01/11の日記

07:53
【吉本隆明】の宮沢賢治論――文語詩の発見(1)

---------------
.




 
銀河鉄道の夜 田土さん











 おはやうございます。(º.-)☆ノ







 その後、宮沢賢治にふれた吉本隆明の文章が、また1点みつかりましたので、お知らせしておきます:






〇 吉本隆明「詩学叙説―――七・五調の喪失と日本近代詩の百年」, in:吉本隆明『詩学叙説』,2006,思潮社,pp.16-18,31-34.




 ↑日本近代の非定型詩を論ずるなかで、実例として賢治の文語詩「岩手公園」と〔丁丁丁丁丁〕を引用しています。これらは『初期ノート』でも論じられているので、のちほど併せて参照することにします。








 さて、吉本さんは、宮沢賢治の文語詩に、最も早く着目して肯定的に評価した人として知られています。

 賢治の文語詩と言えば、彼のみじかい生涯の最後の時期に、集中して制作されたもので、韻文作品のなかで比べても、公刊詩集『春と修羅』のような絢爛さも、後期の営農生活の詩のような苦哀の率直な表明もなく、なんだかよくわからないけど‥なんとなくつまらない‥そんな否定的評価が主流になってしまっています。

 まして、同じころに完成された『銀河鉄道の夜』『グスコーブドリの伝記』という2大童話大作と比べれば、文語詩群が見劣りするのは避けられない‥ように思われてきました。

 しかし、賢治の文語詩を、この機会にあらためて虚心に見直してみると、そこに視られる大きな特徴として、自然叙景のウェイトの大きさが目につきます。文語詩の多くは、あるていど長さのある口語詩を、推敲につぐ推敲によって刈り込んで縮め、“双四聯”というミヤケン独自の定型にはめこんだものと言えます。その“刈り込み”の過程で、人事(人の動きや心理)と作者の意想の部分は最高度に縮められ、あるいは消去されてしまっているのですが、自然の叙景の部分は、むしろ明確化される場合もあり、あるいは整理されずに残されているので、文語詩定型の形では、詩の中心を占めている感があります。

 考えてみると、『銀河鉄道の夜』『グスコーブドリの伝記』の2大童話は、文語詩よりずっとわかりやすいですが、やはりそれらの魅力の重要なモメントとして、それぞれの特徴的な自然ないし宇宙の叙景があると思います。『銀河鉄道の夜』から、「天気輪の丘」や銀河の風景を除いてしまったら、また、『グスコーブドリの伝記』から、森や火山の噴火や雲海の生々しい描写をなくしてしまったら、いまひとつ説得力のない少年SF小説のようなものになってしまうのではないでしょうか。







「二人は丁度白鳥停車場の、大きな時計の前に来てとまりました。

 さわやかな秋の時計の盤面
(ダイアル)には、青く灼(や)かれたはがねの二本の針が、くっきり十一時を指しました。みんなは、一ぺんに下りて、車室の中はがらんとなってしまいました。

 〔二十分停車〕と時計の下に書いてありました。

 『ぼくたちも降りて見ようか。』ジョバンニが云いました。

 『降りよう。』

 二人は一度にはねあがってドアを飛び出して改札口へかけて行きました。ところが改札口には、明るい紫がかった電燈が、一つ点
(つ)いているばかり、誰も居ませんでした。そこら中を見ても、駅長や赤帽らしい人の、影もなかったのです。

 二人は、停車場の前の、水晶細工のように見える銀杏の木に囲まれた、小さな広場に出ました。そこから幅の広いみちが、まっすぐに銀河の青光の中へ通っていました。

 さきに降りた人たちは、もうどこへ行ったか一人も見えませんでした。二人がその白い道を、肩をならべて行きますと、二人の影は、ちょうど四方に窓のある室
(へや)の中の、二本の柱の影のように、また二つの車輪の輻(や)のように幾本も幾本も四方へ出るのでした。そして間もなく、あの汽車から見えたきれいな河原に来ました。

 カムパネルラは、そのきれいな砂を一つまみ、掌
(てのひら)にひろげ、指できしきしさせながら、夢のように云っているのでした。

 『この砂はみんな水晶だ。中で小さな火が燃えている。』

 『そうだ。』どこでぼくは、そんなこと習ったろうと思いながら、ジョバンニもぼんやり答えていました。

 河原の礫
(こいし)は、みんなすきとおって、たしかに水晶や黄玉(トパース)や、またくしゃくしゃの皺曲(しゅうきょく)をあらわしたのや、また稜(かど)から霧のような青白い光を出す鋼玉やらでした。ジョバンニは、走ってその渚(なぎさ)に行って、水に手をひたしました。けれどもあやしいその銀河の水は、水素よりももっとすきとおっていたのです。それでもたしかに流れていたことは、二人の手首の、水にひたったとこが、少し水銀いろに浮いたように見え、その手首にぶっつかってできた波は、うつくしい燐光をあげて、ちらちらと燃えるように見えたのでもわかりました。」
宮沢賢治『銀河鉄道の夜』







「そのときまっくらな地平線の向ふから青じろいのろしがまるでひるまのやうにうちあげられ汽車の中はすっかり明るくなりました。そしてのろしは高くそらにかゝって光りつゞけました。

 『あゝマジェランの星雲だ。さあもうきっと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カムパネルラのためにみんなのためにほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ。』

 ジョバンニは唇を噛んでそのマジェランの星雲をのぞんで立ちました。 天の川を数知れない氷がうつくしい燐光をはなちながらお互ぶっつかり合ってまるで花火のやうにパチパチ云ひながら流れて来向ふには大犬座のまばゆい三角標がかゞやきました。」

宮沢賢治『銀河鉄道の夜(初期形二)』




















「『さあ電線は届いたぞ。ブドリ君、始めるよ。』老技師はスイッチを入れました。ブドリたちは、天幕
(てんと)の外に出て、サンムトリの中腹を見つめました。野原には、白百合がいちめんに咲き、その向こうにサンムトリが青くひっそり立っていました。

 にわかにサンムトリの左のすそがぐらぐらっとゆれ、まっ黒なけむりがぱっと立ったと思うとまっすぐに天までのぼって行って、おかしなきのこの形になり、その足もとから黄金色
(きんいろ)の熔岩がきらきら流れ出して、見るまにずうっと扇形にひろがりながら海へはいりました。と思うと地面ははげしくぐらぐらゆれ、百合の花もいちめんゆれ、それからごうっというような大きな音が、みんなを倒すくらい強くやってきました。それから風がどうっと吹いて行きました。

 『やったやった。』とみんなはそっちに手を延ばして高く叫びました。この時サンムトリの煙は、くずれるようにそらいっぱいひろがって来ましたが、たちまちそらはまっ暗になって、熱いこいしがばらばらばらばら降ってきました。みんなは天幕の中にはいって心配そうにしていましたが、ペンネン技師は、時計を見ながら、

 『ブドリ君、うまく行った。危険はもう全くない。市のほうへは灰をすこし降らせるだけだろう。』と言いました。こいしはだんだん灰にかわりました。それもまもなく薄くなって、みんなはまた天幕の外へ飛び出しました。野原はまるで一めんねずみいろになって、灰は一寸ばかり積もり、百合の花はみんな折れて灰に埋まり、空は変に緑いろでした。そしてサンムトリのすそには小さなこぶができて、そこから灰いろの煙が、まだどんどんのぼっておりました。」

宮沢賢治『グスコーブドリの伝記』







 これらの部分は、ここだけを切り取っても散文詩として十分鑑賞に耐えるだけの迫真性と思想性をもっています。童話に登場する人物の行動も心理も、これらの特徴ある世界の中におかれてはじめて生きてくるように思われるのです。宮沢賢治が『春と修羅』「序詩」で宣言した《心象スケッチ》という方法―――人は、“生ける環境世界”との交感のなかで生きてゆくものだということ―――は、作者の最晩年まで継続していたと言えます。

 その観点から文語詩を眺めると、私たちは、それぞれの詩の具体的大意に入る前に、まずもってその自然叙景の特異性に注目する必要があると思います。それら定型詩は、叙景の陰にかくれるように暗示された思想性を―――童話群よりもずっと濃い思想性を抱懐しているように思われます。

 しかし、抽象的な前おきはこのくらいにして、とりあえずは吉本氏の『初期ノート』にしたがって、賢治文語詩の個々の作品を見ていきたいと思います。(以下、引用は『全著作集』から)

 今回の考察は、あくまでも、文語定型詩を概観してその特質をつかまえることを目的とし、個々の詩の内容をこまかく追ってゆくことは後日に回して、あえてひかえることとします。







「彼の口語詩より文語詩への転換は決定的意味をもつものでした 彼の詩作品の特性をなしていたゐた映象の多様性、表現の自在性、構想の巨大性などを自ら放棄し去った点に於て驚異に値する変換と言ふことが出来まつ 且て彼の詩を論じた諸家が一様に文語詩を軽視してゐるのは余りにその転換の激しいためと考へられます
〔…〕
吉本隆明「再び宮沢賢治の系譜について」, in:『吉本隆明全著作集』,第15巻,1974,勁草書房,pp.426-427.





     民間薬

  たけしき耕の具を帯びて
  ひぐまの皮は着たれども
  夜に日をつげるひと月の
  卑泥
〔ひどろ〕のわざに身をわびて
  しばしましろの露おける
  すぎなの畔
〔くろ〕にまどろめば
  はじめはぬかの雲ぬるみ 
  鳴きかひめぐるむらひばり
  やがては古き巨人
〔おおびと〕
  石の匙もて出で来たり
  ネプウメリてふ草の葉を
  薬に喰
〔は〕めとをしへける
宮沢賢治「民間薬」,『女性岩手』,創刊号,1932年8月;『文語詩稿五十篇』より



「この実相的表現の背後に厳激な思想性を発見することは困難ではありません 彼の口語詩後期における象徴的手法も次第に表現の背後に圧縮され、ここでは彼自身の人間は少しも顔を出さないのですが、それにもかかはらずヒユーマニステイクな思想性が一すぢ底流してゐます。」

吉本隆明「再び宮沢賢治の系譜について」, in:『吉本隆明全著作集』,第15巻,p.427.



 「映象の多様性、表現の自在性、構想の巨大性などを自ら放棄し去った」と吉本氏が書いているのは、当時(吉本氏の執筆は 1945年)の研究家に支配的だった見方を述べているだけで、あまり気にしなくてよいとギトンは思っています。

 たしかに、晩年の文語詩は、一見すると「映像の多様性」「構想の巨大性」が無く、日常・近隣のこまごました雑事を書いているように見えるかもしれません。しかし、それはあくまで詩の表面、字づらに表れていないだけかもしれないのです。たしかに、『春と修羅・第1集』のような絢爛たる語彙や、「まことのことば」「怒りのにがさ」のような剝き出しの表現はありませんが、作者の頭の中には、上で見た2大童話のような幻想的で雄大な世界がうずまいていたかもしれません。初期・中期との相違は、表現のしかたが変ったためとも考えられるのです。







 「民間薬」は、賢治の死の1年前に発表されました。

 たけだけしい耕具をたずさえ、ヒグマの皮を着た珍妙ないでたちの農夫が、まるひと月、水田耕作に精を出したが、農作業に慣れていないのか、疲労のあまり、スギナなどの雑草が繁茂した田のあぜに寝転んで居眠りを始めてしまった。

 「村ひばり」は、そのさまを指さして、ウワサ・陰口にむちゅうになっている村の主婦たちの暗喩でしょう。

 やがて見るに見かねた「巨人」―――初期・中期の賢治詩で「巨人」と言えば、太古の地質年代の想像上の巨大人類ですが―――……経験ある老農夫のような人でしょう、自家製の精力剤を持ってきて飲ませてやった、という話です。

 「ネプウメリ」は、ギョウジャニンニクのことだそうです。⇒:イーハトーブ・ガーデン

 “ヒグマの毛皮のシンマイ農夫”は、営農自活をめざした無理が祟って病床に臥せてしまった作者自身を、戯画化し自嘲しているのかもしれません。しかし、そのつながりは直接的ではありません。かならずしも、作者自身のことと決めつけて読む必要はないでしょう。

 この詩は、賢治の営農生活を、「金持ちのおぼっちゃまが野良仕事のまねなんかし腐ってw」と嘲りつづけた「村ひばり」や近所の農夫たち―――歓迎して世話をやく人もいたようですが、一部に頑強な反対者がいました。その人は「クマ」というアダ名だったとか。―――に対して、やんわりと抗議しているようにも受けとれます。詩の流れが、「村ひばり」の誹謗中傷から、老農夫の思いやりへ、すんなりと移っているので、あまり角の立たない“やんわり”した抗議になっているのです。

 あんまり“やんわり”しすぎていて、私たちは、「鳴きかひめぐるむらひばり」を読んだだけでは暗喩とは気づかず、読みすごしてしまいそうです。しかし、それは私たちが部外者だからです。当の「むらひばり」の誰かが読んだら、すぐにわかってカチンと来るかもしれません。盛岡市で発行される『女性岩手』に掲載するのですから、下根子村(宮沢賢治が営農活動をした「羅須地人協会」のある村)の関係者が読む可能性はおおいにあるのですw

 それが、「背後」に「厳激な思想性」が秘められていると、吉本氏が言う意味だと思います。






  










     電気工夫

  (直き時計はさま頑
(かた)く、  憎(ぞう)に鍛へし瞳(め)は強し)
  さはあれ攀
〔よ〕ぢる電塔の、  四方〔よも〕に辛夷〔こぶし〕の花深き。

  南風
(かけつ)光の網織れば、   ごろろと鳴らす碍子群。
  艸火のなかにまじらひて、   蹄
〔ひづめ〕のたぐひけぶるらし。
宮沢賢治『文語詩稿一百篇』より




 徹底して推敲を行なった下書稿が残されており、↑上の形は、ずいぶん整理されて読みやすくなった定稿です。

 下書稿では、人物は「名誉村長」でした。おそらく、高い鉄塔に登って地上の風景を見おろす人物にしたいために、「電気工夫」に変えたのだと思います。したがって「電気工夫」は暗喩で、村の人々の上に立つ有力者、村で実力をふるう人物を暗示していることになります。

 「直き時計」は、下書稿では「正しき時計」、「憎」は「憎悪」、「蹄のたぐい」は「豚の蹄のたぐい」でした。

 この詩の人物は、時間の正確さを尊び、また、多くの“敵”―――他の実力者や、他の町村・県の官僚など―――と闘ってきた経験から、その眼はいつも憎悪にぎらぎらと光っており、相手を威圧する眼力をそなえています。

 そして、鉄塔の上からの春の風景が描かれます。強い南風に、電線も碍子もちぎれんばかりに鳴っており、冬枯れの草を燃やす“野焼き”の火のなかから、蹄の焼ける猛烈な煙と悪臭がただよってきます。









  猥
〔な〕れて嘲笑(あざ)めるはた寒き、  凶〔まが〕つのまみをはらはんと
  かへさまた経るしろあとの、      天
〔あめ〕は遷〔うつ〕ろふ火の鱗。

  つめたき西の風きたり、        あららにひとの秘呪
〔ひじゅ〕とりて、
  粟の垂穂をうちみだし、        すすきを紅く耀
(かゞ)やかす。
宮沢賢治『文語詩稿一百篇』より





 古語辞書を引きますと、「まがつ神」は、災厄をもたらす神、「かへさ」は帰り道、「あらら・なり」は、荒っぽい、粗野だ、おおざっぱだ。また、「秘呪」とは、人から呪われたときに、呪いを返したり、邪気をはらうための呪文のようです(⇒:参照サイト1 参照サイト2



 そうすると、大意はつぎのようになるでしょう:

 なれなれしく人をあざ笑う癖がついてしまった眼(まみ)を浄化するために、帰り道―――どこへ行ってきた帰り道でしょうか―――にもう一度、ひとけのない花巻城址へ登って、護身の、あるいは呪い返しの呪文を唱えていると、そらには燃えるように真赤なウロコ雲が飛び、冷たい西の風がエノコログサ(ねこじゃらし)を激しく揺らし、ススキの赤い穂を光らせて吹きすぎ、呪文をきれぎれに飛ばして行った。

 ↑上の定稿には題がありませんけれども、下書稿では、題が「判事」になったり「検事」になったりしていますから、“帰り道”とは、裁判所(盛岡地方裁判所花巻支部)へ出勤した帰り道ということでしょう。

 定稿で題が削除されていることからすれば、この「秘呪」を唱えている人物を、判事または検事と決める必要はないと思います。ともかく、他人を憎んであざ笑うような場所へ行ってきた帰り道ということです。



 この詩でも、“自然”が重要な役割をしていますが、テーマは“自然”そのものではなく、人事―――人と人とのいがみあいの現実です。人は、まがまがしさを避け、身を清めるために“おまじない”に頼ろうとしますが、人を囲む“自然”にとっては“おまじない”もまた、ちっぽけな人間のふるまいにすぎないのです。







「これらの作品に一貫してゐる思想性はその材題からも明らかに知ることが出来ます しかもこれらは文語詩に圧縮されてはゐますが、明らかに近代的精神とも言ふべききびしさを具へてゐて、或は文語詩に表現する意義が無いとも考へられるのです 明治以後の詩人達は明らかにこのうな思想性を具へていましたが、彼程に定型詩の中に見事にその思想性を圧縮した詩人を他に知りません」

吉本隆明「再び宮沢賢治の系譜について」, in:『吉本隆明全著作集』,第15巻,p.429.







 ところで、上の2つの詩:「電気工夫」と〔猥れて‥〕には、たいへん特徴的な“自然”のモチーフが共通して現れています:





 艸火のなかにまじらひて、 蹄のたぐひけぶるらし。



 天は遷ろふ火の鱗。





 すなわち、焼けて輝く、あるいはくすぶる“焔”のイメージです。そのもとをたどれば、盛岡高等農林在学中の短歌に遡ります:






 青ガラス
 のぞけばさても
 六月の
 実験室のさびしかりけり

      ※

 あをあをと
 なやめる室にたゞひとり
 加里のほのほの白み燃えたる。

『歌稿B』#324,325〔1916年3〜6月〕






 「なやめる室」は、誰かがへやのなかで悩んでいるというよりは、へやそのもの、へやの中の青黒く沈んだ空気そのものが「なやんでいる」と読んでよいと思います。

 カリウムの炎色反応は淡い赤紫色ですが、「白み燃えたる」、つまり、色のよくわからないたよりない光を発して燃えています。へやの中の深青色の空間の底で、淡色のカリウムの小さな炎がひとつだけ、白っぽく燃えているのです。もし比喩とすれば、この情景の全体が、なにかの象徴になっているのです。







コバルトガラス(青ガラス)を透して見たカリウムの炎色反応⇒:大阪市立科学館











     母


  ゆきばかま黒くうがちし
  うなゐの子瓜食
(は)みくれば
  風澄めるよもの山はに
  うづまくや秋のしらくも

   
  その身こそ瓜も欲
〔ほ〕りせん
  齢弱
(としわか)き母にしあれば
  手すさびに紅き萱穂
(かやぼ)
  つみつどへ野をよぎるなれ

宮沢賢治「母」,『女性岩手』,第4号,1932年11月;『文語詩稿一百篇』より




 「うが(穿)つ」は、(靴やズボンを)はく。「うなゐ」はオカッパ(幼女の髪型)、転じて幼女。「山は」は「山・の・は」、つまり、山のはし、山と空とが接して見える境目。

 風が澄んで、四方の山には白い雲が低く垂れこめる晩秋の季節、野を越えて歩いて来る母娘がある。母はまだ十代の幼い母で、娘もまだ幼く、幼女は黒い雪袴をはいて(もう雪が降ってもおかしくないほど寒いのだ)瓜をかじりながらやってくる。母は自分こそ空腹で何か食べたいのに、がまんして、娘にだけはひもじい思いをさせまいと、「かや」の赤い穂を摘み集めながらやってくる。

 構図としては、かわいらしい母子が野原をよぎって来るという自然の点景にすぎませんが、作者の眼は、この「母」―――当時の東北農村では、親兄弟の貧困を救うために早婚することになった“幼い母”は、珍しくなかったでしょう―――にアップで迫っているために、「母」の存在の向こうに、現実の社会が透けて見えるのです。

 「母」の嫁ぎ先の農家も、裕福ではないのでしょう。空腹をかかえながら、娘だけは健やかに育てて婚家の信頼を得、実家の生活を成り立たせたいという一心な気持ちが、彼女の行動には現れています。この「齢弱き母」の芯のつよさが、作者の現実社会への透視をたしかなものとしているのですが、作品の中でそれを支えているのが、「紅き萱穂」という景物です。

 「かや」は、草原に自生する丈の高い草―――ススキ、スゲ、チガヤ―――の総称ですが、主にススキです(下書稿には「紅きすすき」になっているものがあります)。つまり、↑さきほど見た〔猥れて‥〕の「すすきを紅く耀やかす。」と同じです。これも、“炎”のモチーフのひとつのヴァリエーションでしょう。







  毘沙門
〔びしゃもん〕の堂は古びて、  梨白く花咲きちれば、
  胸疾
〔や〕みてつかさをやめし、   堂守〔どうもり〕の眼〔まなこ〕やさしき。

   
  中ぞらにうかべる雲の、      蓋
〔がい〕やまた椀(まり)のさまなる、
  川水
〔かわみず〕はすべりてくらく、  草火のみほのに燃えたれ。
宮沢賢治『文語詩稿五十篇』より




 花巻近郊、成島
(なるしま)の毘沙門堂は、毘沙門天の古い木造を安置しており、当時から広く信仰を集めていました。とくに、病気の子供を治す力があるとされていたので、医者に十分にかかる資力のない(当時は、健康保険制度がまだ不備でした)貧しい農家は、病院よりも毘沙門天を頼りにしたのです。

 「堂守」は、胸の病気で「つかさ(司)を辞めし」とありますから、もとは県か町の官吏で、毘沙門堂へ子供を連れて来る農婦たちの背景についてもわかっている人と思われます。その「堂守」の、病気の子をかかえた母たちに対する「やさしき」まなざしを支えている景物が「梨白く花咲き散れば」。

 しかし、彼らがやって来る背景を知る元官吏の彼にとって、「堂守」という立場は、じつはむなしいのです。官吏の職務についていれば、自分のできる範囲で、貧困な農家の母子の助けになるようなことを少しでもしようとするでしょうけれども、今はそれもできません。

 そうした「堂守」の諦念と、諦念の底になお渦巻くものが、「川水は滑りて暗く、  草火のみ ほのに燃えたれ。」に表現されていると言えます。「草火」は、“炎”のモチーフ。

 “暗い川水”はまた別のモチーフで、たとえば、サハリン旅行の思い出をつづった作品群の一つである次の口語詩↓にもあります:





  まくろなる流れの岸に
  根株燃すゆふべのけむり
  こらつどひかたみに舞ひて
  たんぽゝの白き毛をふく

   
  丘の上のスリッパ小屋に
  媼ゐてむすめらに云ふ
  かくてしも畑みな成りて
  あらたなる艱苦ひらくと

宮沢賢治「宗谷(一)」,『文語詩未定稿』より






 この↑「宗谷(一)」でも、荒蕪地の開拓が完成されて作物が得られるようになると、かえって農産物市場の価格動向に生活が左右されるという「あらたなる艱苦」がはじまるという、当時の農家が直面していた深刻な社会問題が透視されています。

 このやや中期に近い作品では、映像の印象はくっきりとしてみごとですが、社会状況の深刻さとそこに呻吟する人々の思いをどれだけ表現し得ているか、という点になると、↑上記の文語詩群ほどの“透視の深さ”と迫真性には欠けるのではないでしょうか。

 やはり、賢治晩年の文語詩は、けっして後退でも退化でもなく、新たな境地を拓いていたのだと思うのです。

















「私たちはこれらの詩に彼の文語詩の極地を見ることが出きます このやうな洗はれるやうな清らかさ 瑞々しい抒情は明治以後は勿論 日本の伝統の長歌の中にも発見することは出来ません まぎれもなく阿部氏
〔阿部六郎「悲劇的文化について」―――ギトン注〕の『神性思慕に清められた』ヨーロッパ的抒情の境地ではありますまいか 我々はこの詩と同じやうな味ひをヨーロッパの少数の童話のなかから受取ることが出来ます」

「彼の文学の持つ意義は確かにこの非日本的な巨きさにあります 
〔…〕空想の途方もない巨きさと言ひ、用語の自在な創造と言ひ、共に従来の日本の文学が考へも及ばない巨きさを誇つてゐます〔…〕

 宮沢賢治の作品のもつ鎮魂の意味は全く非アジア的と言はなければなりません 彼の作品にはアジアのもつ重苦しい格闘がありません 低迷する苦渋がないのです 暗澹とした疲れがないのです 再び阿部氏の言葉を仮りれば『神性思慕に清められながら巨濤のやうに鳴響く壮麗さ』を持つヨーロッパ的鎮魂と言はなければなりません 彼の苦悩も孤独も透明で、血の流れるやうな暗惨さは皆無です 彼の作品のもつ祈りはキリスト教的ですが

 それにもかかはらずと言はなければなりません 彼の作品に底流してゐる混沌については、
〔…〕古事記のもつ青暗い混沌、無量寿経のもつ底光りを思はせるものがあります 〔…〕遥かに底の方には意外な執拗な暗い人間性をたたへてゐるのではありますまいか 〔…〕明治以降の日本の文学で、良くアジア的(印度的支那的と同じやうな意味で)といふ言葉で説明し得る巨きさ混沌さを持つてゐる人を彼以外に見出すことは出来ません」

 しかし、「母」〔毘沙門の‥〕等で代表される「文語詩の極地」から
「彼の思想性を抽象することは、童話作品程に容易ではありません ここではすべての苦渋はたたみ込まれ唯リリシズムの清らかさが胸を打つのみなのです」
吉本隆明「再び宮沢賢治の系譜について」, in:『吉本隆明全著作集』,第15巻,pp.431,425-426.






 吉本氏は、↑このように述べて、「母」〔毘沙門の‥〕などは「リリシズムの清らかさが胸を打つ」が、それらから思想性を読み取ることは困難だとしています。

 しかし、ギトンはむしろ、先に挙げた「電気工夫」〔猥れて‥〕よりも、これらのほうが、より深い思想性が読みとられるように感じます。

 かつて、吉本氏はじめ一部の人たちには革命前夜かと思われた“戦後”の時代、また、そのあとの高度経済成長の時代には、賢治文語詩に表れたような“一歩退きさがった”思想性は、読みとりにくかったのかもしれません。しかし、“3分の2肥大与党”の支配する私たちの時代には、かえって宮沢賢治の晩年のような“下降線の時代”の思想性が、理解しやすくなっているのではないかと思います。

 「電気工夫」〔猥れて‥〕の作品群には、社会を壟断する人々に対する作者の強い反発が感じられます。いわば、“敵がはっきり見える”と言えます。その意味で、吉本氏の時代には理解が容易だったのだと思います。それに対して、「母」〔毘沙門の‥〕の作品群では、“敵”を作ってターゲットにする社会認識は見られません。むしろ、社会そのものの問題性を直接に見据え、諦念の曠野になお鬱勃と燃える“炎”という位置から見つめていると言えます。

 ある意味で―――吉本氏が賛成するかどうかはわかりませんが―――、後者のほうが、より徹底した社会意識であり思想性であるとも考えられます。








ばいみ〜 ミ



 
同性愛ランキングへ  

.
カテゴリ: 宮沢賢治

前へ|次へ

コメントを書く
日記を書き直す
この日記を削除

[戻る]



©フォレストページ