09/23の日記

16:38
【宮沢賢治】記念館の
✥✥アザリア展 🌠🌠

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宮沢賢治記念館 
花巻市、胡四王山   











 こんにつは (º.-)☆ノ




 



 前回は『イーハトーブ館』の《アザリア展》を特集しましたが、今回は、『宮沢賢治記念館』の《『アザリア』100周年記念展》に行ってきました。

 『記念館』のほうのアザリア展は会期が短いのですが、雑誌『アザリア』の実物(小菅健吉旧蔵本)の展示を中心としています。実物に接することが難しい私たちにとっては、またとない貴重な機会です。

 実物の展示はガラス越しですが、明るい照明の下で表紙全体を見ることができる点で有益でした。また、全号のレプリカが置いてあって、こちらは手に取って見ることができるので、関心のあるページをめくって画面配置などを確認することができました。

 『記念館』に所蔵されている賢治原稿などの資料は、現在、永久保存のための修復作業が進められているとのことで、今回展示されている『アザリア』と、散文『秋田街道』草稿は、すでに修復作業を終えた実物です。

 なお、『アザリア』の現存する実物は、この《小菅本》のほかに、保阪嘉内の持っていた《保阪本》があります。《保阪本》は、韮崎市の記念会が保管していますが、じつは花巻の『桜地人館』にも《保阪本》の一部が展示されているのです。

 《保阪本》の一部が『桜地人館』に所在を移してしまった事情には、なにか複雑なものがあるようです。故・保阪庸夫氏が書いておられるところによれば、『桜地人館』の設立者である故・佐藤隆房博士が、庸夫氏から借りうけて自分のものにしてしまったと言うのです。今となってはコトの真実は不明ですが、きちんと保存されているのであれば、どこにあってもかまわないとも言えます。


 【参考】(『桜地人館』)⇒:【ギャルリどタブロ】ハームキヤ(4)








「共立花巻病院」
(稗貫農学校・跡)にある佐藤博士の顕彰碑







 さて、《アザリア展》は、『記念館』内の特別室で行われていました。『イーハトーブ館』の《アザリア展》に比べると、小ぢんまりした展示で、とくに目新しい知見などはありませんが、賢治はじめ“4人”を中心とした従来の標準的な理解に立脚した『記念館』らしいオーソドックスな展示といえます。

 それでも、展示説明の中にあった↓つぎの表現が目につきました。






 
 記念館《アザリア展》図録より






 「表現の自由」という語句は、同人たちが、あえて学業学科とは無関係な文芸雑誌『アザリア』に集った思いを、よく表していると思います。その詳細は、『イーハトーブ館』の《アザリア展》のほうで、最新の研究成果として示されていますが(⇒:【宮沢賢治】イーハトーブ館のアザリア展)、こちらの《アザリア展》も、それを踏まえているのだと思いました。



 『アザリア』創刊号の巻頭に置かれた小菅健吉の文章↓は、"表現の自由"が同人たち共通の想いであったことを語っています。







〔…〕吾がアザリア会は〔…〕乱れ易く傷みやすき心を育み、現在に対する平を軽からしめ、自由てう心を積極的に向上せしむべく年来各自の心に、はりつめたる琴線相触れて、こゝに第一歩を踏み出しぬ。」
『アザリア』第1号,小菅健一「初夏の思ひ出に」より。





 「自由てう心を積極的に向上せしむべく」―――つまり、小菅のこの巻頭言によれば、単に学校の規制から逃れて自由を満喫するというのでなしに、因習や既存の観念にとらわれない「自由な心」を積極的に培っていきたいという意気込みが、同人たちの結集した趣旨であったことになります。

 このように考えると、同人たちの多くが卒業後に海外へ移住して行ったこと、宮沢賢治にとっては、この雑誌がいわば出発点となったこと
("アザリア体験"がなければ、彼は単に地方の篤実な農学教師・農業実践家として、一生を終えたかもしれません)、逆に、佐藤校長ら高等農林学校当局は、『アザリア』の実質的中心であった保阪嘉内を“首謀者”として退学処分することによって、学生たちの動きを牽制した―――そういった関連が見えてきます。

 同人以外の学生だった人たちによる回想の中では、『アザリア』の中心は宮沢賢治だったとされていますが、それは同人の中で宮沢だけが、作家として死後に著名になったからでしょう。

 『アザリア』刊行当時の同人たちの品評会では、賢治の投稿作品は、なんら評価を受けていません。おそらく、その斬新な作風は、まだ誰にも理解できなかったのだと思います。

 もし、外部の人たちには賢治が中心のように見えたとしたら、成績優秀な特待生で、教授たちにも受けの良い彼を、同人たちが“表て看板”にしたためだと、ギトンは思います。

 『イーハトーブ館』の《アザリア展》で明らかにされたように、同人活動の中心になった場所は、保阪が下宿していた「鎌田屋」であり、保阪は、もっとも掲載作品が多いばかりでなく、同誌の実質的な“主筆”だったのです。








「鎌田屋」跡の案内プレート、盛岡市材木町






 『イーハトーブ館』での展示によると、雑誌『アザリア』の謄写製版と印刷は、もっぱら河本義行が行なっていました。

 できあがった雑誌は、印刷したままのバラの状態で同人に渡され、折って綴じるのは、各自がしていたと言います。

 今回、『記念館』のほうで雑誌(レプリカ)を実際に手にとって見て、そのことがひじょうによくわかりました。

 第1,2号と、第5,6号は、横長の紙を二ツ折りにしています。ただし、第1号の表紙だけは、同じ紙を半分に切ったもの。

 ところが、第3号と第4号の本文は、横長の用紙のままなのです。二ツ折りにできないのは 本文の印刷が、真ん中に余白をあけずに、1枚全体に続けて印刷してしまっているからです。

 表紙も1枚をそのまま使い、左半分は、裏表紙を印刷しているように見えます。しかし、表紙と裏表紙の間に本文を入れて袋とじにするには、表紙を左に、裏表紙を右に印刷しなければならないのに、そうなっていませんから、これでは綴じることができません。

 もっとも、現存する第4号は、⦅小菅本⦆と⦅保阪本⦆で表紙が異なります。⦅保阪本⦆は、第3号と同じく、1枚の用紙に表紙と裏表紙を左右逆に印刷していますが、⦅小菅本⦆は、1枚の紙を半分に切って表紙にしており、裏表紙はありません。

 ⦅保阪本⦆を印刷した後で、第3号と同じまちがえをしたことに気づき、表紙だけ作り直したのかもしれません。



 ⦅小菅本⦆第4号は、右端で綴じると、本文の紙の左半分が飛び出てしまうことになります。このようになっている場合、本文を2回折って“観音開き”にすれば、用紙の半分の大きさの冊子として収めることができますが、小菅は、用紙を折らずに、全部いっしょに右端をとめただけで保管していたようです。

 








  
『アザリア』第3号、表紙(と裏表紙?)  






 手作りで同人誌を作ったことのある方は、よくわかると思いますが、こうした帳合いのまちがえは、よくあることで、いざ製本しようという段階になって、あっと気づいて慌てることになりますw



 ところで、3,4,6号の表紙にはイラストが描かれています。

 3号のイラストは、レンゲと思われる草花が描かれ、「NO FIRE, NO SMOKE」(火のないところに煙は立たぬ)と書かれています。この標語を、どういう意味で記したのかはわかりません。








『アザリア』第4号(保阪本)、表紙(と裏表紙?)




『アザリア』第4号(小菅本)、表紙






 4号(小菅本)のイラストは、綿毛をつけた草でしょうか?針葉樹でしょうか?いずれにせよ、飛んでいる種子のような小さな三角形が、まわりに描かれています。

 保阪本のほうのイラストは、花瓶に生けた花。やはり小さな三角形が描かれています。裏表紙にも草花のイラストがあります。







『アザリア』第6号、表紙





 第6号の表紙は深緑色のラシャ紙で、表紙になる部分が左になっており、本文の用紙も真ん中を空けて印刷してあるので、二ツ折りにした本文を挟んで綴じることができます。最終号に至って、ようやく帳合いのまちがえを正すことができました。

 表紙のイラストと誌名は、別の白い紙に謄写印刷したものを貼り付けてあります。雲から光芒が差している丘の上に、2本の塔をそなえた教会風の建物があり、ふもとに、木造風の建物群と植え込みと畑があります。



 これら『アザリア』の表紙イラストは、同じ人が描いているように見えます。第4号(保阪本)のイラストの下に、丸で囲んだ「K」という署名がありますが、宮沢、小菅、保阪、河本、いずれも氏名どちらかに「K」のイニシャルがあるので、「K」が誰なのかはわかりません。製版を担当していた河本でしょうか。









 ところで、ちょっと気になったのは、記念館の⦅アザリア展⦆のポスターなどに使われている↓このイラストです。

 『アザリア』第6号の表紙絵に似ていますが、よく見ると下半分が違います。賢治の『秋田街道』に書かれた“春木場河原”での同人4名の姿のようです。

 会場では、この絵が額に入って展示されていましたが、作者名の表示も説明もありませんでした。通りすがりに見ると、宮澤賢治か誰かが描いたものだと思ってしまいそうですが‥‥、

 学芸員の方の“いたずら”でしょうかね‥?w



 【参考】(宮沢賢治エッセイ『秋田街道』)⇒:【ギャルリどタブロ】雫石(1)









 










「葛根田
(かっこんだ)川の河原におりて行く。すぎなに露が一ぱいに置き美しくひらめいてゐる。新鮮な朝のすぎなに。

 いつかみんな睡ってゐたのだ。河本さんだけ起きてゐる。冷たい水を渉ってゐる。変に青く堅さうなからだをはだかになって体操をやってゐる。

 睡ってゐる人の枕もとに大きな石をどしりどしりと投げつける。安山岩の柱状節理、安山岩の板状節理。水に落ちてはつめたい波を立てうつろな音をあげ、目を覚ました、目を覚ました。低い銀の雲の下で愕いてよろよろしてゐる。それから怒ってゐる。今度はにがわらひをしてゐる。銀色の雲の下。
〔…〕
宮沢賢治『秋田街道』より。























ばいみ〜 ミ



 
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カテゴリ: BL週記

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