12/29の日記

04:58
【宮沢賢治】『銀河鉄道の夜』の成立過程

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 おはようございます (º.-)☆ノ




 
 宮沢賢治の童話大作『銀河鉄道の夜』は、作者の死後半世紀にわたってさまざまなテクストが公表され、1974年に至ってようやく、『校本宮澤賢治全集』第9,10巻の出版によって4種類の継次草稿の全貌が明らかになるという特異な経過をたどってきました。童話ではもちろんのこと、一般の小説や古典文学でも、このような公表経過をたどった作品は珍しいのではないでしょうか。

 『校本全集』出版と前後して、この童話の着想に関係する詩草稿『薤露青』が発見され、また作者執筆当時にその朗読を聞いた菊池武雄氏の証言も再発掘されるなどして、この童話の成立過程は、かなり解明されてきました。それでも、各草稿の詳細な成立時期や、草稿に付された作者の改稿指示の解釈など、テクストの実証的な問題について、いまなお未解明の部分が多く残っています。

 まして、作品の内容に関しては、「プレシオスの鎖」「天気輪」などの語彙の意味から、作品全体の主題構想まで、…まさに解らないことだらけと言ってもよい現状です。

 『校本全集』の編集・出版と並行して、入沢・天沢氏と蒲生・菅原氏との間で交された、カムパネルラの“モデル”に関する論争も、論点のはらむ問題の大きさに対応するだけの掘り下げに至らぬまま、中途で立ち消えとなってしまった観があります。

 ところで、いまここで『銀河鉄道の夜』の成立問題をとりあげるのは、新たな見解の提示や独自の問題提起をしようということではなく、これまでに明らかになった基礎的な事実を、いちど整理しておきたいと思うからです。






 『校本全集』による『銀河鉄道の夜』テクストの全貌解明と公表は、なんと言っても入沢康夫氏と天沢退二郎氏による周到な調査研究、およびその価値を認めて協力した草稿保管者・宮澤清六氏の決断による偉大な功績であったと言えます。

 『銀河鉄道の夜』が最初に公刊されたのは、1934年発行の文圃堂書店版『宮澤賢治全集』第3巻においてでした。1939年発行の十字屋書店版『宮澤賢治全集』第3巻は、文圃堂全集の紙型を譲り受けて印刷したものですが、『銀河鉄道の夜』については、“鳥捕りの男”場面が“難船姉弟”登場場面より後になっていたのを直すなどの訂正を加えました。1951年に発行された谷川徹三編・岩波文庫版『銀河鉄道の夜他十四篇童話集』は、この十字屋版テクストをほぼ踏襲しています。

 岩波文庫版は、出版社と編者の権威のせいで、その後しばらくはこのテクストにしたがった童話集の出版が相次ぎました。これが、世に現れた『銀河鉄道の夜』テクスト〔第T形態〕です。(⇒:第T形態(1951年版岩波文庫)

 1965年までは、この〔第T形態〕が入手可能な唯一のテクストでした。現在賢治の最終稿であったことが確定している〔第V形態〕では、カムパネルラの水死を含む草稿5枚分が、この童話のクライマックスとして末尾におかれていますが、〔第T形態〕では、この5枚分は、ジョバンニが“銀河鉄道”の世界に旅立つより以前の位置に挿入されていました。つまり、ジョバンニは、カムパネルラの水死を知ってから銀河に旅立つことになっていたわけです。

 この“草稿5枚分”の挿入は、結果的には大きな間違えでした。作者が意図した原稿の順序では、ジョバンニがカムパネルラの水難を知るのは、“銀河の旅”から戻った後でなければならないのです。

 この挿入は、童話のどこに入れたらよいか判らない“草稿5枚分”の処理に困ったすえ、賢治の親戚筋にあたる岩田豊蔵氏が思いついた妙案でした
(入沢康夫・天沢退二郎『討議「銀河鉄道の夜」とは何か』,新装版,1990,青土社,pp.78-79.)。ところが、戦前の全集編集者らは、よく調査せずにこの思いつきに乗っかってしまい、そのまま歴代の出版物に受け継がれてしまったのでした。

 1962年に丹慶英五郎という人が、その著書『宮沢賢治――作品と人間像』,若樹書房. の中で、上記の“草稿5枚分”の置き場所について疑問を提起しました:




「わたしは、ここには、あきらかに錯簡があると思う。ジョバンニが眠りからさめて、それから牛乳屋へ立ち寄り、さらに病気の母が待っている自分の家へ帰る途中で、友だちのカムパネルラの溺死に会う部分
〔←これが“草稿5枚分”の内容―――ギトン注〕は、この作品の最後に置かなければ、どうも不自然ではないかと思うのだ。(中略)作者は第9章の『ジョバンニの切符』の次には、あらたに第10章として『カムパネルラの死』とでも題したものを、さらに実際には書き加えていたのではないか。」
入沢康夫・天沢退二郎『討議「銀河鉄道の夜」とは何か』,新装版,1990,青土社,p.196.





 1965年、堀尾青史、森荘已池両氏が編集した岩崎書店版『宮澤賢治童話全集』第6巻(第2刷)は、丹藤氏らの提起を受けて、宮沢家に保管されている草稿を検討し、問題の“草稿5枚分”をこの童話の最後に移す改訂を行ないました。これを〔第U形態〕と呼ぶことにします。(⇒:第U形態(1969年改版角川文庫)

 この再検討は、1964年9月に花巻の宮澤家で、堀尾青史、森荘已池、宮澤清六の3氏が、岩波文庫版、筑摩書房(1956年)全集版と、賢治の草稿を読み合わせる方法で、10時間にわたって行われました。その結果、「天気輪の柱」章後半の“草稿5枚分”は「それまで誤ってそこに入れて読まれてきたのであり、正しくはそこからはずされねばなら」ないことが判明しました。ところが、それをどこに移したらよいかについては、判然としませんでした。そこで堀尾氏らは、とりあえずこの5枚分を童話の最後に置いたうえ、「大きな二枚の金貨が包んでありました。」と「博士ありがたう」の間に入れて読むのがよいと注記したのです。

 しかしながら、「これが決定版」と銘打ってなされた〔第U形態〕への改訂は、“錯簡問題”を解決するどころか、いよいよパンドラの箱を開けたような効果をもたらし、混迷を深めたのでした。

 岩崎書店版・第2刷の発行後まもなく、『現代詩手帖』1965年9月号に、「末尾に移された5枚分がそれまでの末尾とどうしてもうまく接続しない」として、「決定稿」を名乗るのは早計ではないかとする匿名の「時評」が掲載されました。たとえば〔第U形態〕の順序ですと、ジョバンニは“銀河の旅”から目覚めた後でブルカニロ博士から「金貨2枚」を受け取り、受け取ったとたんにもう一度目覚めて牛乳屋へ向かうことになります。

 しかし、この「時評」をはじめとする賢治愛読者からの疑問に対して、堀尾氏の回答は、説得力がありませんでした。堀尾氏らの改訂は「決定稿などとはいえない。」が、



「わたくしは、あまりふしぎな心もちがして、
〔…〕決定稿とした。森さんもこれを決定稿とした」




 などという、どこかの国の首相も顔負けの矛盾答弁でしたw

 ともかく、1965年以後に出版された岩波文庫改訂版(1966年)、筑摩書房(1967年)版『全集』第10巻をはじめ各社文庫版、児童向け童話本は、みな〔第U形態〕に拠ることとなったのです。
(以上、『討議「銀河鉄道の夜」とは何か』,pp.195-198.参照)

 






 










 1970年に、入沢康夫、天沢退二郎の両氏による対談「討議『銀河鉄道の夜』とは何か」が『ユリイカ』に掲載されました。『銀河鉄道の夜』のテクスト、および内容について、それまでに公刊されている資料だけをもとに議論を整理し、草稿にあたらずにできる範囲で可能な限り推理を進めたものです。

 そこで明らかになったのは、@この童話冒頭の1〜3章は、末尾に移された“草稿5枚分”とともに、後から書き加えられたのではないかということ、A“草稿5枚分”が誤って挿入されていた第5章「天気輪の柱」後半には、もともとあった原稿が5枚分削除されていて、そこには、ブルカニロ博士がジョバンニに対して“心理学の実験”(催眠?テレパシー?)を始めるところが記されていた可能性があること、B“実験開始”の5枚分が削除されたのに対応して、〔第U形態〕でもまだ残されているブルカニロ博士の(再)登場場面――“銀河の旅”から目覚めたジョバンニに「私は大へんいい實驗をした。」と言って金貨を与える――も、作者賢治の最終意図としては削除するつもりだったのではないか?それと関連して、“銀河の旅”の中の「セロのやうな聲」や「黒い大きな帽子」の男のお説教も、削除されるのが論理的であること、などでした。

 しかし、入沢氏によれば、これらの推理を実際に草稿にあたって確かめるには、少なくともひと月以上花巻に滞在して宮沢家に通わなければならず、両氏ともそれだけの時間を捻出することは不可能であったのです
(『討議「銀河鉄道の夜」とは何か』,p.104.)

 ちなみに、当時はまだ簡便な“コピー機”というものはなく、厚手の感光紙に焼き付ける「ゼロックス・コピー」がようやく普及し始めた段階でした。そればかりでなく、宮澤家に保管されていた草稿は、用紙購入後半世紀近くを経た状態であり、触れば崩れてしまうほどぼろぼろになった紙片もあり、運搬も郵送も不可能でした。



 まもなく偶然の機会から好機が訪れました。ある秋、ぶらりと東北へ旅立った天沢氏は、たまたま花巻を通過したことからそこで下車し、気の向くままに宮沢家を訪れたのですが、面談した清六氏と天沢氏の関心は自然と『銀河鉄道の夜』草稿へ向かい、ぼろぼろになった草稿の補修と固定を二人で始めてしまったのでした。

 天沢氏が東京へ帰った後で、宮沢清六氏は意を決し、天沢氏・入沢氏を編集委員に加えて新たな宮沢賢治全集を出すことを筑摩書房に提案しました。新しい全集では、賢治の遺した草稿を、使用された筆記具や用紙の種類に至るまで詳細に調査し、『銀河鉄道の夜』のように逐次的改訂や複数の異稿があるものについては、その各段階のテクストを復元した“校本”を世に送ることとなりました。こうして『校本宮澤賢治全集』の編纂が開始され、『銀河鉄道の夜』の各逐次形を含む第9,10巻は 1974年に発行されました。

 2氏が草稿を詳細に調査した結果、事前の『討議』で予想されていた@ABの諸点はすべて、賢治自身が草稿の上に改稿指示として書きこんでいたことが判明しました。(ただし、Bについては、削除を指示する線がどこまで伸びているのかなど、草稿そのものの見方に議論の余地が多少残ります。)

 『校本全集』第10巻に収録された『銀河鉄道の夜』の著者最終テクストは、@ABを入れたうえ、細かい点では入沢・天沢氏の推定の方向を、さらに先へ進めたものとなりました。これが現行の〔第V形態〕です。(⇒:第V形態(『新校本宮澤賢治全集』第11巻)

 なお、⦅青空文庫⦆にある1989年新潮文庫版は、〔第V形態〕を新かなづかいに直したものです。



 『校本宮澤賢治全集』には、この〔第V形態〕のほかに、作者が生前の執筆で逐次に改稿して行った古い“初期形”3種が収録されています。

 草稿で削除された文字を復元したり、推敲に用いた筆記具の種別、ノンブル(著者の記した原稿の頁数)や用紙を比較することによって、大きく分けて4つの段階のテクストを、草稿から再現することができました。

 〔第4次稿〕が最終稿であり、〔第V形態〕にあたります。




  逐次稿   成立時期     現存する部分         筆記具

〔第1次稿〕 1924年12月? 「琴の宿」以後のみ現存       鉛筆
〔第2次稿〕 1925年?   「ジョバンニの切符」以後のみ現存   青インク
〔第3次稿〕 1928年以後? 5枚分(ブルカニロ実験開始)のみ破棄 藍インク
〔第4次稿〕 1933年8-9月  全部現存             黒インク







 
  『討議「銀河鉄道の夜」とは何か』,新装版,p.131.より。










 上の「成立時期」はギトンの推定ですので、すこし説明しておきます。

 生前賢治の友人であり童話集『注文の多い料理店』に表紙画と挿絵を描いた菊池武雄氏(⇒:トキーオ(19))は、1924年12月に宮沢賢治の友人たちが盛岡市の料亭で『注文の多い料理店』の出版祝賀会を開いた時、賢治がその席で『銀河鉄道の夜』の草稿を朗読したことを、回想として何度か述べていました。





「いままでも菊池武雄さんが、生前ある席上で宮沢賢治がこんなものを書いてみたということで読んでくれたものは『ケンタウル祭』から始っていたことをずいぶん前に喋っている」

『討議「銀河鉄道の夜」とは何か』,新装版,p.126.





 これによると、1924年12月段階の草稿は、現行〔第4次稿〕の第4章「ケンタウル祭の夜」から始まっていたことになります。

 そうすると、1924年にはすでに〔第3次稿〕までの改稿が終っていたのでしょうか?ギトンはそうではないと思います。入沢氏の推定によれば、1924年12月に賢治が朗読して菊池氏が聞いたのは〔第1次稿〕なのです。

 そう考えられる理由として、“四つ折り跡”があります。



「これだけの紙、都合15枚
〔第1次稿のこと―――ギトン注〕は不思議なことに、大体賢治の原稿は二つ折にしてあるわけですが、さらに二つ折の跡がある。つまりもと四つ折りになっていたことがわかる。〔…〕

 これが四つ折にされていたということから、この四つ折の部分が、この作品のいちばん古いところである。例の菊池さんの証言に、ある料亭で賢治が外套のポケットからこの原稿をつかみだして読んで聞かせてくれたとある。外套のポケットに入るなら、普通の二つ折だけじゃ無理で、四つ折にしなきゃ入らない。これはおそらくその部分であろうと考えられてくる。菊池さんが読んで聞かされたのは、おそらくこの段階の下書稿(第1次稿)だったに違いない。いまは、その前のほうは2度にわたって清書されてしまっているけれども
〔「琴の宿」より前の部分は、第1次稿が現存しない。―――ギトン注〕、尻尾のところの15枚は、とにかく菊池さんが読んで聞かされたままのものがいまだに残って、われわれの目の前に残っている、こう考えることができそうだ。〔…〕

 この最古層の段階では、ジョバンニと女の子の神さまについての論争も、黒い帽子の大人の出現と教訓の部分もなかった。(これらはCの手入れ
〔第2次稿の後の鉛筆による手入れ―――ギトン注〕で入ってくる)」
『討議「銀河鉄道の夜」とは何か』,新装版,p.146.




 さらに、〔第1次稿〕の用紙のうち3枚は、1923年9月の関東大震災の被災見舞いの手紙を書きかけた原稿用紙の裏が利用されています。原稿用紙の種類で言うと、〔第1次稿〕15枚のうち 10枚は【丸善特製 二】、4枚は藁半紙、1枚は半紙を半切りにしたものです。【丸善特製 二】は、『春と修羅』の印刷用原稿を清書するために入手したもので、1923年にまとめて購入したと考えられています。

 これらの手がかりから、〔第1次稿〕は、1923年9月から1924年12月の間に執筆されたと推定できます。〔第1次稿〕の原稿用紙は、すべて裏面を使用して鉛筆で書かれており、はじめて書き下ろした下書きのおもむきが強いものです。

 さらに執筆時期をしぼるならば、「1924.7.17」の日付がある口語詩稿「薤露青」が参考になります。この詩は、夜空の下で「みをつくし」を洗って流れる北上川の水を詠いながら、



 「南十字へながれる水よ」
 「プリオシンコースト」
 「マヂェランの星雲」
 「蝎がうす雲の上を這ふ」
 「水は銀河の投影のやうに地平線までながれ」



 など、『銀河鉄道の夜』と共通する星空の形象を多数詠みこんでいます。

 また、この 1924年夏には、ほかにも〔北いっぱいのほしぞらに〕、「早池峰山巓」(いずれも 1924.8.17付)など、『銀河鉄道の夜』の構想と関係の深い口語詩が着想されています。

 これらを、『銀河鉄道の夜』の構想を抱いた時期を示すものとして考慮すれば、〔第1次稿〕の執筆は、この年の夏から秋にかけてということになるでしょう。















 そこで今度は、〔第3次稿〕から〔第4次稿〕への最後の改稿はいつなのかを考えてみますと、言うまでもなくこの改稿の重要部分は、“カムパネルラの水死”5枚の書き下ろし・追加にあるわけです。

 なるほど、〔第1次稿〕の末尾には、



「カムパネルラをぼんやり出すこと、
 カムパネルラの死に遭ふこと、
 カムパネルラ、ザネリを救はんとして溺る。」


 また、用紙(半切りの半紙)の裏面には、


「カムパネルラの恋。」



 という、いずれも鉛筆書きのメモが記されていて、“カムパネルラの水死”は〔第1次稿〕成立時かその直後には、すでに構想されていたと考えることができます。

 しかし、その段階では「ぼんやり出す」としか書かれていません。仲間のマルソがやってきて、カムパネルラの遭難のようすをなまなましくジョバンニに語ったり、川におおぜいの人が集まって捜索したりといった現行〔第4次稿〕のような現実的な場面が書かれることは、予定されていなかったと見るべきでしょう。

 この部分はやはり、河野義行の水難救助による水死事故(⇒:【宮沢賢治】イーハトーブ館のアザリア展)の報せを聞いて執筆したと考えたい。河野の水死については、これまでは賢治は知らずに亡くなったとされてきたのですが、今回の⦅アザリア展⦆のための調査で、河野の死を報じた『同窓会報』が、生前の賢治に届いていたことがわかりました。あるいは『同窓会報』よりも前に、小菅健吉から手紙で知らされていた可能性もあります。保阪家で保管されていた賢治書簡が戦後公表された保阪嘉内の場合とは異なり、小菅と賢治の間の文通は、その大部分が紛失してしまっているため、生前二人の間にどんなコミュニケーションがあったのかは、ほとんど謎なのです。(栃木県氏家の「さくらミュージアム」では、小菅健吉は、「宮沢賢治記念館」ができた時に手持ちの資料を全部まとめて送ったとの小菅未亡人の話を信じていますが、「宮沢賢治記念館」のほうでは、何も受け取っていないと主張しており、両者の見解は食い違っています)

 〔第1次稿〕以来の構想では、カムパネルラの水死を「ぼんやり出す」つもりであったのが、具体的にどう書いたら「ぼんやり出」せるか構想が熟さないまま、〔第3次稿〕までは、死因については書かれないできたのだと思います。

 〔第3次稿〕で、ジョバンニが“銀河鉄道”の列車の中で、カムパネルラのいるのに気づく場面には、↓つぎのように書かれています(〔第1,2次稿〕のこの部分は、原稿が残っていません)。カムパネルラが水難に遭ったことは暗示されていますが、「ザネリを救はんとして溺る。」までをここから読み取るのは不可能でしょう。



「ところが、ジョバンニは、眼をじぶんの近くに戻して、ふとじぶんのすぐ前の席に、ぬれたやうにまっ黒な上着を着た、せいの高い子供が、窓から頭を出して外を見てゐるのに気が付きました。
〔…〕

 それは級長のカムパネルラだったのです。

 (あゝ、さうだ。カムパネルラだ。ぼくはカムパネルラといっしょに旅をしてゐたのだ。)ジョバンニが思ったとき、カムパネルラが云ひました。

 『ザネリはね、ずゐぶん走ったけれども、乗り遅れたよ。銀河ステーションの時計はよほど進んでゐるねえ。』

 ジョバンニは、(さうだ、ぼくたちはいま、いっしょにさそって出掛けたのだ。)とおもひながら、

 『次の停車場で下りて、ザネリの来るのを待ってゐやうか。』と云ひました。

 『ザネリ、もう帰ったよ。お父さんが迎ひにきたんだ。』

 カムパネルラは、なぜかさう云ひながら、少し顔いろが青ざめて、どこか苦しいといふふうでした。するとジョバンニも、なんだかどこかに、何か忘れたか済まないことがしてあるといふやうな、おかしな気持ちがしてだまってしまひました。」

『銀河鉄道の夜』〔第3次稿〕より。







 〔第3次稿〕まではこのような形になっていたところ、最晩年になって、河野の水死の知らせに触発されて、当初の「ザネリを救はんとして溺る。」との構想にしたがって一気に“カムパネルラ水死”の場面を書き加えたのでしょう。《アザリア》の最愛の仲間のひとりだった河野の死が動因となったことは、「ぼんやり出す」との当初の計画に反して、これ以上はないほどリアルにはっきりと描いたことからも分かります。

 (たとえば、カムパネルラが水中でもがいているようすだとか、死体が浮いてきたなどのシーンを書けば、“銀河世界”でカムパネルラが突然消えてしまった印象的な場面を台無しにしてしまいますから、現行の川のシーンは、可能な限りリアルにカムパネルラの水死を描いたと言えるのです。)



 そういうわけで、〔第4次稿〕の成立は、1933年8月以降、同年9月の死去までの間と推定されることになります。

 もっとも、河野の死とは関係のない第1〜3章の新たな書下ろしについては、もっと前に書かれていたと考えることも可能です。







 
「濡れてんだろ、ぬげや」  








 〔第4次稿〕で実際に書かれることになった「カムパネルラ、ザネリを救はんとして溺る。」との構想ですが、カムパネルラがじぶんの生命と引き換えに救う相手は、どうしてザネリでなければならないのでしょうか?

 ザネリは、ジョバンニに、ことあるごとにつらく当たる生徒で、物語の中で2回、ジョバンニの前に現れて、

「ジョバンニ、らっこの上着が來るよ。」

 と嘲ります。2回目は、ザネリにつづいて、その場にいた6,7人の生徒が一斉に復唱してジョバンニを侮辱します。

 ジョバンニの父は、密漁船に乗っていて人を怪我させたために、逮捕されて「遠くの‥海峡の町の監獄」にいるという噂なので、生徒たちは、父がしている“らっこ猟”にかけて、ジョバンニを嘲笑しているのです。(以上、〔第3次稿〕による。)

 ジョバンニが親友にしたいと望んでいるカムパネルラは、なぜよりによって、ジョバンニを最も嫌っているザネリのために、犠牲にならなければならないのでしょうか?

 この点について、天沢退二郎氏は、『討議』の中で、注目すべき見解を述べておられました:



「生きたカムパネルラの姿を見るのはここ
〔ザネリほか6,7人がジョバンニを侮辱する場面。カムパネルラだけは、気の毒そうに黙っている。――ギトン注〕が最後です。また、後のことを考慮に入れて考えてみると、ここで、ザネリだけが振り返ってみているとか、こういうことが非常に適確ですね。ジョバンニが振り返ってみると、むこうでは、ザネリも振り返ってみている。この二人というのはカムパネルラに対して両側にいるような感じになる。カムパネルラはザネリを救おうとして死ぬわけですからね。」
『討議「銀河鉄道の夜」とは何か』,p.24.





 この天沢氏の指摘をギトン流に俗っぽく言いかえると、ジョバンニとザネリは、カムパネルラを挟んで同性愛の三角関係にあった――ということになります。リアルな町の世界では、ジョバンニはカムパネルラを唯一の友達のように慕っているけれども、カムパネルラ自身は、ザネリに対して気持ちがある。ザネリを救うために命を落とすことは、カムパネルラとしてはまったく自然なことであるわけです。もちろん、“銀河世界”――ジョバンニの夢の中の世界――でのカムパネルラは、ジョバンニの親友であり、ザネリのことなどは、まったく意にも介しないのですが。

 ちなみに、ザネリの性別については、男性説と女性説があります。“三角関係”を成り立たせるには女性説のほうが都合がよいかもしれませんが、賢治は、ザネリを男子として設定していると思います。というのは、〔第3次稿〕でザネリは、



「顔の赤い、新らしいえりの尖ったシャツを着た小さな子」



 と描写されているのです。「えりの尖ったシャツ」は、ふつう男の子が着るものではないでしょうか?

 つまり、この“三角関係”は、3人の少年どうしのものだと思います。

 ところで、↑さきほど挙げた〔第1次稿〕末尾の鉛筆メモの最後の行には、



 「カムパネルラの恋。」



 と書かれていました。メモの中で、この行だけが用紙の裏(本文が書かれていないほうの面)に書かれているのです。用紙の表にはまだまだ余白があるのに、賢治は、この1行だけを裏面に記しているのです。

 賢治としては、「カムパネルラの恋。」というこの構想を、人に見られないように隠しておきたい心理が働いたのではないでしょうか?なぜなら、それは同性愛だからです。

 そして、この構想も、カムパネルラがザネリと懇ろにしている場面といった明確な形では、ついに書かれませんでした。


 
 “銀河の旅”のなかでは、カムパネルラが「かほる子」姉妹と楽しげに会話しているのを見てジョバンニが嫉妬する有名なw…BLシーンがありますが、それは言ってみればジョバンニの“ひとり相撲”であって、三角関係というほどではありません。

 しかし、ザネリに関しては、ザネリのほうも…、いやザネリのほうがよりはっきりとジョバンニを“恋敵”として意識し、攻撃を加えてくるのです。こちらの場合は正真正銘の“三角”と言ってよいのではないでしょうか?

 天沢退二郎氏も、蒲生・菅原氏と論争になる以前には、『銀河鉄道の夜』に同性愛の契機があることを正しく認識していた―――これも銘記しておくべきことです。論争は、少なくとも天沢氏側には実りある成果をもたらすことなく、かえって自説に固執させる結果となった。そして、天沢・入沢氏を中心とする“賢治研究圏”に、意固地な同性愛否定のふんいきをもたらしてしまった―――それはギトンが何よりも残念に思うことなのです。





プリオシン海岸 
空かると公演「銀河鉄道の夜」








 さいごに、〔第2次稿〕〔第3次稿〕の成立時期について一言しておきたいと思います。

 これらについては、いまのところ決め手になる根拠はありませんが、ヒントになりそうなことはあります。

 現存する草稿を見ると、〔第2次稿〕成立の後で、鉛筆による大幅な手入れ(語句や文の加除)が行われているのです。そして、〔第2次稿〕で新たに清書された 11枚にだけ綴じ穴があけられています。〔第2次稿〕のうち、〔第1次稿〕から引き継いだ 15枚には綴じ穴がありません。また、『銀河鉄道の夜』草稿のなかで綴じ穴があるのは、この〔第2次稿〕で新入りした 11枚だけです。

 現存の草稿用紙がこのようになっている原因を、入沢氏は次のように解明しておられます:







「現在残っている原稿の第49葉から第59葉まで
〔第2次稿で新しく清書された部分――ギトン注〕〔…〕青インクで清書された部分の紙、これは 11枚あるんだけど、この 11枚だけは綴じ穴をもっていて、一度綴じたらしい跡がある。〔…〕

 ということは、
〔…〕この 59葉までは一応青インクで清書された一段階があって、これがつまり第2次稿の段階だけど、それが清書部分だけは綴じられていた。そのあとにまだ清書がしきれていない第1次稿〔鉛筆書き――ギトン注〕の部分が折ったまま挟んであった、というような状態だったんじゃないかと想像される。」
『討議「銀河鉄道の夜」とは何か』,p.145.



 つまり、〔第1次稿〕から〔第2次稿〕への改稿の過程で、鉛筆書き草稿にインクで手を加えたうえで、それを清書して行ったんだけれども、清書が途中でストップしてしまった。ストップの理由は、時間がなかったせいかもしれないが、むしろ、あとになるほど手入れがまだ不十分に思われて、清書する気にならなかったのではないか。

 そこで、おしまいのほうの改変は、あとでさらに検討することにして、とりあえず清書した分だけを綴じて、清書に至らない部分は折って挟んでおいた。

 その状態で、かなり長い時間(おそらく数年)がたってしまった。

 その後で、ふたたび『銀河鉄道の夜』草稿をとりあげて、推敲を再開しようとしたところ、すでに青インクで清書した部分も含めて、このさい全面的に手入れをほどこす必要があると判断した。

 そこで、青インク清書を進めるのはやめて、今度は筆記具を変えて(賢治が筆記具を変えるのは、手を加えた時期の違いを、自分でわかるようにするため)、鉛筆で大幅な加除を加えて行った。その上で、今度は藍インクで初めのほうから清書して行ったが、〔第2次稿〕の青インク清書の尻までも行かずにストップしてしまった。これが〔第3次稿〕。

 こうして、「いるか」の群れ登場から、乗客の大部分が降りてキリスト教の神のもとへ向かう「サウザンクロス」を経て、「石炭袋」でカムパネルラが消え、ジョバンニの“目覚め”までの部分は、〔第1次稿〕の用紙が何度も手入れを受けながら最後まで残ることになった。

 これは、考えてみれば理解できることです。この部分は、「ほんとうの神さま」をめぐる論争だの、さそりの“自己犠牲”だの、カムパネルラとの別離だの、とにかく大きな問題に触れざるを得ないので、作者として不満の残る箇所があったにしても、それを削ってしまってよいものかどうか、変えるとしたら、いったいどう変えるのか、賢治は大いに悩んだのではないでしょうか?

 つまり、逆に言えば、〔第1次稿〕の紙が最後まで使われている部分は、賢治としても最後まで不満の残った部分で、この童話の中でもっとも問題をはらんだ部分だと言えるでしょう。



 それはともかく、上の考察からすると…、〔第2次稿〕成立と〔第3次稿〕成立との間には、おそらく数年の時間経過がある。その間に、賢治の生活にも大きな変化があった―――ということが考えられるのではないかと思います。

 そうすると、〔第2次稿〕への改稿は、1924年12月の朗読で友人たちから寄せられた感想を踏まえて、1925年、遅くとも 26年前半までに行われたのではないか?‥つまり、農学校教師時代のうちに成立したことが考えられます。〔第2次稿〕の清書が途中で滞ったのも、農学校退職後の営農生活開始による多忙・疲労と関係があるかもしれません。

 そうすると、〔第3次稿〕は、羅須地人協会の活動が一段落した 1928年以後になるでしょうか。。。。 



 以上は、あくまでも現在検討中の思いつきにすぎないので、今後さらにいろいろな資料とつきあわせて確かめて行かなければならないと考えています。







 
 














ばいみ〜 ミ



 
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カテゴリ: 宮沢賢治

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