02/24の日記

06:55
【宮沢賢治】自然を前にしてのエポケー

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 おはやうございます。(º.-)☆ノ





 《序説》の落穂ひろい、2回目です。やっぱり、たくさん書いた後は筆が重くなりますね。書くことたくさんあるんだけど、なかなか筆が進まないw‥

 がんばって続けたいと思います。






(3)“意味”はテキストそのものの中にある―――「たむぼりん」




「現実には、わたしたちは自分で自発的に知っている以上のことを理解する能力がある。
〔…〕難解なテクストのすべての語は、それ以前にわたしたちのものであった思考を呼び覚ます。しかし同時に、テクストの語の意味が結びつき、新しい思考が生み出され、これが語の意味を作り替えてしまうことも多い。そのときわたしたちは書物の核心へと導かれ、その源泉と一体になるのである。」
中山元・編訳『メルロ=ポンティ・コレクション』,1999,ちくま学芸文庫,pp.18-19.(『知覚の現象学』)


 ここでメルロ=ポンティが、宮沢賢治の詩の《方法》を、たいへん的確に説明していることに、私たちは驚かされます。もちろん、メルロ=ポンティが東洋の片隅の詩人を知っていたわけはないのでして、彼は詩というもの一般、‥いや、テキスト一般について語っているのです。

 テキスト一般と言いましたが、メルロ=ポンティが註で断っているように、より正確に言えば、「原初的な言葉だけにあてはまる」「伝統を越えた場所で、原初的な経験をあらわにする作家や哲学者の言葉」
(op.cit.,p.56,[5])にだけあてはまる非日常的なテキストの特性について述べているのです。

 「心象スケッチ」という賢治詩の方法は、宮沢賢治という・本流からはずれた詩人の特異なやりかただったのではなく、むしろ、「原初的な経験をあらわにする」ような詩・テキスト一般に通用する、普遍的な方法、いわば詩の本質に通ずるものだったと言えます。

 ただ、賢治の生きていた当時の日本では、賢治のほかにはごく少数の人―――中原中也、草野心平など―――だけが、ごく朧げにもそのことを理解していたのでした。そして彼らはみな、当時まだ“詩人”としてまっとうに認められていませんでした。だから、彼らがつかみかけていた詩の本質、テキストの本質に関する見方も、一般には理解されることがなかったのでしょう。

 しかし、その状況は、100年後の現在でも、それほど大きく改善されてはいないのではないでしょうか?




「テクストの語の意味が結びつき、新しい思考が生み出され、これが語の意味を作り替えてしまう」



 ↑これが、「心象スケッチ」で常用された《方法》なのだと思います。

 「氷河」と「雨雲」、サハリンの「海」と「藍銅鉱(アズライト)」、「沼」と「膠質(コロイド)」と「アマルガム」…、こうした、日常的な図式では異質な語と語の衝突が、賢治のテキストを読む私たちを、彼の「心象」世界の理解へと導いてくれます。












「このように言葉によって他者の思考を考え直すこと、他者について省察すること、他者に従って思考する能力というものが存在するのであり、これがわたしたちの固有の思考を豊かにするのである。ここでは語の意味が最終的には語そのものによって導かれることが必要である。―――正確に言うと、語の概念的な意味は、言葉に内在する身振り的な意味作用から引き出されることで形成される必要がある。

 たとえば外国を訪れた際に、語の意味を理解できるようになるのは、その語が行動の文脈においてどのような位置を占めるかを知り、その地で共同の生活に参加することによってである。
〔…〕結局のところすべての言語は、自らを告げ知らせるのであり、聞く者の心のうちにその意味を持ち込む。〔…〕

 わたしたちは語の共通の意味を知っているのであり、すべてのテクストを理解するために必要なものをすでに所有しているという幻想をもっている
〔…〕実のところ、文学作品の意味は、語の共通な意味によって作られるというよりも、語の意味を作り替えるのに貢献しているのである。聞く者においても読む者においても、また語る者においても書く者においても、主知主義者には想像もできないような言葉の中の思考というものが存在するのである。」
中山元・編訳『メルロ=ポンティ・コレクション』,pp.18-19.(『知覚の現象学』)



 賢治詩のような「原初的な経験をあらわにする‥言葉」において、作者の経験を理解するための唯一の手段、作者と読者をつなぐ唯一の経路が、「言葉の中の思考」なのだとしたら、テキストのどんな一句も、ゆるがせにすることはできないことになります。

 じつは‥、以前から折にふれて指摘していたと思うのですが、賢治の「心象スケッチ」を読んでいると、ときどき、見過ごそうと思えば見過ごせるような・ごく小さな不可解箇所に気づくことがあります。

 賢治作品でも、童話のほうはあまり注意して読んでいないのですが、童話の語りのなかにも、そういうごく細かな不可解箇所は、かなりあると思います。ただ、そういう箇所にこだわって論じている人は、あまりいないように思われるのです。

 いま、とりあえず詩にかぎって言えば、そういう小さな不可解箇所の“つまづき”をやり過ごさずに、そここだわって見ていると、いままでは気づかなかった「心象」世界の相貌、あるいは、「心象スケッチ」という方法の鍵になる風景が、そこから見えてくることが多いのです。






「たむぼりんも遠くのそらで鳴つてるし

 雨はけふはだいじやうぶふらない」

宮沢賢治『春と修羅』「小岩井農場・パート2」より。


 これは「小岩井農場・パート2」の冒頭2行ですが、ギトンはまえまえからこの箇所がずっと気になっているのです。

 『ゆらぐ蜉蝣文字』の本文でこの箇所を書いたときは、まだ疑問を解決できていなかったので、たいへん不十分な説明を書いてしまいました⇒:〜ゆらぐ蜉蝣文字〜 3.3.1




 「たむぼりん」(タンバリン)は、遠雷の音を言っているという理解でまちがえないと思うのですが、そうだとすると、ふつう私たちは、野山に出かけて遠雷を聞いたとき、それは天気が崩れる前兆だと思うのではないでしょうか?

 ところが、賢治の上の2行の言い方は、そうした常識的な見方とは、微妙にズレているのです。



 いま、私たちの常識的な見方にしたがって書くとすれば、↓つぎのようになるでしょう:


「たむぼりんが遠くのそらで鳴つてるから

 けふは雨になるかもしれぬ」



 あるいは、「雨は‥ふらない」という判断に接続させるとしたら、つぎのように逆接で書かなければ常識に反します:


「たむぼりんが遠くのそらで鳴つてるが、しかし

 雨はけふはだいじやうぶふらない」












 先ほどの宮沢賢治のテキストに私たちが違和感を感じるのは、“遠雷が聞こえるのは雨の予兆”という常識に反して、2つの行が順接で結ばれているからです:



「たむぼりん遠くのそらで鳴つてる

 雨はけふはだいじやうぶふらない」



 しかし、↑よく見ると、完全な順接ではないかもしれません。「‥‥し」という接続は、理由を推論につないでいるようでもあり、そうではないようでもあり、なんだか曖昧です。

 「も」という助詞も、なにかよくわからない含みを付け加えています。

 つまり、賢治のテキストでは、この2つの行は、“理由→推論”という論理的な関係にはなっていない。むしろ、「雨はけふはだいじやうぶふらない」という判断が、最初からいかなる理由も必要としない当然の確信のように存在していて、遠雷の音「たむぼりん」は、作者のその判断を協賛するというか、遠くから応援するというか、そんな位置にあるように見えます。


 しかし、いったいどうして、そんな奇妙なことを、しかもパートの冒頭のような目立つ場所で、賢治は言うのだろう‥という疑問が、ひじょうに気になってくるのですが…

 ここでギトンの結論を言いますと、この2行で賢治は、一種の《エポケー》を行なっているのだと思います。

 つまり、“遠雷の音は、驟雨の前兆である”という常識的な判断を、あえてここで停止しているのです。天候にかんするこうした前兆判断は、おそらく山沿いで暮らしている人にとっては日常的な知恵でしょうし、同時に科学的判断としても正しいでしょう。“夕焼けの翌日は晴れる”“朝焼けは天気がくずれる前兆”といった判断と同じです。そのような常識を、作者はここで、あえて停止(エポケー)しているのです。

 このような生活者としての常識判断―――いわば、大人の判断―――を停止してしまったとき、そこに何が現れるかというと、「たむぼりん」が楽し気に鳴っている、だからきっと悪いことは起きない……という、いわば“宮沢メルヘン”の世界だと思います。

 この“メルヘン”の世界では、遠雷→雨雲が近づいて来る… という経験的科学的判断ではなく、自然はどんな表情をしているか?‥ 友好的か、険悪か? という表情だけが判断の基準となります。そのような世界であれば、


「たむぼりんも遠くのそらで鳴つてるし

 雨はけふはだいじやうぶふらない」

 
 という2行には、どこもおかしなところはないことになります。「たむぼりん」を鳴らしている雷神は、作者に対して、なんら険悪な点のない穏やかなメッセージを送ってよこしている。だから、雷神には害意はないのであり、驟雨を降らしてくるようなことはないだろう‥ このような判断になると思います。




 ところで、このような・いわば“生活意識”のエポケーを、「パート2」の冒頭で作者が行なった理由は、何でしょうか?

 これも、ギトンの結論を言いますと、このエポケーは、「心象スケッチ」を行なうための心の準備なのだと思います。「心象」世界、すなわち、これから小岩井農場のなかを歩いてゆく作者の“周囲世界”から、作者の“詩人の意識”に直接語りかけてくるさまざまな“声”を聞き逃さないためには、作者がふだん身に着けている“生活世界”の判断を停止しておく必要がある。いわば、自然に対する常識的・科学的な見方が邪魔をしないように、生活意識の“鎧”を脱ぎ捨てておく必要があるのです。

 しかし、それでは、なぜ「パート2」なのか?‥なぜ「パート1」の最初からエポケーをしなかったのか?‥ これも、結論を先に言いますと、「パート1」冒頭では、あるできごとのために、エポケーは必要がないと思ってしまった。‥意識的に《エポケー》を行なうまでもなく、「心象」世界―――“小岩井農場”の夢のような世界に、自然に入って行けると思ってしまったのだと思います。しかし、その予想は、半ばは当たり、半ばは裏切られたと言えます。







小岩井農場 “デァ・ハイリゲ・プンクト(聖なる地)”








 それは、のちほど検討するとして、まず、「パート2」の少し先の部分を見ると、↓つぎのような「ひばり」の描写があります:



「ひばり ひばり
 銀の微塵のちらばるそらへ
 たつたいまのぼつたひばりなのだ
 くろくてすばやくきんいろだ
 そらでやる Brownian movement
 おまけにあいつの翅
(はね)ときたら
 甲蟲のやうに四まいある
 飴いろのやつと硬い漆ぬりの方と
 たしかに二重
(ふたへ)にもつてゐる
 よほど上手に鳴いてゐる
 そらのひかりを呑みこんでゐる
 光波のために溺れてゐる
 もちろんずつと遠くでは
 もつとたくさんないてゐる
 そいつのはうははいけいだ
 向ふからはこつちのやつがひどく勇敢に見える」

「小岩井農場・パート2」より。




「現象学的還元とは、いっさいの超越者(私に内在的に与えられていないもの)に無効の符号をつけることである。すなわちその超越者の実在と妥当性をそのまま措定しないで、せいぜい妥当現象として措定することである。たとえばいっさいの心理学や自然科学など、あらゆる科学を私はただ現象として利用しうるにすぎず、従ってそれらを、私にとっての手掛かりになりうる妥当的真理の体系としては、また前提としても、仮説としてさえも、利用してはならない。」

立松弘孝・編『フッサール・セレクション』,2009,平凡社ライブラリー,pp.222-223.〔『現象学の理念』〕

★ フッサールの用語「超越者」の意味については、⇒:『宮沢賢治の《いきいきとした現在》』第3章 (ii)


 すなわち、作者は「パート2」の最初で、“科学の真理性・妥当性”をエポケーしたので、もはや、“遠雷が聞こえるのは天気がくずれる前兆だ”といった科学法則が、作者の現実の行動や判断に影響を与えることはなくなりました。

 しかし、《エポケー》は決して、科学を忘れなければならないとか、科学を否定しなければならないというようなことを意味しません。科学知識は、《エポケー》を行なう前と同様に、そのまま作者の前にあるのであって、ただ、現実の世界に対して唯一妥当する真理としては、もはや機能しなくなったのです。

 ですから、作者は、「科学を‥ただ現象として」、つまり「こころの風物」として援用することは、自由にできるのです。むしろ、科学知識は、現実世界との“唯一正しい”とされる連関から切り離されたことによって、作者の趣向のままに、どうにでも利用できるものとなったと言えます。

 それが、ヒバリの飛翔を「そらでやるブラウン運動」と認識する賢治の“詩的科学”です。ヒバリが空で、小刻みに動きながら飛び回るのは、(空気の?)分子運動の渦中に自らを投げ込んでいることによって、周囲の分子の衝撃を受けて動揺する不規則運動である。ヒバリのそうした動きは、鳥というより、飛んでいる甲虫である。分子運動に翻弄されているというより、光波のなかで溺れている。

 しかし、そのような激動のうちに、あえて身を投ずる者は勇敢であり、英雄である。勇敢さとは、そういうものなのだ。

 ここには、宮沢賢治の20歳前後の人生観の一面が現れています。それは、南洋拓植工業会杜(植民地における農地・工場の経営等植民政策を行なった国策会社のひとつ)に就職して、南太平洋の東カロリン群島ポナペ島に赴任した同窓卒業生に送った短歌と私信↓が示しているように、当時の日本の海外膨張政策に沿うものでした:



「はてしらぬ蒼うなばらのきらめきをきみかなしまず行きたまふらん

 すべてこれきみが身なればわだつみの深き底にもおそれはあらじ

 あゝ海とそらとの碧のたゞなかに燃え給ふべし赤き経巻

 ねがはくは一天四海もろともにこの妙法に帰しまつらなん」

宮沢賢治書簡[48a]1918年3月14日付 成瀬金太郎宛て



「あなたが感ずる様に暗黒の時代は近いかもしれません。その暗黒のただなかをまっすぐに通り抜け、かがやきの国に立ってふりかへって暗黒の国の壁を破るひとはあなたの様にめまひのする様なはげしいところでカをつくりあげるのでせう。」

宮沢賢治書簡[143]1919年4月15日付 成瀬金太郎宛て



 また、それは、日蓮仏教による世界征服を唱道する『国柱会』の狂信主義に賢治が傾倒した動機でした。『心象スケッチ 春と修羅』前半までの作品を彩る“熱い情念”“天上への垂直志向”を支えていたのも、この情熱だったと言えます。

 もっとも、1921年に東京の『国柱会』本部に身を投じようとして拒絶され、またそこでの田中智学、山川智応ら幹部の実像を見て幻滅してからは、賢治の思想と情念は転換を余儀なくされました。天澤退二郎氏、秋枝美保氏が指摘するように、『春と修羅』後半では、“熱い情念”に替って“冷たい情趣”が、“垂直志向”に替って“水平志向”が優位に立っています。

(それでも、“熱い情念”が賢治作品から消えたわけではなく、『第2集』以降にも、燃え上がる《心象》世界を表現した作品は稀れではありませんが)

 すでに、この「小岩井農場」でも、推敲過程で破棄された「第6綴」(「パート6」にあたる)では、


「(私はどうしてこんなに
  下等になってしまったらう。
  透明なもの 燃えるもの
  息たえだえに気圏のはてを
  祈ってのぼって行くものは
  いま私から 影を潜め)」


 と呟いています。







 







 「パート2」に戻りますと‥、“勇敢なヒバリ”の描写の後は、「五月のいまごろ/黒いながいオーヴアを着た医者らしいもの」が登場し、そして1月の積雪のなかでこの場所で出会った「くろいイムバネス」の紳士が想起されます。これらは、当時の賢治の価値観においては、“勇敢なヒバリ”とは対極の退嬰的な世俗的人物でした。かれらはインテリであり、世間では“ひとかどの人物”としての地位を保っているのですが、当時の賢治は、そのような人々を、世の中に妥協して理想を失った“おとな”として軽蔑していたようです。⇒:〜ゆらぐ蜉蝣文字〜 3.3.4〜「黒い外套の男」

  

 こんどは、“勇敢なヒバリ”の前の詩行↓を見ますと、「パート1」から続いている農場の「馬車」について書かれています:


「しかし馬車もはやいと云つたところで
 そんなにすてきなわけではない
 いままでたつてやつとあすこまで
 ここからあすこまでのこのまつすぐな
 火山灰のみちの分だけ行つたのだ
 あすこはちやうどまがり目で
 すがれの草穂
(ぼ)もゆれてゐる」
「小岩井農場・パート2」より。



 この馬車は、「パート1」で、「オリーブのせびろ」を着た「農学士」風の「紳士」を乗せて追い越して行ったのですが、作者は、農場のお迎えの馬車に乗せてもらえる背広を着た「農学士」と、黄色い作業服を着てとぼとぼ歩いて行かねばならない自分との格差を思い知らされています。(賢治は、高等専門学校出なので「学士」ではありません)⇒:〜ゆらぐ蜉蝣文字〜 3.2.1

 ここで「パート1」の冒頭を見ておきますと、↓つぎのようです:


「わたくしはずゐぶんすばやく汽車からおりた
 そのために雲がぎらつとひかつたくらゐだ
 けれどももつとはやいひとはある
 化学の並川さんによく肖
(に)たひとだ
 あのオリーブのせびろなどは
 そつくりをとなしい農学士だ」

「小岩井農場・パート1」より。


 小岩井駅で汽車から降りたとたんに、まるで小岩井の自然が作者を歓迎して挨拶するかのように「雲がぎらつとひかつた」ので、賢治は、日常的な意識を《エポケー》するまでもなく小岩井の自然の中に入って行けるかのように思って、そのまま歩行詩作を開始したのでした。

 しかし、農場から来ているお迎え馬車は、きちんとした身なりの「紳士」だけを乗せてさっさと出発してしまい、賢治には目もくれません。



「黒塗りのすてきな馬車だ
 光沢消しだ
 馬も上等のハツクニー
     
〔…〕

 わたくしにも乗れといへばいい
 馭者がよこから呼べばいい
 乗らなくたつていゝのだが
     
〔…〕

 馬車はずんずん遠くなる
 大きくゆれるしはねあがる
 紳士もかろくはねあがる
 このひとはもうよほど世間をわたり
 いまは青ぐろいふちのやうなとこへ
 すましてこしかけてゐるひとなのだ
 そしてずんずん遠くなる」

「小岩井農場・パート1」より。


 こんなできごとがあったために、賢治はいやでも日常的な思索に引き戻されてしまいます。

 「パート2」の最初で、あらためて日常的・科学的な考え方に対して《エポケー》を行なっているのは、「オリーブのせびろ」の「紳士」によって触発された日常的な思いを脱するためだったと思われます。

 ちなみに、「パート1」の後半では、プラウを挽いて馬耕している(おそらく上半身裸の)男たちの姿から、


「それよりもこんなせわしい心象の明滅をつらね
 すみやかなすみやかな万法流転のなかに
 小岩井のきれいな野はらや牧場の標本が
 いかにも確かに継起するといふことが
 どんなに新鮮な奇蹟だらう」

「小岩井農場・パート1」より。


 と、単なる季節の移り行き以上に感動的な人間の自然への働きかけを賞讃したり、


「 (ほんたうの鶯の方はドイツ読本の
   ハンスがうぐひすでないよと云つた)」

「小岩井農場・パート1」より。


 と、“本物のうぐいすは毀誉褒貶されて、にせものの綺麗な鳥が人々の賞讃を受ける”というアンデルセン童話などのすじがきを引いて、オリーブ色(≒うぐいす色)の背広の紳士を茶化したりしています。⇒:〜ゆらぐ蜉蝣文字〜 3.2.7


 こうして、「パート1・2」で作者は、「オリーブのせびろ」の「農学士」、「黒いながいオーヴアを着た/医者らしいもの」、「くろいインバネス」の紳士など、作者が日常の思いの中で引きずっている世間の人々との関係を整理し、いわばそうした雑念を片づけて、農場の風景のなかでの「心象スケッチ」に入ってゆく準備をしているのだと思います。











(4)比喩よりもっと奥から、直接出て来たような。





「私はふつうむしろ、なにかを語ろうとするときすでに、なにかことばを口に出してしまっている。口に出されたことばは、それ自体としてなにかしらの意味をもっており、
〔…〕ことばがことばをつなぎ、つぎのことばを生みだしてゆく。〔…〕ことばそのものの、いわば生理にしたがって、私はつぎつぎとことばを紡ぎだしてゆくことになるのではないだろうか。

 なにごとかを表現するために、私が、いちいちことばをえらび、そのことばに意味をむすびつけ、表現することを意図
するのだとしたら、なにかコトバを口に出すたびに、私は非常にやっかいな手続きを踏むことになってしまう。しかし、じっさいには私たちはもっとかんたんにコトバを口に出している。

「メルロ=ポンティがそう言っているように、私の身体を動かすために、自分の身体を表象する
〔自分の身体のしくみを思い浮かべる―――ギトン注〕必要がないのとおなじことで、『私が語を知り、発音するためには、語を〔語の意味を―――ギトン注〕表象する必要はなく、その語の分節的で音声的な特徴を、私の身体の可能な使かたのひとつ、さまざまなモジュール(modulation)のひとつとして所有していれば、それで充分である。』(『知覚の現象学』p.210)その意味では、ことばを語ることが、身体の使用法のひとつである。〔ギトン注―――発言しようと思うだけで、自然に〕手が上がるように、ことばが語られるのである。

 ことばは、だから、なによりもまず、身体の所作、つまり身ぶりである。たとえば、怒りにかられたひと」
が、思わずこぶしをにぎりしめ、それが“怒り”の表現となるのと同じように、「ことばもまず、表現されることがらの一部であることで、当の表現となる〔…〕。怒りによって、からだが振動するように、怒りが怒りのことばとなり、喜びが満面の笑みにあらわれるように、歓喜が声に出る

 身ぶりが意味をもっているように、たんに『語は意味をもつ』(p.206)。
〔…〕

 『ことばは真にひとつの身ぶりなのであり、身ぶりがその意味をうちにふくんでいるように、ことばもまた意味をうちにふくんでいる。』(p.214)
〔…〕

 メルロ=ポンティがそのように主張するとき、その念頭にあるのは、主要には、詩のことばであって散文のことばではない。いま生まれでようとすることば、ここではじめて語られようとすることばであって、繰りかえし反復され、なにほどか磨りへってしまったことばではない。『叫び』のようにおのずと生まれることば、『実存そのもののモジュール』であるようなことばが問題なのである(p.176)。
〔…〕

 『その場合ひとは、語も母音も音韻も、それぞれが世界を唱うしかた(manière de chanter le monde)であることを、対象に置き換わるためにつくられたものであることを見いだすことだろう。」
それは、語の音と「対象との類似によってではない。語や母音や音韻がそれぞれに世界を唱うのは、それらが対象の情動的な本質を引きだし、語のほんらいの意味でそれを表現するからである。』(p.218)

 ことばとはその場合、『人間の身体が世界を言祝ぐしかた manières pour le corps humain de célébrer le monde』であるとメルロ=ポンティはいう。」

熊野純彦『メルロ=ポンティ 哲学者は詩人でありうるか?』,2005,日本放送出版協会,pp.66-69.




 つまり、人間にとってコトバは、“情動の表現”という本質をもっている。人がそれを表現しようなどと意図するより以前に、喜びがおのずから顔に現れるように、コトバは身体の“表現”として発せられる。だから、コトバの“意味”は、発せられたコトバ自体がもっているのであって、コトバ自体のもつ“意味”そのものが、つぎのコトバを紡ぎだしてゆく―――そのような言語観を述べています。

 これは、言語を意思疎通や伝達の道具だとする機械論的な言語観の対極にある考え方でしょう。コトバは、あらかじめ人間がもっている思想なり感情なりを、音列に置き換えて他者に伝える符号のようなものではないのです。コトバが発せられてはじめて、思想は思想として存在しはじめ、不定形な情動が、喜怒哀楽の意味をもった感情として出現する―――そう言ってもよいのではないかと思います。




 
   エンデュミオン




 ここで、例として考えてみたいのは、『心象スケッチ論序説』でもとりあげた↓つぎの短い作品です:



「     日輪と太市

 日は今日は小さな天の銀盤で
 雲がその面
(めん)
 どんどん侵してかけてゐる
 吹雪
(フキ)も光りだしたので
 太市は毛布
(けつと)の赤いズボンをはいた」
宮沢賢治『心象スケッチ 春と修羅』より。




 この「日は今日は小さな天の銀盤で」という表現ですが、「日」つまり太陽と、同じものを示す「天の銀盤」という表現が、両方とも字面に出ているので、これは“直喩”と言ってよいのでしょうけれども、‥比喩にしては、なにか直接的過ぎるというか、ふつうの詩人の感覚とは違う。もちろん、私たちの日常的な見方とも違う。とてもふしぎな感じがしないでしょうか?

 比較のために、ふつうの詩人の“直喩”の例をあげるとすれば、たとえば↓こんなものでしょうか?




「    天気

 (覆された宝石)のやうな朝
 何人か戸口にて誰かとさゝやく
 それは神の生誕の日。」

西脇順三郎『Ambarvalia』より。



 「朝」というもの(概念A)があり、「くつがえされた宝石」というべつのもの(概念B)があって、BがAの内容を限定している、一種の形容詞になっているわけです。ある「朝」の光景―――それは、どんな「朝」なのかというと、「(覆された宝石)のやうな」朝である。

 いわば、A,B,2つの対象が、それぞれ独立してあって、両方の間をつないでいるのが、明るさとか、輝きとか、そういう性質の類似性です。

 (とくに、この詩の場合には、「覆された宝石」はキーツの詩からの引用らしいですから、A,B両概念は、はっきりと独立しています。⇒:ギリシア詩から西脇順三郎を読む

 ともかく、類似性による連想で2つの概念のあいだをつなぐのが、比喩という語法だ―――というのが、ふつうの考え方でしょう。

 もしも賢治が、さきほどの詩で、

「小さな天の銀盤のやうな今日の太陽」

 とでも書いたとしたら、西脇順三郎と同じような、教科書的にお行儀のよいふつうの詩の表現、つまり比喩になったでしょう。

 ところが、賢治の書いた表現↓:

「日は今日は小さな天の銀盤で」

 こちらのほうは、曇り空を見上げた眼から、いきなり「天の銀盤で」というコトバが出てきてしまう感じなのです。「太陽」と「銀盤」という2つのものがあって、両方は似ている、きょうの太陽は「銀盤」を連想させる―――というような構えは、ここにはまったく感じられません。

 「ゆうごはんのおかずは、きょうはサンマの蒲焼で」と言うのと変りません。

 まるで、太陽というものは、きのうは「喪神の鏡」、きょうは「小さな‥銀盤」、あしたの朝は、溶融してルツボからあふれる銅の液体‥、というように毎日変わるものだ、きょうは「銀盤」だ―――とでも言っているかのようです。それが当たり前だと言わんばかりに無造作に、「天の銀盤」というコトバが出てきているのです。

 通常の比喩のような、A,Bが並び立っている構図は感じられない。では、実在感があるのはA,Bどちらなのかというと、圧倒的に「銀盤」のほうに実在感があります。「日」(太陽)のほうは、せいぜい「銀盤」につけられたカテゴリー名か、“あかるさ”“ひるま”といったような希薄な存在感しかありません。“銀盤のような日”が光っているのではなく、“銀盤”がそこにあるのです。

 (映画館で画面に熱中している時には、映写機やスクリーンの存在は念頭から消え去っているのと、よく似ています。)

 これは、ちょうど、空を指して「百円玉がある!」と叫んでいる子どもの気持ちに似ているかもしれません。しかし、子どもとも少し違う。子どもは、「銀盤」などという難しい言い方をしません。

 その次の行の「雲がその面
(めん)を/どんどん侵してかけてゐる」という言い方も、まるで化学実験の観察のような言葉づかいです。「面」を「おも」と読んだらもっと詩的になるかもしれませんが、賢治は「めん」という科学論文のようなルビを振っているのです。

 そこで、この詩のこうした“異常”な印象をまとめて言うと、作者はなにかとてつもなく異常な人で、私たちがふつうにみる森羅万象を、なにか常人とは違った眼で見ている。異常に科学的な眼のようでもあるが、決して冷静な冷たい眼ではない。むしろ風景に現れた“自然”の小さな情動も見逃すことはなく、しかも異常なほど昂ぶった情念が息づいている。

「吹雪
(フキ)も光りだした」

「毛布
(けつと)の赤いズボンをはいた」

 という後半の2行が、それを示しています。毛織ズボンの赤い色は、地吹雪の氷片の輝きに対応しています。












 宮沢賢治の特異な表現は、世のふつうの詩人、歌人のように、あれこれとためつすがめつ言葉を選んだ末に出てくる表現というよりも、むしろ、いわば“思いつく以前に言われてしまったコトバ”なのだと思わなくてはなりません。意識してコトバを“えらぶ”より以前の層から、するっと出てきてしまっていると言えます。

 『心象スケッチ論序説』で私は、宮沢賢治は私たちのコトバが生まれてくる原初の層にさかのぼって、使い古されたコトバのノエマを排除し、その原初を表現するために、通常は使われない特異なノエマで表現したのだ。それが「心象スケッチ」という彼の《方法》だ―――というように説明したと思います。

 しかし、そこで言う“特異なノエマで表現する”ということを、なにかコトバを考えて選ぶというような意識的な行為と考えないほうがよいのではないか。



 賢治が意識的に行なったのは、原初の息吹きがそのまま現れたようなコトバが、まるで風にでも吹き飛ばされてくるように自由にやってくることができるように、自分の心と身体のコンディションを整えることだけであった。作者として現場で行なえることはただそれだけであって、あとは、書き取ったメモを持ち帰り、現場の《体験》を《追体験》しながら整理・推敲することだった―――このように考えてよいのではないでしょうか…

 そのように考えてはじめて、

「幻想が向ふから迫つてくる」

 という賢治自身のコトバ(「小岩井農場」〔下書稿〕第6綴)、また、

「見る眼にそれらが斬新な姿でおののくのである。対象のすべてがこの本然をむき出しにして肉迫するのである。」

 という草野心平の想定(⇒:『宮沢賢治の《いきいきとした現在》へ』第4章(i))も、単なる詩的な修辞などではなく、賢治の「スケッチ」の実相をありのままに言い表したコトバであったことに思い当たるのです。









ばいみ〜 ミ



 
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カテゴリ: 宮沢賢治

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