07/16の日記

22:01
【BL週記】奥州・衣川のオイノさま―――北限の狼神社か?

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「衣川の柵」跡から月山を望む。   









こんにつわ(^。^)y





 宮沢賢治の『狼森と笊森、盗森』から探索と想像をめぐらし、

 今は絶滅した
(と言われている)ヤマイヌ(ニホンオオカミ)を崇める民間信仰は、かつては本州の広い範囲で行われていたこと、また、もしかするとその起源は東北地方―――古代のエゾ地だったのではないか?と考えられること、

 ヤマイヌを神として崇めたのは、狩猟民ないし半農耕民だった縄文の人々ではなかったか?

 ……そんなことを思いめぐらしてみました:



 【参考】⇒:狼森と笊森、盗森(1)

 【参考】⇒:狼森と笊森、盗森(4)

 【参考】⇒:荒川の碧き流れに(36)







 しかし、現在、文献によってたどることのできるヤマイヌ信仰といえば、奥秩父の三峰神社を中心とする「オイヌ」信仰です。

 三峰神社では、ヤマイヌは祭神の“眷属”(お使い)とされ、各やしろの鳥居の左右には、コマイヌでも狐でもなく、ヤマイヌの石像が控えています。かつてヤマトタケル(架空の人物ですが‥)が東征の途上で、この山地を越えた時、ヤマイヌたちが現れて道案内をしたという伝説が、この神社の発祥縁起として伝わっています。

 境内の「遠社」では、現在も毎月飯膳を供えてヤマイヌを饗応しており、社有の博物館には、今も付近に生息しているとされるヤマイヌ(ニホンオオカミ。野犬ではないとのこと)を撮影した写真 !! まで展示されています。

 秩父・奥多摩方面には、三峰山の三峰神社以外にも、ヤマイヌ信仰の見られる神社が多く、奥多摩の御嶽
(みたけ)神社、五日市の臼杵神社、秩父の宝登山神社、若神子神社など、みな、鳥居の左右にいるのはコマイヌではなくヤマイヌです。

 オイヌ(ヤマイヌ)は、狛犬とは見た目が明らかに違うので容易に区別できます。

 私たちは、これらの神社を通りかかっても見逃してしまいがちですが、よく見ればみな、かつてはヤマイヌ信仰の拠点だったことが知られるのです。




 伝説はともかく、文献などでたどることのできるヤマイヌ信仰の起源は江戸時代で、三峰山の修験者(山伏行者)たちが、「オイヌ」さまのご利益を説いてヤマイヌの御札を配布して歩いたことから、関東一円にヤマイヌ信仰が広まったと言います。

 農民にとっては、田畑を荒らす鹿や猪の天敵である狼は“益獣”であったこと、また、狩猟によって当時絶滅に瀕していたヤマイヌが、想像の世界にシフトして崇められるようになったことが、江戸時代にヤマイヌ信仰が盛んになった理由だとされています。

 現在、“狼神社”としてヤマイヌ信仰の痕跡をとどめている各神社
(御嶽神社はじめ‥)では、三峰神社を、自社のヤマイヌ信仰の起源として説明しています。


 



 
衣川三峰神社のオイノ(左のオイノ) 
★1








 

 ところでその“狼神社”ですが、残念ながら文献的資料はそれほど多くなく、正規の歴史学や郷土史の書物ではほとんど扱われないため、あまり知られていないのが現状です。しかし、インターネットには、ヤマイヌ信仰に関心を持つ方が出しておられるサイトがいくつかあって、各地にある“狼神社”の存在を検出しており、“一覧表”ができつつあります。

 それによると、やはり“狼神社”が多いのは、秩父三峰を中心とする関東一円ですが、東北方面にも広がっていて、宮城県までは点々とあり、岩手県にも、少なくとも1ヶ所の“狼神社”があります。

 それが、平泉の北にある「衣川三峰神社」。もしかすると、ここは“狼神社”の北限であるかもしれません。






 
 もともとヤマイヌが多かったのは関東よりも北国ではなかったかと思われますし、宮沢賢治の『狼森と笊森、盗森』の舞台は岩手山麓です。「狼
(オイノ)森」「狼(オイノ)久保」など、ヤマイヌ関連の地名が多く残っているのも岩手県です。

 その岩手県の南の端にある平泉が“狼神社”の北限になるとしたら、なぜなのか?‥

 もちろん、岩手県の中央部・北部、また青森県や道南に“狼神社”が無いかどうかは、これから調査してみなければわからないのですが‥





 ギトンがいま考えているのは、関東と東北(平泉から北)では、歴史的な“狼信仰”のあり方が違うのではないかということです。

 ↑上にも書いたように、秩父三峰を中心とする関東地方の狼信仰は農耕民のものです。ヤマイヌは“益獣”として、想像のなかで崇められます。

 しかし、岩手以北の奥州は、もともとはエゾ狩猟民の世界でした。歴史時代に入ってからも、産業の中心は馬産でした。衣川以北を勢力圏としたアテルイや安倍氏は馬の産出によって、平泉を本拠とした藤原氏は金と馬によって、ヤマトの朝廷に対抗し得る独立国の形成をなしとげていたと言われます
(『角川日本地名大辞典』,3,『岩手県』,1985,pp.26-31.)。古代の奥州は、大陸ともつながりをもった騎馬民族の王国であったという説も唱えられているほどです。

 馬産を中心とする牧畜経済にとって、狼は益獣ではありません。『遠野物語』でも、狼(ヤマイヌ)は、大切な家畜である馬を襲う害獣ないし猛獣として、もっぱら描かれています。古代・中世の奥州の人々にとって、ヤマイヌは想像上の存在ではなく、山に入れば出遭う、あるいは家畜を襲いに来る現実の存在だったにちがいありません。

 エゾの民の狼信仰は、恐ろしい猛獣を神として崇める信仰だったのではないか?‥ そこには、神社と結びついた“友獣”としてのヤマイヌに対する関東の信仰とは異なる、北方的な狼信仰(サハリン・ギリヤークの“犬神”信仰につながるような)があったのではないか?‥ そんなことを考えています。

 




 
   地図(平泉と衣川)









 さて、前置きはこのくらいにして、北限の「三峰神社」がある衣川の地を訪ねてみたいと思います。



 衣川は、奥州藤原氏の本拠地であった平泉の北を流れ、北上川に注ぐ支流の一つにすぎませんが、

 古代東北史の上では、この川は、本州全域を征服しようとする朝廷の勢力と、奥州のエゾの勢力とが鬩ぎ合う境界線となっていました。

 【参考】⇒:平泉と宮沢賢治














衣 川







 ↑遠くに見える真ん中の尖った平らな山が、「三峰神社」のある丘です。……こまったことに、この山の名前がよくわからないのです。周囲どこからでもよく見える・こんな立派な形の山に名前がないはずがない‥と思うのですが、地名辞典のたぐいを見ても、現地の案内板などを見ても、この山を地名で呼んでいるものは見あたりません。

 しかし、この山の一帯は「奥州市衣川区月山」という字
(あざ)で、頂上には「月山神社」がありますから、この山の名前はおそらく「月山」です。読み方は「がっさん」でよいのでしょうか?‥






衣川・月山 
七日市場跡から。











 この衣川の地は、岩手・青森方面を支配していたエゾの首長安倍氏が本拠としていました。すぐ南にある関山―――のちに藤原清衡がそこに中尊寺を建てます―――とともに、南方から来る朝廷勢力に対して、川と山が自然の要害をなしていたのでしょう。

 衣川の北岸に、安倍氏が居館や政庁としていた館の跡が並んでいます。






「衣川柵」跡 
★2





 ↑ここは、朝廷側の記録では「衣川の柵」と呼ばれていますが、エゾに対する“防護柵”というより、エゾ王国がヤマト朝廷軍の侵入を防ぐための砦だったと言えます。安倍氏の政庁が営まれていました。

 




 
「衣川関」跡 
★3 




 ↑安倍氏の時代の関所跡。渓川に面しており、すぐ北側の「月山」の斜面は険阻な絶壁です。

 街道筋(「東山道」)は、ここを通って、江刺・岩手方面へ向かいます。この関もやはり、安倍氏の時代までは南に対する防御の役割を果たしていました。





 
  「館
(たて)」跡 ★4




 ↑「月山」の北麓。安倍頼時とその子・貞任の居館がありました。「前九年の役」の主戦場「衣川の館」であったとされます。

 ちなみに、朝廷方の源義家が、「衣川の館
(たて)」を捨てて落ちのびる安倍貞任との間で、



 義家「衣のたては ほころびにけり」

 貞任「年を経し 糸の乱れの苦しさに」



 という和歌のかけあいをした話は、鎌倉時代の説話集『古今著聞集』にあるもので、正史にはありません。後世の人が考えたフィクションと思われます。










「七日市場」跡 
★5




 藤原氏の時代になると、街道筋はこちらに移され、「衣川の関」も関山に移されます。自然の障碍を利用して朝廷勢力と武力で対峙した安倍氏とは異なり、藤原氏は、関山に、京都・平安京にもまさる煌びやかな寺院群を建立し、権勢と財力によって朝廷からの相対的独立を保とうとしました。

 街道には「七日市」「六日市」などの定期市が立ち、黄金、馬、漆などのエゾ物産を、都からもたらされた文物と取引する商人たちで賑わったのでした。







淵端諏訪大明神社 
★6







 ↑藤原時代の街道沿いにあります。嘉祥年中(846-851)慈覚大師の創建と伝え、その後、天喜年中(1053-58)安倍頼時が鎮護の神として崇め、文治年中(1185-90)藤原秀衡の三男忠衡が再興した。社殿は文化10年(1813)建設と『陸奥史叢』にある。(現地案内板による)











関 山 
月山中腹から望む

















 ↑こちらが三峰神社の入口鳥居。左のオイノが見えます。











 



 ↑右(向って左)のオイノ。














↑本殿。  




















 ↑本殿から山の上の方へ参道が続いていて、ここが奥の祠のようです。しかし、名札も道標もありません。














 ↑月山の頂上には月山神社があります。三峰神社とは別の神域のようで、入口も、独自の石段が麓まで続いていました。








 この「月山」で最も古い神社は、「月山神社」拝殿の奥にある奇石を御神体とする「和我叡登拳
(わかえとの)神社」で、延喜式内社。安倍氏の守護神「荒覇吐神」を祀るとの説明の標杭が、三峰神社の下にありました。↓

 しかし、この「荒覇吐
(あらはばき)」とは 1970年代に造作された偽書『東日流外三郡誌』に記載された神格で、信憑性が薄いと思われます(⇒:Wiki:アラハバキ)。

 祭神はともかく、「ワカエトノ神社」自体は、れっきとした延喜式内社(927年の『延喜式神名帳』に記載された神社)ですから、この「月山」には、遅くとも 10世紀には神社が成立していたことになります。神社と言っても、御神体の大岩だけがあって鳥居も社殿もない、古代の自然信仰をそのまま凍結したような聖地です。













 その後、12世紀までに山形県月山の月山権現を勧請して、この丘の頂上に月山神社が設けられました:

 「月山神社」は、月読命を祭神とし、長治年間(1104-06)に藤原清衡が造営したと伝える
(『日本歴史地名体系』第3巻『岩手県の地名』,1990,平凡社,p.214.)

 →こちらのサイトによると、「嘉祥3年(850)和我叡登挙神社(延喜式内社、山頂奇石)の地に、慈覚大師によって月読命を祀る月山権現社が勧請され、大師自作の阿弥陀如来像も安置されたのが始まりとされている。長治2年(1105)藤原清衡が堀河、鳥羽両帝の勅を奉じて再興し、中尊寺奥院として大いに栄え、」とあります。⇒:岩手県の神社・月山神社






 





 さらに時代は下って、月山の中腹に「三峰神社」が設けられたのは、江戸時代のことです:

 衣川・月山の
「三峯神社は享保元年(1716)武蔵国秩父郡大滝村三峯神社の分霊を勧請したと伝え、〔…〕祭神は伊弉諾命・伊弉冉命・軻具土神の3神で、オオカミを眷属とよび神と崇める山岳信仰が発祥と伝える。鳥居の前には狛犬の代りに石造のオオカミが向い合っている。憑きもの払の神として信仰が厚い。近江商人の信仰が厚かったので勧請には影の援助があったかもしれない(衣川村誌)。

 当地に伝わる念仏剣舞は県の無形民俗文化財に指定されている。
〔…〕中尊寺施餓鬼法会などに演じられる。藤原清衡の時代、安倍氏一族の鎮魂供養行事として行われたことに由来すると伝える。」
『岩手県の地名』,p.214.




 やはり、ここの「三峰神社」も、秩父の三峰信仰に基づく江戸中期の建立とされています。しかし、オイノ信仰を眼目として三峰神社を勧請した背景には、エゾ時代からの古い狼信仰があったのではないか… と考えたくなります。

 勧請の経緯についても、山頂にある月山神社との関連を考えますと、近江商人よりも、月山ほか出羽三山を本拠地とする山岳信仰(修験者集団)のつながりが考えられると思います。



 祭神のイザナギ・イザナミは秩父の三峰神社と同じです。カグツチ(迦具土,軻遇突)の神は、イザナギとイザナミの間に生まれた火の神。

 しかし、→こちらのサイトでは、衣川・三峰神社の祭神は、イザナギ・イザナミ・大口真神となっています。⇒:岩手県の神社・三峯神社 大口真神
(おおぐちのまがみ)は、狼を神格化した神で、ヤマイヌとは別種の日本古来のオオカミだという説もあります。奥多摩の御嶽神社では、本殿域のいちばん奥に大口真神の祠があります。



 「念仏剣舞
(けんばい)」は、江刺の稚児剣舞と同じ系統のものと思われます。やはり、朝廷に征服されたエゾの魂を鎮める意味を付与されていて、安倍・藤原−−オイノ信仰−−剣舞 ……この3つの事象の繋りは、たいへん興味深いと思います。

 【参考】⇒:剣舞のさと(1)















ばいみ〜 ミ



 
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