12/16の日記

09:12
【宮沢賢治】《心象》の原風景(1)―――岩手山という沈澱“物”

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岩手山 
小岩井農場・一本桜から  











 おはようございます (º.-)☆ノ




 






     岩手山

 そらの散乱反射のなかに
 古ぼけて黒くえぐるもの
 ひかりの微塵系列の底に
 きたなくしろく澱むもの

宮沢賢治『春と修羅(第1集)』より「岩手山」




「この詩は、山という自然物を超越的・実体的な存在者としてではなく、空との切り離せない関係において相対的にとらえている。この相対主義的思考は、
〔…〕『春と修羅』「序」と通底する、関係論・現象論の世界観である。

 ところで、このテクストが山をうたったものであることは、「岩手山」という題名によってのみ明瞭となる。もし無題であったならば、おそらくその意味
〔詩本文の意味―――ギトン注〕は不可解なものとなるだろう。その理由は、詩の題名と本文との間にレトリック的な変換が行われているからである。これは具体的には提喩(synecdoche)である。」
中村三春『修辞的モダニズム』,2006,ひつじ書房,pp.4-5.






 「超越的」とは、ここでは、私たちの“心”の外に実在する物――というほどの意味。わたしが「消えろ」と念じても消えないし、わたしが見ていない時でも存在する、そのような、“心”に対して外在的な存在物のことです。

 「実体的」とは、ここでは、けっきょく「超越的」と同じことになります。私たちの素朴な観念では、私たちの周りの世界にある物は、窓から見える建物も、山も、雲も、窓の下を歩いている人も、みな「実体」です。それ自体として存在するものだからです。科学的な世界観に従って考えても、――“雲”に見える浮遊水滴群ついては、やや問題があるとしても――ほとんど同じことになるでしょう。

 ところが、宗教的、哲学的な見方によると、必ずしもそうではない。大乗仏教(唯識派,中観派など)によれば、私たちの眼に見える“物体”はすべて、私たちがそこに在るとみなしている“虚妄”にすぎない。ほんとうに実在するのは“仏
(ほとけ)”だけである。それこそが「実体」「実在」「本体」であって、山や空や建物は“虚妄”であり、「虚無」「空(くう)」でしかない―――ということになります。

 しかし、この詩の岩手山に対する見方、また、作者賢治が、この詩集『春と修羅』の「序詩」で表明している「相対主義的」な見方は、これら――私たちの素朴な世界観と、仏教の世界観――のどちらにもくみするものではありません。



 ところで、この詩に「岩手山」という題名が、もし無かったとしたら、この4行の詩の意味は、まったく不明になってしまいます。それが、山を表していることさえ、憶測困難になってしまうでしょう。

 
 いま、この詩の意味内容に深入りするのを、いったん停止して、テクストの字面に即して見てゆくと、4行の本文の中には、“岩手”と関係ある語も、“山”につながりそうな言い回しも、見たところまったく無いことがわかります。科学実験のビーカーの中の風景か、せいぜい空を舞う細かい塵のようなイメージばかりが溢れています。

 それでも、注意深く見ると、「そらの…なかに/…黒くえぐるもの」「ひかり…の底に/しろく澱むもの」という、おそらくは、ある時にそう見えた岩手山の姿を表しているようにも思える語句に出会います。

 もちろん、このように見えるものが、いつも必ず“山”だとは限りません。黒い雨雲かもしれないし、大気の低層に滞留しているスモッグかもしれない。それが“山”だと解らせてくれる手がかりは、「岩手山」という題名以外にはありません。






岩手山 
岩手牧場から








 中村三春氏の説明によると、このような表現のしかた(レトリック)を「提喩
(代喩,シネクドキ)」と言います。

 シネクドキは、ギリシャ語の συνεκδοχή(synekdoche) が語源で、syn- は、synthese(合成),symphony(交響楽) にもある「いっしょに」「みないっしょくたに」という意味の接頭辞。ek- は ex- と同じ。「外へ」「出す」という意味。doche は dechesthai(取る,受けとる) の名詞化です。つまり、ある物を箱から取り出すときに、それひとつだけでなく、まわりにあるものを全部いっしょに取り出してしまう――というような意味。それが語源だそうです。⇒:Online Etymology Dictionary

 かんたんな例としては、雪が降ってきたのを、「雪」と言わずに、「白いものが降ってきた。」「白いもの」は、「雪」だけでなく、小麦粉、砂糖、白いペンキなど、いろいろあるわけですが、その中の「雪」を指示するために、その類のもの全体を表す「白いもの」という表現を用いるのが、シネクドキ
(★)です。

 なにか或るものを指すために、それを含む類全体の名前で呼ぶ。そのような言い回しに、どんな効果があるかというと、当の指示対象の・或る属性を強調することになります。「雪」を「白いもの」と呼ぶ場合には、「雪」の白いという性質が強調されます。



★註 提喩(シネクドキ)は、ここで取り上げた @類を示す語(「白いもの」)によって、種(“雪”)を指す場合 のほかに、それとは逆に、A種を示す語(たとえば「パン」)によって類(「食物」一般)を示す場合(「人はパンのみにて生くるにあらず」)や、B単数表現(たとえば「man」)によって複数(ひとびと)を表したり(Man is mortal.)、逆に、複数表現によって単数を表す場合(He's good people. ほんとうに善良な人だ)、などがあります。レトリックの研究は、西洋ではギリシャ時代から行われてきたにもかかわらず、近代では下火になっていて、最近になって再発掘された分野です。そのため、現在もなお開拓途上にあると言えます。伝統的修辞学で“提喩”の一種とされてきた C全体を示す語で部分を表し(「自動車がパンクした」)、逆に、部分を示す語で全体を表す場合(「頭数をそろえる」)などは、提喩なのか、換喩(メトニミー)の一種なのか、決着がついていません。しかし、換喩にしろ提喩にしろ、そうしたレトリックは、世界の片隅のできごとを描いて、隣接する世界全体を示す(換喩)、あるいは、ひとりの人の行動を描いて人間という類全体の本質を感得させる(提喩)といったように、文学作品が私たちに感銘を与える機構を明かしてくれる重要な鍵なのです。佐藤信夫『レトリック感覚』,1992,講談社学術文庫1029,pp.175,183.







 文学作品で使われたシネクドキの例としては、つぎの小説の書き出しを挙げてよいでしょう:



「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。

 向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落した。雪の冷気が流れこんだ。娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ呼ぶように、

 『駅長さあん、駅長さあん』
〔…〕
川端康成『雪国』より。



 「夜の底が白くなった。」という表現で、走る列車の窓から見える沿線の積雪を指しています。ここでも、「雪」と言わずに、「雪」をふくむ広い類である「白いもの」で「雪」を表しています。

 この有名な語り出しの情景も、宮沢賢治の詩と同様に、シネクドキをうまく使って、単に「雪が積もっていた」と書いたのでは表しきれない印象的な⦅心象風景⦆を、あざやかに描き出す効果を上げています。

 ただ、最初に挙げた賢治の詩が、この『雪国』の出だしと違うのは、シネクドキによって表現される対象――賢治の場合は「岩手山」――の性状、印象を主題化して、どこまでもそこに向かって突進してゆく、そういう作者の姿勢、あるいは、作品の志向が、賢治詩には強く感じられることです。

 川端康成の場合、「白いもの」のシネクドキは、あくまでも主人公「島村」が乗り合わせた列車の状況、なかんずく車内に居合わせた少女の唐突で印象的な行動の情景を表現するための“装置”のひとつにすぎないのです。「積雪」それ自体を主題として突き詰めて、そこから何らかの意味を引き出そうとしているわけではありません。

 そのため、川端の場合、「夜の底が白くなった。」という表現は、“比喩”としての趣きが強いと言えます。それは、主題を効果的に演出するためのひとつの語法であって、その表現自体にぬきさしならない意味があるわけではない。もし、もっと大きな効果が得られるような別のレトリックがあるのであれば、換えてしまっても差し支えない。この表現にこだわる理由はないわけです。

 しかし、賢治の「岩手山」の場合は、そうではない。「そらの散乱反射のなかに…えぐるもの」「ひかりの微塵系列の底に…澱むもの」といった表現には、単なる比喩ないしレトリックを超えている部分があります。単に比喩として言っているのではなく、その言葉の意味そのままの「黒くえぐる」「しろく澱む」対象として追究されるべく、読者の前に投げかけられているように思えるのです。





 
   谷川岳







「堅田の浮御堂
(うきみどう)に辿り着いた時は夕方で、その日一日時折思い出したように舞っていた白いものが、その頃から本調子になって間断なく濃い密度で空間を埋め始めた。わしは長いこと浮御堂の廻廊の軒下に立ちつくしていた。湖上の視界は全くきかなかった。〔…〕
井上靖『比良のシャクナゲ』より。




 ↑こちらは、川端康成の場合よりも、“提喩”の用い方が、宮沢賢治に近くなっているように思われます。






「この琵琶湖畔のある日の情景については、
〔…〕その白いものが〔雪であって―――ギトン注〕決して白いペンキや白鳥や小麦粉ではないということを保証するべきことば、たとえば天候とか、空から……降る……、などというあからさまな語句は、前後の文脈のどこにも明示されていない。〔…〕問題の『白いもの』が気象上の物件であるという《意味の流れの一貫性》は、『舞う』というささやかな隠喩や、『その日一日時折思い出したように……』、『その頃から本調子になって……』というような副詞句によって間接的に暗示されているだけなのであった。そして私たちは、そういう暗示だけを手がかりとして、しかも意識的にはおよそ分析的な努力などをはらうことなく、〔それが“降って来る雪”だということを―――ギトン注〕一瞬のうちにすらすらと読み取ってしまう。〔…〕その読み取りがほとんど自動的に可能だというのは、やはり私たちの精神のなかにレトリカルな柔構造が内蔵されているからだ、と私はつくづく思う。〔…〕

 語句としての意味から言えば」
「雪」と言ったほうが、より具体的で、「白いもの」という言い方は抽象的なのに、「抽象的な『白いもの』のほうが、この文脈のなかに置かれた場合はかえっていっそう具体的な意味を実現してしまう、という一見矛盾した現象がそこに生じた。その理由は〔…〕この文中の『白いもの』という表現は、雪のもつさまざまな特性のなかで特に白さにだけ集中的に照明をあてていることになる〔からである―――ギトン注〕

 より抽象的な表現が結果としていっそう具体的なイメージを生むというメカニズム」
を発揮しているのが、これらの文芸作品における“提喩”なのである。

 この井上靖の文章を
「あらためて読んで見れば、雪を表現するために並んでいる主要な語句が視覚的な表現に統一されていることに気づくはずである。じつは、その日そこに降っていたものは《雪》ではなく、《雪の白さ》だったのである。」
佐藤信夫『レトリック感覚』,1992,講談社学術文庫1029,pp.195-199.





 もっとも、ここで佐藤氏は「その読み取りがほとんど自動的に可能だ」と書いておられますが、はたしてどうでしょうか?‥ギトンなどは、「分析的な努力」はしないまでも、上の井上靖の文を繰りかえし読んではじめて、それは雪だということに思い当たりますw。「自動的に可能」なのは、佐藤氏が、文芸、ことに日本語の文学作品を読みなれている学者だからにすぎないのではないか?…それを一瞬にして直観できるような「精神のなかにレトリカルな柔構造が内蔵されている」のは事実だとしても、その柔構造は、日本語話者としての生得的なものではなく、この国の文学伝統に根ざしたものであり、小学校以来の国語教育の結果なのだと思います。

 そのことが重要なのは、(佐藤氏と違って)私たちの場合には、宮沢賢治を主要な検討対象としているからです。 

 川端康成の小説の描写や、井上靖の上の詩的散文は、日本の文学伝統に深く根ざしながらも、その基盤の上に、新しい現代文学の地平を切り拓いていると言えます。しかし、宮沢賢治の場合には、そういう伝統をほとんど無視した、非文芸的な日本語の地平から出発していると言えるのではないでしょうか?

 かつて中原中也が『春と修羅』を評して、



「此処に見られる感性は、古来『寒月』だの『寒鴉』だの『峯上の松』だのと云って来た、純粋に我々のものである。」

中原中也「宮澤賢治全集」(1934年11月執筆)より。


 と強調したのは、日本の文学伝統とまったく断絶しているように見える宮沢の詩作も、その目指すところは意外に伝統的な美意識と近い処にある。何十年か先には、その2つの“道すじ”は、文学史上の1本の線となって合流するにちがいない、――という“予言”として読むことができると思います。








六甲山、横池









 すこし脱線してしまいましたが、“提喩”の問題に話を戻しますと、

 川端康成、井上靖の場合の“雪”を指す提喩は、‥提喩を用いたその描写は、印象派の絵画に近いものを感じさせます。

 佐藤氏が、


「その日そこに降っていたものは《雪》ではなく、《雪の白さ》だったのである。」


 と的確に述べておられるように、ここで描かれた“雪”は、氷の小さな結晶の集まりといった実体のある物よりも、視界に現れた色彩、色彩の消された斑点に近いものです。そうした斑点――《雪の白さ》――が、しだいに数を増して視界を覆いつくしてしまう、その過程が、井上靖の散文では如実に描かれているのです。

 そして、ここに描かれた“白で埋めつくされる色彩的世界”は、風景の描写であると同時に、風景のなかで追いつめられてゆく語り手の心境を描写していると言えます。

 語り手である老教授――「わし」――は、家族とのいさかいから家出して、この琵琶湖畔に来ているのですが、この場面は、50年前に同じ場所(浮御堂)で自殺を思いとどまった経験を回想しています。「わし」は歴史的現在では 30歳です。前後の部分を補って、もういちど引用すると、つぎのようになります:



「行手には叡山が見え、そのはるか向うに、全山真白く雪におおわれた連峰が、目のさめるような美しさでそそり立っていた。疎林に覆われた嵯峨の山々のなだらかな曲線を見て来たわしの目には、それは殆ど同じ山とは思われぬきびしい峻厳な美しさで映った。確か途中で行き会った行商人に聞いて、わしはそれが比良だと知った。時々、わしは足を停めては比良を見た。死神といっしょに比良を見た。初めて見る比良の、神々しいまでに美しいはろばろとした稜線にわしは見惚れた。

 堅田の浮御堂に辿り着いた時は夕方で、その日一日時折思い出したように舞っていた白いものが、その頃から本調子になって間断なく濃い密度で空間を埋め始めた。わしは長いこと浮御堂の廻廊の軒下に立ちつくしていた。湖上の視界は全くきかなかった。
〔…〕浮御堂を出ると、わしは湖岸に立っている一軒の、構えは大きいが、どこか宿場の旅宿めいた旅館の広い土間にはいって行った。〔…〕

 わしは一言も喋らず、お内儀の給仕で食事をすませると、床の間を背にして坐禅
(すわ)った。わしはその時、明朝浮御堂の横手の切岸に身を沈めることを決心していた。〔…〕わしは湖の底に横たわる自分の死体を何回も目に浮かべながら、一人の男の、取り分け偉大な死がそこにはあるように思った。」
井上靖『比良のシャクナゲ』より。







比良山系・蛇谷ヶ峰 “リトル比良”から望む。






 風景を描くことによって、風景と一体になった作者の心境を描く井上靖の“作品戦略”は、賢治の《心象スケッチ》にひじょうに近いものだと思います。



 ともかく賢治の「岩手山」は、レトリックの水準で見たときに、それがシネクドキに当たることはまちがえないし、これをシネクドキとして理解することによって、これまでにない“真っ当な”読みが得られることもまちがえないと思います。






     岩手山

 そらの散乱反射のなかに
 古ぼけて黒くえぐるもの
 ひかりの微塵系列の底に
 きたなくしろく澱むもの

『春と修羅(第1集)』より「岩手山」







 ところで、この「岩手山」という詩は、さまざまな論者によって、ずいぶん恣意的な解釈が行われてきたように思います。ある論者は、この詩の「岩手山」とは、賢治が争いの対象とした“父”に対する比喩である。この詩の「岩手山」は、“父”の権威の象徴であると論じました。こうした“解釈”が、ある時期にはむしろ通説のように言われていたのです。

 もちろんそのような“解釈”が間違っていると言うことはできないでしょう。そのような特殊なコンテクストを持ち込むことも、読者には許されていると言わなければならない。しかし、それがテクストそのものからは著しく乖離した、恣意的な読みであることは争えないと思います。

 この詩は「岩手山」と題されている以上、やはりどこまでも「岩手山」を主題として描いた詩に読むべきではないか?…あの岩手県の中央にそびえる火山群の姿を詠んだものとして、理解したい……ギトンは、ずっとそう思ってきましたので、さきに引用した中村三春氏の解説を見て、我が意を得た気がするのです。

 【参考】⇒:《ゆらぐ蜉蝣文字》【40】岩手山








 ここであらためて、この詩を読んでみますと、賢治特有のシネクドキで描かれた「岩手山」の姿は、おそらく他のどんな詩人や作家が描いた岩手山とも異なっています。それは、日本の伝統的な文学で描かれた山の姿とは、似ても似つかないものです。



 ふるさとの山に向ひて
 言ふことなし
 ふるさとの山はありがたきかな



 という啄木の短歌
(☆)から盛岡の人が思い浮かべる岩手山の姿とも、まったく異なっているでしょう。



☆註 この短歌の「ふるさとの山」については、それが岩手山なのか、姫神山なのかをめぐって論争があり、決着がついていないそうです。ここでは仮に岩手山を指すとして議論を進めます。なお、この「ふるさとの山」で岩手山を指した(または姫神山を指した)啄木の表現も、シネクドキです。




 日本の伝統的な山の描写と言えば、↓『枕草子』の冒頭が想起されます: 




 春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。




 平安京(京都)から、日の出の方角にある「山ぎわ」と言えば、比叡山の尾根でしょうか?…ともかく、なかなか独創的な山の姿の描出であることは、まちがえありません。

 しかし清少納言にしろ、啄木にしろ、それぞれに独創的ではあっても、相手が「山」であることを前提として見ているという点は、動かしようがありません。

 ところが宮沢賢治の場合は、どうでしょうか。見ている対象が「山である」という大前提を外してしまって…いわば“括弧に入れて”、「山」と呼ばれる以前にあったそのものの姿に遡って見ているように思われるのです。

 わたしたちの常識的な観念では、「山」というものは大地の一部です。底部において大地につながり、「そら」に向って突き出ている、あるいは盛り上がっているものです。私たちは、どんなに想像をたくましくしても――たとえば幻想的な詩を考えようとしても――、知らず知らずのうちに、この観念が入りこんできてしまうのを避けることができません。

 ところが、賢治の「岩手山」は、大地よりも「そら」とつながっているように見えます。まるで“気圏”の一部であるかのようです。広大な青空全体が、微細な粒子の駆けめぐるコロイダールな世界だとすれば、粒子の流れが淀んで澱り集まっている場所、あるいは、粒子のまばゆい散乱光が翳って、焼け痕のように落ち暗んだ場所が、「岩手山」なのだと。。。

 「岩手山」は、大地よりは、「そら」の一部であり、“気圏”を廻る運動の渦が残した痕跡であり沈澱なのだと。



 もっとも、そうは言っても、賢治の描く岩手山は、決して非日常的な怪異でも、荒唐無稽な幻想でもありません。むしろ、私たちが日常的にしばしば目にする姿ではないかと思います。

 ひろびろとした北上平野の彼方に、さまざまな形の雲が飛び交う広い空の下に、うずくまるように、その平たい三角形の姿を横たえている山塊‥、夕方など、そらとの境界もはっきりしなくなった暮色の姿が、この詩に描かれた岩手山なのではないかと思われることがあります。






 
岩手山、紫波町から    









 さて、詩「岩手山」に描かれたのは、作者宮沢賢治が認めた岩手山のひとつの姿であって、別の詩では、また別の姿を認めています。

 次回は、「岩手山」から3ヶ月後の日付をもつ「東岩手火山」を見ていきたいと思います。










ばいみ〜 ミ




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カテゴリ: 宮沢賢治

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