01/27の日記
01:51
【BL週記】スタンダールの『赤と黒』… and my first lover.
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こんばんは。(º.-)☆ノ
『ゆらぐ蜉蝣文字』の《序説》を改訂中です。今回は2回目の改訂 version 3 ですが、version 2 から大幅に書き変えています。改訂版、アップしました(2/6)。おかげさまでアクセスふえてます、感謝御礼。↑上のリンクからどうぞ!!
ちなみに《いきいきとした現在(lebendige Gegenwart)》とは、知る人ぞ知る現象学のタームだよw
『ゆらぐ蜉蝣文字』は、訂正や追記の必要な箇所がたくさん出てきているのですが、いったん出したものを書き直すにはとても手間がかかるので、本説までは、なかなか改訂できないでいるのです。。。
そうこうしているあいだに、吉本隆明氏の宮沢賢治論を読み直したのが刺激になって、《序説》だけはどうやらリニューアルできそうです。
吉本さんのおかげで、いままで気づかなかった賢治詩の特質にいろいろと気づくことができたし、それらの特質がみな、フッサールやメルロ=ポンティの《現象学》の考え方と結びつくことがわかったので、
ver.2 とくらべて格段に進歩した《序説》をお目にかけられるのではないかと思います(^^)。また、現象学の理論なども、可能な限り基礎のところから説き起こして、わかりやすく書いているつもりです ……ギトン自身、こういうバカにでもわかるような書き方をしないと、自分のやわなオツムでは理解できないのです←
もちろん、従来の自説は、まったくひっこめておりません(エヘン)。ただ、主張のあいまいな部分、わけのわからないことを言っている部分は、ずっと減ってスッキリしたかと思います。
かんたんにおさらいしますと、《序説》でのギトンの主張は:
〇 宮沢賢治の作詩法は《現象学》だ。(バルザックの小説や、セザンヌの絵画が“現象学だ”と言われるのと同じ意味で)
〇 「心象スケッチ」とは、《現象学》だ。
〇 『春と修羅』から『銀河鉄道の夜』まで、宮沢賢治のおもな詩と童話は、《現象学》的営為の過程を記録したものだ。
ということで、今回、吉本隆明氏の論考をたくさん読んで―――もちろん吉本氏は、現象学などとは言っていませんが (^^;―――、ますます確信を深めることができました。
バルザック、セザンヌという話ですけれども、これは言うまでもなくメルロ=ポンティの有名な指摘でして、今回、『セザンヌの疑惑』までさかのぼって読んでみました。
まぁ、フッサールというのは、ドイツのゴチゴチの哲学の大親分みたいな人で(←ちょっと違うか‥)、なかなか読みづらいんですけど‥、ギトンは、以前に、フッサールの『論理学研究』、ハードカバーの訳書で2冊、えらく難渋しながら読みつくして、‥「クロウタドリが飛び立つ」とかw‥‥ けっきょくよくわかりませんでした。←
それに懲りたので、今回は『論理学研究』のほうは、ギトンの足元で埃をかぶったまま、けっきょく1ページも開いていません。w
そのかわり、たいへんわかりやすい、また、私どもにとっては、深くよく洞察させてくれる解説書を、何度も読み返しました:
岡山敬二『傍観者の十字路―――フッサール』,2008,白水社.
今回の《序説》の改訂で、現象学の部分を拡充できたのは、なんといっても、↑この本のおかげです。
メルロ=ポンティのほうは、以前に読んだ時は、例によって、フランス人の書いたものは特有のエスプリみたいな、わけのわからんことが書いてあって、あいまいで、何を言いたいんだかわからんわい‥‥ というかんじだったんですが←
現象学の理屈が、ひととおりわかったうえで読みなおしてみると、いやこれは、なかなかいいことを言ってるじゃないか! ゴチゴチの哲学者の御高説なんかより頭に入りやすい‥ ということになりましたw
メルロ=ポンティには、「両義性」(アンビヴァレンツ。あ、これドイツ語だな)と言うか、理屈でない理屈みたいなところがありまして、
ゴチゴチの哲学だと、伸るか反るか、丁か半か、有か無か、ということで、ゼロ/ワンに峻別してしまうところを、‥‥そのために、フッサールなどは、論理の“隘路”にはまりこんでしまって、たいへん悩ましいことになっている面があるのですけれども‥‥、メルロ=ポンティは、そこを、‥いや、それは、丁でもあり半でもあるんですよ‥ と、パリのカフェに身を落ち着けながら、涼しい顔で言ってのけてしまうんですねw
そこが、ある意味では、‥じゃ、いったいどっちなんですかっ!! と言いたくなるような感じで、読んでて混乱させられるんですけれども、しかし、じっさいの世の中のものごとは、まぁそういうもんですわ‥ という“老人の知恵”がついてくると、かえってわかりやすくなるのかもしれません。。。
とくに、絵やら音楽やら小説やら詩やら、芸術作品の分析ということになると、メルロ=ポンティの“理屈でない理屈”は、絶大な効果を発揮すると言えます。
「AはBではないよ。」と言って、AをBから区別したあと、Aのことを述べながら、「しかし、Aは同時にBでもあることを忘れないように。」と言って、‥A≠B ゆえに A=B みたいな、‥そんなかんじなのですねw
『赤と黒』
それで‥、《序説》改訂版のほうでは、メルロ=ポンティのセザンヌ論を中心にしましたけれど、彼のスタンダール論も、なかなかおもしろいと思いました。そして、スタンダールの長編小説『赤と黒』を、この機会に読み返してみました。
『赤と黒』と言えば、ギトンは、高校生の時に、うーんと無理して最初から最後までべったり読み通して以来、この数日前まで、一度も読みなおしたことがありませんでしたから、いったい何年ぶり‥ てことを言うとトシがわかってしまいますw
はっきり言って、高校生の時は、なんだかよくわからないで読んでおりました。いま読み返して気づくのは‥、この小説は、フランスの歴史―――“大革命”から“7月革命”までの時代史―――を知っていないと、書いてあることがよくわからないということです。それも、高校の世界史の教科書のような、暗記用の固有名詞ばかりたくさんあって、史観は通りいっぺんの歴史ではだめです。そんな知識では、この小説に出てくる「市民」「百姓」という言葉すら理解できません。
(『赤と黒』を読んだことがない方、あらすじはこちらで⇒:朝日出版社・世界文学案内『赤と黒』)
「《おれの最後の日がはじまるのだ》と、ジュリヤンは考えた。〔…〕裁判長からなにかつけたすことはないかときかれて、ジュリヤンは立ち上がった。〔…〕
『陪審員のみなさん、
死ぬまぎわになれば、軽蔑など問題ではなかろうと思っておりましたが、やはり軽蔑されるのはやりきれませんので、一言いわせていただきます。みなさん、わたくしは残念ながら、みなさんの階級に属する人間ではありません。ごらんのとおり、わたくしは、自分の卑しい身分から抜け出そうとした、ひとりの百姓であります』
ジュリヤンはいちだんと声をはりあげた。
『わたくしは、みなさんのお情けを求めはいたしません。甘い考えなどはけっしてもってはおりません。わたくしは死ななければならないのです。〔…〕
わたくしは死刑に値します。しかし、かりにわたくしがこれほどの罪を犯さなかったにしても、わたくしの少年時代がどれほど同情に値するものだったかなどということは考慮しないで、わたくしを罪に落とそうとするひとびとがいることを知っています。
そうすることによって、卑しい階級に生れ、いわば貧困にいためつけられながらも、さいわいりっぱな教育を受け、金持のひとたちが得意になって社交界と呼んでいる世界へ、ずうずうしくもはいりこもうとする青年の一団を、徹底的に打ちのめしてしまおうというのです。
みなさん、わたくしの犯した罪とは、そういうものなのです。しかも、わたくしが自分と同じ階級の人によって裁かれていないだけに、この罪は、よけいきびしく罰せられることでしょう。見わたしたところ、陪審員席には、小金をもった百姓らしきおかたはひとりもいないようです。どなたもみな、敵意を含んだ市民階級のかたがたばかりではありませんか……』
20分も、ジュリヤンはこういった調子でしゃべり続けた。心の中にたまっていたものをすっかりはきだした。貴族階級の引立てにあずかろうという腹の次席検事は、座席から飛び上がった。」
スタンダール,小林正・訳『赤と黒』,下巻,2012年改版,新潮文庫,pp.503-505.
この 1820年代当時、フランスの貴族身分はカネで買うことができました。しかも、産業革命が始まっており、新興の産業資本家や大商人、いわゆる“ブルジョワジー”が台頭していましたから、ブルジョワたちはカネをためて、貴族身分を手に入れ、ぞくぞくと支配階級に参入していたのです。
もちろん、貴族のなかには、17世紀以前からの由緒ある家柄の貴族も、いるにはいましたが、当時の貴族の大部分は、“大革命”の前後に官職と身分を買って成り上がった新興貴族で、彼らの実体はブルジョワ(市民)でした。
そういうわけで、↑このジュリアンの法廷陳述に出てくる「市民階級」(ブルジョワジー)とは、支配階級である「貴族」とイコールなのです。すなわち、「みなさん(陪審員)の階級」=「金持のひとたち」=「市民階級」=「貴族階級」で、陪審員になる資格があるのは、この階級に属する人です。
これに対して、ジュリアンが属する(と主張している)のは、「卑しい身分」=「卑しい階級」=「自分(ジュリアン)と同じ階級」=「百姓」=「平民身分」です。「百姓」は、じっさいには農奴的隷従から解放されて商工業を営み、「小金」を貯めこんでいたとしても、貴族身分を買い取るほどのカネがなければ、「百姓」は「百姓」でしかないのです。額に汗して働いているのは、もっぱら彼らであり、重い国税を納めているのも彼らなのです。
「小金をもった百姓らしきおかた」は、「市民」(ブルジョワ。=貴族)ではありません。
『赤と黒』
もっとも、ここでジュリアンが述べている階級差別の状況を、客観的で絶対に正しい“歴史そのもの”と考えてよいかどうかは、留保が必要でしょう。
少なくとも、この小説が発表された当時の一般的な考え方ではなかったでしょう。『赤と黒』が発表されてベストセラーになり、のちの世代のフランス人はみなこの小説を読んで、ジュリアンのこの最終弁論に感銘して胸に刻んだ結果として、19世紀末から 20世紀前半にかけて、このような歴史観が、フランスでは当たり前のようになった―――と言ってよいかと思います。単純化して言えば、そういうことだと思います。
また、その時代も過ぎて、20世紀後半ともなると―――つまり、このメルロ=ポンティ以後の世代になると、上のような歴史観には疑問が付されるようになります。
むしろ、“大革命”で活躍し、人類の進歩の象徴のように顕彰されていたロベスピエール、ダントン、サン=ジュストといったジャコバン党の革命家たちは、けっきょくは大ぜいの罪のない人を虐殺した独裁者ではないか‥ スターリンやヒットラーと同じではないか‥ というように、“大革命”の評価、そこを出発点とするフランス近代史のもろもろのできごとの評価が変ってきたのです。
(まえに書いたこちらでは⇒:【ラヴォアジェ】(1)〜(20) 新しい動向をかなり取り入れたつもり)
ギトンは、現在のフランスでの史学の動向をよく知りませんが、時代が変わり、また、歴史の研究が進めば、前の世代の歴史観に修正が加えられてゆくのは当然のことだと思います。
その意味では、日本近代史もまた例外ではないはずで、従来の通説的な“明治維新”観、“明治時代”観は、修正されてよいはずです。
ただ、残念ながら、現在、“歴史修正主義”と呼ばれる人たちは、振れすぎた振り子が、逆方向へ、また振れすぎるように、本来の歴史研究の進歩とは違うほうへ向かっているように思われます。
ギトンが残念だと思うのは、彼らの“歴史教科書”に書かれた右翼的な“結果”について言っているのではありません。むしろ、問題は、“これが真実だ”と主張する人たちの《方法》なのです。
通説の歴史叙述は、もちろん最終的に絶対に正しいものではありえません。(もし、そんなものがあれば、それは宗教ですw)しかし、通説の歴史研究には、それを通説たらしめている、さまざまな探究の《方法》があるはずです。それらの《方法》を批判的に受け継ぐことなしに、ただ頭から“歴史を塗り替えるのだ”と言わんばかりに、すべてを否定して、“結果”が都合よいか悪いかを基準にしてしまったら、それは、歴史以前への退化でしかないでしょう。
だいぶ脱線してしまいましたが、『赤と黒』に戻りますと、
さきほど説明した、「市民」「貴族」「百姓」―――そういった言葉がこの小説で使われている意味は、高校生の時には、もちろんまったく、わかりようがありませんでしたから、ジュリアンの最終陳述も、正直言って何を言いたいのか見当がつきませんでしたw
ちなみに、最近出た光文社文庫の訳は、読者に親切に訳していると評判です。ギトンはまだ見ていませんけど、光文社文庫の訳なら、こういう点の予備知識なしでも読めるのかもしれないです。
しかし、そんないい訳は、当時はまだなくて、新潮文庫の小林正訳で読みましたです。
それでは、高校生の時に、この小説のどこがいちばん印象に残ったかというと、
ひとつは、いちばん最後に‥、ジュリアンが処刑された後で、
「フーケが勇気を出してマチルドを眺めると、マチルドは、真向いの、大理石の小さなテーブルに、ジュリヤンの首をのせ、その額にキスしていた。……
〔…〕
マチルドは、恋人が自分で選んだ墓場までついていった。〔…〕マチルドはひそかに、ただひとり、黒い布でおおわれた馬車に乗って、愛しぬいてきた男の首を膝に抱きながら運んだ。」
『赤と黒』,下巻,新潮文庫,p.554.
という場面です。‥恋愛小説として読んでいたんですねえ...
もうひとつ、忘れられない場面は、ジュリアンが夜の丘の上から、平野に広がる里の灯を眺めながら、―――「これが人間どもの世界だ。」だったか、「愚かな人間どもめ。」だったか、そんなことをつぶやく場面が‥
あったような気がしたんですよね (^^;)ゞ
ところが‥、いま新潮文庫の上下2冊、何度も探したんですけど、その場面が見あたらないんです←
似たような箇所は、3つほどあるんですが↓、‥その印象が頭の中でごっちゃになって、小説に無いシーンを想像で勝手に造っていたのかもしれないですねw
シルク・ド・ボーム谷 ジュラ県
「ジュリヤンはこの巨岩の陰でしばらく息をついてから、また登りはじめた。やがて、山羊番しか通らないような、あるかなきかの細道をたどって、大きな岩の上に出た。ここまで来れば、あらゆる人間と没交渉なのは間違いなかった。〔…〕
ジュリヤンはその巨岩の上につっ立って、8月の太陽に照りつけられる空を見つめた。〔…〕足下に、はるかかなたまで田野が見渡せた。はやぶさだろうか、頭上の巨岩のあいだから飛び立って、ときおり、静かに大きな輪を描いているのが見られた。ジュリヤンの目は機械的に猛禽のあとを追った。彼は悠々と力強く舞う姿にうたれ、その力を羨み、その孤独を羨んだ。
それはナポレオンの運命だった。いつかそれは彼の運命となるだろうか?」
『赤と黒』,上巻,新潮文庫,pp.116-117.
「やっと大きな山の頂に出た。〔…〕
この大きな山の頂にある裸岩のあいだに、猛禽のように身を隠していると、どんな人間が近づいてきても、遠くからすぐわかる。切り立ったような斜面の岩があった。その斜面のまんなかに、小さな洞窟を見つけた。ジュリヤンは走って行って、この隠れ家に身をひそめた。《ここなら人間どもから害を加えられることもあるまい》と、彼は喜びに目を輝かしながらいった。ふと、思う存分考えていることを書いてみようという気を起した。ほかだとどこでも危険きわまりないからだ。〔…〕
やがて、陽がはるかかなたのボージョレの山陰に沈んでいくのに気がついた。〔…〕肘を立て、頭をかかえて、夢想に耽り、自由の喜びに酔いしれながら、この洞窟にいると、生れて以来味わったことのないほど幸福な気がした。黄昏の光が次々に消えていくのを、眺めるともなく眺めた。この広漠たる暗闇のなかで、いつかはパリで出会うだろうと思うことがらを、しきりにあれやこれやと胸に描いてみた。まず浮ぶのは、これまで田舎で見た女とは比べものにならないほど美しく、また才知のすぐれた女の姿だった。その女を夢中になって愛し、相手からも愛される。〔…〕
この若い百姓は、自分と英雄的行為のあいだに、機会だけが欠けているのだと思っていた。」
『赤と黒』,上巻,新潮文庫,p.131-133.
つぎは、処刑を1,2日のうちに控えたジュリアンが、親友に向かって、修道院を篭絡して自分の死体を手に入れ、山の洞窟に葬ってほしいと頼むシーンです:
「ことによると、われわれは、死んだあとでも感覚をもっているかもしれないよ。ぼくは、あのヴェリエールを見おろす大きな山の中の、あの小さな洞穴で眠りたいな。〔…〕ぼくは夜あの洞穴に隠れて、フランスでもいちばん豊かな地方をはるかに見おろしながら、野心に胸をふくらましたものだった。あのころは、それがぼくの情熱だったんだが。……ともかく、あの洞穴がなつかしい。」
『赤と黒』,下巻,新潮文庫,p.553.
あるいは‥、バルザックのこっちの場面と混同していたのかもしれないです↓
バルザック『ゴリオ爺さん』(1835年)の末尾で、主人公の青年ラスティニャックが、ゴリオをペール・ラシェーズ墓地に葬ったあと、墓地の高台からパリを見おろす場面:
「ラスチニャックは一人残って、墓地の高みに向かって少し歩いた。それから、セーヌ川の両岸に沿って曲がりくねって横たわるパリを眺めた。そこには明りが灯り始めていた。彼の目はほとんど貪るようにヴァンドーム広場の記念柱と廃兵院の丸天井の間に吸い寄せられた。その場所にこそ、あの華麗な社交界が息づいていて、彼はその中に入り込むことを望んでいたのだ。彼はぶんぶん蜜蜂が飛び回るこの巣の上に、まるで前もって蜜を吸ってしまいかねないような視線を投げかけた。それから、この壮大な言葉が彼の口をついて出た。
『さあ今度はお前と一対一の勝負だ!』
そして彼が社交界へ挑む第一幕として、ラスチニャックは夕食を共にするために、ニュシンゲン夫人宅に向かった。」
ともかく、こういういろんな場面をごっちゃにしてこさえたシーンが頭のなかにあって、‥あれも、まだ高校生の時だったと思うんですが、たしかそういう丘の上に夜、友だちと立った時に、…その友だち、同級生だったんですけど、ギトンがはじめて好きになった同性だったんですね... その友だちに、この想像上の場面の話をしたんです。
ギトンとしては、てっきり『赤と黒』に書いてあると思いこんでましたから、『赤と黒』に、そういう場面があって、ジュリアン・ソレルが、そういうふうに言うんだよ、と話したんですね。
そしたら、その友だちは、「そいつは―――その主人公の男は―――まちがってる。」と言うんです。「世の中の人は、みんな苦労して生きてるんだから、それをそんなふうに言うもんじゃない。」と。
言われて、びっくりしました。ますます、その友だちが好きになったんですがw
ともかく、ジュリアン・ソレルもかくやと思われるような現代の美少年に、『赤と黒』を言下に否定されてしまったので‥、
それ以来、『赤と黒』は、一度も開いて見なかったです。ついこの数日前までね。
ばいみ〜 ミ彡
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