03/12の日記

15:52
【宮沢賢治】「みんな」と独我とアイドルと崇拝者

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 こんばんは。(º.-)☆ノ






(5)いつも普遍性を視ていた。



 作品は、作家個人の内密の主観的営為として創作され、かつ各々一人の読者によって内密に享受される―――ということが、古代・中世の物語とは異なる近代小説の特質であると言われます。しかしそれは、近代詩歌をもふくめた近代文学の通有性であると言ってよいのではないでしょうか?

 集団のなかで伝承として生まれ、集団の場で――いろりばたで、あるいは祝祭の場で――享受された前近代の文学にはなかった作者と読者の意向の分裂という問題が、ここに生じます。

 小説や詩歌を創ることは、あくまでも作者の個人的な営みである。作者は、自己ひとりの意向に忠実に従うことがむしろ賞讃され、受け手の意向を予想して創作することは“大衆への迎合”として批判される。

 したがって、そうして創作された作品は、“こういうものが読みたい”と思っている読者の意向に合致するとは限らないことになります。

 そうすると、じっさいに大家として数多くの作品を発表し、それらが多くの人によって読まれる作家が存在するという事実は、どう考えたらよいのでしょうか?‥おそらく、2とおりのことが考えられます。

 ひとつは、その作家の意向が、同時代の多くの読者の意向と、たまたま合致しているという場合です。つまり、時代のトレンドに合致した作品を書いた時に、作者は陽の目を見ると言えます。そしてその作品がすぐれたものであれば、作者の評価は高まるでしょう。作品がトレンドに合致することは、“大衆への迎合”とは違いますが、文学の“部外者”から見れば、“大衆作家”よりも一段高い場所で、けっきょく同じことをしているようにも見えます。

 いわゆる“文壇”“詩壇”などの権威による“お墨付き”も、こうしたトレンドの一種と考えられます。権威筋というものも、広い意味で社会の趨勢の一部であり、大衆の意向と多少ずれてはいても、時代のトレンドのひとつの流れを作り出していると言えるからです。

 これに対して、作家のほうがトレンドを先取りして、いわば作品が時代のトレンドを作り出してゆくという場合もあるかもしれません。しかし、そうしたことが可能になるためには、すくなくともその作品は読まれなければならない。ここに、近代における作品の発表形態―――コストと価格が需要供給を支配する市場機構への依存、あるいは、市場外においては国家による政策的な権威づけの威力―――の壁が立ちはだかっています。

 このように議論すると、おそらく多くの方は、つぎのように言って反論されるでしょう。すぐれた作品は、誰をも感動させる力を持っているのだ。個々の読者の意向とはかかわりなく、すぐれた作品は、すくなくとも少数の読者によって注目されるはずである。そして、読んだ人たちの感想は徐々に伝えられ、しだいに多くの人が読むようになるだろう。むしろ、すぐれた作品は、それに接した読者の嗜好を変えてゆくのだ、と。

 また逆に、つぎのようにも考えられるかもしれません。作者といえども“時代の子”なのであると。読者と同じ時代の空気を吸って真摯に生き、真摯に作品を生みだしているならば、一見していかに時代の要求からかけはなれた作品に見えようとも、かならずや同時代に生きる人の心をとらえるはずである。




 さて、ここでギトンは、文学論議をしようというのではありません。ただ、宮沢賢治という作家について考えてみたいので、こんな切り口を最初に提示してみたのです。

 宮沢賢治は、同時代の詩、短歌、童話のトレンドからは、およそかけ離れたものを書いていたように思われます。

 たしかに、賢治もまた“時代の子”ではありました。同時代の社会やその思潮の影響を強く受けながら生活し、思想を抱いていたと言えます。そのことは、秋枝美保氏、鈴木貞美氏らによって近年ますます明らかにされてきました。しかし、こと彼の作品に関しては、同じ時代の他の作家や詩人の書いたものと並べてみると、ほとんど似たものがないこともまた明らかなのです。宮沢賢治は、日本近代文学史のどの系譜にも入らない独自性の強い作家である―――ということは、こんにちでは文学史の常識と言えます。

 どうして作品が、ほかの作家と違うのか?‥いろいろ理由はあるでしょうけれども、いちばん大きいのは、作者である賢治自身が、同時代の詩や童話のトレンドというものを、まったく気にかけていなかった、無視していたことが大きいのではないかと思います。

 とくに目立った才能のない平凡な人――たとえば保阪嘉内のような、あるいはギトンも含めて、いまネットにあふれている星の数ほどのBL作家や“現代詩人”のように――であれば、その書くものは、自ずと同時代の作家の亜流とならざるをえません。定評のある作家を無意識のお手本として書く以外の技量は、凡人にはないからです。

 しかし、そうではなくて、非凡な才能をもつ者がトレンドを無視して創作活動をおこなった場合には、いったいどんな世界が現出するのか――そのことを身をもって示してくれたのが、宮沢賢治という作家なのではないでしょうか?

 賢治は、たんにトレンドを無視するだけでなく、あえてトレンドに合わない作品をぶつけて、“どんぐりの背比べ”のような他の作家たちの書きものをあざ笑っているようにみえることさえあります。たとえば、あの『どんぐりと山猫』の“一郎の判決”は、童話文壇に対する賢治の挑戦状と言ってもよいものです。

 宮沢賢治という作家の、この無謀ともいえる自信は、いったいどこから来ているのか?

 おそらく、彼はこう考えていたのだと思います。たしかに、宮沢賢治個人の受けとった“心象”世界は、彼ひとりの思いなしにすぎぬものかもしれない。しかし、あるひと個人の“心象”は、それを真摯に、ありのままに受けとって表現することができたならば、それは誰でもに通じる普遍的なものを含んでいるにちがいない、と。











 そのことを詩的なコトバで表明したのが、公刊した『春と修羅』の劈頭に置かれた「序詩」であったと思うのです:



「わたくしといふ現象は
     
〔…〕

 (あらゆる透明な幽霊の複合体)
     
〔…〕

 風景やみんなといつしよに
 せはしくせはしく明滅しながら
 いかにもたしかにともりつづける
     
〔…〕

 ひとつの青い照明です

     
〔…〕

 これらは
〔…〕

 (すべてわたくしと明滅し
  みんなが同時に感ずるもの)
     
〔…〕

 そのとほりの心象スケツチです

     
〔…〕

 たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
 記録されたそのとほりのこのけしきで
     
〔…〕

 ある程度まではみんなに共通いたします
 (すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
  みんなのおのおののなかのすべてですから)」

『心象スケッチ 春と修羅』「序詩」より。



 “個人の独我的心象と普遍性”という問題にしぼって、「序詩」から抜き書きしてみました↑

 まとめますと、ここでの賢治の主張の要点は、つぎの4つになると思います:



 @ そもそも作者である「わたくし」とは、「あらゆる透明な幽霊の複合体」であって、単なる独我ではない。過去・現在のさまざまな人や生き物や物の主観が入りこんだ複合的な「現象」である。

 A この「心象スケッチ」は、単なる「わたくし」ひとりの感想手記ではなく、「わたくし」が「風景やみんなと」たがいに「明滅」しあった「記録」なのであり、「すべてわたくしと明滅し/みんなが同時に感ずるもの」である。

 B したがって、「記録されたこれらのけしきは」「ある程度まではみんなに共通」するものである。「わたくし」の心のなかに浮かんだ個人的な思念などではないのである。

 C なぜなら、「すべてがわたくしの中のみんなであるやうに/みんなのおのおののなかのすべてですから」。すなわち、「わたくし」の主観のなかに「みんな」が存在するように、「みんな」それぞれの主観のなかにも、「わたくし」を含んだ「みんな」が存在する。そしてそれらは、てんでにばらばらなものではなく、「ある程度までは‥共通」するひとつの世界を形づくっている。


 賢治は、ざっとこのように主張しています。しかし、その主張はスジが通っているのでしょうか?‥このさい、納得できないところはとことん詰めてみたいと思います。



 @は、言ってみれば抽象的な建前論で、観念的な枠組みと言うべきでしょう。個人ごとの具体的な「心象」の内容が同じになること……すくなくとも互いに理解できるものとなること……を保証するものではありません。

 そこで、Aが重要になるのですが、ここで作者が言う「風景やみんな」とは、作者以外の人間を主として想定しているのか、そうでないのか。少なくとも、この『春と修羅』収録の諸作品を見る限り、作者の交感の対象は、もっぱら自然物や動植物であるようです。作者と他の人間とのあいだには、非常に距離がある印象を受けます。抽象的にはともかく(たとえば、瀕死の状態にあって通常の意思疎通のできない妹に対する作者の独断的な思い入れなど)、具体的な周囲の人々との交感については、むしろそれがうまくいかないことに悩むようすが描かれていると言えます。つねに行き違いと葛藤のなかにあると言ってよい。

 作者が、たとえ物言わぬ生物や自然風景と交感することができたからといって、それだけでは、「わたくし」の《心象》の公共性は保証されないでしょう。なぜなら、その“交感”自体が、作者の単なる思いなしではないことを確かめる手段――たとえば、木や石が「たしかに彼とそういう交感をしている」と証言するといった――は無いからです。

 たしかに、収録諸作品に「記録された」ところを見ると、“自然”だけでなく“他者”(他の人間)も現れてはくるのですが、作者の言う「明滅」自体が、「わたくし」の勝手な思いなしではないと保証するものは、何もありません。

 Cに至っては、論理的に破綻しています。ここで作者が言っているのは、各人がそれぞれ、自分と接触のあるすべての人(および動植物、自然物)を表象しているということにすぎません。それぞれが、それぞれの人の勝手な思いなしならば、各人の《心象》が同じになる保証はどこにもないことになります。

 それでは、Bの確信は、いったいどこからくるのか?

 そこで、あらためてAを検討しますと、交感の対象は、その大部分が“物言わぬ”存在だとしても、他の人間も「わたくし」と同様に、周囲の世界と交感し合いながら生きているはずである。ただ、「わたくし」以外の人間はそのことを十分に意識していない。『注文の多い料理店』「序」及び「広告文」によれば、“おとな”としての外面的生き方が、世界との交感に気づくのを妨げている。

 とはいえ、作者以外の人も、作者と同形の存在として生きているのであって、ふだん半ば無意識のうちに行なっている世界との交感に、もし気づくならば、作者のスケッチした「心象」と「ある程度までは‥共通する」世界にいることを、誰もが認めるはずである。―――おそらく、このような見通しを、賢治はもっていたのではないでしょうか?





 





 そう考えられることは、たとえば、宮城一男氏が伝える↓つぎのエピソードのように、彼は、人と人との間のコトバによるコミュニケーションを介するよりも、“自然”をして直接人に語らせることを好んだ―――ということからも、言えると思うのです:



「『まず、山を歩こうじゃないか』

 というセリフが、賢治の口ぐせの一つだったと、賢治の同級生であった根子吉盛氏が述懐しておられる。

 同氏はあるとき、あの『イギリス海岸』の成因についての質問を、賢治にしたところ、例によって、

 『あー、まあ、歩いてみよう』

 と軽くいなされて、その翌々日の休みの日に、とうとうイギリス海岸の調査に引っぱり出されてしまったという。」

宮城一男『宮沢賢治 地学と文学のはざま』,1977,玉川大学出版局,p.100.




 宮沢賢治の場合には―――他の文学者や哲学者とちがって、大学卒でなかったことが大きいと思うのですが―――、“覚醒した”「わたくし」と一般人とのあいだの距離を、たいして大きいものとは考えていなかったのではないでしょうか。「わたくし」の考えることは、とりたてて難しいことなどではなく、他の人々にも容易に理解されるにちがいないと、はじめから決めてかかっていたふしがあります。

 ここにスケッチされた「心象」世界は、いわば発生の“始原”において「そのまま」とらえられたものにほかならないから、それは万人に共通するはずだ、おとなの「卑怯な」観念を取り去ってすなおに読めば、誰にでも理解できるはずだと、彼は決めてかかっていたのだと思われます:



「これらは決して偽でも仮空でも窃盗でもない。

 多少の再度の内省と分折とはあつても、たしかにこの通りその時心象の中に現はれたものである。故にそれは、どんなに馬鹿げてゐても、難解でも必ず心の深部に於て万人の共通である。卑怯な成人たちに畢竟不可解な丈である。」

『注文の多い料理店』広告文より。




 こうした賢治の信念を、現象学による分析的思考に乗せて視るとき、私たちは、始原の“身体図式”の共通性から、自我・他我の“相互主観性”を基礎づけていこうとする、フッサールからメルロ=ポンティに至る流れを想い起こします:



「他のモナドが実質的
(レエル)に私のモナドから分け隔てられていることは確かである。〔…〕しかしながら他方で、あの根源的な共同性がなくなってしまうわけではない。たとえそれぞれのモナドが実質的(レエル)には絶対的に孤立した統一体であるとしても、他者の原初性が私の原初性のうちへ、非実在的(イレアール)に志向的に入り込んでくること〔…〕そこでは、存在するもの〔=ある自我―――立松注〕と存在するもの〔=別の自我―――立松注〕とが志向的な共同性のうちにあるのだ。それは、原理的に独特の仕方で結合していることであり、現実的な共同性であって、それはまさに、世界(すなわち、人間の世界と事象の世界)の存在を超越論的に可能にしているような共同性なのである。

 
〔…〕より高次の段階に関しては、〔…〕私は構成という観点からすると、原モナドとなる私から出発して、私とは別のモナド、ないしは心理物理的な主体としての他者を得る。〔…〕人間は既に一人ひとりが共同体の成員という意味を担っているのであるから(このことは動物の社会にも当てはまることであるが)、人間共同体および人間の意味には、相互依存的存在 Wechselseitig-für-einander-sein 〔相互に入れ換り可能な存在―――ギトン注〕ということが含まれている。そしてまさにこのことによって私の現存在とあらゆる他我の現存在とが、対等に客観化されるのであり、私であれ誰であれ、われわれは皆、他の人たちの中の一人の人間となるのである。」
フッサール,浜渦辰二・訳『デカルト的省察』,2001,岩波文庫,pp.230-232;立松弘孝・編『フッサール・セレクション』,2009,平凡社ライブラリー,p.292.



 ここでフッサールは、たいへん抽象的な言い方をしていますが、ともすれば独我となりかねない“統一体”としての自我が形成されるより以前に、「人間は既に一人ひとりが共同体の成員という意味を担っている」、しかも「このことは動物の社会にも当てはまることである」と書いています。

 すなわち、「他者の原初性が私の原初性のうちへ、非実在的
(イレアール)に志向的に入り込んでくること」、「存在するものと存在するものとが志向的な共同性のうちにある」という「原理的に独特の仕方で結合している」「あの根源的な共同性」が、“自我”という意識的な統一体の発生以前に、その母胎としてすでに存在している。それは、動物と動物のあいだにも見られる原初的な共同性なのだ、と言っています。











 このことは、のちにメルロ=ポンティが、ゲシュタルト心理学や発達心理学など、最新の心理学の成果の上に立って、より具体的に明らかにした知覚
(≒フッサールが↑上で言う「志向的な共同性」)と意識の根底にある《身体性》を予感して述べていることにほかなりません。

 この「根源的な共同性」が根底にある事情は「動物の社会にも当てはまる」、とフッサールが述べている点も、私たちにとって重要です。なぜなら、これを言い換えれば、「根源的な共同性」は、人と人とのあいだのみならず、人間と動物とのあいだにもあることになるからです。

 人間と人間とのあいだ、動物と動物とのあいだ、そして人間と動物とのあいだにも働く「根源的な共同性」―――すなわち“身体”の働きに基盤をおく交感の機能、そして、「私であれ誰であれ、われわれは皆、他の人たちの中の一人の人間となる」こと、また、それ以前にすでに、われわれは“他の動物たちとともに一個の動物である”ということ、………フッサールがここで述べていることは、宮沢賢治の「序詩」の思想に、おどろくほど似かよっていると言えないでしょうか。



「われわれが超越論的相互主観性と呼ぶモナド共同体は、言うまでもなく、省察する自我としての私の内部でのみ、純粋に私の志向性という源泉から、私にとって存在するものとして構成される。しかしまたこのモナド共同体は、他の自我という様態で構成されるそれぞれのモナドの内部で、それぞれ異なる主観的現出様式をもちつつ構成されるものでもある。しかしそのいずれにおいてもこのモナド共同体は常に同じ共同体として、しかも必然的に同じ客観的世界を保有する共同体として構成されているのである。
〔…〕

 客観的世界の心的な構成とは、例えば私の現実的および可能的世界経験として理解される。
〔…〕この経験は、さまざまな程度の完全さをもち、つねにその開かれた未規定の地平をもっている。この地平のうちには、すべての人間にとってすべての他者が、物理的に、心理物理的に、内部心理的に、開かれて限りなく近づくことができるものの領土として含まれている。そこにはうまく近づける場合とうまく近づけない場合があり、たいていはうまく近づけないのだとしても。」
フッサール,浜渦辰二・訳『デカルト的省察』,2001,岩波文庫,pp.233-234;立松弘孝・編『フッサール・セレクション』,2009,平凡社ライブラリー,p.294.



 それぞれの自我をもつ人間各自が、それぞれに他者(他の自我)に対しても開かれた世界を志向しており、人びとは、すくなくとも可能的には「常に同じ共同体として、しかも必然的に同じ客観的世界を保有する共同体として構成されている」。

 にもかかわらず、各自にとって《他者》は、つねに完全に理解されているわけではなく、おおくの場合、さしあたって《他者》は「開かれた未規定の地平」のなかに没している。そして、各自にとって、「未規定の地平」に没している“未知”の他者に近づいてゆくことは、必ずしも容易なことではなく、「たいていはうまく近づけない」……人間にとって、《他者》はいつでも、努力目標でありつづけるのかもしれない。。。



◇    ◇



 「序詩」において、他の人間のみならず広く生き物、自然物との交感を高らかに謳い、「記録されたこれらのけしきは/記録されたそのとほりのこのけしきで‥/ある程度まではみんなに共通いたします」と、描かれた“心象”世界の普遍性を強調した宮沢賢治も、その実際の生活においては、他者に対して―――“自分の考えることは誰にでも共通する”という自信のために、むしろかえって―――多分に独我論的に接することも多かったと思われるのです。

 とくに、相手が、心を許した親しい友人で、たがいに虚飾のない自我をさらけ出している場合には、よけいに、ひとりよがりな彼の接し方が目立ったようです。

 保阪嘉内に送った賢治の書簡には、そうした彼の欠点が、誰の目にも明らかに表れています。



「今河本さんから聞けば今度あなたの帰省なさったのは御母さんの御亡くなりになった為だとのことですが本統ですか 何かの間違らしくしか思はれませんが本統ですか 本統と仮定して今御悔みなどを云ふ気には私はなれません。私の母は私を二十のときに持ちました。何から何までどこの母な人よりもよく私を育てゝ呉れました。
〔以下、自分の生きている母に対する気持ち、信仰の悩み、学校での助手勤務の苦労などを綿々と綴ったあとで…―――ギトン注〕

     
〔…〕

 今あなたの名は忘れました静岡県の人(内山君ではない)が来て論文の話などをした中にあなたの御母様は本統になくなられたのだと云ふことを聞きました。

  南無妙法蓮華経  南無妙法蓮華経
  南無妙法蓮華経  南無妙法蓮華経
  南無妙法蓮華経  南無妙法蓮華経
  南無妙法蓮華経  南無妙法蓮華経
  南無妙法蓮華経  南無妙法蓮華経
  南無妙法蓮華経  南無妙法蓮華経
  南無妙法蓮華経  南無妙法蓮華経
  南無妙法蓮華経  南無妙法蓮華経
  南無妙法蓮華経  南無妙法蓮華経
  南無妙法蓮華経  南無妙法蓮華経
  南無妙法蓮華経  南無妙法蓮華経
  南無妙法蓮華経  南無妙法蓮華経
  南無妙法蓮華経  南無妙法蓮華経
  南無妙法蓮華経  南無妙法蓮華経」

宮沢賢治書簡[74]〔1918年6月20日前後〕保阪嘉内宛て






 






「私は前の手紙に楷書で南無妙法蓮華経と書き列ねてあなたに御送り致しました。あの南の字を書くとき無の字を書くとき私の前には数知らぬ世界が現じ又滅しました。あの字の一一の中には私の三千大千世界が過去現在未来に亘つて生きてゐるのです。けれどもそれは今こつこつと書いて居るこののの字ももの字も同じことです のの字ももの字も別のよみ方は南無妙法蓮華経と云ひその中に前の様な白雲が去来したり夜昼が明滅する灯の様にまたゝいたりおっかさんを失くしたり戦ったりしてゐるのでせう。あゝ不可思議の文字よ。不可思議の我よ。不可思議絶対の万象よ。

 わが成仏の日は山川草木みな成仏する。山川草木すでに絶対の姿ならば我が対なく不可思儀ならばそれでよささうなものですがそうではありません。実は我は絶対不可思議を超えたものであって更にその如何なるものと云ふ属性を与へ得ない。実に一切は絶対であり無我であり、空であり無常でありませうが然もその中には数知らぬ流転の衆生を抱含するのです。

 流転の中にはみぢめな私の姿をも見ます。本統はみぢめではない。食を求めて差し出す乞食の手も実に不可思儀の妙用であります。食を求めることはいやしいことか。宇宙みな食を求るときは之はいやしい尊いを超えたことであります。おっかさんを失って悄然と試験を受けるあなたにこの様なことを云ってすみません。」

宮沢賢治書簡[76] 1918年6月27日付け 保阪嘉内宛て


「私がさっぱりあなたの御心持を取り違ひてゐるとか云ふことも本統でせう。どうせ私の様に軽率に絶へず断案に達するものは間違ふのが当然です。

 又あなたは私の気ばかりでさっぱり思ふ様に行の進まないのを御笑ひになるのでせうがそれも仕方ありません。

 とにかくとにかく

 『私は馬鹿で弱くてさっぱり何もとり所がなく呆れはてた者であります。』

 と云ふ事をあなたにはっきりと申し上げて置きますからこれからさき途方もない間違が起って私がどんな事を云ってもあまりびっくりなさらんで下さい。」

宮沢賢治書簡[83] 1918年7月25日付 保阪嘉内宛て




◇    ◇



 『春と修羅』「序詩」において、宮沢賢治は「心象」という主観的領域に沈潜しながら、自分の「心象」は自分ひとりのものではなく、「ある程度までは皆に共通いたします」と言っていました。「心象」世界は、「ある程度までは」客観的な相互主観的世界なのだと考えていたわけです。

 そういう彼の考えは、たしかにその時点では、かなり観念的なものだったと言わなければなりません。

 しかし、もっと後の時期になると、賢治の思想には変化がみられます。

 ここにとりあげる『マリヴロンと少女』―――執筆時期は不明ですが、『春と修羅』の公刊よりは後と思われます。以下、吉本隆明氏の解説を参照しながら、この童話を検討してみたいと思います。



「『マリヴロンと少女』の中で、宗教と文学の問題が典型的にぶつかっているところがあります。

 マリヴロンという女流声楽家と、そのファンである牧師の娘がいます。少女は、あした父親とアフリカに布教に行くというその日、」
マリヴロンに、自分を連れて行ってくれるよう頼むのですが、マリヴロンは少女の申し出を断って去って行ってしまいます。
吉本隆明「宮沢賢治における宗教と文学」,1989年講演, in:『宮沢賢治の世界』,2012,筑摩書房,p.168.




「さうだ。今日こそ、たゞの一言でも天の才ありうるわしく尊敬されるこの人とことばをかはしたい、丘の小さなぶだうの木が、よぞらに燃えるほのほより、もっとあかるく、もっとかなしいおもひをば、はるかの美しい虹に捧げると、ただこれだけを伝へたい、それからならば、それからならば、あの……
〔以下数行分空白〕

 『マリブロン先生。どうか、わたくしの尊敬をお受けくださいませ。わたくしはあすアフリカへ行く牧師の娘でございます。』

 少女は、ふだんの透きとほる声もどこかへ行って、しわがれた声を風に半分とられながら叫ぶ。

     
〔…〕

 『あなたこそそんなにお立派ではありませんか。あなたは、立派なおしごとをあちらへ行ってなさるでせう。それはわたくしなどよりははるかに高いしごとです。私などはそれはまことにたよりないのです。ほんの十分か十五分か声のひびきのあるうちのいのちです。』

 『いゝえ、ちがいます。ちがいます。先生はここの世界やみんなをもっときれいに立派になさるお方でございます。』

 マリヴロンは思わず微笑ひました。

 『えゝ、それをわたくしはのぞみます。けれどもそれはあなたはいよいよそうでしょう。正しく清くはたらくひとはひとつの大きな芸術を時間のうしろにつくるのです。ごらんなさい。向ふの青いそらのなかを一羽の鵠がとんで行きます。鳥はうしろにみなそのあとをもつのです。みんなはそれを見ないでせうが、わたくしはそれを見るのです。おんなじようにわたくしどもはみなそのあとにひとつの世界をつくって来ます。それがあらゆる人々のいちばん高い芸術です。』

     
〔…〕

 『私を教へて下さい。私を連れて行ってつかって下さい。私はどんなことでもいたします。』

 『いゝえ私はどこへも行きません。いつでもあなたが考へるそこに居ります。すべてまことのひかりのなかに、いっしょにすんでいっしょにすゝむ人人は、いつでもいっしょにゐるのです。けれども、わたくしは、もう帰らなければなりません。お日様があまり遠くなりました。もずが飛び立ちます。では。ごきげんよう。』

宮沢賢治『マリヴロンと少女』より。











「マリヴロンが、あなたが、わたしについて来るということは、あまり意味のないことだ。『私はどこへも行きません。いつでもあなたが考えるそこに居ります』と。つまり、あなたが考えたり、悩んだり、働いたり、生活したりしているところに、わたしはいつだっているんだ。だから、あなたが生活するそれじたいが芸術なんです、というふうにいうところがあります。

 
〔…〕伝えようとするモチーフと、伝わるモチーフと、伝わってしまったモチーフとは別々だというのが文学や芸術の本質にあります。かならずしも書いた人のモチーフどおりに、読者が受けとるかどうかはまったく別なわけで、作者と読者のあいだには、目にみえない障壁があるのです。

 ところが、宗教はそうじゃなくって、その人が考えたこと――信仰――はいつでもそれを受けとった人が、思い悩んだそのそばにちゃんとある。たぶん宗教はそうでなければ、伝道は成り立たないものだとおもいます。

     
〔…〕

 マリヴロンが、『私はどこへも行きません。いつでもあなたが考えるそこに居ります』といったとき、その言葉だけで、芸術家から宗教家にパッと変身したとおもいます。
〔…〕ここに宮沢賢治の宗教と芸術、文学についての最高の解決法がみられるわけです。」
「宮沢賢治における宗教と文学」, in:『宮沢賢治の世界』,pp.168-170.



「『すべての人間は生活してきた軌跡によってそれぞれ芸術を描いている。すべての人は生きることにおいて、必ずその跡を残していく。その跡がその人にとっての一番の芸術であるし、人間にとって最も高級な芸術はそういうものだ』と、マリヴロンはいいます。
〔…〕

 マリヴロンの芸術観によれば、最終的にすべての人々は自分の生きてきた跡に芸術を残しているのであり、目に見えないけれど誰でももっている。自分は、あなたが考えるところにいつでもいる、というのがマリヴロンの芸術観です。同時に、これは作者である宮沢賢治の芸術観であり、芸術観と宗教観が一致するところです。」

吉本隆明「宮沢賢治を語る」,1990年講演, in:『宮沢賢治の世界』,pp.199-200.



「芸術、文学は受けとり方が自由です。その人がそのとき何を切実にかんがええていたかで同じ作品が違ったように受けとれる。また、それが当然です。
〔…〕作品をつくった人と鑑賞する人が、同じところを同じように読む、あるいは私の作品を鑑賞してくれたら、私はそこにいつでもいますと、芸術と文学は約束することができません。なぜかというと、鑑賞する人が、つくった人のモチーフに則して鑑賞してくれるかどうかは全く別問題だし、全く自由だからです。同じだということはできない。

     
〔…〕

 どんなモチーフでつくろうと、それをどういうふうに鑑賞しようが、どういうふうに受けとろうが、万人が共通ではなく、違った受けとり方をする。それをどうすることもできないし、それを否定したら、芸術は一種のファッショになってしまう。この作品はこう受けとるべきで、そうでない奴はだめだという言い方になってしまいます。
〔…〕

 受けとる側がどう受けとるかは全く自由だということが、芸術を成り立たせている最後の基盤です。

     
〔…〕

 『私があなたがかんがえる、そこにいつでもいる』といえるか、いえないか、それだけが芸術と宗教の違いだというのが、宮沢賢治のいいたかったことで、それを『マリヴロンと少女』という作品にしているとかんがえても、たぶん間違った読み方ではないと、ぼくにはおもわれます。

     
〔…〕

 マリヴロンの『あらゆる人は皆自分の生きてきた跡を残している。それは鳥が飛んだあと、空に軌跡を残しているとかんがえるのと同じで、残したものがその人にとっての芸術であるし、人間にとって最も価値ある芸術である。だから、何人も皆、生活それ自体に芸術を描いている』という言葉が、宮沢賢治の芸術観であり、これはいろいろなところに出てきます。

     
〔…〕

 つまり、宮沢賢治によれば、すべての人はアーティストだということになる。これは彼が信じて止まなかった考え方の根本だと思われます。宮沢賢治の、芸術と宗教がフッとスムーズに変わるところで関係づけられる、そういう考え方の根本はそこに成り立っているとおもいます。」

吉本隆明「宮沢賢治を語る」, in:『宮沢賢治の世界』,pp.201-203.





 





 以上、ながながと引用してしまいましたが、吉本氏の解説を読まれて、みなさんはどうお感じになったでしょうか?

 じつは、ギトンは、吉本氏に全面的に賛成するわけではないのです。半分賛成と言ったらよいかもしれません。

 文学も芸術も―――つまり、ここで登場しているマリヴロンのような人の歌唱や演奏といったことも―――、受け手によって受けとられ方は自由で、作者や演奏家が、「自分の考えたモチーフのとおりに読んでいない、聴いていない。」と言って叱ることなどできない……それはまったくそのとおりだと思います。それが解っているかどうかで、その人がまともなアーティストかそうでないかが岐れるというものです。他人の読み方を、それはまちがっているなどと言ってけなす人は、エセ・ディレッタントの見本と言ってよろしいでしょうw

 しかし、そのことから敷衍して‥、マリヴロンが「自分は、あなたが考えるところにいつでもいる」と言うと、とたんに彼女は芸術家ではなくなってしまう、そのひとことで宗教家になってしまう―――と吉本氏が言うのは、ちょっと違うのではないかと思います。

 吉本氏の芸術家観はそうかもしれないけれども、宮沢賢治はそうではないと思うのです。

 まずここで、マリヴロンが歌手だということを考えてみたいと思います。彼女が歌を歌うそのそばで、たしかに聴衆は彼女の歌をさまざまに感じとり、それぞれに感銘することでしょう。少女のコトバを借りれば、


「先生はここの世界やみんなをもっときれいに立派になさるお方でございます。」


 また、上の引用で省略した少女のコトバで言うと:


「あなたは、高く光のそらにかかります。すべて草や花や鳥は、みなあなたをほめて歌ひます。」

 
 つまり、かならずしも歌い手であるマリヴロンのモチーフそのままではなくとも、「草や花や鳥」は、それぞれに受けとったものから深い感銘を受けているのであり、マリヴロンにとってはそれで十分なのだと思います。自分が悲しい気持ちで歌ったのだから、聴衆もみな悲しみを受けとらなければならない、などとは彼女は考えないでしょう。

 「私はどこへも行きません。いつでもあなたが考えるそこに居ります」というマリヴロンの言葉も、“いつでも私の歌を思い出してくれれば、そこに同じ感銘がよみがえるはずだ。それによって、いつでも生きてゆく希望を得てほしい”という意味に理解することができます。あるいは、彼女の歌声を思い出しながら、少女自身が自分の声で歌ってみてもよいではないか、すなわち誰もが芸術家なのだ……と。

 たしかに、少女は、マリヴロンを尊敬するあまり、彼女を教祖か聖人のように偶像視してしまっているかもしれません。しかし、マリヴロン自身は“教祖”になるつもりは毛頭ないし、全く冷めた態度で応対しています。なぜなら、偶像視のような場合もふくめて、受け手の受け取り方は自由であること、それをコントロールすることはできないこと、歌い手と聴衆とのあいだには距離があることを、彼女は知っているからです。

 もしかすると、それは音楽の演奏(基本的に、演奏会などおおぜいの聴衆の面前で行われます)と、詩や小説の創作(近代では、基本的に、作者の孤独な営為として行われ、結果だけが、出版という迂路をへて発信されます)とのちがいかもしれません。

 しかし、宮沢賢治という作家は、自分の詩や童話も、音楽の演奏と同じようなものだと考えていた‥すくなくとも、そのように鑑賞されることが理想だと思っていたのではないか?

 そのことで思い当たるのは、たとえば、彼は、『春と修羅』を出版して以後ですけれども、身の回りの岩手県や東北以外の中央の詩人との付き合いを非常に嫌がっていたふしがあります。『春と修羅・第2集』のために用意していた「序」の原稿には、↓つぎのように書かれていました:



「そこでまことにぶしつけながら
 わたくしの敬愛するパトロン諸氏は
 手紙や雑誌をお送りくだされたり
 何かにいろいろお書きくださることは
 気取ったやうではございますが
 何とか願ひ下げいたしたいと存じます
 わたくしはどこまでも孤独を愛し
 熱く湿った感情を嫌ひますので
 もし万一にもわたくしにもっと仕事をご期待なさるお方は
 同人になれと云ったり
 原稿のさいそくや集金郵便をお差し向けになったり
 わたくしを苦しませぬやうおねがひしたいと存じます」



 当時、中央の詩壇の詩人たちは、さまざまな流派に分かれて、それぞれの主張を持って争っていました。民衆派、新感覚派、ダダイズム、プロレタリア詩人‥ などなどです。そうしたことを、宮沢賢治は非常に煩わしく思ったのではないでしょうか。なぜなら、そうした芸術思潮は、仲間の詩人に対しても、読者に対しても、一定の方向を主張し押しつけるものだからです。

 芸術の創作も、鑑賞も、イデオロギーのような枠にはめることができるようなものではない。‥というのが、賢治という人の考え方だったのだと思います:



「イデオロギー下に詩をなすは
    直観粗雑の理論に
        屈したるなり」

宮沢賢治『詩法メモ・4』より。











 そういうわけで、マリヴロンが、最後に


「私は
〔…〕いつでもあなたが考へるそこに居ります。すべてまことのひかりのなかに、いっしょにすんでいっしょにすゝむ人人は、いつでもいっしょにゐるのです。」


 と言って少女のもとから去ってゆくのは、けっして宗教家に変身したからではなく、むしろ、受け取り方が自由である芸術の本質に、どこまでも忠実であろうとしたためだと思います。「まことのひかりのなかに、いっしょにすんでいっしょにすゝむ人人」というコトバは、かならずしも宗教的な意味にとる必要はないと思います。

 口語詩「春と修羅」にある:


「まことのことばはうしなはれ」


 という「まことのことば」という表現も、同様に、宗教的な意味ではないかもしれません。たとえば、私たちが世界のおののきにふれた原初の感動を、そのまま伝えるような“詩のことば”という意味かもしれません。

 少女はマリヴロンを偶像視し、自分がマリヴロンの歌から受けた感銘は、マリヴロンその人といっしょに行けば、さらにいっそう得られると思っている。自分の歌を少女がそのように受け取ることは、もちろん自由だ。しかし、自分本人に関しては、それは見誤りだ。少女の受けとっている偶像と自分とは、違うものなのだ―――と、マリヴロンは考えたのではないでしょうか。


 さて、『マリヴロンと少女』から吉本氏が展開している問題は、もうひとつあります。それは、


「正しく清くはたらくひとはひとつの大きな芸術を時間のうしろにつくるのです。ごらんなさい。向ふの青いそらのなかを一羽の鵠がとんで行きます。鳥はうしろにみなそのあとをもつのです。みんなはそれを見ないでせうが、わたくしはそれを見るのです。おんなじようにわたくしどもはみなそのあとにひとつの世界をつくって来ます。それがあらゆる人々のいちばん高い芸術です。」


 というマリヴロンのコトバにかかわる部分です。つまり、芸術が「見える」人の目で見れば、誰もが芸術家だ、ということになります。

 もちろん、このマリヴロンの発言は、お世辞や言い逃れではないはずです。これが宮沢賢治の芸術観、あるいは、芸術は、理想としてはこうあるべきだという芸術観だったのだと思います。

 しかも、賢治は、「それがあらゆる人々のいちばん高い芸術です。」と言い切っているのです。そういえば、彼が、生徒の即興的な演技を奨励したと思われる自作演劇や、オーケストラなみの楽器を買いこんでの素人合奏に力を尽くしたことが思い起こされます。

 演奏の技術や才能ということを、彼がどう考えていたのか、よくわからない点があります。しかし、けっしてそれらを等閑視していたわけでもなかった。そのことは、『セロ弾きのゴーシュ』というオーケストラ奏者の猛練習―――しかも、闖入してくる鳥や獣たちという素人を相手にしてのセッションによる―――を描いた作品があることからわかるのです。

 ともかく、“人はみな生きた軌跡によって「大きな芸術」を自分の後ろに創る。それが、「あらゆる人々のいちばん高い芸術」である”―――というのが、技術においても才能においても不世出の、ひとりのすぐれた詩人の到達点であったということは銘記されるべきです。





 





「自分の生活の軌跡、それがあらゆる人の持っている一番の芸術である。人にはみえないかもしれないが、自分にはみえるという言い方をします。みえるということと、みえないということがあるわけですが、マリヴロンが『私にはみえる』というとき、それはどういうことをいっているかというと、一つの事柄を行きがけにみる見方と、帰りがけにみる見方では違うようにみえることがあり得るということだとおもいます。

     
〔…〕

 つまり、マリヴロンは帰りがけの目でみていて、少女は行きがけの目でみている。自分が芸術を残していても自分ではみえない。だけど、マリヴロンにはみえる。
〔…〕宮沢賢治が追いつめた最終のところは、そういうところに帰着するのだろうと思われます。」
吉本隆明「宮沢賢治を語る」, in:『宮沢賢治の世界』,pp.206-207.



 正直言いまして、↑この説明で吉本氏が言っている「行きがけ」「帰りがけ」というコトバ自体、象徴的すぎて、何を言おうとしているのか、ギトンにはよくわからないのです(←)。吉本氏の別の本を見ると、↓このような言い方もあります:



「詩の往還ということを考えれば、中也の詩は『還
(かえ)り道の詩』だと言うこともできる。難解な言葉を使ってひたすらに新しい言語表現や言語実験をめざす『往路の詩』ではなく、徹底して突き進んだ地点から読者の意識の方へ、生活の現場の方へと戻ってくる『還り道の詩』だと言える。」
吉本隆明「中原中也『在りし日の歌』」, in:ders.『日本近代文学の名作』,2008,新潮文庫,pp.158-159.



 上の講演の「行きがけ」「帰りがけ」と、下の文章の「往路」「還り道」が同じ意味だとしたら、「帰りがけの目」とは、芸術の深奥に行きつくした地点から、生活の現場と生活者の日常的意識をふり返って見ている目―――ということになります。

 これで、コトバの意味はいちおうわかったような‥、それでもけっきょく、そういう「帰りがけの目」で見ると、「人びとの生活の軌跡こそが、一番の芸術である」ことが「見える」―――という話は、やはりまったく理解できませんw

 ようするに、芸術を極めたと称する人が、おまえら自分では見えないだろうが、俺にはおまえらのことがよく見えるのだ、と言っている。‥‥そんなこと言われたって、毒にも薬にもならんわい。見えると言うなら、俺たちにも見えるようにしてもらいたいもんだ…―――と言いたくなってしまいますw←


 ちょっと思い当たるのは‥、晩年のフッサールが、《現象学的還元》のような難しいことではなくて、近代科学の客観的な見方に馴らされる前の、素朴な人びとの持っていた世界に対する見方を、「生活世界」と呼んで重視するようになったことです。もじって言えば、“人びとの日常の生活意識こそが、一番の哲学だ”ということになるでしょうか...

 しかし、それが何か足しになるのかどうかも、よくわかりません...

 これもまた、宿題にしておくほかなさそうですね、いまのところ。。。








ばいみ〜 ミ



 
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カテゴリ: 宮沢賢治

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