が高い。クレルヴォワイヤンス(透視,千里眼)、テレポート(瞬間移動)なども可能性を探ってみてよいかもしれません。…そうすると、ブルカニロ博士とはいったい何者なのか?これまで宿題にしてきたこの謎に、次回は取組んでみたいと思います。







ばいみ〜 ミ



 
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カテゴリ: 宮沢賢治

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