01/14の日記

04:11
【吉本隆明】の宮沢賢治論――文語詩の発見(3)

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 おはやうございます (º.-)☆ノ







 ひきつづき、吉本隆明氏の『初期ノート』に載せられた賢治文語詩を順に見ていきます。






      公  子

   
  桐群に臘の花洽
〔み〕ち、  雲ははや夏を鋳〔い〕そめぬ。

  熱はてし身をあざらけく、 軟風
〔そよかぜ〕のきみにかぐへる。

  しかもあれ師はいましめて、点竄の術得よといふ。

  桐の花むらさきに燃え、  夏の雲遠くながるゝ。

宮沢賢治『文語詩稿一百篇』より






 宮沢賢治の原稿にはルビはなく、↑上の〔 〕は、ギトンの考えた読み方です。

 「洽」は、辞書によると「コウ,うるおす,あまねし」と読み、「広く行き渡っている,すみずみまで行き届く,全体をおおう;うるおいをもたせて調和させる;心にぴったりかなう」という意味です。音数律に合うように「み・ち」と読んでみました。

 「軟風(なんぷう)」は、気象用語としては「ビューフォート風力階級」の「3」(「0」は「平穏」)で、3.4〜5.4 m/s、陸上状況は「木の葉や細い枝がたえず動く。旗がはためく。」

 宮沢賢治の口語詩に、「和風は河谷いっぱいに吹く」というがありますが、この「和風」とは、風力「4」の名称です。

 しかし、ここでは「そよかぜ」という読みをあててみました。

 「あざらけく」:「あざらけし(鮮らけし)」は、「(魚肉などが)新鮮だ、生き生きしている」という意味の古語。

 「点竄」は、“答案を添削する”の「添削」と同じですが、「点竄の術」は、関孝和が考案した和算法で、多元連立方程式の解法。転じて、代数計算のこと。



 題名の「公子」ですが、これはおそらく、キリ(桐)の英語名:princess tree からきています。「桐の花」が“公女”なら、この詩の病み上がりの少年は、プリンス(公子)だと言うわけです。

 しかし、熱が下がって生まれ変ったように感じられる身体を、獲れとれの魚か食べもののように、「身を・あざらけく」感じると言い、そよかぜが「きみ」に「かぐえる」とする表現は、官能的です。「蝋の花」「軟風」の柔かいイメージが、その感覚をさらに肉感的にしています。

 「かぐへる」は辞書にありませんが、「香ぐはし(い)」から類推した造語でしょう。動詞にしたことによって、能動的なエロスが感じられます。

 初夏の陽ざしに、盛り上がった積雲がかがやき、桐の紫色の花が映える季節の誘惑を感じながら、「公子」は、外にも出られず、数学の勉強をさせられているようです。

 その鬱屈もまた、「きみ」へのエロスにみちた想いのなかに反映しています。










岩手病院(現:岩手医科大学附属病院)







 この文語詩も、初期の短歌を改作したもので、もとは、1914年、中学卒業直後に入院先の岩手病院で詠んだものです:





 病院の歌  以下


 熱去りてわれはふたゝび生れたり光まばゆき朝の病室


 風木々の梢にどよみ桐の木に花咲くいまはなにをかいたまん


 雲ははや夏型となり熱去りしからだのかるさに桐の花さけり

『歌稿A』#98,116,117. [1914年4-5月]




 これを詩の形に直した最初の草稿は、「ウーア岩手公園」と同じく《無罫詩稿用紙》に書かれていますから、1929年頃に作成したものと思われます:







  桐の木に青き花咲き
  雲はいま 夏型をなす

  熱疾みし身はあたらしく
  きみをもふこころはくるし

  父母のゆるさぬもゆゑ
  きみわれと 年も同じく
  ともに尚 はたちにみたず
  われはなほなすこと多く
  きみが辺は 八雲のかなた
  
  わが父は わが病ごと
  二たびの いたつきを得ぬ
  火のごとくきみをおもへど
  わが父にそむきかねたり

  はるばるときみをのぞめば
  桐の花 むらさきに燃え
  夏の雲 遠くながるゝ

「公子」〔下書稿(一)〕




 「きみ」は入院していた病院の看護婦で、これは宮沢賢治伝には必ず出てくる話ですが、若い看護婦に腕を握られて脈を診られたことで恋心を抱いてしまい、会話を交してさえいないのに、いきなり「結婚したい」と言い出して、父親に一蹴されたという(笑)有名なエピソードです。




 ところで、前記の短歌では、「ふたゝび生れたり」「からだのかるさ」、

 この〔下書稿(一)〕でも、「身はあたらしく」とあって、18歳の賢治にふさわしい若々しさが感じられるのに、文語詩定稿(〔下書稿(三)〕にあたる)では、若々しいふんいきを打ち消すように、「身をあざらけく」という表現に変えてしまったのは、なぜなのでしょうか。

 あたかも、前衛画家が、きれいな色彩でほぼ完成するまで描いてきた人物画に、いきなり灰色の絵の具を上塗りしてしまうような感じを与える変化です。

 逆に言えば、明るい「夏の雲」の風景と調和して伸び上がってゆくような健康な「あたらしさ」を、あえて打ち消すことによって、何を表現しているのか、とも言えます。

 おそらく、そのような外光の明るさとは対照的な「公子」の心の鬱屈を、―――さらに言えば、作者の少年期の回想の中にある暗い鬱屈した情念を、―――表現しようとしているのではないでしょうか。



 文語詩定稿で、「きみにかぐへる」と表現されている「きみ」を、初期短歌の時の看護婦その人と考える必要はないでしょう。「公子」というタイトルが付けられ、「公子」の恋(というより多分に官能的な性的アトラクション)の対象が、桐の花(princess tree)によって象徴されるに至った文語詩定稿は、作者の 18歳の体験から離れて独立していると見るべきだからです。

 「きみ」の性別も、必ずしも女性とは限らないとギトンは思います。熱病から回復して「身をあざらけく」感じている人物は、「公子」として三人称化しているのに、「きみ」が二人称のままなのは、「きみ」の性別を明らかにしないための工夫とも読めます。

 作者の体験の特定性からも、時間からも、相手の性別からも解放された・この詩は、普遍的な世界で、夏へと向かう白熱した(「鋳そめぬ」)“自然”と、そこへ出てゆくことを止められた「公子」の鬱屈とエロスを、対照的に提示しています。

 最終行:「桐の花むらさきに燃え、 夏の雲遠くながるゝ。」は、「公子」の灼けるような渇望と焦燥の思いを示しているのです。



 吉本氏は、この作品を、

「暗いヒユーマニズムの系列と」「リリシズムの清らかさを感じさせる」
作品群との「中間に考へられる、二つの特性の併存した作品」
吉本隆明「再び宮沢賢治の系譜について」, in:『吉本隆明全著作集』,第15巻,p.431.

 のひとつだとしています。





  
    岩手病院前の賢治詩碑







      旱害地帯

   
  多くは業にしたがひて  指うちやぶれ眉くらき
  学びの児らの群なりき

   
  花と侏儒とを語れども  刻めるごとく眉くらき
  稔らぬ土の児らなりき

  
      ……村に県
(あがた)にかの児らの  二百とすれば四万人
        四百とすれば九万人……
   

  ふりさけ見ればそのあたり  藍暮れそむる松むらと
  かじろき雪のけむりのみ

宮沢賢治『文語詩稿一百篇』より







 作者の思いを―――あるいは怒りを、直接ぶつけるような調子は、賢治文語詩の中では特異なもので、そのことが、まず私たちをはっとさせます。





 『新校本全集』の「校異」によれば、この作品は、定稿も下書稿も現存しません。宮沢賢治の死後に作品草稿を整理した際に、原稿(おそらく定稿の形で)が存在したことは、整理の際に打った番号などから明らかなのですが、その後に紛失してしまっており、現在の公刊テキストは、最初の宮沢賢治全集である十字屋版全集に載っているものを転載しているのです。

 下書稿が存在したのかどうかも不明です。

 この詩を読んだ感じから言うと、何次にもわたって推敲されて成立している他の文語詩とは異なって、一気に書き下ろされたような感じがします。したがって、―――あくまでも、ギトンの感触からする憶測ですが―――もともと下書稿は存在せず、定稿1枚だけがあって、それがどこかへ紛れてしまったのではないかと思います。





 詩の意味は、説明を要しないほど明らかで、貧困で陰鬱な学校児童の群れにあふれている地方(「村」や「県」)の現状を、吐き捨てるように告発しています。

 学校教育のしかた、教育行政に対する告発を含んでいるかもしれないし、児童の暗さという一断面に現れた、貧困にあえぐ農村の実情が糾弾されているのかもしれません。子どもたちの健やかさ、無邪気さにあえて言及することなく、「指うちやぶれ眉くらき」「刻めるごとく眉くらき」と、一方的に決めつける調子が、性急なペシミズムを表出しています。

 「多くは業にしたがひて」の「業」は、「ごう」と読むのでしょうか(「ぎょう」なら、学業ですが)? 「業(ごう)」にしたがって、この悲惨な現状があるのだとすれば、すべては彼らの運命が原因であり、救いようがないことになります。

 「二百とすれば四万人/四百とすれば九万人」は、音数を7・5に合わせれば、「しまんにん」「しひゃく」「くまんにん」と読むことになります。「死」「苦」と同音にしているのです。

 「花と侏儒とを語れども」―――教師は教壇から、美しいお伽話を語り、児童も同調して、きれいごとばかりを答えますが、その「眉」は「刻めるごとく」に暗いのです。

 そして、遠方を「ふりさけみれば」:「藍暮れそむる松むらと/かじろき雪のけむりのみ」―――夕暗闇と雪けむりにかき消されて、未来はまったく見えないぞと、脅すような激しい告発をもって締めくくっています‥‥



















 この詩は、いつごろ書かれたのでしょうか?原稿が残っていれば、その用紙から推定することが可能なのに、残念です。しかし、『文語詩稿一百篇』ファイルに綴じられていたと思われますから、そうすると、亡くなる前の月、1933年8月の作であることになります。




 
 宮沢賢治は、絶筆として、



  方十里稗貫のみかも
  稲熟れてみ祭り三日
      そらはれわたる


  病
(いたつき)のゆゑにもくちん
             いのちなり
  みのりに棄てば
       うれしからまし 



 この2首を遺しています。

 「みかも」は「美甘」でしょうか。「みのり」は、「御法」(仏法)だとする説もありますが、すなおに読めば「稔り」でしょう。

 「年譜」によると、

「この年は米収132万石を越したが、これは岩手県はじめての大収穫だった。」

「この年は大豊作なので近在の農民たちも波のように浮き立って町を流れ、農民相手の商業地である花巻町も景気を盛り上げた。」

 とされ、宮沢賢治は、鳥谷ヶ崎神社の豊作祝いの3日間の祭礼を、心から楽しんで亡くなったとされます。

 ↑これが、ごくふつうの評価なのですが、しかし、‥もしほんとうにそうだとしたら、この人にしては、ずいぶん不甲斐ない最期をとげたものだと、ギトンは思ってきました。

 「豊作貧乏」という当時の決まり文句が示すように、豊作すぎる年ほど生産者米価は下落し、豊作の喜びもつかのま、農家は塗炭の苦しみに陥れられるにきまっているからです。宮沢賢治も、そのことは十分にわかっていたはずで、‥にもかかわらず、そんなことはすっかり忘れてしまって、純朴で愚かな農民たちといっしょになって、浮かれて死んだのだとしたら、あまりにもフガイないと言わなければなりません。

 しかし、その一方で、「旱害地帯」のような異常なほどぺシミスチックな詩を書いていたのだとすれば、むしろほっとします。

 むしろ、最後まで、問題は問題として認識する頭脳と反骨心を失っていなかったことに、私たちはほっとするのです。

 吉本氏が、近代日本詩人選『宮沢賢治』の執筆をふりかえって、


「宮沢賢治の人や作品について、感じ、思いをめぐらす時間
〔…〕そこではいつも〔…〕全力をあげてぶつかっても倒れない相手に出あえた。」
『宮沢賢治』「あとがき」(1989年)

 と述べておられるのが、よくわかる気がしました。
 






「私達はこれらの諸作品から彼の持つ文学的系譜について一つの結論に到達し得るのではのではないでせうか 多くの文学者が余りに日本的な感覚に終始するか或は全くヨーロツパ的感覚を出発点としてゐるとき、彼のみはその本質的な感覚から構想したやうに思ひます

 その結果がアジア的な要素と非アジア的な要素との混コウを招来したとしても彼の場合にそれを云々することは結果論にすぎません

 彼は自己の独創の一点からその感覚を拡げ幻想を華さかせました この独創性こそは真に彼を他と峻別し、彼の文学的系譜を永遠性にまで高めてゐる原因であることは疑ふ余地がありません (11月6日☆)」

吉本隆明「再び宮沢賢治の系譜について」, in:『吉本隆明全著作集』,第15巻,p.433.

☆ 1945年11月6日稿了









  
Jean Delville: "Mysteriosa ou Portrait de Mme Stuart Merrill" 




四八

      黄泉路
(よみぢ)


アリイルスチュアール 
一九二七

   

 (房中寒くむなしくて
  灯は消え月は出でざるに
  大なる恐怖
(クフ)の声なして
  いま起ちたるはそも何ぞ!……
  わが知るものの霊
(たましひ)
  何とてなれは来りしや?)

     (君は云へりき わが待たば
      君も必ず来らんと……)

 (愛しきされど愚かしき
  遥けくなれの死しけるを
  亡きと生けるはもろ共に
  行き交ふことの許されね
  いざはやなれはくらやみに
  われは愛にぞ行くべかり)

     (ゆふべはまことしかるらん
      今宵はしかくあらぬなり)

 (とは云へなれは何をもて
  ひととわれとをさまたぐる
  そのひとまことそのむかし
  汝
(な)がありしごと愛しきに
  しかも汝はいま亡きものを!)

     (しかも汝とていまは亡し)

宮沢賢治『文語詩未定稿』より







 ↑これも、賢治文語詩のなかの特異な作品のひとつです。「アリイル・スチュアール」というのも、誰だかわかりません★。翻訳とかではなくて、賢治が自作の詩を、外国の詩のようにして書いたものと思われます。

 「アリイル・スチュアール」の下に「1927」とありますが、《黄罫詩稿用紙》に書かれていることから、この紙に書かれたのは 1930〜33年の間と思われます。1927年は、この作品のきっかけになった何らかの体験があった年でしょう。

 宮沢賢治に、こんな暗くぶきみな、また鋭い一面があったことを、私たちは覚えておくべきです。



★ ベルギーの象徴主義画家ジャン・デルヴィル(Jean Delville: 1867-1953)に「スチュアート・メリル夫人の肖像(Portrait de Mme Stuart Merrill)」(1892年)があります。フランス語風に読めば「スチュアール・メリル」でしょう。関係あるかどうかわかりませんが、絵を上に貼り付けておきます。











ばいみ〜 ミ



 
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カテゴリ: 宮沢賢治

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