02/01の日記

09:16
【宮沢賢治】『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(8)

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 こんばんは (º.-)☆ノ






 『銀河鉄道の夜』草稿の失われた“欠落部分”の内容を推理してみようということで、連載の8回目です。

 興味をもたれた方は、シリーズの最初から読んでいただけたらと思います。そのほうがよく分かります:



 ⇒:『銀河鉄道の夜』の成立過程

 ⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(1)

 ⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(2)

 ⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(3)

 ⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(4)

 ⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(5)

 ⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(6)

 ⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(7)






【2.3】ふたつの“現実”



 〈夢〉にこだわって空想世界に安住するのは、〈現実〉に対して非力な子どもの生き方であり、それを否定したところに大人の生き方があるのだ――と考える人たちは、その論理的帰結として、大人が歩いてゆく〈現実〉の世界は、〈夢〉の世界とは一線を画していなければならないと考えることになります。夢想を排除してはじめて、〈現実〉を十全に生きていると言えるのです。

 ところが、『銀河鉄道の夜』が描くジョバンニの「町」の現実のすがたは‥、それ自体がすでに、多分に夢幻の衣装をまとって描かれているのです。ジョバンニの「町」は、夢幻性という点において、“銀河世界”とどれだけ違っているのか?そこに本質的な相違は無いのではないか?…とさえ思われてきます。

 このことは、「午後の授業」以下のリアルな場面が書き足される前の〔第3次稿〕では、現行の最終〔第4次稿〕よりも顕著でした。

 〔第3次稿〕では、ジョバンニの地上世界での生活は、“旅立ち”前の「ケンタウル祭」の章で描かれているだけでした。「午後の授業」も「印刷所」もジョバンニの「家」も、また川岸での水難捜索場面も、〔第3次稿〕にはまだありません。

 「ケンタウル祭」の章では、ジョバンニが「家」を出て牧場の「牛乳屋」へ行くために街角を歩く場面で、地上世界の「町」のようすが描かれます。作者の描く地上世界は、“銀河世界”とどれだけ違っているでしょうか?‥天上の〈夢〉に対する地上の〈現実〉という対立関係――質的相違が見られるでしょうか?





「そのケンタウル祭の夜の町のきれいなことは、空気は澄みきって、まるで水のやうに通りや店の中を流れましたし、街燈はみなまっ青なもみや楢の枝で包まれ、電気会社の前の六本のプラタヌスの木などは、中に沢山の豆電燈がついて、ほんたうにそこらは人魚の都のやうに見えるのでした。子どもらは、みんな新らしい折のついた着物を着て、星めぐりの口笛を吹いたり、『ケンタウルス、露をふらせ。』と叫んで走ったり、青いマグネシヤの花火を燃したりして、たのしさうに遊んでゐるのでした。」

『銀河鉄道の夜』〔第3次稿〕より。



 これを、銀河世界のプリオシン海岸の場面描写↓と比べてみますと:






「河原の礫は、みんなすきとほって、たしかに水晶や黄玉や、またくしゃくしゃの皺曲をあらはしたのや、また稜から霧のやうな青白い光を出す鋼玉やらでした。ジョバンニは、走ってその渚に行って、水に手をひたしました。けれどもあやしいその銀河の水は、水素よりももっとすきとほってゐたのです。それでもたしかに流れてゐたことは、二人の手首の、水にひたったとこが、少し水銀いろに浮いたやうに見え、その手首にぶっつかってできた波は、うつくしい燐光をあげて、ちらちらと燃えるやうに見えたのでもわかりました。」

『銀河鉄道の夜』〔第3次稿〕より。
















 夜の町の空間を「水のやうに‥‥流れ」る「澄みきっ」た空気は、プリオシン海岸の「水素よりももっとすきとほっ」た「銀河の水」と、どれだけ違うのでしょうか?…プリオシン海岸のほうには「あやしい」という形容詞がついていること、また、夜の町のほうでは「水のやうに‥‥流れ」るものは「空気」と名指されているのに対し、プリオシン海岸では「水素」よりも「すきとほってゐ」る何かだと、比較級を使った一種の比喩で言われている――という違いがあるばかりです。両者の相違は程度の違いであって、本質的なものではないと言えるのではないでしょうか?両者は、同じクラスの《統合的組成》を表象しています。

 たしかに、町の空気のほうは、


「二人の手首の、水にひたったとこが、少し水銀いろに浮いたやうに見え、その手首にぶっつかってできた波は、うつくしい燐光をあげて、ちらちらと燃えるやうに見えた」



 というような“異変”を起こしてはいません。しかし、潜在的にはこの“異変”は、町の空気でも可能なのだと思います。「水のやうに‥‥流れ」るジョバンニの夜の町の空気はすでに、「二人の手首」にあたって「燐光をあげて」燃えるような「銀河の水」の性質を潜在させているのです。

 それでもなぜ、地上の「町」ではそのような“異変”が起きないかと言えば、“異変”を起こすに必要なもう一つの項である・並んだ「二人の手首」が缺けているからです。地上では、二人のあいだの級友関係や、ジョバンニの生活の窮迫に阻まれて、ジョバンニとカムパネルラが“手を取り合って旅をする関係”はまだ成立していないからです。

 (ちなみに、〔第4次稿〕では、天の川の水の美しい描写は、ジョバンニの傍にカムパネルラがいるときにだけ現れます。ジョバンニ単独の場面では決して描かれません。作者は、そのように原稿を書き直しているのです!)






 「夜の町」の風景をさらに見ていきますと、@「街燈」は、「みなまっ青なもみや楢の枝で包まれ」ている。A「電気会社の前の六本のプラタヌスの木」は、「中に沢山の豆電燈がついて」いる。そして、「ほんたうにそこらは人魚の都のやうに見える」と書かれています。

 つまり、「街燈」もしくは「沢山の豆電燈」の光、すなわち電気の光が、針葉樹または広葉樹の葉枝を透して、街路や建物を柔かく照らしだしている光景です。

 ヨーロッパでは19世紀、日本などでは世紀末からこの20世紀初めにかけて、電気照明が発明され、普及して行った時代の人々が、この新しい灯火に対して抱いた斬新で驚異的なイメージが、ここで想起されるべきです。



「蛾は灯に集まり、人は電光に集まる。輝やくものは天下を牽く。
〔…〕文明を刺激の袋の底に篩い寄せると博覧会になる。博覧会を鈍き夜の砂に漉せば燦たるイルミネーションになる。いやしくも生きてあらば、生きたる証拠を求めんがためにイルミネーションを見て、あっと驚かざるべからず。文明に麻痺したる文明の民は、あっと驚く時、始めて生きているなと気がつく。」
夏目漱石『虞美人草』(1907年)より。



「これは明治40年春の上野公園での東京府勧業博覧会の様子で、『
〔…〕3万5千もの電球が一斉に輝いたときの壮観は、漱石ならずとも驚かざるをえなかったであろう』〔…〕電燈は漱石をはじめとして、多くの作家たちに新しい《夜》のイメージを提供した〔…〕

 賢治の文学活動が集中した大正10年代から昭和初めは、まさにこうした電気事業が岩手県で飛躍的に発展した時代だったのである。」

大塚常樹『宮沢賢治 心象の宇宙論』,1993,朝文社,pp.190,194.



 都市の夜の空間を昼間のように輝かせた電灯の普及は、人類史はじまっていらいの大事件だったと言っても過言ではないでしょう。もともと“光”は人類にとって、生命、希望、喜び‥、といったものの象徴でした。夜の闇を追い払って新しい時代を開いてゆくかに見える電気照明の普及に、人々は驚異的に明るくユートピア的な未来をイメージしたにちがいありません。

 裸火(いろりや焚火)、ランプ、ガス灯‥、などのそれまでの灯火と比べて、電灯による照明の特徴は、格段に明るいということのほかに、@光が安定していて、ゆらめかず、隈や陰ができにくい、A光の色は白色または“透明”で、熱をほとんど発散しない冷たいイメージである、B無表情な鉱質の光である、Cその一方で、柔かい光のイメージを持つ、などがあります。



∇ 関連記事(裸火と電灯、シヴェルブシュ)⇒:〜ゆらぐ蜉蝣文字〜 8.4.5.







 







 宮沢賢治の場合に重要なのは、とりわけABCの特質で、



「これはカーバイト倉庫の軒
 すきとほつてつめたい電燈です

    
〔…〕

 これらなつかしさの擦過は
 寒さからだけ来たのでなく
 またさびしいためからだけでもない」


『春と修羅』「カーバイト倉庫」より。



「(まちはづれのひのきと青いポプラ)

    
〔…〕

 (明方の霧のなかの電燈は
 まめいろで匂もいゝし
 小学校長をたかぶつて散歩することは
 まことにつつましく見える)」


『春と修羅』「霧とマツチ」より。



 宵の「カーバイト倉庫」で作者が感じている「なつかしさの擦過」は、電燈の特質C柔かい光のイメージと切り離すことができないでしょう。またその柔かいイメージが、「霧のなかの電燈」は「まめいろで匂もいゝ」という「霧とマツチ」の描写につながっています。

 『銀河鉄道の夜』でジョバンニが歩く夜の町を彩っているのは、電気照明の特質C“柔かい光”にほかなりません。しかしそれは一面で、B“鉱質の光”でもあるのです。

 “柔かい光”で照らしだされた街路樹や夜の街路、建物は、輪郭があいまいで、しかも宝石のような輝きを散りばめている、多分に夢幻的な風景なのです。同時に、“鉱質の光”が照らしだす街路の世界は、鉱物質の材料で組み上げられた“銀河世界”の組成に近いものだとも言えます。

 賢治にとっては、樹木や植物の葉も、多くの場合に鉱物質のイメージを宿していました。

 「青いマグネシヤの花火」は、そうした「夜の町」の彩りに、さらに夢幻的な輝きを添えています。





 地上の「夜の町」の描写をさらに見ますと:



「ジョバンニは、せはしくいろいろのことを考へながら、さまざまの灯や木の枝で、きれいに飾られた街を通って行きました。時計屋の店には明るくネオン燈がついて、一秒ごとに石でこさえたふくらふの赤い眼が、くるっくるっとうごいたり、眩ゆいプラチナや黄金の鎖だの、いろいろな宝石のはいった指環だのが海のやうな色をした厚い硝子の盤に載ってゆっくり循ったり、また向ふ側から、銅の人馬がゆっくりこっちへまはって来たりするのでした。そのまん中に円い黒い星座早見が青いアスパラガスの葉で飾ってありました。」

『銀河鉄道の夜』〔第3次稿〕より。



 「さまざまの灯や木の枝で、きれいに飾られた街」という地上の町の特徴は、ここでも述べられています。「時計屋」の店先に展示されている「石でこさえたふくらふの赤い眼」や、「プラチナや黄金の鎖」や宝石を載せてゆっくりと回転している「海のやうな色をした厚い硝子の盤」は、日周運動を行なう星空のイメージに対応しています。それは、単なる展示であることを越えて、地上世界から見える天空のイメージ、あるいは“地上”世界そのものの本質を描いているとは言えないでしょうか。

 また、その“天空”の中心は「青いアスパラガスの葉で飾」られており、ここにも植物の葉―――鉱物質の《統合的組成》を表すもの―――が登場しています。



 たしかに、一方は「ケンタウル祭」という特別な機会のために町にほどこされた“装飾”や“展示”であり、他方は“銀河世界”そのものの持つ《組成》であり特質であるかのようにも見えます。

 しかし、作者が各々の世界をそのように設定しているのは、この童話の筋の都合のためにそうしているにすぎない――とも言えると思います。地上世界の「町」対“銀河世界”――というこの童話の大枠のために、そのような設定の違いが設けられているのであって、一方は“装飾された街”として、他方は自存する“銀河世界”として呈示された双方の“世界”は、結果として同質のものになるのではないか。描写されている“世界”の相違は“紙一重”だと言ってもよいように思われるのです。

 中村三春氏は、たとえ設定やレトリックの文型は厳密に同じではないとしても、双方の描写は、その「発想」において区別できないと指摘しておられます。













 ジョバンニが歩いてゆく町角の風景について、中村氏は次のように述べています:



「直喩的あるいは否定的‐統合的組成の文型は
〔ギトン注―――「午後の授業」の〕先生だけでなくジョバンニにも、またジョバンニに焦点化する語り手にも属し〔ジョバンニだけでなく作者自身が地の文で、“世界は‥‥ではなく〜から成っている”という言説を駆使して描写している―――ギトン注〕、さらに〈現〉と〈夢〉との区別にも関わりなく、このテクストの言説性の基調として理解できるだろう。厳密に同じ文型でなくとも、同工の発想(inventio)による叙述はテクストの随所を覆っている。

 例えばケンタウル祭のこの日、町は通常の町ではなく、『いちゐの葉の玉』や『ひのきの枝にあかり』などの『仕度』によって『すっかりきれいに飾られた街』へと変貌している。その町には『石でこさへたふくろふ』や『いろいろな宝石が海のやうな色をした厚い硝子の盤に載って』展示されている、これらの〈現〉の描写と、〈夢〉領域における次のような描写とは、その発想において区別を設けることができない。


  するとどこかで、ふしぎな声が、銀河ステーション、銀河ステー〔ション〕と云ふ声がしたと思ふといきなり眼の前が、ぱっと明るくなって、まるで億万の蛍烏賊の火を一ぺんに化石させて、そら中に沈めたといふ工合、またダイアモンド会社で、ねだんがやすくならないために、わざと穫れないふりをして、かくして置いた金剛石を、誰かがいきなりひっくりかへして、ばら撒いたといふ風に、眼の前がさあっと明るくなって、ジョバンニは、思はず何べんも眼を擦ってしまひました。(傍線引用者)


 この文の主要部は直喩である。
〔…〕ここで所喩〔喩えられるもの。「〜のよう」であるもの―――ギトン注〕は『眼の前』の空間、属性は『明るさ』であるが、能喩〔喩えるもの。「〜のよう」の「〜」―――ギトン注〕は単語や語句ではなく2つの文(傍線部)であり、所喩以上にその存在を顕示する。〔…〕この直喩は『河原の礫は、みんなすきとほって、たしかに水晶や黄玉や、またくしゃくしゃの皺曲をあらはしたのや、また稜から霧のやうな青白い光を出す鋼玉やらでした』『あやしいその銀河の水は、水素よりももっとすきとほってゐたのです』などのような銀河の描写とも通底する。

 
〔…〕空間の成分がまるで『蛍烏賊の火』の『化石』や『金剛石』のようであり、銀河の材質を『水晶』『黄玉』『鋼玉』と見なすレトリックは、通常の物理学を否定し、散乱する鉱物的材料の《統合》として世界の組成を呈示する、否定的‐統合的組成論の表現なのである。」
中村三春『修辞的モダニズム』,pp.75-77.



 ↑この“銀河世界”への旅立ちの場面に書かれた「蛍烏賊の火」の「化石」とダイヤモンドの比喩は、比喩と言うにはあまりにも特異なものです。

 「〇〇は〜のように……だ」という基本文型に定式化される《直喩》は、《所喩》(〇〇)を、ある《属性》(……)において《能喩》(〜)と似ていると説明するレトリックです。したがって、じっさいに眼の前にあるのは《所喩》(〇〇)ですから、《所喩》(〇〇)は《能喩》(〜)よりも実在感のあるものとして示されるのがふつうです。《能喩》(〜)は、あくまでも“たとえ”として持ち出されているにすぎないのですから、それが、説明されるもの、眼の前に現実にあるもの、《所喩》(〇〇)よりも実在感を持ってしまったら、比喩としてはぶちこわしでしょう。

 そこで、テクストの字面においても、《能喩》は、ごく軽く一語か一文節で書かれるのがふつうです。

 ところが、上に引用した宮沢賢治の《直喩》では、《能喩》は、「億万の蛍烏賊の火を一ぺんに化石させて、そら中に沈めた」「ダイアモンド会社で、ねだんがやすくならないために、わざと穫れないふりをして、かくして置いた金剛石を、誰かがいきなりひっくりかへして、ばら撒いた」という2つの文なのです。しかも、2つ目の文は、3つの単文を含む関係副文を従えた複合文です。これに対して《所喩》のほうは、「眼の前」というほとんど一語なのです。

 こんな“頭でっかち”な比喩を書いた作家が、ほかにいるでしょうか?‥

 この“比喩”では、喩えとして持ち出されたはずの《能喩》のほうが、圧倒的な迫力と実在感を持って、でんと居すわってしまっているのです。ギトンはいままで、この箇所を読むときにはいつも戸惑いを感じました。文型に忠実に“比喩”として読もうとすれば、「億万の蛍烏賊‥‥」「ダイアモンド会社で‥‥」に実在感を感じてはならないのに、これらのイメージのマスはあまりにも巨きく、消し去ることのできない実在感をもって脳裏に侵入して来るのです。

 宮沢賢治は、いったいどうして、こんなおかしな書き方をしたのでしょうか?‥《能喩》のイメージがふくらみ過ぎて、とても一語にはおさまらなくなってしまったのだ、という説明では不十分に思われます。2つ目の文など、もっと短くしようとすればできると思われるからです。賢治は、むしろあえて“比喩”の常道に反して、《能喩》の実在感をこれ以上はないほど重々しく高めようとして、こんなに長々と書いたのだ――と見るほかはないでしょう。

 つまり、この“たとえ”(能喩)―――ホタルイカの「火」の化石化や、ダイヤモンド会社の一騒動―――は、レトリック文型の上では“たとえ”だけれども、実質的には、つまり「発想」においては、「石でこさえたふくらふ」のくるくる回る眼玉や、プリオシン海岸の小石の「水晶や黄玉」と同じように、読者の目の前に“実在”すべき対象なのです。

 より一般的に、宮沢賢治の作品一般について言っても、彼の“比喩”を単なる“たとえ”と見るべきではない、むしろ賢治は本気で、そういうものが実在する、見えると思っているのだ――ということが、これまでにも多くの賢治研究者から指摘されています。

 賢治が上の比喩表現によって「通常の物理学を否定し」ていると、中村氏が指摘するのは、そういう意味だと思います。それが、

 「散乱する鉱物的材料の《統合》として世界の組成を呈示する、否定的‐統合的組成論の表現なのである。」






 









 ところで、『銀河鉄道の夜』の構想と関係が深いと思われる口語詩〔北いっぱいの星ぞらに〕の逐次草稿のなかには、↓つぎのようなものがあります:



「北いっぱいの星ぞらに
 ぎざぎざ黒い嶺線が
 手にとるやうに泛
〔う〕いてゐて
 幾すじ白いパラフヰンを
 つぎからつぎと噴いてゐる

   ……そこにもくもく月光を吸ひ
     巖いっぱいに吸ひついた
     蒼くくすんだ海綿体……

     
〔…〕

 じつに今夜のそらのあかるさ
 南銀河のへりのダイアモンドのトラストが
 獲れないふりしてかくしておいた宝石を
 資本制度も終りになって
 みんないちどに天の水そこにぶちまけたとでもいふふうだ」

『春と修羅・第2集』#179,1924.8.17〔北いっぱいの星ぞらに〕〔下書稿(五)手入れ@〕より。

 

 「じつに今夜のそらのあかるさ」以下の5行は、『銀河鉄道の夜』の“ダイアモンド会社”の《能喩》にあたる部分ですが、「資本制度も終りになって」という・宮沢賢治には珍しく唯物史観的な見方が付け加えられています。ともかく、この《能喩》のモチーフの、ダイヤモンドの倉庫がぶちまけられるというのは、単に光るものが散乱するようすを述べているにはとどまらないことになります。この比喩の想像力の射程は、大量のダイヤモンドを集積する“買い占め”という経済行為や社会のしくみ、その結末としての社会的動乱なり変革にまで及んでいると言えます。

 そう言えば、『銀河鉄道の夜』のほうのテクスト:



「ダイアモンド会社で、ねだんがやすくならないために、わざと穫れないふりをして、かくして置いた金剛石を、誰かがいきなりひっくりかへして、ばら撒いた」



 は、「誰かがいきなりひっくりかへして、ばら撒いた」と書いて、それが「誰か」の行為であることを強調しています。“米騒動”や“打ちこわし”のような社会的騒擾が、作者の念頭にあるのかもしれません。そう考えてはじめて、「わざと穫れないふりをして、かくして置いた」「獲れないふりしてかくしておいた」といった、中立的でも抒情的でもない、作者の風刺的な言い方が生きてくると思います。






【2.4】隠された“異次元ループ”か?



 前節では、“銀河世界”の《組成》と同じ「発想」の形象が、地上世界では、街路を「まるで水のやうに」流れる空気や、飾りつけ、ショーウィンドウの展示といった部分に現れているがゆえに、地上世界の「町」と“銀河世界”は、レトリックから見ると、ひとつにつながっているという中村三春氏の指摘を紹介しました。

 そこで、今度はその議論を逆にしてみたいと思います。“銀河世界”では、その世界自体に内在し偏在している《組成》が、地上の「町」では、なぜ、一時的なうわべの“飾りつけ”や空気の流れになって現れるのだろうか?

 答えとして考えられるのは、地上の「町」で、それらの“飾りつけ”がほどこされている《地
(じ)》の部分、つまり、ふだんからある「町」そのものは、意識的に“つくられたもの”ではないから、真実存在するものとは認めがたいのだ、ということになります。(これは、「現実世界は虚妄だ」という主張とは異なります。うわべの飾りつけではなく、無意識の《地》こそが真実存在なのかもしれないが、たとえそうだとしても、ふだん私たちには、それは見えないのです。)

 ここでフッサール現象学に応援を求めますと、私たちがふだん生きている自分の“世界”に対する実在感は、私たちの意識のいわば前提であって、私たちは、その前提を疑うことはできないしくみになっています。意識の前提である“世界”そのものの《組成》に分け入ってゆくことは、たいへん困難です。『銀河鉄道の夜』の地上の「町」は、そうした、反省のメスを刺し入れることが難しい日常的意識の中に没しているのです。

 もっとも、地上の「町」の章をよく見ると、“飾りつけ”でない《地》の部分にも、“銀河世界”と通底する形象が、まったく描かれていないわけではありません。

 たとえば、ジョバンニが、同級生たちに「らっこの上着が来るよ」と嘲罵されて逃げて行ったあと、橋の上から眺める「小さな川」の風景↓がそのひとつです。
(このシーンは、すでに入沢・天沢両氏によって注目されています。『討議「銀河鉄道の夜」とは何か』,p.26.)






 




「けれどもジョバンニは、まっすぐに坂をのぼって、あの檜の中のおっかさんの家へは帰らないで、ちゃうどその北の方の、町はづれへ走って行ったのです。そこには、河原のぼうっと白く見える、小さな川があって、細い鉄の欄干のついた橋がかかってゐました。

 (ぼくはどこへもあそびに行くとこがない。ぼくはみんなから、まるで狐のやうに見えるんだ。)

 ジョバンニは橋の上でとまって、ちょっとの間、せわしい息できれぎれに口笛を吹きながら泣き出したいのをごまかして立ってゐましたが、俄かにまたちからいっぱい走りだしました。」

『銀河鉄道の夜』〔第3次稿〕より。



 この「河原のぼうっと白く見える、小さな川」が、なぜ“銀河世界”に通底するのかと言うと、この同じイメージが、このすぐあとで、「天気輪の丘」から眺める天の川の「白いそらの帯」になって現れるからです:



「そのまっ黒な、松や楢の林を越えると、俄かにがらんと空がひらけて、天の川がしらしらと南から北へ亘ってゐるのが見え
〔…〕

 『あゝあの白いそらの帯が牛乳の川だ
〔…〕
『銀河鉄道の夜』〔第3次稿〕より。






 そして、最終的には、「空の野原」の上に立って眺める銀河の光景となって現出するのです:



「眼の前がさあっと明るくなって、ジョバンニは、思はず何べんも眼を擦ってしまひました。実にその光は、広い一本の帯になって、ところどころ枝を出したり、二つに岐れたりしながら、空の野原を北から南へ、しらしらと流れるのでした。」

『銀河鉄道の夜』〔第3次稿〕より。



 この「小さな川」→「白いそらの帯」のイメージ連鎖は、変化の段階を追ってゆくことができるので、わかりやすいのですが、やはり地上世界でジョバンニの目に映る形象と、“銀河世界”で彼の前に現れる形象との間には、程度の相違はあるのです。“銀河世界”の形象のほうが、より“夢幻的”とも言えるかもしれませんが、むしろよりくっきりした輪郭とスケールとをもって明確に顕現していると言うべきでしょう。中村氏が指摘されるように、同じ《統合的組成》のクラスにくくることはできるのですが、そこには段階的な相違があり、〈現〉の領域と“銀河”の〈夢〉領域とは、全く平坦に連続しているわけではないのだと思います。






 ところで、ジョバンニとカムパネルラを乗せた“銀河鉄道”の列車は、「蝎の火」の先で、「ケンタウルの村」を通過します。



〔…〕そしてほんたうにそのまっ赤なうつくしいさそりの火は音なくあかるくあかるく燃えたのです。

 その火がだんだんうしろの方になるにつれてみんなは何とも云へずにぎやかなさまざまの楽の音や草花の匂のやうなもの口笛や人々のざわざわ云ふ声やらを聞きました。それはもうぢきちかくに町か何かゞあってそこにお祭でもあるといふやうな気がするのでした。

 『ケンタウル露をふらせ。』いきなりいままで睡ってゐたジョバンニのとなりの男の子が向うの窓を見ながら叫んでゐました。

 あゝそこにはクリスマストリイのやうにまっ青な唐檜かもみの木がたってその中にはたくさんのたくさんの豆電燈がまるで千の蛍でも集ったやうについていました。

 『あゝ、さうだ、今夜ケンタウル祭だねえ。』『あゝ、こゝはケンタウルの村だよ。』カムパネルラがすぐ云ひました。〔以下原稿一枚?なし〕」

『銀河鉄道の夜』〔第3次稿〕より。



 たいへん残念なことに、このあとに草稿の欠落があります。ジョバンニの“旅立ち”前の5枚の“欠落部分”は、〔第3次稿〕から〔第4次稿〕へ移る時に作者が意識して削った部分で、〔第4次稿〕では、その両側がうまくつながるように手を入れています。ところが、ここの欠落にはそのような手入れはなく、〔第4次稿〕でも欠落が欠落のまま放置されています。ここの欠落は、賢治の死後に原稿が紛失してしまったのかもしれません。

 

 「もうぢきちかくに町か何かゞあってそこにお祭でもあるといふやうな気がするのでした。」などの書き方を見ると、ほんとうに「ケンタウル」の町があるのかどうか、はっきりしないようにも思えます。しかし、カムパネルラが「あゝ、こゝはケンタウルの村だよ。」と言っていますし、列車は「さそり座」と、このあと到着する「サウザンクロス」のあいだにあって、じっさいの星座配置でも「ケンタウルス座」に近い位置ですから、紛失した草稿には、「ケンタウル」の町か村かが、もっと詳しく書いてあるのかもしれません。





南天の星座  (5月上旬22時頃 オーストラリア・メルボルン近郊)







 ここで注目したいのは、「ケンタウルの村」の近づいて来るようすが、地上のジョバンニの「町」のようすを思わせることです。



「みんなは何とも云へずにぎやかなさまざまの楽の音や草花の匂のやうなもの口笛や人々のざわざわ云ふ声やらを聞きました。」

「あゝそこにはクリスマストリイのやうにまっ青な唐檜かもみの木がたってその中にはたくさんのたくさんの豆電燈がまるで千の蛍でも集ったやうについていました。」


 と書かれています。「まっ青な唐檜かもみの木」の中に「たくさんのたくさんの豆電燈」がついているようすは、地上の「町」での「電気会社の前の六本のプラタヌスの木」の光景とそっくりです。

 「さまざまの楽の音」や「口笛」、「人々のざわざわ云ふ声」も、地上の「町」の場面で書かれていたケンタウル祭のようすを思わせます。
(もっとも、ちょっと奇妙なのは、地上のケンタウル祭の「町」に登場するのは子どもたちばかりで、そこには大人の雑踏も無ければ、「楽の音」も聞こえず、家族連れもまったく見えないことです。。。)

 (4)で見たように、いま地球や太陽は、ジョバンニたちの列車からは遠く離れた「橙いろの三角標のあたり」にあります。列車は天の川銀河の中心部にいて、地球と太陽は銀河のはずれにあるのです。ところがその列車の行く手に、ジョバンニたちがさっきまでいた地球上の町を思わせる「村」が現れる……なんだか奇妙な感じがしないでもありません。

 私たちの現代のSF感覚に位置づけるならば、ここには、地球上の町へとつながる“異次元ループ”があると考えなければならないでしょう。

 100年前の作者が、そこをどうイメージしていたのかはよくわからないのですが、賢治が、ここの“地上の町とのつながり”に重要な意味をとらえていたことは、3つの「あゝ」が重なっていることでもわかります。ケンタウル祭が行われている地上の「町」を思い出して、ジョバンニもカムパネルラも「あゝ」と言い、作者の地の文までもが「あゝ」と言っていますw

 ここは、地上と“銀河世界”という2つの〈行きちがった〉現実の、奇妙な対応関係が現れた露頭なのです。

 そのことに、何か関係していると思われるのが、この直前の「さそりの火」の場面で「女の子」が語る“井戸に溺れたサソリ”の伝説です。この“自己犠牲を望むサソリ”の挿話は、カムパネルラが通り越して来た水死の体験と、なにか関係があるのでしょうか?

 もちろん、まっすぐにはつながらないのです。カムパネルラの死は、自ら意図した自己犠牲(グスコーブドリのような)ではなく、あくまでも遭難だからです。むしろ、“溺死”という一点で、カムパネルラとサソリは繋がっていると言えます。

 しかし、カムパネルラは、「さうだ、今夜ケンタウル祭だねえ。」と言うジョバンニに対して、「こゝはケン タウルの村だよ。」と「すぐ云」っており、地上での体験に触れられるのを避けようとしているようにもとれます。

 疑問は深まるばかりなのですが、このあとの原稿が欠落しているために、これ以上の探求はなかなか難しいかもしれません。。。



 ところで、銀河の「ケンタウルの村」と地上のケンタウル祭の町との相違を、さきほど少し考えてみましたが、それとは逆に、地上の町にはあって、“銀河世界”に無いものは、何でしょうか?

 ギトンは、それは「草花の匂」だと思います。“銀河世界”の車窓には、さまざまな種類の草や美しい花々がつぎつぎに現れ、風にゆらいでいるのですが、そこには“草いきれ”も、花の香りも無いように思われます。「草花の匂」が字面に書かれていないだけでなく、風景全体として、それは無いように感じられるのです。

 この点も、もっと探究してゆけば、賢治の“銀河世界”の特質を解明する手がかりになるかもしれません。






ばいみ〜 ミ



 
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カテゴリ: 宮沢賢治

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