03/02の日記
16:34
【BL週記】小岩井農場は雪原だった!
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岩手山と鞍掛山 一本木郵便局付近から
こんばんは。(º.-)☆ノ
ひさびさに盛岡方面にミヤケンの取材をしに行ってました(^^)/
まっ白な雪をかぶった小岩井農場もすてきでしたが、そこは何度もバスで通過するだけだったので、写真をお目にかけられないのはざんねんです。
小岩井駅の近くから「まきば園」まで停留所が無いんですよね。スキーの痕も足跡もないまっさらなスロープに四つ森の松や枯れ木がにょっきり出ている《聖なる地》は:
「この冬だつて耕耘部まで用事で来て
こゝいらの匂のいゝふぶきのなかで
なにとはなしに聖いこころもちがして
凍えさうになりながらいつまでもいつまでも
いつたり来たりしてゐました」
とミヤケンが書いているようなけしきで、バスから降りてうろうろ歩いてみたい誘惑にかられましたが、今回はもっと奥の姥屋敷のほうを撮してくるのが目的なので、窓から見るだけでがまんしました。
それでも、なんとなくわかったのは、この場所の雪原散歩は、それほど厳しい話ではなくて、わりに快適そうだということです。
ミヤケンの「小岩井農場」の↓このクダリを読んでいた時には、地吹雪の舞う中をなんども「いつたり来たり」するなんてキチガエぢゃないだらうか‥ さすがミヤケンは“聖人”だ‥ と思ったものですが、それほどのことではなさそうです。
たしかに、人は誰も歩いていませんが、(今は四つ森牛舎がありますが、当時も)遠くには人工物もちらほら見えるし、(今はバス通りを自動車が走ってますが)当時も馬ソリが往き来していたのですから、考えてみれば、スキーヤーのいないスキー場のゲレンデを歩くのと変りないわけです。
「ふゆのあひだだつて雪がかたまり
馬橇(ばそり)も通つていつたほどだ
(ゆきがかたくはなかつたやうだ
なぜならそりはゆきをあげた
たしかに酵母のちんでんを
冴えた気流に吹きあげた)
あのときはきらきらする雪の移動のなかを
ひとはあぶなつかしいセレナーデを口笛に吹き
往つたりきたりなんべんしたかわからない」
《小岩井小学校》前のれいのブナ試験林(⇒:【宮沢賢治】エコロジーの元祖か?)も、こうやって雪のなかで葉を落としたすがたを見ると、たしかにブナのロート形の樹形をしているのがわかります。
葉をつけている時にブナらしく見えないのは、たぶん、こうした平地では条件が良すぎて、小枝が徒長してしまうせいなのでしょう。
姥屋敷から、大沢坂(おさざか)峠を越えて滝沢市のほうへ出るつもりだったのですが、新雪が降りたばかりで、脚が膝まで没してしまうほどなので、ツボ足では、とても越えられないと思ってあきらめました。東麓で、西根から《焼走り》まで歩くつもりだったのも、雪が深そうなので断念しました。
でも、この数日は岩手県もよく晴れていて、岩手山の写真はきれいに撮れました。
とった写真は少し編集してから、《ギトンのギャルリ・ど・タブロ》のほうに掲載する予定です(^^)o
盛岡はもう4度目くらいになるので、交通機関の使い方もだいぶ馴れてきました。岩交バスと県北バスのバスカードを両方買っておくのがコツです。盛岡から好摩までは(その北の旧・東北本線方面も)JRではないので、入り口も切符も違います。これがわからなくて、最初は何度もまごつきました。
レンタカーで行ったら便利だろうとは思いますが‥、ミヤケンの“あしあと”は、いまでも車の入れないところが多いし、両側“雪の壁”の道で道路のまん中に駐車しておいたら迷惑だし、おまけにギトンは運転に自信がないので(←)、遠慮してますw
花巻も1日まわりましたが、2月の終りにはもう雪はだいぶ融けていて、舗装でない道も“融雪でどろんこ”というほどではないのがわかりました。むかしはいまより気候が寒かったようですが、3月末のネコヤナギが芽吹くころには、もう固い雪道も泥んこ道も、あまりなかったのではないかと思われました。
「青じろい骸骨星座のよあけがた
凍えた泥の乱反射をわたり
〔…〕」
『春と修羅』「ぬすびと」
↑この「凍えた泥」も、夜明けで寒いから泥が冷えて固まっているだけで、町中どこもかしこも雪と氷で歩けないような状況ではない‥ もう夜通し歩いてあちこちさまよって来ることはできた季節だと思われます。
最近でも、数年前に仕事で2月の秋田県へ行ってきた時の体験では、東北新幹線の白河から北は別世界のような吹雪と積雪に埋もれた世界だ―――という印象があったのですが、それは年によってちがうようですね。ことしは、すくなくとも中通りまでは、“雪に埋もれた世界”ではありませんでした。
それにしても、夕方になって日が落ちると、ほんとに寒いです。歩いていても凍えます。犬の散歩をしている人もたくさん見かけましたが、こんなに寒いのに、よく犬のつきあいなんかできるものだ。やはり地元の人は寒さに馴れていると思いました。
朝も寒いです。朝おもてに人が出てくるのが遅いと思いましたが、それは地元の人が怠け者なのではなくて、生活の知恵なのですね。
4日間、昼間歩き回っただけなのに、唇の周りは数年ぶりにかさかさして肌が荒れて、そういやむかしは東京でも冬はこうだったなと思いました。
こっちではきょうは雨で、ぬくぬくしてると、こっちの冬はほんとに楽だと思いますw
岩手公園 城址本丸を望む
盛岡城址(岩手公園)も、“お城”という感じの写真を撮っていなかったので、今回落穂拾いができてよかったですw
『もりおか 啄木・賢治青春館』も久しぶりに行ってみました。1階の展示は変っていませんでしたが、説明書きをたんねんに読んでいると、あらためて教えられることが多くて、とても勉強になったです。たとえば、賢治のこの歌:
「さわやかに
朝のいのりの鐘鳴れと
ねがひて過ぎぬ
君が教会」
『歌稿B』#280
↑「君が教会」は、保阪嘉内が訪問したことが彼の日記に書かれている『下の橋教会』で、「君」は嘉内を指していると、いままで思っていたのですが、どうも考え違いだったようですね。
鐘楼があるということは、『下の橋教会』ではなく、『四ツ家カトリック教会(天主教公教会)』のほうです。
帰宅してから『全集』を見てみると、すぐつぎに、『四ツ家教会』のプジェー神父を名指した歌も付け加えられています:
「プジェー師よ
いざさわやかに鐘うちて
春のあしたを
寂めまさずや」
『歌稿B』#280b281
カトリックの神父は、タッピングのようなプロテスタントの聖職者と違って妻帯しませんから、「春のあしたを/寂めまさずや」という感想が出てくるのでしょう。
賢治は、プジェー神父とも親交があったのはまちがえないようです。彼は、カトリックに対しては、同性愛者としての複雑な感情が見え隠れしています:
「やうやくに漆赤らむ丘の辺(べ)を
奇(あや)しき袍の人にあひけり
ひとびとは
鳥のかたちに
よそほひて
ひそかに
秋の丘を
のぼりぬ」
『歌稿B』#21,21b22
上田哲氏によれば、「奇しき袍の人」(『歌稿A』では「奇しき服つけし人」)は、カトリックの聖職者が着る黒い服だということですが、中学生時代の #21 では、丘のへりで出会ったカトリックの人たち(プジェー師らか、ほかの修道者か)を奇怪な服装の怪しい集団と見て驚いたようです。
そういえば、「津軽海峡」(『春と修羅』「第1集補遺」)の↓つぎの挿入描写も、カトリックの修道者に対する敬意でも親近感でも無関心でもない、隔たりを保って眺めているような感情が読みとれます。純真そうな視線を天上に投げながら手では編み物を織りなしている修道女の姿に、傷心の賢治は何を思ったのでしょうか?
「二等甲板の船艙の
つるつる光る白い壁に
黒いかつぎのカトリックの尼さんが
緑の円い瞳をそらに投げて
竹の編棒をつかってゐる。」
ばいみ〜 ミ彡
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