07/22の日記
16:55
【ミヤケンの地学】赤金鉱山と阿原山
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阿原山牧場 糀谷(こうじや)から望む。
こんばんは (º.-)☆ノ
宮沢賢治が、朝廷軍に征服されたエゾの人々を鎮魂する少年剣舞を見て感動し、「原体剣舞連」などの作品を書いた江刺地方… 【参考】⇒:剣舞のさと(1)
なかでも、最も奥地にある上伊手の剣舞は、賢治の関心を惹きつけるきっかけとなったのでした。【参考】⇒:剣舞のさと(2)
その「上伊手」ですが、賢治たちが訪れた当時、第1次大戦による好景気の中で、ここは“鉱山の町”として賑わっていたと言います。
上伊手周辺
5万分1地形図「人首」(大正2年測図・同5年鉄道補入)と
同「陸中大原」(大正2年測図・昭和8年要部修正測図)を接続。
こちらの古い地形図↑を見ると、上伊手の東のほうに「赤金鉱山」があります(紫色で囲ったところ)。
地図の「赤金鉱山」の表示は、山の上のほうにありますが、坑口は下(南)のほうにもあって、道路(黄色)沿いに、現在も坑口跡があります。
「赤金(あかがね)鉱山」は、いくつかの鉱山の集まりで、鉱坑(トンネル)は複数あり、複数の企業が入っていました。露天掘りもあったようです。「赤金鉱山群」と言ったほうがよいかもしれません。
「赤金鉱山群」は、銅鉱石、鉄鉱石などを産出しました。
現在は、すべて廃坑になっており、坑口はコンクリートで閉鎖されています。一部の区域で、跡地を利用して砕石の採取が行われているだけです。
零番坑跡
↑「赤金鉱山群」のうち、いちばん西の鉱山があった場所。採掘の中心だったのでしょうか? あちこちが削られて、赤い山肌が露わになっています。
現在は、砕石工場が操業しています。
零番坑跡
鉱山記念碑。左の石碑は「赤金鉱山の歌」。右の石碑は「弔魂碑」の文字が彫られています。
2つの石碑の間に、掘り出された鉱石が置いてあります↓
シロウトなのでよく分かりませんが、表面に赤い酸化鉄が出ていますから、鉄鉱石ではないでしょうか?
栄鉱山 坑口跡
こちらは、「鉱山群」の東の端にある「栄鉱山」の坑口。コンクリートで塞いであります。
鉱物が専門の方のサイトによると、この坑口の岩石の部分に、藍銅鉱の鉱脈が見られるそうですが、シロウトなので判りません。
ともかく、今はすっかり藪と草に被われて、往時のおもかげはありません。ラピュタ状態ですね。
ところで、ミヤケンについて言いますと、「上伊手」に来て泊まったのはまちがえないし、そのあとは「人首(ひとかべ)」へ回っていますから、「赤金鉱山群」のそばを通ったと思われるのです。
地質調査中の賢治たちは、鉱石に関心があったでしょうし、鉱山の近くには岩石の露出した露頭が多いですから、調査のためにも寄って行ったと思われるのですが、賢治は書簡でも短歌草稿でも、「赤金鉱山」には触れていないのです。
ただ……ずっと後ちに書いた詩のなかに、わずかに鉱山にかすっている記述があります:
さうだやっぱりイリドスミンや白金鉱区(やま)の目論見は
鉱染よりは砂鉱の方でたてるのだった
それとももいちど阿原峠や江刺堺を洗ってみるか
いいやあっちは到底おれの根気の外だと考へようが
恋はやさし野べの花よ
一生わたくしかはりませんと
騎士の誓約強いベースで鳴りひびかうが
そいつもこいつもみんな地塊の夏の泡
いるかのやうに踊りながらはねあがりながら
もう積雲の焦げたトンネルも通り抜け
緑青を吐く松の林も
続々うしろへたたんでしまって
なほいっしんに野原をさしてかけおりる
わが親愛なる布佐機関手が運転する
岩手軽便鉄道の
最後の下り列車である
『春と修羅・第2集』#369,1925.7.19.「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」〔定稿〕より。
※「イリドスミン」:イリジウムとオスミウムの化合物。金属(合金)として天然に産出する。白金より硬く、王水にも溶けない。かんらん岩または蛇紋岩を母岩とする砂鉱として産出する。宮沢賢治は、高等農林卒業前後に、北上山地でのイリドスミンや白金鉱石の採掘事業を、将来の職業として考えたことがあった。
※「鉱染(こうせん)」:有用鉱物が母岩中に細かく散点して生じた鉱床。マグマの活動に伴う熱水によって形成される「スカルン鉱床」が、その典型。
「阿原(あばら)峠」は、「赤金鉱山群」の南方にある山の峠です。↑上の古い地図の、緑色で囲った場所です。
↑この詩の記述だけでは、賢治が実際に「阿原峠」に行ったのかどうかは判らないと思います。そのあたりに希少金属の鉱床がありそうだという、山師のあいだで交される情報を聞いていた程度かもしれません。
ただ、それでも高等農林在学中から卒業後にかけて、賢治は、阿原峠、阿原山や赤金鉱山、その周辺の鉱産資源に関心を持っていたのはまちがえないようです。
↑上の古い地形図を見ていただくと、「上伊手」からは、「阿原峠」へも、「阿原山」へも(赤矢印)、点線の小径が延びています。
賢治が来た当時は、これらの道をたどって、「阿原山」へは徒歩でかんたんに行けたのでしょう。残念ながら、現在では、これらの道は廃道化してしまっています。
上伊手・馬場崎から、阿原山方面を望む。
「阿原山」の肩へ上ってゆく点線は、↑現在でも、ふもとの部分では舗装道路になって、ちゃんと存在しています。しっかりした道に見えるんですが...
道をたどって行くと、↑どんどん山の奥へと続いて行きます。古くからある道のようです。おそらく、この道が、古い地形図にある小径でしょう。
しかし、道は途中で消えてしまいました。やむをえず、山屋の本領を発揮して道のない尾根を登ってみました。途中、道が復活したり、また消えたり……いろいろあった後で、最後は牧場のフェンスに阻まれて、これ以上進めなくなりました。
阿原山牧場
↑フェンスの金網ごしに撮りました。
正面の、立木のはえているあたり(展望台)に、「上伊手剣舞連」の賢治歌碑があるはず。ここまで来たのに、たどりつけないのは残念です。。。
阿 原 山
上伊手・玉川
↑さいごに、こののどかな風景を、ごらんください。
写真では、ふんいきまでは伝えられないのですが…… いまの時代に、こんなのどかな農村があるなんて知りませんでした。苦労して奥まで来たかいがありました。
「たまかわ」と読むそうです。濁って読まないでくださいねw アクセントも、東京の近くの多摩川とは若干ちがうようです。
ばいみ〜 ミ彡
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