08/19の日記

09:21
【シベリア派兵史】派兵過程――《尼港事件》(1)

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アムール州都ブラゴヴェシチェンスクとアムール川     






 こんにつわ。(º.-)☆ノ








(3)《尼港事件》―― 1920年3月


 (i)ニコライェフスクの地理的・歴史的条件





 まず“尼港”――ニコライェフスク――の位置を見ておきましょう(↓地図参照)。



 中国領の“満洲”――現在は「東三省」と言います――とロシア領のシベリアとの境界になっているのは、アムール川(黒龍江)とその支流ウスリー川です。アムール川は、上流のブラゴヴェシチェンスク市内でも、利根川の河口を上回る川幅をもった大河です。軍艦級の大きな船が、アムール川とその支流・松花江を遡って中国領のハルビンまで行くことができます。

 逆に、海からハルビンへ行く航路は、このアムール川〜松花江が唯一です。ウスリー川は、ウラジオストクの少し北に水源があって、日本海とはつながっていません。したがって、中国の艦船がハルビンへ行くには、日本海〜間宮海峡を北上して、ずっと北のアムール河口を回って来なくてはなりません。

 そのアムール河口にある港湾都市が、ニコライェフスクなのです。戦略上、および産業交通上、いかに重要なポイントにあるかがわかると思います。“アムール河畔のニコライェフスク”という意味で、ニコライェフスク・ナ・アムールともいいます。

 また、対岸のサハリン島を含む“サハリン州”の州都は、当時、ニコライェフスクにおかれていました。

 とはいえ、ニコライェフスクは、比較的人口のあるシベリア鉄道沿いからは遠く離れた極北の地です。サハリン島との間の間宮海峡は、1年の半分は流氷のために航行不能、何年かに一度は完全に氷結して、雪上車や橇でサハリンに渡ることができます。⇒
(写真:氷結した間宮海峡)〜ゆらぐ蜉蝣文字〜 7.6.1

 


 もともと、1689年のネルチンスク条約以来、下の地図に入っているシベリアの領域はほとんど全部が中国領でした。ロシア側の皇帝ピョートル大帝がまだ年少だったことや、2度のクリミヤ遠征敗北で威信が失墜していたことから、ロシアの宮廷は、康熙帝の清が要求する不利な条件を呑んでしまったと言われています。

 19世紀はじめに間宮林蔵が(清国の許可を得て)探検した時には、アムール川下流は、左岸(北西岸)にも満州人やツングース人の町があり、のちにニコライェフスク市となる河口付近にも、「フヨリ」という町があったと、間宮は『東韃地方紀行』に書いています。⇒:Wiki: ニコラエフスク・ナ・アムーレ

 しかし 18-19世紀にかけて、ロシア人のシベリア進出が盛んになり、1849年シベリア総督に任命されたニコライ・ムラヴィヨフ・アムールスキーは、中国領であったアムール川下流域に無断で踏み込む探検を後援し、アムール河口に建設した哨所を承認しました。これが、ロシア人の町ニコライェフスクのはじまりです。⇒:Wiki: ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキー

 1858年には、清国内が太平天国の乱やアロー号戦争で混乱しているのに乗じて、アイグン条約を締結し、アムール川上流とウスリー川で中国領を囲い込むような現在の国境線までロシアの領有権を認めさせました。この国境線は、翌々年の北京条約(列国の中国に対する不平等条約として有名な)で確定されました。

 アイグン条約締結にあたって、ムラヴィヨフは、アムール川に停泊中の軍艦から銃砲を乱射し、調印しなければ武力をもって黒竜江左岸の満洲人を追い払うと脅迫して、国境線の南下を認めさせたと言います。⇒:Wiki: アイグン条約

 ムラヴィヨフは、シベリアの新領土にロシア人とコサックの植民を進めました。














 他方、日本人はと言うと、すでに 17世紀末から、サハリン島への漁民と商人の進出が進んでいました。19世紀はじめには、サハリン島南部(コルサコフ,大泊)の松前藩の商場「久春古丹」をロシアの軍艦が攻撃する事件(文化露寇 1806-07)が起きています。1853年にはムラヴィヨフの配下が「久春古丹」を占領していますが翌年には撤収しており、1854年日露和親条約では、樺太島は“日露国境を定めず、是までの仕来りによる”と取り決められました。

 しかし、日本の幕府・諸藩が設置した陣屋や漁場
(ぎょば)は、樺太島南部に限られていたようです。ロシア人の植民も、サハリンには達していませんでした。ロシア帝国の流刑地として、サハリン島に大量のロシア人囚人が送り込まれたのは、1875年の「千島樺太交換条約」で全島がロシア領になってからのことです。

 大陸側・対岸のニコライェフスクも、19世紀半ばまでは、さびれた町でした。1886年にここを訪れた黒田清隆も、1890年に訪れたアントン・チェーホフも、“町じゅう空き家だらけだ”“住民は食うや食わずで、酒びたりの生活を送っている”などと記しています。





 1890年代に入ると、毛皮貿易と金鉱、アムール川の舟運、それに日本人の漁業と海産物貿易によって、この町は活気を帯びてきます。1901年にロシア帝国政府はニコライェフスク付近での日本人の漁業を禁止しますが、ロシア人との共同経営の形をとって継続した日本の商会もあり、また日本への海産物輸出は支障なく続けられました。主な輸出品は鮭でした。「町の有産階級の大多数はユダヤ人で、漁業に関係していた。」(Wiki: ニコラエフスク・ナ・アムーレ)そのためか、町の気風は親日的だったと言います。


「1914年、アムール下流地域は沿海州から分割されてサハリン州となり、ニコラエフスクは、州の行政の中心になった。この当時には、冬期も居住する永住人口が12,000人になり、学校、図書館、公民館、公園などの公共施設も充実してきていた。映画館も2軒あり、電灯や電話もあった。」

Wiki: ニコラエフスク・ナ・アムーレ



 《シベリア派兵》の時期には、日本人住民も 350名を数え、日本領事館が設けられていました。


「1919年6月調査(1920年6月16日の外務省公表)では、日本人は領事以下353人(男169人、女184人)となっている。」

Wiki: 尼港事件



 1918年1月の調査では、居住日本人女性のうち 90名が「娼妓」となっています。九州・天草から来た娼婦が多かったと言います。

 町で最大の日本人商人は島田商会で、唯一の商社でした。ロシア革命後の経済混乱期には、島田本人の肖像入り金券を紙幣として流通させるほどの勢力を誇っていました。



 ロシア革命当初は、ニコライェフスクにも赤軍が進駐し、町のユダヤ人資産家は、英米日の銀行への預金換えをはかったり、ウラジオストクに逃れる者が多かったと言います。

 もっとも、↓下の写真は、1917年2月にニコライェフスクで撮影されたものとされますが、横断幕には「人民
[ナロート]万歳。土地、自由[スヴォボダ]、平和」と書かれています(綴り字に一部間違えあり)。このスローガンは、ボルシェヴィキよりもナロードニキ(ナロードニキ派の結社『土地と自由[ヴォーリャ]』など)を想起させるものです。この地方では、“赤軍”と言っても、エスエル派の影響が強かったと思われるのです。地域のパルチザンの特殊な性格が、《尼港事件》のひとつの原因になったと思われます(次回に詳論)。

 1918年にはニコライェフスクにもソヴィエト政権が成立していますが、まもなく進駐してきた《シベリア派兵》の日本軍との衝突を避けて、シベリア各地の革命家は“地下”に潜ります。ニコライェフスクでも同様で、1918年9月には、日本軍陸戦隊が抵抗を受けることもなく上陸し、占領しています。

 日本軍の進駐によって、町では反革命派が息を吹き返し、市政を掌握しました。








 (ii) 停戦とパルチザンの入城まで



 18年11月ころ以降は、オムスクの反革命・軍事独裁政権「全ロシア政府」が、シベリア全域を掌握するようになります。その内部クーデターで「全ロシア最高執政官」に就任したコルチャークは、一時はモスクワにまで攻め上る勢いでしたが、まもなくボルシェヴィキ赤軍の大攻勢に追われて失墜。1920年2月に、コルチャークは赤軍に引き渡されて処刑され、オムスクの反革命「全ロシア政府」は崩壊します。その経緯は、前々回に述べました。⇒:【シベリア派兵史】派兵過程――1920年初めまで

 1919年末〜20年はじめには、赤軍の波濤の勢いはシベリア東部にも及んできます。19年11月ハバロフスク郊外で開かれたパルチザン代表者協議会は、


「ニコラエフスク解放の問題を最重要課題として取り上げ、アムール河下流方面へ向かう部隊の再編成を行ったのである。

 河沿いに北上した部隊は途中の村々で農民を味方につけながら勢力を増し、鉱山労働者をも加え、1月に尼港に迫ったときは大部隊になっていた。」

原暉之『シベリア出兵――革命と干渉』,1989,筑摩書房,p.518.



「1920年1月、23歳のヤコフ・トリャピーツィンをリーダーとする約 4000名のパルチザンがこの街を包囲した。彼らは前年11月のパルチザン部隊の指揮官協議会の指示で、アムール河下流を制圧するため派遣されてきた部隊であった。」

麻田雅文『シベリア出兵』,2016,中公新書,p.155.








 






 ここでもう一度、ニコライェフスクの置かれた自然条件を想起してほしいと思います。アムール川は、前年11月半ばまでに結氷していました。5月まで航行は不可能です。厳冬の 1月に進軍して来るなどということは、地の理を心得、農民の支援を受けたパルチザンだからこそできたと言えます。

 日本軍にとって、ハバロフスクの司令部との連絡手段は、有線電信と、ニコライェフスクの下流にあるチヌイラフ要塞の無線通信だけでしたが、有線は、ハバロフスクでパルチザン代表者協議会が開かれた数日後に切断され、不通となりました。

 ニコライェフスクとチヌイラフ要塞の間の通信線も、1月29日にパルチザンによって切断されましたが、人員が往復して伝達すれば、どうにか外部との無線通信は可能でした。





 ニコライェフスクにもロシアの反革命・白軍はいましたが、パルチザンを迎え撃つべく赴いた戦場では、
「強制徴募された兵士多数はパルチザン側に寝返」る状況で、最終的には、ニコライェフスクの白軍兵力は、「投降者の続出で」50名程度にまで減ってしまいました。(原,p.518)

 しかし、日本軍守備隊は、陸海軍合計 372名で駐屯していました。







「1月中旬以降、尼港防衛戦の主役を担ったのは日本軍である。日本軍守備隊は 1月11日から周辺地域に出動してパルチザン軍と交戦を開始した。激しい風雪に行動の自由を奪われ苦戦が続いた。」

原,p.518.





 このように、ニコライェフスクでは、日本軍が、反革命派のパルチザンとの戦いの矢面に立ったわけですが、これと対照的だったのは、アムール州都ブラゴヴェシチェンスクの場合です。

 


〔ギトン注―――1920年〕2月初頭、武市〔ブラゴヴェシチェンスク―――ギトン注〕はパルチザンに包囲された。第14師団長白水淡師団長が日本軍の中立を宣言する中で、クズネツォフ〔ブラゴヴェシチェンスク周辺を支配していた反革命派コサックのアタマン―――ギトン注〕は政権を投げ出し、〔…〕日本武官の保護下に黒河〔アムール川対岸にある中国の都市―――ギトン注〕に逃れた。政権は〔…〕2月5日から6日にかけての夜、ソビエト臨時執行委員会」によって掌握された。「白水師団長は州民の要求を入れて撤退するのでは格好がつかないと考えて、」日本派遣軍司令部に撤退を具申し、アムール州撤退の軍命令を受けた上で「27日から撤退を開始する。

 入れ替わるように、」
パルチザン勢力を結集する「州執行委員会がパルチザンとともに市内に入った。」
原,p.517.



 ブラゴヴェシチェンスクは、1919年中に日本軍とパルチザンの間で激しい戦闘が続き、イワノフカ村などの焼打ち・住民虐殺が行われた地域です。おそらく日本軍の指揮官は、日本軍が住民の怨嗟の的となっていることを知っており、パルチザンに敵対すれば、住民全部を敵に回すことになる――ということがわかっていたのでしょう。もはや、利権にも「討伐」にもこだわっている時ではない。ただ“手ぶら”の撤退あるのみ、と決めて、それを実行するだけの勇気があったと言えます。





 アムール川とウスリー川の合流点に位置するハバロフスクでも、やはり、日本軍の駐留のもとで、反革命派から革命派への政権移譲が、無血裏に行われました:




「ハバロフスクのカルムイコフ軍
〔カルムイコフは、日本軍の支持を受けた反革命コサックのアタマン―――ギトン注〕は極度に専制的で残虐な体質ゆえに下では兵士の脱走が絶えず、上からは野蛮な粛清が行われ、その勢力はこの頃までに 600人を数えるのみとなっていた。カルムイコフは〔…〕手兵を率いて〔ギトン注―――1920年〕2月13日の未明、中国領へ遁走した。

 16日、市は
〔ギトン注―――ウラジオストクから〕北上してきた沿海州ゼムストヴォ参事会臨時政府軍と周辺地域のパルチザンによって占領された。」
a.a.O.




 しかし、革命派とパルチザンが入城して来ても、日本軍は市内に駐留を続けていました。というのは、ハバロフスクは、アムール州各地から撤退して来る日本軍の集結地になっていたからです。

 沿海州ゼムストヴォ参事会(ボルシェヴィキ党員が主導していました)は、その点に一応の理解を示し、「アムール州からの撤兵を歓迎する」「他の地域へ移送することなく全面撤退すべきである」旨の通牒を、日本派遣軍政務部に送っています。








ニコライェフスクとアムール川







 しかし、これらの地域とは異なり、ニコライェフスクの日本軍は、ロシア反革命・白軍が崩壊したにもかかわらず、あえてこれに代り、自ら矢面に立ってパルチザン軍と交戦しています。



 この違いは、なにゆえに生じたのでしょうか?

 ひとつ考えられるのは、ニコライェフスクの置かれた厳冬の自然条件です。ブラゴヴェシチェンスクもハバロフスクも、国境の町であり、アムール川を渡れば中国領です。日本軍が撤退するのも、反革命派が逃亡するのも、簡単なのです。しかし、ニコライェフスクでは、そうは行きません。1月以降の条件下では、町から出ることもできないでしょう。

 それに加えて、現地の日本軍の判断を狂わせた要因として、通信の途絶も大きかったと思われます。すでに撤退を決めていた日本派遣軍司令部の方針が、十分に伝わっていなかったように思われます。撤退の方針が理解できず、現地部隊独自に判断した場合には、日本軍の“もとから”の大義名分である“過激派の討伐”を前面に立てて行動しがちです。“自分と反革命派は正義で、パルチザンは悪者”と決めつけて行動すれば、徹底抗戦あるのみ――ということになってしまいます。

 しかし、同様の問題はパルチザン側にもあったように思われます。↑上で見たように、ハバロフスクでは、反革命派が逃亡したあと、日本軍と革命派・パルチザンが“同居”することになったのですが、両者の間の武力衝突は避けられています。ハバロフスクでは、パルチザン側にも自制があったと考えられます。

 ニコライェフスクを包囲したパルチザン軍は、ハバロフスクのパルチザン代表者協議会から派遣されて来たのですが、厳冬の条件のもとで、派遣元からの連絡・指導が行き届かなかったのではないでしょうか。いきおい、トリャピーツィンという若い指揮者の独断で、ことが運ばれたように思われます。その経緯は、↓以下で見てゆくことになります。

 パルチザンが来るまで市政を握っていた反革命派の性格も、ニコライェフスクは他の2市とは異なっていたようです。ブラゴヴェシチェンスク、ハバロフスク、いずれもコサックのアタマンが日本軍の支持を受けて独裁しており、彼らは、現地の日本軍が支持を放棄したくなるほど極悪非道でした。

 しかし、ニコライェフスクの市政は、ユダヤ人を中心とするブルジョワジーが握っていたようです。彼らはもちろん反革命派であり、パルチザンに対しては残虐でした―――この点は、↓以下で見ます―――が、コサックの首領のような“ならず者”ではなく、商取引を通じて日本人居留民とも信頼関係を築いていました。そのことが、町の反革命派に対する日本軍民の同情を強め、彼らがパルチザンに攻撃されるのを“座視してはいられない”、ともに銃を執って戦おう、――という気持にさせたのではないかと思うのです。



 これは、一見すると“見上げた正義感”のように思われなくもありませんが、はたしてそうでしょうか?‥そうする以外の選択肢は無かったのか?‥“ともに戦って玉砕すること”は、はたして、“反革命派”の信頼に応える最上の道だったのかどうか?‥‥事件の経緯を追いながら、考えてみたいと思います。








◇    ◇






 さて、1920年1月、ニコライェフスクは、約4000名のパルチザンに包囲され、これを迎え撃つ 白軍はわずか 50名で、戦意を失っている。そこで、372名――うち 330名が陸軍歩兵連隊で、42名は海軍無線電信隊――の日本軍がパルチザンとの戦闘を始めた―――というところまでだったと思います。

 



「日本軍は治安維持の面でも白衛軍に代わって
〔…〕市民と周辺住民に夜間外出を禁止し、これに違反した場合は即刻死刑に処すとの布告を1月10日づけで発している。

 1月24日にパルチザン軍の使者が日本軍守備隊にきて、和平を提議した。ところが守備隊長はパルチザン軍を『一ノ強盗団体ト目シテ』その提議を峻拒し、軍使の身柄を憲兵隊に留置し」、「白衛軍の防諜部に引き渡した。白衛軍は、この軍使を殺してしまった。

 
〔…〕もっとも日本軍人のパルチザン軍に対する蔑視と過小評価は石川少佐〔ニコライェフスクの守備隊長―――ギトン注〕に限った話ではない。」
原,p.519.



 しかも、白軍の殺し方が尋常ではなかったようです。



「日本=白衛軍により拷問をうけた軍使オルロフ同志の遺体は変わり果てた姿で発見された。眼球はえぐられ、鼻と踵は焼かれ、背は切り裂かれていた。」

パルチザン軍発行『ウスチアムールスカヤ・プラウダ』2号,1920年3月5日付:原,p.519.





 日本軍守備隊は、革命派に対しても、反革命派に対しても、このような戦時国際法に違反する行為をやめさせる役目があったと考えられます。それが《シベリア派遣軍》の果たすべき役割であったことは、米軍が各所でそれを行なっていたことからも明らかです。たとえば、ブラゴヴェシチェンスクの米軍は、カルムイコフ軍から脱走した兵士を収容して、カルムイコフの引き渡し要求を拒絶しています。

 しかし、残念ながら、日本軍の下士官や兵士は、戦時国際法さえ教えられてはいなかったのでした。



 ちなみに、シベリア派兵を描いた宮沢賢治の童話『氷河鼠の毛皮』は、ブルジョワ成金風の紳士と、パルチザンの間に入って、残虐行為をやめさせようとする青年を登場させていますが、いわば日本の派遣軍の理想化された像を描いている点で注目されます。これについては、またの機会に詳しく見ることとしましょう。











 
シベリアの原生林を流れる 
アムール川    







 2月2日に、ブラゴヴェシチェンスクの白水・第14師団長
(ブ市から無血撤退を行なったことは、↑上で述べました)は、ニコライェフスク守備隊長石川少佐あてに、「貴官は〔…〕いかなる政治団体といえどもわれより進んでこれを攻撃すべきではない」という趣旨の訓令を打電していますが、石川少佐はこれを無視してパルチザンとの戦闘を継続しています。

 2月21日には、パルチザン軍のトリャピーツィン司令官が、ハバロフスクの日本軍司令官に、「無益の犠牲を避けるため、外界と遮断されて日本軍の局外中立方針を了知していない尼港守備隊に所要の指示を与え」てほしいと要請します。これに応じて、白水師団長は、23日に再度の訓令をニコライェフスク守備隊に打電します。「わが軍はロシアの内政に干渉せず、アムール州からは近日中に撤退する。」


「貴官ハ従来ノ関係ニ拘束セラルルコトナク
〔…〕中立ヲ保持シ事ヲ平和的ニ解決スルニ努メ大勢ニ順応スヘシ」
原,p.520.



 これを受け取った石川少佐は、ようやくパルチザン軍との和平交渉に応じ、白水司令官の中立宣言を実施すること、白衛軍は武装解除されることなどを盛り込んだ和平協定がまとまります。

 両軍は停戦し、2月29日、パルチザン軍が労働者・市民に迎えられて市内に入城します。




 しかし、入城に際してパルチザン軍が掲げていたプラカードには、


「ブルジョワに死を」「将校団に死を」「国際強盗団打倒」「将校団、ブルジョワジー、ユダヤ人を殺せ」


 などと書かれていたとの証言があります。日本軍がパルチザン軍との戦闘を回避して無血入城させた他の諸都市とは異なり、ニコライェフスクでは、激しい戦闘ののち入市したパルチザン兵士の心性にも、異常なものがあったようです。階級イデオロギーというより、野放図な仇敵感情の発露を感じさせます。

 階級的敵対を「死」と結びつけるのは、ボルシェヴィキとしては通例ではありません。それ以上に、ユダヤ人に対する差別感情が顔を出していることは、見逃せないでしょう。

 もっとも、ニコライェフスクの白衛軍は、和平協定以前の時点には、「市内の監獄にいる政治囚を殺さないよう求めたパルチザン側の勧告を黙殺して少なからぬ政治囚を銃殺刑に処し」、軍使まで虐殺していたのですから、パルチザン側の報復は予想できたとも言えます。

 パルチザン軍は、入市すると早速、市ソヴィエトを組織し、コルチャーク政権下の市職員や白軍将校、資本家の逮捕・裁判・銃殺を開始しました。
(原,pp.521-522)

 






(iii)戦闘再開まで




 さて、この後で起きたことがらについては、2とおりの歴史叙述があって、どちらが事実であるのか即断できません。《尼港事件》の真相が迷宮に入りこむのは、ここからです。






 【第1説】参謀本部の『西比利出兵史』(1924年)によると、ことの次第は次のようです。

 ニコライェフスク守備隊長・石川少佐は 赤軍(パルチザン)と市ソヴィエトの反革命派に対する逮捕・銃殺に抗議して、3月7-8日にトリャピーツィンを詰問したが、赤軍側はまったく取り合わなかった。そして、赤軍は、3月11日に守備隊に対して、12日正午までの回答期限付きで武器弾薬の引き渡しを要求した。つまり、日本軍守備隊に対して最後通牒を発し、自ら武装解除するよう迫った。

 なお、事件後に発見された香川一等兵(赤軍に処刑された)の日記には、「武器弾薬ノ借受ヲ要求」してきたとあります。

 日本軍は、武器弾薬を引き渡したならば、自らも反革命派と同じ運命をたどることになると考え、乾坤一擲 12日未明に決起し、赤軍を襲撃した。

 襲撃・再戦闘の結果については、のちほど述べますが、ニコライェフスク港に停泊していた中国軍艦が赤軍側に加勢したこともあって、日本軍の敗北に終ります。と同時に、日本民間人の大部分が――殺戮なのか、玉砕なのか、これも両説ありますが――死亡する事態になります。

 


 【第2説】事件直後の3月末に、ニコライェフスクの赤軍が公式に表明した見解で、ソ連の歴史家たちもこれを踏襲しています。

 それによると、赤軍(パルチザン軍)が入市した当初、日本軍との関係はたいへん友好的で、
「日本軍は武装したまま自由に市内を往来していた。」日本の将校たちは「ソビエト政権に共感をもっているといい、自分はボリシェヴィキだと称し、赤いリボンをつけたりした。武力でも、できることなら何でも赤軍を助けたいと、約束した。」
原,p.522.


 ところが、これはみな警戒心を緩めさせるための仮面であった。赤軍を安心させておいて、その裏で再攻撃の準備をしていたのだ‥‥

 そして、日本軍に対する“武器弾薬を引き渡せ”との最後通牒については、――それは無かったということなのか――触れていません。

 また、第2次大戦後ハバロフスクで出版されたロシア人の回想記によれば、3月11日夜には赤軍本部で盛大な宴会が催され、石川少佐も日本の領事も出席していた。日本人はみな早く帰ったが、赤軍の多くは残って度外れに飲んでいた。そして彼らが酔いつぶれた夜半過ぎ、日本軍が襲ってきたのだと。
















 どちらが事実であるのか、たやすく断定することはできないと思います。

 停戦に至るまでの経緯から考えれば、パルチザン・赤軍は、反革命派のみならず日本軍に対しても、相当の不信と敵意を持っていたと考えられます。イワノフカ村などでの日本軍による焼打ち・虐殺の噂は広がっていたでしょうし、焼打ちを体験した村民さえ、兵士の中にいたかもしれません。また、赤軍には、市内に多くいた朝鮮人・中国人の居留民が志願・入隊しており、朝鮮人の多くは、故国で日本官憲による独立運動の弾圧を受けて逃れてきた人々でした。

 このような構成の赤軍兵士が、「武装したまま自由に市内を往来してい」る日本軍人を見て、恐れを抱かなかったとは思えません。「借り受け」という遠回しな言い方での武装解除要求は、ありえたことと思われるのです。





 しかし、その一方で、日本軍守備隊もまた、パルチザン軍を「ひとつの強盗集団」のように見なしていたのであり、じっさいに入市してきた彼らが反革命派を次々に逮捕・処刑するのを見ては、“つぎはわが身の番”と思わざるを得ないでしょう。日本軍が、うわべは従順を装いつつ、秘かに反撃の準備をしていたという憶測は、いかにもありそうなことに思えるのです。

 また、赤軍が宴会で酔いつぶれたところを狙って急襲したというのも、(織田信長の桶狭間ではありませんが)日本軍の戦術として、いかにもありそうなことです。(それを証言しているのは、織田信長も桶狭間も知らないロシア人です。)たとえば、日本側が、“武器引き渡し”に快く応ずるように見せかけて合コンに誘ったとすれば、赤軍は油断してしまったかもしれません。

 『シベリア出兵――革命と干渉』の著者・原暉之氏は、武器引き渡しを要求した夜に油断して酔いつぶれるとは思えないので、酔いつぶれを襲ったのが事実ならば“武器引き渡し要求”は事実ではないだろうとしておられます。

 しかし、ここでトリャピーツィンが白水司令官に送った要請を思い出してほしいのです。パルチザン赤軍の幹部は、日本軍守備隊が停戦交渉に応じないのは、日本軍上層部の撤退方針を知らないからだと思い込んでいました。事実は、白水司令官の最初の訓令を受け取りながら、それを無視して戦闘を続けていたのです。つまり、赤軍幹部は、日本軍守備隊の善意を信じていた――甘く見ていたと言えます。“お人よしすぎた”とも言えるでしょう。そういう一面は、ロシア人一般の性格でもあります。

 その“甘さ”のために、武器引き渡し要求にも進んで応じてくるだろうと考え、油断した――ということも、ロシア人ならばありうる気がします。






 はたして、事実がいずれであるのかは、わかりません。ともかく、停戦合意は破られ、赤軍の入城した市内で、戦闘が再開されました。そして、戦闘再開に至る経緯がどうであったかはともかく、攻撃の火ぶたを切ったのが日本軍であったことは、争いがないのです。










ばいみ〜 ミ



  
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カテゴリ: 日本近現代史

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