01/01の日記

14:39
【宮沢賢治】『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(1)

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もう次から次から、たくさんのきいろな底をもったりんどうの花のコップが、 
湧くように、雨のように、眼の前を通り、三角標の列は、けむるように燃える 
ように、いよいよ光って立ったのです。(『銀河鉄道の夜』6銀河ステーション)











 おめでたうございます (º.-)☆ノ




 
 前回は、『銀河鉄道の夜』が、作者による4次の改稿を経て現在の形に練り上げられてきた過程、また、作者の死後に草稿の並べ方や、作者の訂正、削除指示の解釈をめぐって数多くの誤解が加わったために、童話テクストの形が何度も大きく変遷するという迷走の経過を見てきました。(⇒:【宮沢賢治】『銀河鉄道の夜』の成立過程

 そのなかで、編集者や研究者、また私たち読者にとっても、重要な変化として印象づけられてきたのは、賢治の〔第3次稿〕から〔第4次稿〕への改稿にかかわる部分でした。

 〔第3次稿〕から〔第4次稿〕への主な変更は、



 ○「ブルカニロ博士」の登場する部分(姿、声ともに)の全面的削除。

 ○冒頭第1〜3章(「午后の授業」「活版所」「家」)と末尾(「牛乳屋」への再訪、カムパネルラの遭難と川の捜索)の新たな書下ろしと追加。



 この2点ですが、これら以外にも、細かい点の削除や書き換え、追加はたくさんあります。

 この改稿による童話内容の変化をおおざっぱに言えば―――それじたいが議論の対象ですが―――、@〔第3次稿〕まではジョバンニの独白が多く、主人公の少年の心理が中心だったのに対し、〔第4次稿〕では、ジョバンニの町での生活がリアルに描かれ、彼の行動的なすがたが前面に出ていること。A〔第3次稿〕は、“黒衣の男”の一種哲学的宗教的な“講義”が中心にあり、教訓的な側面が強く、ジョバンニは“指導者”によって導かれていたのに対し、〔第4次稿〕ではそれらが全面的に削除され、ジョバンニは、自分の意志で行動するいきいきとした少年主人公となったこと。B〔第4次稿〕では、それまではっきりとは書かれなかったカムパネルラの水難・水死が、リアルな事件として描かれたこと。C同時に、カムパネルラとジョバンニの関係も、ジョバンニの単なる願望としての友情から、以前は親しく遊んでいたリアルな友人関係へと変化したこと―――などが指摘されています。





 正確に校訂された〔第3次稿〕は、⦅青空文庫⦆ではまだ見ることができません。現在入手しやすい刊本は、つぎのもの:

● 筑摩書房『宮沢賢治コレクション 1 銀河鉄道の夜』2500円

 ネットで見るには、こちらの「第十巻」で⇒⦅宮沢賢治作品館⦆。ただし、こちらの作品館はスキャン入力らしく、ときどき誤字が残っていますが。。。(ちなみに、ギトンは、⦅青空文庫⦆以外は全部手入力ですよw)



 “銀河世界”を旅しているジョバンニの心に、ことあるごとに、どこからともなく聞こえてくる「セロのような声」は、ブルカニロ博士が、ジョバンニの“夢”の中にテレパシーで送りこんでいる声――という設定らしいのですが、これらも〔第4次稿〕では全面的に削除されています。

 そればかりでなく、“銀河の旅”でカムパネルラが消えたあと、ジョバンニの前に現れて、“歴史の歴史”やら、“ほんとうの考えとうその考えを分ける実験”についてお説教する怪しげな「黒い大きな帽子」の男も、これもブルカニロ博士自身がジョバンニの“夢”の中に出現したものですから、やはり削除されてしまう。



 ところで、このような大幅な削除と書き加えがなされる前の〔第3次稿〕ですが、この段階のテクストは、最初から最後まで全部が残っているのかというと…、残念ながら現存のテクストには欠落部分があります。

 ジョバンニが、「牛乳屋」へ牛乳をもらいに行って、すげなく断られ、坂を下りてきたところで、ザネリ、カムパネルラほかの生徒たちと行き遭って嘲られ、悲しみでいっぱいになって「天気輪の丘」に登って行く―――その丘の上の場面が、5枚分無くなっているのです。

 そこに草稿が5枚分あったことは、賢治自筆のノンブル
(草稿の紙の肩に書かれた数字)が、「10」から「16」に跳んでいるので判るわけです。11枚目から15枚目までは見つからないので、この5枚は、賢治が処分してしまったと推定できます。

 戦前の『全集』から 1965年までは――つまり〔第T形態〕――、 この欠落の場所に、正しくはあとの方に入れるべきだった“草稿5枚分”――“銀河の旅”から目覚めて、「牛乳屋」で牛乳をもらい、川辺で、カムパネルラが遭難したことを知る――を挿入していたわけです。欠落と、別にあった草稿とが、ちょうどどちらも5枚だったために、賢治の死後に親戚の人が、これはここに入れるようになっているのだ、と思ってしまったのですが、前回説明したように、それはたいへんな誤解だったわけです。



 そういうわけで、私たちは、『銀河鉄道の夜』〔第3次稿〕の全部を通して読むことは、残念ながらできない状態にあります。5枚の欠落部分に何が書いてあったかはたいへん重要なのですが、残念ながら私たちはそれを見ることができない。

 しかし、現存する前後の部分を詳しく検討することによって、それを推理することはできます。じっさいに、天沢退二郎、入沢康夫の両氏をはじめとして、〔第3次稿〕〔第4次稿〕の正確なテクストさえまだ確定していなかった時代からすでに、そうした推理は進められてきました。

 今回は、この“失われた5枚”の欠落部分に何が書いてあったのか―――という謎解きを中心に、考えてみたいと思います。














 まず最初に、問題の“欠落部分”の前後の部分を、〔第3次稿〕のテクスト(『新校本宮澤賢治全集』第10巻収録)で引用しておきたいと思います。

 「〔以下原稿5枚なし〕」と書いてあるところが、原稿のない“欠落部分”です。

 すこし長くなりますが、まずはざっと目を通していただきたいと思います。






「     天気輪の柱

 川のうしろは、ゆるい丘になって、その黒い平らな頂上は、北の大熊星の下に、ぼんやりふだんよりも低く連って見えました。

     
〔…〕

 そのまっ黒な、松や楢の林を越えると、俄かにがらんと空がひらけて、天の川がしらしらと南から北へ亘ってゐるのが見え、また頂の、天気輪の柱も見わけられたのでした。つりがねさうか野ぎくかの花が、そこらいちめんに、夢の中からでも薫りだしたといふやうに咲き、鳥が一疋、丘の上を鳴き続けながら通って行きました。

 ジョバンニは、頂の天気輪の柱の下に来て、どかどかするからだを、つめたい草に投げました。

 町の灯は、暗の中をまるで海の底のお宮のけしきのやうにともり、子供らの歌ふ声や口笛、きれぎれの叫び声もかすかに聞えて来るのでした。風が遠くで鳴り、丘の草もしづかにそよぎ、ジョバンニの汗でぬれたシャツもつめたく冷されました。ジョバンニはじっと天の川を見ながら考へました。

 (ぼくはもう、遠くへ行ってしまひたい。みんなからはなれて、どこまでもどこまでも行ってしまひたい。それでも、もしカムパネルラが、ぼくといっしょに来てくれたら、そして二人で、野原やさまざまな家をスケッチしながら、どこまでもどこまでも行くのなら、どんなにかいいだらう。カムパネルラは決してぼくを怒ってゐないのだ。そしてぼくは、どんなに友だちがほしいだらう。ぼくもう、カムパネルラが、ほんたうにぼくの友だちになって、決してうそをつかないなら、ぼくは命でもやってもいい。けれどもさう云はうと思っても、いまはぼくはそれを、カムパネルラに云へなくなってしまった。一緒に遊ぶひまだってないんだ。ぼくはもう、空の遠くの遠くの方へ、たった一人で飛んで行ってしまひたい。

 野原から汽車の音が聞えました。その小さな列車の窓は一列小さく赤く見え、その中にはたくさんの旅人が、苹果を剥いたり、わらったり、いろいろな風にしてゐると考へますと、ジョバンニは、もう何とも云へずかなしくなって、また眼をそらに挙げました。あの青い琴の星さへ蕈のやうに脚が長くなって、三つにも四つにもわかれ、ちらちら忙しく瞬いたのでした

 『あゝあの白いそらの帯が牛乳の川だ 〔以下原稿5枚なし〕






ら、やっぱりその青い星を見つづけてゐました

 ところがいくら見てゐても、そこは博士の云ったやうな、がらんとした冷いとこだとは思はれませんでした。それどころでなく、見れば見るほど、そこは小さな林や牧場やらある野原のやうに考へられて仕方なかったのです。そしてジョバンニはその琴の星が、また二つにも三つにもなって、ちらちら瞬き、脚が何べんも出たり引っ込んだりして、たうたう蕈のやうに長く延びるのを見ました



      銀河ステーション

 (さっきもちゃうど、あんなになった。)

 ジョバンニが、かう呟くか呟かないうちに、愕いたことは、いままでぼんやり蕈のかたちをしてゐた、その青じろいひかりが、にはかにはっきりした三角標の形になって、しばらく蛍のやうに、ぺかぺか消えたりともったりしてゐましたが、たうたうりんとうごかないやうになって、濃い鋼青のそらの野原にたちました。いま新らしく灼いたばかりの青い鋼の板のやうな、そらの野原に、まっすぐにすきっと立ったのです。

 (いくらなんでも、あんまりひどい。ひかりがあんなチョコレートででも組み上げたやうな三角標になるなんて。)

 ジョバンニは、思はず誰へともなしにさう叫びました。

 するとちゃうど、それに返事をするやうに、どこか遠くの遠くのもやの中からセロのやうなごうごうした声がきこえてきました。」

『銀河鉄道の夜』〔第3次稿〕より。






 ところどころ色を変えて強調した部分は、“欠落部分”の内容を推定する手がかりになる部分で、のちほど説明します。






 
 










 さて、つぎに、〔第3次稿〕のラストの部分を引用します。ジョバンニが“銀河の旅”から目覚め、ブルカニロ博士に激励されて、寝ていた「天気輪の丘」から駆け下りてゆく場面です。






「『さあ、切符をしっかり持っておいで。お前はもう夢の鉄道の中でなしに本統の世界の火やはげしい波の中を大股にまっすぐに歩いて行かなければいけない。天の川のなかでたった一つのほんたうのその切符を決しておまへはなくしてはいけない。』あのセロのやうな聲がしたと思ふとジョバンニは、あの天の川がもうまるで遠く遠くなって風が吹き自分はまっすぐに草の丘に立ってゐるのを見また遠くからあのブルカニロ博士の足おとのしづかに近づいて來るのをききました。

 『ありがたう。私は大へんいゝ實驗をした。私はこんなしづかな場所で遠くから私の考を人に傳へる實驗をしたいとさっき考へてゐた。お前の云った語はみんな私の手帖にとってある。さあ歸っておやすみ。お前は夢の中で決心したとほりまっすぐに進んで行くがいゝ。そしてこれから何でもいつでも私のとこへ相談においでなさい。』

 『僕きっとまっすぐに進みます。きっとほんたうの幸福を求めます。』ジョバンニは力強く云ひました。『あゝではさよなら。これはさっきの切符です。』博士は小さく折った緑いろの紙をジョバンニのポケットに入れました。そしてもうそのかたちは天気輪の柱の向ふに見えなくなってゐました。ジョバンニはまっすぐに走って丘をおりました。そしてポケツトが大へん重くカチカチ鳴るのに気がつきました。林の中でとまってそれをしらべて見ましたらあの緑いろのさっき夢の中でみたあやしい天の切符の中に大きな二枚の金貨が包んでありました。

 『博士ありがたう、おっかさん。すぐ乳をもって行きますよ。』

 ジョバンニは叫んでまた走りはじめました。何かいろいろのものが一ぺんにジョバンニの胸に集って何とも云へずかなしいやうな新らしいやうな氣がするのでした。

 琴の星がずうっと西の方へ移ってそしてまた蕈のやうに足をのばしてゐました。

『銀河鉄道の夜』〔第3次稿〕より。






 2つの部分の引用―――ジョバンニが“銀河世界”に旅立つ部分と、帰って来た部分―――を続けて読んでみて、どう感じられたでしょうか?

 じつは、この2つの部分には、たがいに矛盾することがらがいくつかあるのです。目立つ矛盾だけ挙げてみると、



(1) “旅立ち”のシーンでは、ジョバンニは、「どかどかするからだを、つめたい草に投げました。」とあって、そのままですから、ジョバンニの身体は、「天気輪の柱」の下で寝ていることになります。

 ところが、“帰還”した時には、同じ「天気輪の丘」の頂上の草の上に立っているのです。寝ているか、立っているか。たいしたことではないと思うかもしれませんが、寝ているあいだに、いつのまにか立ち上がって、起きたら直立していた……などということは、ふつうはありえないわけです。



(2) “帰還”のシーンには、「あのブルカニロ博士」ということばが出てきます。ところが、“銀河の旅”のどこを捜しても、「ブルカニロ博士」という名前の人は出て来ないのです。“旅立ち”シーンと、それ以前にもありません。いきなり「あの」と言われて戸惑うわけです。



 しかし、これらの矛盾点は、“欠落部分”の内容を推定する手がかりになります。私たちは“欠落部分”を読むことができないために、これらが矛盾になってしまうのではないか―――という推理が可能になるのです。

















「これまでの『銀河鉄道の夜』のすべての刊本
第T形態第U形態を指す―――ギトン注〕では、〔…〕ジョバンニの銀河旅行の夢の終りは、カムパネルラの消失、⦅青白い顔の痩せた大人⦆の出現と説教のあと、ジョバンニは自分が⦅草の丘に立ってゐるのを⦆見、また⦅あのブルカニロ博士⦆が近づいてきて話しかけ、ジョバンニが博士から切符と金貨をもらって、⦅おっかさん、すぐ乳をもって行きますよ⦆と叫んで走り出すという順序になっていて、最後に、⦅琴の星がずうっと西の方へ移ってそしてまた夢のやうに〔「夢」は「蕈(きのこ)」の誤り。入沢・天野両氏によって正される前は、草稿の読み誤りを、すべての刊本が引き継いでいた―――ギトン注〕足をのばしてゐました。⦆という、音楽のラストのような旋律の一行がつけ加えられている。〔…〕

 この覚醒の箇所と、さっきの入眠直前の箇所
〔「五 天氣輪の柱」章。〔第T形態〕では章の初めの部分。―――ギトン注〕とを対応させてみるとき、いくつかの不適合〔…〕がたちまち明らかになる。

 作者が《あのブルカニロ博士》が目ざめたジョバンニに近づいてくると書いた以上、そのブルカニロ博士なる人物はジョバンニの入眠以前に登場していたにちがいないのであり、目ざめたジョバンニが草の丘にまっずぐ《立って》いた以上、入眠以前のジョバンニもまた、立っていたにちがいないのである。この二つに適合する箇所があのノンブル11〜15の欠落箇所にあったことはおそらく自明であろう。さらにここで、「六、銀河ステーション」という小見出しのすぐあと、すなわちこの第6章の書き出しの部分の初稿が、《(さっきもちゃうど、あんなになった。)ジョバンニが、かう呟くか呟かないうちに、……》となっていたことは意味深長である。《あんなになった》とは、琴の星が蕈のように長くなったことをさすのは明らかで、この、琴の星が長くのびるというのは、さっき引用した最後の行からもわかるとおり、夢あるいは夢のはじまりの指標である。《(さっきも……あんなになった》というからには、銀河鉄道の旅の夢に入るこの入眠のすこし前にもやはり、夢のはじまりをジョバンニが体験したことを示唆している。

 かくして、私たちにとって推測可能な11〜15の欠落部分の内容は、

  1、ジョバンニ、丘に横たわったまま、琴の星が長くのびるのを見る(入眠)。

  1、その夢の中か、または一度目ざめてからか、ブルカニロ博士に会う。

  1、そのブルカニロ博士の導きで(一種の催眠実験であろう)、立ったまま空の星を見あげながら、入眠直前の状態にいたる。

 というような項目に整理されるのではあるまいか。」

『討議「銀河鉄道の夜」とは何か』,新装版,pp.80-81.



「天沢 ここ
〔第1,2,3次稿で、ジョバンニが銀河旅行の夢から覚めるところ―――ギトン注〕で『あのブルカニロ博士』という注目すべき箇処がでてくる。
 入沢 あのという言い方の問題ですね。
 天沢 夢から醒めたところででてくるからには、夢の前にもでてきているわけでしょう。

     
〔…〕

 天沢 夢から醒める時の前後関係から言って『セロのような声』と、『講義をした歴史学者』と、『ブルカニロ博士』とが、三位一体であるということがわかる。
 入沢 そこで『私はこんなしづかな場所で遠くから私の考を人に傳へる實驗をしたいとさっき考へてゐた』というさっきという言葉ですが、これは、前々から考えていたという意味にもとれるけれど。
 天沢 しかし、ジョバンニが夢を見る前に、つまり例の破棄された5枚分の中でブルカニロ博士に会っていて、しかも、博士は以前からこういう実験をしたいと思っていて、それがはからずもここで実現した、とすれば、このさっきという言葉も、そのままの意味でつながらないということはない。」

『討議「銀河鉄道の夜」とは何か』,新装版,pp.55-56.






 ところで、“欠落部分”の5枚という分量は、この童話の中ではかなり大きいのです。

 〔第1〜3次稿〕では童話の冒頭になる「4、ケンタウル祭の夜」章は、原稿7枚(第4次稿では8枚)です。ジョバンニが自宅からヒノキ並木の坂を下りてきてザネリに遭遇し、「時計屋」のショーウィンドウを眺め、「牛乳屋」へ牛乳をもらいに行って断られ、坂を下りた十字路でザネリ、カムパネルラほか6,7人の同級生に遭遇するまでが7枚です。“欠落部分”は、その3分の2より多いのです。

 したがって、“欠落部分”には相当にたくさんのことが書いてあると考えなければなりません。

 しかも、“欠落部分”の直前でも直後でも、ジョバンニは「天気輪の丘」の頂上にいます。丘の頂上の「天気輪の柱」の下にいると思われるのです。“欠落部分”のあいだに丘から下りて、また戻ってきたと考えられないこともありませんが、そう考えなければならない根拠もない以上、ジョバンニはずっと丘の上にいたと考えるほかはないでしょう。

 丘の上で、原稿5枚をついやすほどのなにかがあったことになります。






 
  










 そこで、上で挙げた2つの矛盾点のうち、まず第2の点から検討しますと、



(2) “帰還後”のシーンには、「あのブルカニロ博士」ということばが出てくるのに、“銀河の旅”のどこを捜しても、「ブルカニロ博士」という名前の人は出て来ない。“旅立ち”シーンや、それ以前にも無い。



 したがって、“欠落部分”にはブルカニロ博士が登場すると考えなければならない。

 問題は、登場のしかたです。じっさいに、丘の上で、ジョバンニの前に現れるのか?‥それとも、ジョバンニの夢の中に現れるのか?

 天沢氏は、はじめに引用したレポートでは、両方の可能性があるとしていましたけれども、入沢氏との対談では、夢の中ではなく、じっさいにジョバンニの前にやってきて面談する、というほうに傾いておられます。

 ギトンは、ここは明らかに夢の中ではなく、博士が丘の上でジョバンニに会って、しかも、かなりいろいろな話をするのだと思います。そればかりか、ひょっとしたらジョバンニに催眠術をかけたり、といった一種の「実験」――心霊学の実験――もするかもしれません。

 というのは、ジョバンニ“帰還後”のブルカニロ登場場面は、



「遠くからあのブルカニロ博士の足おとのしづかに近づいて来るのをききました。」



 と書かれていました。つまり、ジョバンニは「足おと」を聞いて、ブルカニロ博士だとわかったわけです。これは、特徴のある足音を前にも聞いていたので聞き分けられた―――ということかもしれないし、誰も来ない丘のあたりに今いるのがブルカニロ博士と自分だけであることを、ジョバンニが知っているからなのかもしれない。いずれにせよ、夢の中でなく実際に博士に会っているから、そう言えるのです。

 もしも仮に、“欠落部分”に最初の入眠があって、その夢の中にブルカニロ博士が現れるのだとしたら、現存草稿から考えて、その現れ方は2とおりになると思います。@ブルカニロ博士がテレパシーで、ジョバンニの頭脳に思念を送りこみ、ジョバンニはそれを「セロのやうな声」として聞く方法。Aブルカニロ博士がジョバンニの夢の中に、「黒い大きな帽子」の男のような夢中の人物として登場する方法。

 しかし、@の方法では、「ブルカニロ博士」という名前は現れません。のみならず、最初からテレパシーを実践していたのだとしたら、「私は‥‥遠くから私の考を人に傳へる實驗をしたいとさっき考へてゐた。」という言い方にはならないでしょう。Aの方法で、最初に“欠落部分”の夢の中に現れた時には「ブルカニロ博士」と名乗ったのだとすれば、2度目に、現存草稿で、カムパネルラが消えた後の夢中に「黒い大きな帽子」の姿で再び現れた際、ブルカニロとは別人のようにふるまっているのは不自然です。

 そういうわけで、“欠落部分”では、ブルカニロ博士が、じっさいに丘の上に来てジョバンニの前に現れた。そして、〔第3次稿〕の末尾でジョバンニが夢から醒めた時にも、再び現れた。このように考えます。



 それでは、“欠落部分”には、ジョバンニの“入眠”はあったのでしょうか?ブルカニロ博士と会うのは、醒めている時だとしても、その前または後に、入眠して、また目覚めた――ということはありえます。なにしろ、“欠落部分”は5枚もあるのです。

 天沢氏は、



「琴の星が蕈のように長くなった‥‥この、琴の星が長くのびるというのは、‥‥夢あるいは夢のはじまりの指標である。」



 として、“欠落部分”の直前に「琴の星が蕈のように長くな」る異変があることから
(★)、欠落部分では、ジョバンニはまず入眠して夢を見ると推理しているわけです。

★ 天沢氏がこのレポートを書かれた当時は、まだ〔第3次稿〕のテクストは公表されておらず、“欠落部分”の前にも「琴の星が蕈(きのこ)のように長くな」る異変が書かれていることは、知られていませんでした。天沢氏は、“欠落部分”の後にある「さっきもちゃうど、あんなになった。」というジョバンニの独白から、“旅立ち”前に「琴の星」の異変が2回あることを推理し、そこからさらに、“欠落部分”での入眠を推理されたのです。しかし、当時の〔第T形態〕〔第U形態〕のテクストでは、3回目の異変で「蕈」を「夢」と誤植していました。そのために、「琴の星」の異変=ジョバンニの夢、という天沢氏の誤解が生じたといえます。




 しかし、はたしてそう言えるでしょうか?
















 「琴の星が蕈のように長くな」る異変が起きれば、かならずジョバンニは入眠し夢を見る―――とは言えません。なぜなら、〔第3次稿〕での、この童話のラストにも、



「琴の星がずうっと西の方へ移ってそしてまた蕈のやうに足をのばしてゐました。」



 と書かれており、ここでも「琴の星」の異変が起きています。しかし、この場合には、ジョバンニは入眠するどころか、博士にもらった金貨で、おっかさんにミルクを買って帰るべく、丘を駆け下りてゆくのです。











ばいみ〜 ミ




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カテゴリ: 宮沢賢治

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