08/11の日記

07:46
【シベリア派兵史】派兵過程――1920年初めまで

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オムスク市 大聖堂   






 こんばんは。(º.-)☆ノ








 このシリーズ【シベリア派兵史】も、しばらくお休みしていましたので、これまでに述べた概略と、これから述べてゆく過程のスケッチとを、このへんで見透しておく必要があるかと思います。


 便宜上、時期を分けてまとめると、↓つぎのようになるでしょう。



(1)1917年3月から1918年7月まで

 つまり、ロシア《2月革命》から、日本政府の「シベリア出兵宣言」(1918年8月2日)まで。この時期は“派兵前史”にあたります。

 おおざっぱに言えば、《2月革命》は自由主義革命として起こったと言えます。ロシアの人々がまず求めたのは、“帝政と戦争”からの解放でした。しかし、帝政が倒れた後でどんな政権を樹立するかについては意見が一致しません。多少の混乱のあと、エスエル(社会革命党)のケレンスキーを首班とする政権が成立しますが、戦争を続けるかどうかなど重要な問題について合意があるわけではなく、政権はケレンスキー個人の信望でどうにか保たれていたようです。

 エスエルはナロードニキの流れをくむ政党ですから、とくに海外では、ナロードニキ派が政権を取ったと受け取られたように思われます。

 ロシアの政情不安は続き、この年11月には、レーニンらボルシェヴィキが《10月革命》を起こして政権を掌握します。《2月革命》が自然発生的な民衆と兵士の叛乱から起きたのとは異なり、《10月革命》はボルシェヴィキ派による計画的なものでした。

 ボルシェヴィキ政権がなぜ安定したかと言いますと、一面では、強権的・暴力的な支配によって反対派を一掃してしまったことが大きいと思います。例えば、皇帝一家を幼い皇子皇女に至るまで密殺しています。帝政復活派が皇帝の子孫を担ぎ出すことができないように、人道より支配の貫徹を優先したわけです。

 しかし、他方で、ボルシェヴィキ派は、“停戦”“農地解放”という人民の2大要求を実現して、多数の人々の支持を得ました。とくに“農地解放”のほうは、ボルシェヴィキ派の社会主義政策とは矛盾する、……ないしは迂回になるのですが、あえて政策を変えてでも人々の要求を容れたのです。そして政権を安定させたのちには、徐々に‥‥スターリン時代に入ってからですが‥‥いったん認めた農民の土地所有を“農業集団化”によって奪い去ってゆくことになります。

 《10月革命》によって、イギリス、フランスをはじめとする列強各国は、ロシアへの“革命干渉”の動機を強く持ったと想像されます。共産主義を信奉する国家が一つでも誕生することは、資本主義の支配層にとってたいへん危険だと思われたからです。

 しかし、それを正面から唱えてロシアに派兵することは、じっさいにはできなかったのです。国家間には“内政不干渉”という原則が確立しています。国連やEUなどの国家間組織による意思決定が行なわれるようになった現在とは違って、当時は“内政不干渉”原則が絶対的だったと思われます。

 しかも、ロシアは、アジア・アフリカの弱小国などではなくして、ヨーロッパ列強の一つです。イギリスでも、フランスでも、ほしいままにロシアに内政干渉した‥ということになると、こんどは自分が他の列強から内政干渉を受けることになりかねません。

 またそればかりでなく、“共産主義国家の誕生を阻止する”という大義名分では、列強の国民や兵士も付いてこなかったのではないかと思います。“派兵”開始後の話になりますが、シベリア派兵と同時期に、イギリス、フランスは、南ロシア方面からの干渉を目的としてクリミヤ半島などに兵力を上陸させているのですが、兵士が拒否したために、モスクワに向けて進軍することはできませんでした。






「1919年2月中旬、クリミア半島など南ロシアに上陸した各国の干渉軍(フランス、イギリスほか)の総数は、7万5000人から8万5000人と見積もられている。」

「第1次世界大戦が終結すると、ソヴィエト政府はブレストリトフスク条約
〔1918年3月、ドイツ等枢軸国とソヴィエト政府との間で、戦争の終結、ロシアの賠償金支払、ウクライナ、ポーランド等をロシアが放棄することなどを約した―――ギトン注〕の廃棄を宣言する。1919年2月には赤軍がキエフに入り〔ウクライナを侵略して新生ウクライナ国を倒し―――ギトン注〕、ウクライナの全域を支配下に置いた。他方、ドイツとの戦争から解放された連合国は干渉を本格化させ、南ロシアから進出を図ったが、動員された兵士たちの拒否などのため、ロシア中央部に進撃できなかった。」
麻田雅文『シベリア出兵』,2016,中公新書,pp.73,91.





 おそらく、当時はまだ、資本主義先進国の支配層はともかく一般国民は、社会主義も共産主義もよく知らなかったのではないかと思います。“共産主義=悪”という価値観が定着したのは、第2次大戦後の《東西冷戦》によるところが大きいのではないでしょうか。⇒【参考】ジョン・F・ケネディの反共演説:【ホブズボーム】両極端の時代(4)

 また、日本について言えば、当時(治安維持法制定前)は「大日本帝国」の「国体」を危うくする“悪”として目のかたきにされたのは、社会主義よりも自由主義であったと思います。社会主義や、とくにナロードニキなどの農民社会主義は、農本主義的な右翼・国粋思想と区別しにくかったと思うのです。












 そういうわけで、“派兵”の大義名分として立てられたのは、“連合国の一部だったロシア帝国が倒れた空白を埋めて、ドイツの東方侵略を阻止する”というものでした。《10月革命》以前は、これが唯一の大義名分でした。

 《10月革命》以後、新たに生じた“共産主義の脅威”に対抗するための干渉出兵を連合各国は模索しつつ、おもてだってそうは言えずに派兵を先延ばししている間に、シベリア方面で格好の大義名分になる事件が起きました。《チェコ軍団》の反乱です。

 大局的に見れば、《チェコ軍団》とボルシェヴィキ・ソヴィエト政府との間に大きな矛盾が生じる理由はなかった★のですが、軍団と、シベリア各地の反革命派との結びつきや、軍団の扱いをめぐるソヴィエト政府内部の不一致のために、軋轢が生じて、衝突にまでなったと言えます。しかし、連合各国の派兵推進派は、これに勢いを得て、“チェコ軍団救出”を大義名分とする派兵論を主張します。そこから、大統領ウィルソンをはじめとして派兵に否定的だったアメリカも、派兵実施に傾いてゆきます。






★(註) 《チェコ軍団》は、オーストリア帝国からの自国の独立を目的として、連合国側のロシアに投降してドイツ・オーストリアと戦っていたチェコ人の軍団で、ロシア皇帝に忠誠を尽くす動機はありませんでしたが、ボルシェヴィキ赤軍の勢力が及んで来るまでシベリア各地を事実上支配していた旧帝政派や自由主義諸派の勢力と在地で結びつきを持つのは、自然なことでした。帝政が倒れた現在は、無事チェコに戻ることが彼らの目標であり、ロシア領内にとどまって統治に関与することなど望んではいませんでした。他方、ソヴィエト政府も、勢力圏の目標として当時念頭にあったのは、旧ロシア帝国領のウクライナ、白ロシア、あわよくばポーランド東部までで、チェコにまで手を伸ばす意志はなかったと思われます。この点、第2次大戦後とは状況が異なります。








 そこで問題は、この間の日本での派兵論と派兵反対論の動向です。派兵論の中心は、寺内内閣の外務大臣・本野一郎、後任の外務大臣・後藤新平、陸海軍大臣と参謀本部、そして在野の各新聞と、“出兵9博士”と呼ばれた9人の“ロシア通”学者論客です。

 これに対して反対論者は、政友会総裁の原敬、枢密顧問官・牧野伸顕、在野では『大阪朝日新聞』と、吉野作造ほか民本主義派知識人でした。実質的に国政の決定権を持っていた元老の山県有朋、西園寺公望、それに寺内正毅首相も、出兵に反対ではなくとも消極的な意見でした。

 すでに論じたように(⇒:【シベリア派兵史】派兵とデモクラシー)、日本での派兵論の最も主要な論拠は、帝国主義的膨張にありました。ロシア帝国が倒れて“支配の空白”が生じた好機を逃すべきでない、と言うのです。海外向けの表立った理由は“ドイツの東方侵略”の阻止であり、“共産主義国家誕生”を食い止めることが暗黙の動機としてあったとしても、主要な理由はやはり日本自らがシベリア方面に軍事的経済的に勢力を伸ばすことだったと思います。在野には、シベリアへの領土拡張を主張する者も多くいたのです。

 たとえば、北一輝は、1919年夏に書いた『日本改造法案大綱』の中で、「極東シベリアの割譲を要求すべし」と書いています。

 ただし、列強各国は、日本がシベリアやアジア大陸に勢力を伸ばすことを容認していたわけではありませんし、とくにアメリカは、《シベリア派兵》を利用して日本の勢力が及ぶことを、たいへんに警戒していました。ですから、日本の膨張目的は、あくまでも“隠されたホンネ”であり、たとえ諸外国にはバレバレであったとしても、海外で公然と主張できるようなことではありませんでした。










 “ドイツ勢力の阻止”“チェコ軍団の救出”など、列国の派兵目的は、大戦が終結し当面の目標が達成されれば撤兵することとなる一時的な理由ばかりです。“共産主義の阻止”にしても、列国が次々にソヴィエト政府を承認するようになる数年後には、派兵目的としては無に帰します。こうして、派兵目的がみな消滅したことから、列国は兵力を引き揚げるのですが、それでも日本だけが撤兵を引き延ばし、最終的には 1925年まで北サハリン駐留を続けました。これは、日本の派兵目的の中心が“膨張”にあったからだと言わざるをえません。

 日本は比較的早くからソヴィエト政府承認に向けて交渉を開始しているのに、“北サハリン割譲”などを条件としたために、交渉の妥結も兵力の撤収も遅れることになります。これも、日本政府にとっては、“共産主義の脅威”などではなくシベリア進出こそが主要な目的だったことを物語っています。

 これに対して、派兵反対論の急先鋒だった原、牧野にしても、その反対論拠は“派兵に消極的なアメリカの意向を損ねてまで出兵すべきでない”ということに尽きていました。日本の膨張と対外侵略政策そのものに反対していたのは、石橋湛山など在野言論人の一部にすぎませんでした。元老の山県や寺内首相にしても同じことで、膨張論には賛成ながら、派兵に消極的なアメリカが障碍になって派兵に踏み切れなかったにすぎないのです。

 そのため、いったんアメリカ政府の容認のもとに“共同出兵”という形で派兵が始まると、堰を切ったような軍の勢いを食い止められる勢力は、日本国内には無かったと言わなければなりません。

 もともと大陸、シベリアへの対外侵略の“必要”を認め、そのための派兵の意義を是認しながら、“アメリカが嫌がるから”というだけの理由で反対する議論しか国内には無かったのだとすれば、そのアメリカが目くらましされている限り、膨張に対する歯止めは何もないことになるのです。







 










(2)1918年8月から1920年3月まで




 この時期は、《派兵》開始から、20年3月の《尼港事件》までとなります。

 この間、18年11月11日ドイツが連合国に降伏し、第1次大戦は終結します。つまり、《派兵》開始から3か月余りで、《派兵》の最大の目的であった“連合国側からロシアが抜けたことによる大戦のアナを埋める”という大義名分が消滅してしまうわけです。また、このころには、第2の派兵目的であった“チェコ軍団の救出”についても、日本軍がバイカル湖以東のシベリア鉄道をおさえたので、チェコ軍団は東西の梯団どうしの連絡がつくようになって、続々とウラジオストクへ移動していました。順調に進めば年内にも、チェコ軍団全員がウラジオストクからヨーロッパに向けて発てる状況でしたから、こちらもまもなく解決済み……ということで、《派兵》の大義名分はすべて無くなってしまうこととなります。

 そこで、翌1919年に入ると、日米以外の諸国は、つぎつぎに撤兵を開始します。2月にカナダ、9月にフランス。10月には、イギリスが少人数の守備隊を残して大部分の撤兵を完了しています。中国も、20年4月までに撤兵を完了していますから、各国と並行して撤退を進めていたと思われます。

 1920年1月には、日本に次いで人数の多いアメリカが撤兵を開始します。同年6月には、日本以外にシベリアに兵力を残している国は無くなってしまうのです。

 ところが、日本だけは、この 20年1月に、「東部シベリア」への追加派兵を決定しているのです。⇒:【シベリア派兵史】派兵と住民と若者たち



 潮が引くように各国が撤退してゆくなかで、日本軍だけは、退くにも退けず立ち往生してしまったのでした。

 なぜならば、日本の本当の派兵目的は、大戦とも、チェコ軍団とも別にあったからです。東シベリアを占領して、あわよくば日本の植民地にしてしまいたい‥、そこまでは無理としても、現地に傀儡政権を成立させて、日本が権益をほしいままにしたい。日本が各国とは不釣り合いな大軍を送り込んで、破竹の勢いで鉄道沿線を占領したのも、本当の目的は支配と利権の獲得にあったからです。……他の国が「派兵の目的は達した」と言って引き揚げて行くからといって、日本もすべてを投げ捨てて“手ぶら”で引き揚げることなど、できない相談でしたw

 そこで、この 1918年後半から 1919年いっぱいの時期における重要な点は、“シベリア現地に傀儡政権を立てて、日本が権益を獲得する”という日本のもくろみが、この間に、うまく進展しなかったことでした。なかなか成果が出ないために、ずるずると占領を続け、占領を続けるうちに、他の国はみないなくなって、日本だけがシベリアに残るが大義名分は無くなってしまう‥ かといって、手ぶらで帰ることもできない‥ これが、1919年をまたぐ時期の“流れ”の実像です。

 失敗の原因を言うならば、“もくろみ”自体がもともと甘すぎたのだと思います。人の足元を見透かすようにして援助を申し出る日本の軍人や外交官は、誰が見てもうさん臭いですし、相手は、“反革命”とは言ってもれっきとしたロシア帝国の元官僚・元軍人です。日本の傀儡になって操られるような人たちではないのです。そして、よろこんで日本の手玉に乗って来る人間はといえば、現地の住民から“人殺し”呼ばわりされるような・どうしようもないクズの首領だけでした。手下にも裏切られるようなクズを相手にしていては、現地政権の樹立さえおぼつかないのです。この点は、↓のちほど具体的に見てゆくことにします。



 1919年前後の時期の《派兵》の“実像”は、こういったところなのですが、日本の国民には、この“実像”が伝えられなかったことにも留意する必要があります。

 日本の国民は、1919年中…、1920年はじめまでは、《派兵》は順調に進んでいるものと思っていました。各国の撤兵は報道されなかったのか‥、報道されても目立たない扱いだったのか‥、ほとんど注意を惹かなかったようです。そして、これものちほど見ますが、政府部内の派兵強硬論をも上回るような大胆な膨張構想、シベリア植民地化の構想が唱えられ、もてはやされるのです。

 《派兵》が開始される前には、国論を二分するほどの派兵反対論が、国民の間にもあったのですが、いったん《派兵》がはじまってしまうと、世論は好戦熱に湧きかえり、おおいに“踊って”しまうのです。日露戦争から太平洋敗戦まで、日本人のこの・いつも変わらぬ馬鹿さかげんの原因がいったいどこにあるのか、マスコミが悪いのか、政治家が悪いのか、皇国教育と思想警察のせいなのか‥、いちど徹底して検証する必要がありますが、いまここで踏み込むには問題が大きすぎます。。。

 ともかく、18年9月末からは、《派兵》反対論者だった原敬が首相になって政権を握るのですが、原内閣も撤兵を進めようとはしませんし、シベリアの実情をつぶさに調べようともしていません。前政権・寺内内閣の外相・本野、後藤はいすれも派兵推進論者だったのに対して、原敬は派兵慎重論者の内田・元駐ロ大使を外相に迎えているのですが、それでも、いったん堰を切った派兵の勢いを止めることはできなかったように見えます。

 このような原内閣の姿勢は、国民の好戦意欲には、原といえども逆らえなかった……ということなのでしょうか?‥原内閣は、日本で初めての政党内閣ということで、有権者(普通選挙になる前ですから、一定以上の納税額のある富裕層)の意向に逆らえないために、かえって侵略的な《派兵》を止めることができなかった……と言わなければならないでしょうか?。。。


 さらに、この1919年前後の時期の“実情”として重要なことは、シベリア現地で、日本軍と住民との衝突‥‥日本軍による住民の虐殺が見られることです。これも、日本の国民には全く知らされなかったことですが、歴史過程としてはきわめて重要です。

 なぜなら、各国の派遣軍には起きていない・このような事件が、日本軍にだけ複数回起きているのは、日本軍の戦闘行為・占領行為そのものの特質の現れと見なければならないからです。そして、その結末は、翌1920年3月の《尼港事件》という形で、大きな惨劇となって現れることになります。

 当時の日本国民の眼から見れば、《派兵》開始以来順調に見えていたのに、突然降って湧いた不幸のように、日本軍民の虐殺が惹き起こされたかに見えたことでしょう。

 《尼港事件》は、1919年中の諸事件とは異なって、日本人側にも甚大な数の犠牲者が出たことから、日本国内で大きく報道されました。じつのところ、ロシア側(住民とパルチザン)には、その何倍もの数の犠牲が出ているのですが、日本国内では、もっぱら日本軍民の犠牲だけがとりあげられ伝えられました。そして、犠牲者の遺族の「かたきを討ってください!」という叫びが、日本じゅうの同情を惹くことになるのです。。。



 しかし、この 19年の虐殺諸事件から 20年春の《尼港事件》に至る《派兵》局面については、次回にとりあげて見てゆくことにしたいと思います。
















 18年8月からの日本の《派兵》過程には、列国には無いいくつかの特徴があると思いますが、ここではそのうち主な3点を挙げたいと思います。すなわち、@アメリカと列国を目くらまししながら、事前の約束を大きく上回る大量の軍隊を矢継ぎ早に送り込んだこと。そして、A侵略目的を達成する方法として、現地のロシア反革命派を援助して地方政権を樹立させ、そのもとで権益を取得しようとしたことです。

 @は、たとえ侵略が日本の主要目的だといっても、この《シベリア派兵》の段階では(のちの日中戦争とは異なり)、日本軍独自の行動は制限されていたこと、列国との“共同出兵”という外形は、最低限維持しなければならなかったことを意味します。

 そのような、日本軍の《派兵》に課せられた限界のために、日本軍による占領地の軍政統治というようなあからさまな侵略を行なうことはできず、ロシア人自身の地方政権による“秩序回復”を援助するという外形をとらざるをえなかったのだと思います。

 しかし、このような限界があったにもかかわらず、B現地のロシア人その他の住民と日本軍との衝突は少なくなかったのです。これも、列国派遣軍には無い日本軍だけの特徴でした。「衝突」と言うより、一方的に日本軍が住民を迫害し、その反発や抵抗を受けていると言ったほうがよい状況でした。黒島伝二の小説などに、その状況が活写されています。⇒:【シベリア派兵史】派兵と住民と若者たち

 なぜ日本軍の駐留と進軍が現地住民にとって迫害になったかと言えば、さまざまな理由があるでしょうが、そのおおもととして、日本軍も、日本軍の援護を受けた現地の日本人たちも、“戦争ではなく、膺懲(悪者を懲らしめる)のために来ている”という考えで固まっていたことが大きいと思うのです。

 自らの経済的・領土的欲望を満足させるための侵略の裏面が、どうして“膺懲”になるのか?‥こんにちの私たちは理解に苦しみますが、当時の日本人には、むしろそれが当たり前の考えだったのでしょう。

 ともかく、“桃太郎の鬼退治”のような空想に凝り固まった日本軍の将兵が、“鬼”のように見えた、あるいは隊長が“鬼だ”と指さした住民は、容赦なく“成敗”しようとした戦場のありさまが浮かび上がります。

 近代の戦争は(良くも悪しくも)一定の国家目的を追求するための手段であり、目的追求のためには“敵”の戦闘員、戦闘手段(基地、兵器など)、軍需生産手段を破壊して“敵”の戦闘力を弱めることだけが有効です。それ以外の占領地住民に対する迫害などは、抵抗を惹起することとなってむしろ戦争目的の追求を困難にする―――というのが、いっさいの戦時国際法の根拠となっている理屈です。

 ところが、《シベリア派兵》における日本軍は、そうした戦争目的とは無関係な“桃太郎の鬼退治”のような図式を頭に浮かべて進軍し、結果的には、住民迫害と戦闘の区別がつかないような行動をとることになったのではないでしょうか。

 そして、この“桃太郎”の図式は、《シベリア》以後の日中戦争から太平洋戦争に至る時期の範型として、日本将兵や“銃後”国民の脳裏を支配することになったのだと思います。






◇    ◇






 さて、在シベリアの日本軍兵員数(非戦闘員を含む動員数)は、派兵開始からひと月たたない 1918年8月中に2箇師団 7万2400名に達し
(麻田雅文『シベリア出兵』,p.73)、これが派兵全期間を通じての最大数でした。事前のアメリカの提案では両国各 7000名ずつの派兵であり、日本はこれに対して 1万2000名と通告して派兵を決定したものですが、じっさいの派兵数は、約束した数のじつに6倍以上であり、まったく詐欺と言うほかはない日本外交です。昔も今も、日本政府の大嘘つきは変りがないのですw

 その後、アメリカの抗議を受けて、同年11月には 5万8600名に縮小しています。もしアメリカの抗議がなければ、日本がさらに増派していたことは確実です。派兵実施前の 18年7月に陸軍省が作成した派兵計画は、7個師団合計15万名強をバイカル湖以東の東部シベリアに展開し、内地に6箇師団を待機させて交替予備兵力とする、というものでした。
(細谷千博『シベリア出兵の史的研究』,2005,岩波現代文庫,pp.173-175)

 日本以外のシベリア派兵数が6ヶ国合計2万名、南ロシアへの干渉派兵が英仏ほか合計7.5〜8.5万名という数字と比較すれば、日本の派兵数がいかに突出していたかわかるというものです。
(麻田雅文『シベリア出兵』,p.73)








 日本の派兵は2方面から行われました。ひとつは、アメリカ軍ほか各国軍との“共同出兵”で、主力はウラジオストクから上陸しました。そして、「浦鹽派遣軍」と称しました。その実、“東部シベリア全面派兵”が日本軍の意図だったのであり、「ウラジオ」と称したのは、アメリカほか諸外国に対する目くらましでした。

 そして、第2の派兵として日本軍は、中国領の満洲から中露国境を越えて、2箇師団3万名以上をシベリア・ザバイカル州に進撃させ、18年9月に早くも同州州都チタを占領しています。これは、派遣兵員数でも派遣地域に関しても、事前の日米合意を踏みにじるものでした。日本の軍と政府は、派兵決定以前から、中国を借款供与などで抱き込み、「日華陸軍共同防敵軍事協定」を締結し、満洲からの派兵の下均しをしていた、その成果なのでした。






 












 日本が、シベリア現地の傀儡政権とすべく援助した主な反革命勢力は、3つありました。

 ホルヴァート中将は、ロシアが満洲に保持していた中東鉄道
(シベリア鉄道の支線で、中国領を横断していた)の管理責任者で、ロシアの鉄道守備隊を率いてハルビンに駐在していました。

 日本陸軍は、《10月革命》後、ホルヴァートに接触して、しきりにソヴィエト政府に対する蜂起を促していました。ホルヴァートは、その革命前の地位から、ソヴィエト政権には最も強く抵抗する帝政派でしたが、日本軍に対しても警戒心を持っていたので、その勧誘に対して容易に応じませんでした。

 1918年7月5日、ホルヴァートは、日本陸軍特務機関の荒木少佐を伴ないシベリア進撃を開始しますが、シベリア鉄道に達したとたん《チェコ軍団》に阻まれてしまいます。《チェコ軍団》の背後には、ウラジオストクに先に入城して地方政権を樹立したデルペルの意向があったようです。デルペルは日本海軍の援助を受けていました。つまり、日本の陸海軍の間の“なわばり争い”が、双方の画策した傀儡政権どうしの衝突となって表面化した形でした。

 けっきょく、ホルヴァートは、デルペル政権が自壊した後でウラジオストクに入城し、沿海州を支配下に収めましたが、18年9月末には、オムスクの反革命「シベリア政府」と合同し、オムスク政権下で東シベリア代官の地位を保証されました。
(原暉之『シベリア出兵――革命と干渉』,1989,筑摩書房,pp.348,445,454,457)






 他方、日本陸軍が傀儡政権の候補としてもっとも早くから注目していたのは、ザバイカルのコサック、セミョーノフでした。



「日本軍部が
〔…〕反革命分子の支持、育成を通じて間接にシベリア地域に支配力を浸透させようとするものであった。その目的から着目された第一の候補はグレゴリー・セミョーノフであった。ザバイカル・コサックの父とブリヤート・モンゴルの母との間の混血児として育ったセミョーノフは、第1次大戦に従軍して大尉に昇格するが、革命の勃発を奇貨に、ザバイカルで反革命政権を樹立すべく活動を開始し、北満州を基盤に反ボリシェヴィキ軍を組織して、11年の1月初頭には本拠を〔ギトン注―――中露国境の町〕満洲里に進め、国境を越えてシベリアに入る態勢を示した。

 日本の陸軍は、セミョーノフの旗あげを見るといちはやく接触を開始する。
〔…〕日英の軍事当局者間の意見の交換の結果、日本は武器、弾薬の補給面を担当し、イギリスは金銭の給与の面を担当することが協定され、〔ギトン注―――1918年〕2月中旬、両国政府はそれぞれ出先官憲にこの旨通告する。」
細谷千博『シベリア出兵の史的研究』,pp.100-101.



 しかし、セミョーノフは、他の主な反革命指導者とは違って、少数民族出身で教育も受けておらず、いわば“馬賊上がり”であったために、部下の扱いも住民に対する姿勢も苛酷で、アメリカの駐華公使によれば「古い型の反動的な軍事的独裁者」、アメリカ派遣軍司令官によれば「人殺し、泥棒、この上なく放埒なならず者」でした。そのため民衆の支持を得られないだけでなく、部下からも信頼されず、日英の補給物資・資金さえ途中で着服されてしまって、セミョーノフに届かないことが多かったのです。

 1918年4月、セミョーノフは日本の援助のもとでザバイカル州に進撃し、5月には「ザバイカル州臨時政府」を宣言しますが、その年夏には撃退されて中国領の満洲里に退いています。こうして、日本陸軍としては、自ら派兵して撃って出る以外にザバイカル州を攻略する手立てがなくなったことから、↑上で述べた同年8-9月のザバイカル州進軍・チタ占領を決行する―――という流れでした。
(細谷千博,pp.102-104; 麻田雅文,pp.48-49)





 日本軍が傀儡政権とすべく援助した人物は、もうひとりいました。1918年11月オムスクで起きた反革命「全ロシア政府」のクーデターによって“全ロシア最高執行官兼全ロシア軍最高総司令官”に就任したコルチャークです。

 コルチャークは北極圏探検で名をはせた海軍中将で、《2月革命》後、自由主義派臨時政府の使節としてアメリカに派遣されましたが、ロシアに戻る途中の横浜で《10月革命》の報に接し、モスクワ帰還を断念してハルビンに行き、ホルヴァートのもとで中東鉄道の軍事担当理事を勤めました。しかし、コルチャークはロシア軍人として気骨のある人物でしたから、日本陸軍ともセミョーノフともことごとに対立したため、日本軍はコルチャークを、日本の意のままにならない人物として疎んじていました。

 ところが、そのコルチャークが、西シベリア・オムスクの反革命「全ロシア政府」の最高指導者になったのです。「全ロシア政府」は、文字通りモスクワ方面のロシア中心部まで進撃するいきおいでしたが、すくなくともシベリアに関しては東部まで実効的に支配していました(↑すでに述べたように、東シベリアを掌握するホルヴァートが、その“代官”に任命されていました)。

 このコルチャーク政権と対立しては、日本の“傀儡政権”構想は水泡に帰してしまいますw 18年11月、東京の参謀本部は、ウラジオ派遣軍司令部の反対を押し切って、コルチャーク政権支持を決定します。19年5月には、ウラルを越えてヴォルガ河畔に迫るコルチャーク軍の西方大攻勢の中で、日本政府部内の統一見解
〔内閣、元老、枢密院の重要人物からなる「外交調査会」で―――ギトン注〕も、全ロシアの政権としてのコルチャーク支持を決めます。(麻田雅文,p.113)

 しかし、コルチャークは、日本のみならず列強諸国から仮承認の形で支援を受けていましたから、コルチャーク政権が長続きしたとしても、日本にどれだけの利権が転がり込んだかは疑問です。

 ともかく、コルチャークは、1919年夏には赤軍の反撃をうけて日米に援軍を要請するも断られ、20年1月初めに失脚、《チェコ軍団》に捕らえられてボルシェヴィキ赤軍に引き渡され、2月初め処刑されます。

 コルチャークの失脚は、内政の失敗が原因だったと言われます:



「厳しい統治でも民心が離れた。1919年3月中旬から、シベリア鉄道沿線に戒厳令が施行されたほか、検閲はむろん、令状なしの逮捕、裁判抜きの銃殺は日常茶飯事となる。なかには、日本軍を真似て、パルチザンに協力的と見られた村落を焼く部隊もあり、徴兵と合わせて住民の反感を買った。」

麻田雅文『シベリア出兵』,p.116.




 民心が離れたところへ赤軍の大攻勢を受け、さらに日米が援軍の派遣を拒否したために、シベリア鉄道沿線の拠点を次々に奪われて、政権は壊滅したのでした。














「日本のシベリア出兵がすべて順調に見えた 1919年夏から翌年まで、多くの日本人がシベリアに野心を馳せた。

 たとえば、北一輝である。
〔…〕北の代表作『日本改造法案大綱』は、シベリア出兵に言及している。彼はこの書を、日本軍が東シベリアで覇を唱えていた、1919年夏に上海で執筆した。

 北は書く。日本が中東鉄道を得て北満州を手に入れ、シベリア東部も手に入れ、さらに内外モンゴルが中国の手によって守られれば、中国と日本はロシアの侵略から身を守ることができる。そのことにより、日本が北方に勢力を伸ばして中国を守り、中国も日本の『前営』となる。
〔…〕

 北は、
〔…〕堂々とレーニンに、『極東西比利亜の割譲を要求すべし』とも主張した。」
麻田雅文『シベリア出兵』,pp.93-94.



 中国を日本の「前営」とし、保護国化して、極東全域を日本の植民地・属国にするという暴論ですが、当時の膨張主義的・排外主義的な世論のなかでは、北の意見はそれほど突出したものではなかったのです。北のほかにも、同様の“侵略構想”を発表した人は少なくありませんでした。

 アメリカなど列強との関係を慮らざるを得ない政府部内の意見に比して、国民世論一般は、むしろ好戦的・膨張主義的であり、軍部の意向に近かったと言えます。それが、当時の現実でした。










ばいみ〜 ミ



  
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カテゴリ: 日本近現代史

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