01/11の日記
23:06
【宮沢賢治】『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(5)
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ジョバンニとカムパネルラ 花巻市NAHANプラザ
こんばんは (º.-)☆ノ
『銀河鉄道の夜』草稿の失われた“欠落部分”の内容を推理してみようという・この企画も、はや5回目の連載になりました。
でもまだまだ続きそうです。“欠落部分”にはブルカニロ博士が登場したにちがいない。しかし博士の“セミナー”はまだ続きそうなのです。そもそも、ブルカニロの人物像が謎めいていて奥が深そうに見えます。そして、推理の手がかりは、作者の残した草稿に充満しています……
興味をもたれた方は、シリーズの最初から読んでいただけたらと思います。そのほうがよく分かります:
⇒:『銀河鉄道の夜』の成立過程
⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(1)
⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(2)
⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(3)
⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(4)
【1.10】 ブルカニロ博士のエネルギー宇宙
“欠落部分”に登場したブルカニロ博士が、ジョバンニの前で語った“宇宙の話”の推理。【1.8】のつづきです。
「 七、銀河ステーション
(さっきもちゃうど、あんなになった。)
ジョバンニが、かう呟くか呟かないうちに、愕いたことは、いままでぼんやり蕈のかたちをしてゐた、その青じろいひかりが、にはかにはっきりした三角標の形になって、しばらく蛍のやうに、ぺかぺか消えたりともったりしてゐましたが、たうたうりんとうごかないやうになって、濃い鋼青のそらの野原にたちました。いま新らしく灼いたばかりの青い鋼の板のやうな、そらの野原に、まっすぐにすきっと立ったのです。
(いくらなんでも、あんまりひどい。ひかりがあんなチョコレートででも組みあげたやうな三角標になるなんて。)
ジョバンニは、思わず誰へともなしにさう叫びました。」
↑“欠落部分”の直後、“銀河世界”への旅立ちの場面ですが、「琴の星」の「青じろいひかり」の変化を見てジョバンニがつぶやく「いくらなんでも、あんまりひどい。」以下に、ここでは集中してみたいと思います。
「いくらなんでも、あんまりひどい。」は、怪異を眼前にした人が驚いて発することばにしては、なんだか変な言い方ではないでしょうか?驚いたり怪しんだりする以前に、期待はずれというか、こんなはずではなかったという不満を表明しているように聞こえます。
ジョバンニの感じ方は、この物語の設定について何を暗示しているのでしょうか?……ジョバンニの“銀河世界”への飛翔について、誰かがそれを仕組んでいる、あるいは、誰かの誘導でここに来ているという感じがしないでしょうか?
ギトンの意見を言いますと、「琴の星」の異変を見つめることから始まった“銀河への旅立ち”に、ブルカニロ博士が何らかの係わりをもっていることが、ここには暗示されていると思うのです。それが、じっさいにどんな関わりなのかも含めて、“欠落部分”には書かれていたにちがいない‥
ブルカニロ博士は、その科学的な、あるいは心霊学的な力で、ジョバンニを“異空間”へ飛躍させている張本人―――つまりジョバンニの“銀河の旅”そのものが、博士の壮大な「実験」なのかもしれませんし、……あるいはそれほどではなくとも、ジョバンニに何らかの知恵を与えて、“銀河への飛躍”を助けているのかもしれません。いずれにせよ、博士の役割は、ただたんに“旅行中”のジョバンニとテレパシーで交信するだけではないことになります。
そういえば、(3)で見たように、ジョバンニの“旅立ち”の際、「琴の星」の異変から「三角標」の現出に至る一連の変化には、ぼんやりした「青白いひかり」が点滅しながら、次第にはっきりした形を顕してゆく過程が含まれていました。あたかも、何かの装置にエネルギーを蓄積し、蓄積が完了するとともにそれを放出して、大量のダイヤモンドをばらまいたような圧倒的な光の発現とともに、“異空間”への飛躍を一気に行なっているようにも見えます。ジョバンニの“旅立ち”は、自然に起きた現象というよりも、人為的な機械装置による「実験」操作であったように感じられるのです。
そこで、「いくらなんでも、あんまりひどい。」の後を見ますと、ジョバンニは、
「ひかりがあんなチョコレートででも組みあげたやうな三角標になるなんて」
と叫んでいます。それに対して、ブルカニロ博士がテレパシーで送りこんで来る「セロのやうな声」が答えます:
「するとちゃうど、それに返事をするやうに、どこか遠く遠くのもやの中から、セロのやうなごうごうした声がきこえて来ました。
(ひかりといふものは、ひとつのエネルギーだよ。お菓子や三角標も、みんないろいろに組みあげられたエネルギーが、またいろいろに組みあげられてできてゐる。だから規則さへさうならば、ひかりがお菓子になることもあるのだ。たゞおまへは、いままでそんな規則のとこに居なかっただけだ。ここらはまるで約束がちがふからな。)
ジョバンニは、わかったやうな、わからないやうな、おかしな気がして、だまってそこらを見てゐました。」
つまり、このジョバンニとブルカニロ博士のテレパシー会話に即して言えば、
ひかり(エネルギーの一形態)→ チョコレート → 「三角標」に組みあがる
という変化が起きていることになります。そして、チョコレートのような菓子にしろ「三角標」にしろ、
「いろいろに組みあげられたエネルギーが、またいろいろに組みあげられてできてゐる」
と博士は説明しているのです。エネルギーが「いろいろに組みあげられ」たものが、「またいろいろに組みあげられ」るという二段構えの構造に注目する必要があります。
ここで博士が説明しているのは、“エネルギー宇宙観”とでも呼ぶべきものです。エネルギーが「組みあげられ」て素粒子や原子が造られ、原子が「組みあげられ」て、さまざまな物質が造られ、宇宙を構成するという、現在の私たちには馴染み深い物理学的宇宙観が語られています。
しかし、宮沢賢治の時代には、19世紀以来のエネルギー論、原子論という2つの物質観の流れが、アインシュタインの相対性理論によってひとつに結びつけられ、20世紀の新しい物質観を成立させたばかりだったと言えます。エネルギー論(エネルギー還元主義)は、マッハ、オストワルドらが提唱したエネルギー一元論の物質観で、いっさいの物理化学現象はエネルギーによって説明できるとし、原子というものは仮説にすぎず実際には存在しないと断定しました。
これに対して、クラウジウスやボルツマンは、エネルギーを分子の運動によって統計力学的に説明し、原子論を擁護しましたが、19世紀後半にはエネルギー一元論のほうが圧倒的な支持を集めていました。ボルツマンは、1904年に自殺しています。マッハらとの論争に疲れ、神経を病んだためと言われています。(鈴木貞美『宮沢賢治 氾濫する生命』,2015,左右社,pp.271-272,289-290.)
1905年にアインシュタインが、ブラウン運動を理論的に説明し、浮遊する微粒子に媒質の分子が衝突するために起こることを明らかにし、原子論に強固な根拠を与えました。そして、
E=mc²
という式によって、エネルギーと質量(物質,原子)は相互変換可能であることを予想したのです。
そういうわけで、宮沢賢治がブラウン運動に強い関心を見せているのは、アインシュタインの原子論と物質・エネルギー統一論への共鳴を示すものだったと言えます。【註】
【註】宮沢賢治の時代に、原子論と融合したエネルギー一元論が支持を広げたのは、アインシュタインの相対性理論よりも、陰極線の発見などに基づいて唱えられた電気的物質観によるところが大きい。賢治が熟読した『科学大系』は、原子は電子から構成されていると解説する。電子は、電磁波や電気エネルギーと一般には同一視されたので、原子論を認めた形で、宇宙の物質すべてとそこに働く力を、エネルギーに還元して理解できると思われた。賢治自身の宇宙観も、このような電子的物質観に基づいていたとされる:『定本・宮沢賢治語彙辞典』「電子」;鈴木貞美『宮沢賢治 氾濫する生命』,pp.289-291. ただし、『銀河鉄道の夜』には電子は出てこないので、アインシュタインと電子的宇宙観との相違は意識しなくてもよいと思います。
「水はあんまりまっ白に湛え
小さな黒い漁船さへ動いてゐる。
(あんまり視野が明る過ぎる
その中の一つのブラウン氏運動だ。)」
『春と修羅・第1集・補遺』「津軽海峡」
↑ここでは、漁船の動きをブラウン運動に喩えていますが、そのほか、ひばり(「小岩井農場」)やホタル(『第2集』〔温く含んだ南の風が〕)の群れの動きを、ブラウン運動として描いています。
ところで、ブルカニロ博士の説明には、こんにちの私たちの物質観・宇宙観とは異質な部分もあります。
「だから規則さへさうならば、ひかりがお菓子になることもあるのだ。たゞおまへは、いままでそんな規則のとこに居なかっただけだ。ここらはまるで約束がちがふからな。」
↑これは物理学の理論ではなく、賢治の独創でしょう。エネルギーが「いろいろに組みあげられ」、それがさらに「いろいろに組みあげられ」て物質を構成するしかたは、さまざまな“世界”ごとに異なると言うのです。エネルギーの「組みあげ」規則はさまざまにあって、さまざまに異なる“規則”の世界が存在する、というわけです。
そして、いまジョバンニが引き込まれた“銀河世界”―――「幻想第四次」の世界―――では、光のエネルギーが物質に変換してチョコレートになり、チョコレートの棒が「三角標」に組み上げられると言うのです。
このあと、ジョバンニが体験する“銀河鉄道”の列車では、乗り合わせた「鳥捕り」が、今捕ってきた獲物の鳥をちぎってジョバンニとカムパネルラに食べさせます。ところが、鳥の脚はチョコレートでできているように手で折れて、しかも「チョコレートよりも、もっとおいしい」のです。
「『こっちはすぐ喰べられます。どうです、少しおあがりなさい。』鳥捕りは、黄いろな雁の足を、軽くひっぱりました。するとそれは、チョコレートででもできてゐるやうに、すっときれいにはなれました。
『どうです。すこしたべてごらんなさい。』鳥捕りは、それを二つにちぎってわたしました。ジョバンニは、ちょっと喰べてみて、(なんだ、やっぱりこいつはお菓子だ。チョコレートよりも、もっとおいしいけれども、こんな雁が飛んでゐるもんか。この男は、どこかそこらの野原の菓子屋だ。けれどもぼくは、このひとをばかにしながら、この人のお菓子をたべてゐるのは、大へん気の毒だ。)とおもひながら、やっぱりぽくぽくそれをたべてゐました。」
“銀河世界”のそらを飛んでいる鳥じたいが、天の川の砂地に降りると溶けてしまうのです:
「ところが、つかまへられる鳥よりは、つかまへられないで無事に天の川の砂の上に降りるものの方が多かったのです。それは見てゐると、足が砂へつくや否や、まるで雪の融けるやうに、縮まって扁べったくなって、間もなく熔鉱炉から出た銅の汁のやうに、砂や砂利の上にひろがり、しばらくは鳥の形が、砂についてゐるのでしたが、それも二三度明るくなったり暗くなったりしてゐるうちに、もうすっかりまわりと同じいろになってしまふのでした。」
鳥が天の川の砂地に吸い込まれてゆく時に「二三度」点滅するようすは、“旅立ち”の際に「三角標」の「青白いひかり」が見せた挙動に似ています。“銀河世界”では“鳥”もエネルギーの一形態であり、この世界特有の“規則”にしたがって変換を遂げているようです。
この消滅の過程に対応して、“鳥”が発生するしくみも、驚くべきものです。“鳥”は、天の川の砂から発生して飛翔し、また砂の中に溶け込んで消滅するのです。ここでは、生物と無生物の境界が曖昧であるようです:
「『鶴、どうしてとるんですか。』
『鶴ですか、それとも鷺〔さぎ〕ですか。』
『鷺です。』ジョバンニは、どっちでもいいと思ひながら答へまし た。
『そいつはな、雑作ない。さぎといふものは、みんな天の川の砂が凝って、ぼおっとできるもんですからね、そして始終川へ帰りますからね、川原で待ってゐて、鷺がみんな、脚をかういふ風にして下りてくるとこを、そいつが地べたへつくかつかないうちに、ぴたっと押へちまふんです。するともう鷺は、かたまって安心して死んぢまひます。あとはもう、わかり切ってまさあ。押し葉にするだけです。』」
また、「鳥捕り」がジョバンニたちに語るところでは、川から聞こえる「ころんころんと水の湧くやうな音」が、鶴の鳴き声だと言うのです:
「『鶴はたくさんゐますか。』
『居ますとも、さっきから鳴いてまさあ。聞かなかったのですか。』
『いゝえ。』
『いまでも聞えるぢゃありませんか。そら、耳をすまして聴いてごらんなさい。』
二人は眼を挙げ、耳をすましました。ごとごと鳴る汽車のひびきと、すすきの風との間から、ころんころんと水の湧くやうな音が聞えて来るのでした。」
このような『銀河鉄道の夜』の叙述をふまえて、ますむらひろしさんは、ジョバンニが食べた「雁の足」もまた「星のひかり」なのだとしています:
「だがブルカニロ博士なら、今の僕にこう通信してくるだろう。
『星ハ、決シテ変化シナイ。三角標ニ変化シタノハ、〈星〉ノ何カネ?』
『星の〈ひかり〉です。』
『イカニモ、ソウダヨ。じょばんに君ガ、琴ノひかりガ三角標ニ変化シタ時ニ叫ンダ声、私ノ手帳ニトッテアル。』
(いくらなんでも、あんまりひどい。〈ひかりがあんなチョコレートででも組みあげたやうな三角標になる〉なんて。)
『ソシテ私ハ何ント、答エタカネ?〔…〕』
〈ひかり〉というものは、ひとつのエネルギーだよ。〔…〕
『そうか、初期形銀河は、〈ひかり〉のエネルギー空間なんですね。』
『アア、鳥捕りニ貰ッテ、じょばんに君ガ食ベタ雁ノ足。ちょこれーとヨリモオイシイアノ足ハ、星ノひかりダヨ。〔…〕』」
ますむらひろし『イーハトーブ乱入記』,1998,ちくま新書,pp.170-171.
“銀河世界”に立ち並ぶ「三角標」も、天の川の“そら”を飛ぶ渡り鳥も、「星のひかり」つまりエネルギーが、形態変換したものなのです。
【1.11】 リンゴは異性愛のシンボル?
“鳥”と同じことは、“銀河鉄道”の車内で「天上の燈台守」が乗客たちにくばる苹果(りんご)についても言えます。
リンゴは、“鳥”とならんで、“銀河世界”の、地上世界とは異なるエネルギー変換の“規則”を示すアイテムなのです。
「『いかゞですか。かういふ苹果はおはじめてでせう。』向ふの席の燈台看守がいつか黄金と紅でうつくしくいろどられた大きな苹果を落さないやうに両手で膝の上にかゝえてゐました。
〔…〕
『どうもありがたう。どこでできるのですか。こんな立派な苹果は。』
青年はつくづく見ながら云ひました。
『この辺ではもちろん農業はいたしますけれども大ていひとりでにいゝものができるやうな約束になって居ります。農業だってそんなに骨は折れはしません。たいてい自分の望む種子さへ播けばひとりでにどんどんできます。米だってパシフヰック辺のやうに殻もないし十倍も大きくて匂もいゝのです。けれどもあなたがたのいらっしゃる方なら農業はもうありません。
苹果だってお菓子だってかすが少しもありませんからみんなそのひとそのひとによってちがったわづかのいゝかほりになって毛あなからちらけてしまふのです。』
〔…〕
『ねえさん。ごらん、りんごをもらったよ。おきてごらん。』姉はわらって眼をさましまぶしさうに両手を眼にあてゝそれから苹果を見ました。男の子はまるでパイを喰べるやうにもうそれを喰べてゐました、また折角剥いたそのきれいな皮も、くるくるコルク抜きのやうな形になって床へ落ちるまでの間にはすうっと、灰いろに光って蒸発してしまふのでした。」
“銀河世界”のリンゴは、むいた皮が「すうっと、灰いろに光って蒸発してしまふ」と言うのです。たべた果肉も、「かすが少しもありませんから‥‥わづかのいゝかほりになって毛あなからちらけてしまふ」。これは、リンゴだけではなく、菓子もみなそうで、おそらく“銀河世界”の食物はすべて、「かす」がないので排泄が起きない……ということのようです。
ここには、“エネルギー宇宙観”よりも仏教、とくに原始仏教哲学が反映しているようです。この関係で宮沢賢治に影響を与えた経典としては、世親(ヴァスヴァンドゥ)の『倶舎論』が有力視されています。
【参考】(『倶舎論』の世界観,須弥山)⇒:《ゆらぐ蜉蝣文字》7.1.58〜
リンゴを食べても「いゝかほり」だけで排泄が起きない―――というのは、『倶舎論』が述べる天上界の天人の生理、あるいは、生き物が死んでから次生に生まれ変わるまでのあいだ(中有 ちゅうう)の状態から、イメージを得ていると思われます。
「『倶舎論』によれば《中有》は生前の業が正しく個人的に次世に伝わるためにその橋渡しをする、一時的な(期間は最大で四十九日)存在である。仏教が本来その哲学の基盤におく無我説とは矛盾する考えであるが、〔…〕《中有》は生前の有情(生き物)のミニチュアのようなもので、『五蘊』とされるから身体感覚をもつことになるが、香のみを食すので《尋香》(健達縛、ガンダルバ)ともいう。賢治の挽歌群で、盛んに《香》や《よい匂い》が問題にされること、さらに『銀河鉄道の夜』でも《リンゴの匂い》が重要なファクターとなっていることは、中有説との関わりを暗示しているとも言えよう。」
大塚常樹『宮沢賢治 心象の宇宙論』,1993,朝文社,pp.276-277.
【参考】(原始仏教の死生観)⇒:【ユーラシア】ルバイヤートと宮沢賢治(6)
【参考】(『倶舎論』の死生観)⇒:【ユーラシア】ルバイヤートと宮沢賢治(7)
人々は「ハルレヤ」と叫ぶ。 ますむらひろし画『銀河鉄道の夜』より。
『銀河鉄道の夜』の構想と関係が深い↓つぎの詩では、天上界に住む天人の性欲と生理について書いています。
「じつに今夜のなんといふそらの明るさだらう
〔…〕
しかも三十三天は
やっぱりそこにたしかにあって
木もあれば風も吹いてゐる
天人たちの恋は
相見てえん然としてわらってやみ
食も多くは精緻であって
香気となって毛孔から発する
間違ひもなく
天使もあれば神もある
たゞその神が
あるとき最高唯一と見え
あるとき一つの段階とわかる
さういふことかもわからない〔…〕」
『春と修羅・第2集』#179,1924.8.17.〔北いっぱいの星ぞらに〕〔下書稿(三)手入れ〕より。
「『三十三天』については、同じく『倶舎論』「分別世品」に、『妙高〔「須弥山(しゅみせん)」に同じ―――ギトン注〕の頂は八万にして、三十三天居す』とある。〔…〕またこの『三十三天』の《性欲》は、『交はりて婬を生ずること』では人間と同じであるが、その際『風気』しか泄れない、とあり、これらの記述が『〔北いっぱいの星ぞらに〕』での、天人たちの恋の描写に影響を与えたと思われる。」
大塚常樹『宮沢賢治 心象の宇宙論』,1993,朝文社,pp.282-283.
「三十三天」は、27層ある天上世界の下から2番目で、世界の中心にそびえる「須弥山 しゅみせん」の頂上にあるとされます。中央に帝釈天の宮殿があり、そのまわりに32人の「天」(神々)の住みかがあります。
『倶舎論』によれば、「三十三天」の天人たちは、セックスはするけれども精液は出ないとされます。賢治の詩では、セックスもしない、ただ微笑み合うだけだとしていますがw。
『銀河鉄道の夜』のリンゴと関係するのは、「食も多くは精緻であって/香気となって毛孔から発する」という部分です。もっとも、ほかの賢治研究者によれば、『倶舎論』よりも『維摩経』「香積品第十」が関係しているとのこと。このへんの仏典との関わりは、もっと探ってゆく余地がありそうですね。
ところで、ここでひとつふしぎなことがあります。ジョバンニとカムパネルラの二人は、せっかくもらったリンゴを食べないで、ポケットに入れてしまうのです:
「〔…〕灰いろに光って蒸発してしまふのでした。
二人はりんごを大切にポケットにしまひました。」
作者は、みんなに配られたリンゴを、あれだけすてきに描いておきながら、二人とも、かじりもしなかったと言うのです。そして、ジョバンニもカムパネルラも、けっきょく最後までそのリンゴを食べないのです。その理由もヒントも、作者はいっさい与えてくれません。
「大切に‥‥しまひました。」とあることから見て、この世のものとも思えないリンゴを恐れているとか、拒否しているということではなさそうです。
なぜ二人は食べなかったのか?…あるいは、食べなかったことによって、二人はどんな僥倖または不幸を得たのか?―――さまざまな解釈ができそうですが、ともかく二人は、このあと乗客の大部分が下車して向かってゆく“天上”へは、行こうとしない(行くことができない)のです。なにか、関係があるのでしょうか?
二人が「どこまでもどこまでも」“銀河の旅”をつづけるためには、リンゴを食べてはならないのでしょうか?‥
ちなみに、上の詩の「たゞその神が」以下4行は、『銀河鉄道の夜』でタイタニック号遭難者の「青年」とジョバンニのあいだで交される「ほんたうの神さま」をめぐる議論との関係で興味深いと思います。
たとえば、キリスト教徒風の「青年」と姉弟が「たった一人の神さま」のいる天上へ向かうために、おおぜいの人々といっしょに列車を降りる際、人々は、
「ハルレヤハルレヤ」
と叫びます。「ハレルヤ」ではありません。ここで賢治は、キリスト教ではない架空の宗教を表そうとしたのではないでしょうか?
“銀河鉄道”は、「青年」たちの宗教や仏教だけでなく、さまざまな宗教の信者が乗り合わせる汎人類的な乗り物として描かれていると思います。乗客のなかには、どこの“天上”にも行こうとしない「鳥捕り」のような人もいるのです。
ばいみ〜 ミ彡
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