01/05の日記

17:09
【吉本隆明】の戦中文学史――秋山清の抵抗詩(1)

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硫黄島     






 こんばぬわ。(º.-)☆ノ






 昨日は、金子光晴さんの戦争中の詩を取り上げましたが、当時さかんに言われた標語「一億一心」になぞらえて言えば、「一億一心」となった人々から、つねに限りなく距離をとった時に見えてくる風景が、金子さんの作品には描かれていたと思います。



 すみからすみまでみみつちく
 俺達は数へあげられてゐるのだ。

   ――――――――

 十九の子供も
 五十の父親も
 おなじおしきせをきて
 おなじ軍歌をうたつて。




 といった詩句が、光晴詩の遂行する“意味の解体”を表現しています。戸籍管理、徴兵、動員を「みみっちい数えあげ」と言い表し、軍服を「おしきせ」と呼ぶ透徹したまなざしがそこにあります。

 権力による情報操作と情宣、それがもたらす民衆の思いなし―――共同幻想―――から距離をとり、かたくなに同化を拒否することが、金子氏がつらぬいた抵抗の姿勢だったように思われます。







 ところで、きょう扱うもうひとりの抵抗詩人・秋山清の場合は、金子光晴とは対照的ともいえる地点に抵抗の視座を据えています。

 秋山の詩は、一見すると、いったいどこが抵抗なのだ?‥と思われるかもしれません。しかし、なにか異様な感覚が後味に残ります。それはしばしば、1篇の詩のなかのたった1行に集約されて現れます‥‥まるで、噛んだごはんのなかに小さな石がまぎれこんでいたかのように‥‥

 その違和感をつきつめてゆくと、そこから、印象深く、また際限のない“抵抗の沃野”がひろがってゆくのです。







 みがかれたようにはれた空の下を
 南風がはげしく吹きぬけてゆく。
 白く芽立った雑木林の丘は
 大波のようにゆれている。
 私は麦畑につづく道をあるいていた。
 ラジオの声が
 風をついてひろがった。
 三月二十日以後
 硫黄島の味方は通信を絶つという。
 報道は二度くりかえされ
 「海ゆかば」がそのあとにつづいた。
 海ゆかばのうたは
 丘と麦畑にひびきわたった。
 きらきらと真ひるの太陽は
 そらのまんなかにかがやき
 地におちてみじかい影となった。
 私はそのうえに立った。
 硫黄島はすでに通信を絶つという。

秋山清「ひるま」,1945年作。






 ギトンは、この詩の最後の1行を読んだ時に、なぜだかまったく理由がわからないのに、涙があふれてくるのをとめることができませんでした。




 硫黄島は小笠原諸島にある直径約 5km の島ですが、父島から約 300km の南方にあり、本州とグアム島のちょうど中間に位置します。

 1945年2月19日にアメリカ海兵隊が上陸し、米海軍・海兵隊は島内の日本陸海軍2万名あまりと激戦のすえ、3月17日までに全島を制圧。16日、島内最高指揮官・栗林中将は、大本営へ訣別電報を送った。

 3月21日、大本営は17日に硫黄島守備隊が「玉砕した」と発表したが、じっさいには 26日過ぎまで米軍陣地への日本軍の反攻がつづいていた(大本営も、25日深夜に硫黄島へ向かった爆撃機の報告で、それを認識していたが、「玉砕」発表は訂正されなかった)。島内に潜伏した最後の日本兵が投降したのは 1949年。⇒:Wiki




「17日夜半ヲ期シ
〔…〕全員壮烈ナル総攻撃ヲ敢行ストノ打電アリ。爾後通信絶ユ。コノ硫黄島守備隊ノ玉砕ヲ、一億国民ハ模範トスヘシ。




 つまり、戦史を見ると、大本営による「硫黄島通信途絶、玉砕」の発表は、事実の報知というよりは、国民に「本土決戦」「玉砕」を覚悟させるための宣伝を狙ったものだったと言えます。じっさいの壊滅より一足早く硫黄島守備隊を見限って、見殺しにしたことになります。

 ただ、秋山がそのことを知ったのは戦後であり、この大本営発表、作詩の時点では、まったく事実を知り得なかったと思われます。














 しかし、秋山は、この詩で、「硫黄島の日本兵は玉砕した。」と書かずに、



「三月二十日以後/
〔…〕通信を絶つという。」



 と書いています。「大本営発表」を信用してはいなかったのです。ラジオ放送からはっきりわかることは、「硫黄島の味方は」、すでに、あるいは、これから、「通信を絶つ」ということ、大本営がそう言っているということだけです。「玉砕」は、たかだか大本営の観測にすぎず、それとて虚飾・誇張を思わせる言辞にみちていて、事実か否か、まことに疑わしい。

 そして、「海ゆかば」の軍歌が壮絶めかしく麦畑に、日本じゅうの村々と野山に響きわたっています。

 作者は、煽情的なラジオ放送に酔わされないだけの“自我”を、しっかりと保っているのです。








 ギトンは、この詩を何度か読み直した結果、最初に読んだ時に涙があふれた理由が、おぼろげながらわかってきました。





「硫黄島はすでに通信を絶つという。」




 ↑これは、日本語として異常な文です。おそらく外国語に翻訳することもできないでしょう。



「すでに通信を絶ったという。」

 でも、

「こんごは通信を絶つという。」

 でもなく、

「すでに通信を絶つという。」



 ここには、「大本営発表」の真偽をめぐって微妙に揺れうごく作者の心理があらわれています。

 ともかく、「硫黄島の味方」は、米軍の攻撃を受けて悲惨な最期を遂げることになりそうだ、あるいは、遂げた。そして、大本営は、「味方」の最後を正確に報道することさえ拒否して、彼らを見捨てた‥ そのような作者の悼みが、この最後のたった1行に、凝縮されています。





 そして、


「硫黄島は」


 という言い方も、この行が衝撃的な感動を与える一つの原因になっています。これは、文法的に言えばメトニミーです。米国政府の行動を「ワシントンは」と言い、中国政府を「ペキンが」と言うのと同じことで、単なる修辞語法にすぎません。

 しかし、この詩の最後におかれたこの語句は、あたかも太平洋上に孤立した火山島そのものが、悲惨な最期を決意しているかのような感慨を与えます。

 「はれた空の下を‥はげしく吹きぬけてゆく」南風や、中天にかかる「真ひるの太陽」といった、3月の日本内地―――この詩の場所は、作者の故郷である福岡県―――にしては異様に熱した、南方からどうと吹き寄せてきたような圧倒的な“自然”に、押し流されるように詠まれたこの詩の流れが、そう感じさせるのでしょう。









「秋山清の場合、
〔…〕単純な詩法によりながら、庶民大衆の心情の方向にきわめてよく密着し、しかも庶民のかくれたこころをあかるみに出そうとするものであった。秋山清の詩のなかには、庶民大衆の内心と切れ目のないままに問題を提出しているため、典型としての性格がつよくうち出されている。」

「秋山清が、

 『われわれの誰かが戦争時代に抵抗の詩をかき得たなどという間違ったことを考えてはならない。全く屈服のみであったところから、再出発すべきであったと思う。』

 とのべているように、これらの詩
〔上の詩「まひる」と、やはり1945年作の「伊藤悦太郎」―――ギトン注〕を抵抗の詩と評価することはできないかもしれない。しかし、ここには〔…〕戦争にかたむいてゆく庶民大衆の心情をつかみあげながら、そのなかで歯止めをくわえている作者のモチーフは、はっきりとみてとれる。

     
〔…〕

 ラジオが『硫黄島の味方は通信を絶つ』たことをつたえるのをききながら、庶民である兵士たちが、戦争にかりだされて死んでいく、そういう運命を痛ましくおもっている作者の心情が、最後の一行『硫黄島はすでに通信を絶つという。』というコトバで、はっきりと造形されている。

 戦争中、ジャーナリズムから独立であった現代詩人が、いわば、庶民の生活意識とおなじ次元まで退きながら、戦争のなかでの人間の運命をいたんでいる典型は、秋山清によってうち出されている。
〔…〕

 これらの作品を、戦時下の現代詩のもっとも優れた作品とすることは、たとえばフランスの抵抗詩人たちや、米英の現代詩人たちの戦時下の詩にくらべて、あまりに貧弱すぎることは事実である。しかし、ジャーナリズムの第一線にあったどんな詩人もこの秋山清の作品以上の詩をのこしていないことを銘記しなければならない。

 
〔…〕秋山清の方法は、庶民の発想を、はっきりとした輪廓によってたどりながら、戦争を庶民にとって運命としながら、その運命から傷つけられないでもらいたい、という希求をえがいた。これらのすべてを、わたしたちは、本来的な意味で抵抗詩とすることはできない。しかし、日本的な抵抗を問題とするとき、こういう抵抗とはいえない戦争下の詩を基礎とするよりほかに論議はなりたたないのだ。」
吉本隆明「戦争中の現代詩―――ある典型たち」,初出1959年; 引用 aus:『吉本隆明全集』,第5巻,2014,晶文社,pp.520,523-524.


「わたしはなによりも太平洋戦争の真只中にあった頃、日本の詩的な抵抗の実体とは、どのようなものであるかを、如実に典型的に示している点で、秋山清の戦後期の詩
〔戦争中に書き溜めていたが発表の機会がなく、戦後10年以上たってから徐々に発表された―――ギトン注〕にとくに親愛を感ずる。

 今日の読者は、秋山清の戦争期の詩から抵抗を感知するだろうか、戦争への傾斜を感知するだろうか、わたしは、その何れをも感知した上で、敢て、これらの詩篇が、金子光晴の業績とともに、日本の詩的抵抗の最高の達成に外ならなかったという事実が、追尋されてゆくことを願わずにはおられない。

 戦後になってから『おれは抵抗した』などと称している文学者のコトバのことごとくは、それを額面通りに受取る必要はないことを、わたしは、断言してもよい。彼等の称する抵抗の如きは、戦争を謳歌しながら、心のすみっこにもっていた不満の類を拡大再評価しているに過ぎない。」

吉本隆明「抵抗詩」,初出1958年; 引用 aus:『吉本隆明全集』,第5巻,p.245.











  





 雪のふる下に波がうっている。
 ながいながい渚に大きな波がうっている。
 漁船が雪に埋もれている。
 ちいさい川があってそこだけ雪がくずれ
 人がいるかとうたがわれるほど粗末な小屋がある。
 おなじような景色が来てはまた過ぎる。

     
〔…〕

 ひた走る汽車の
 二重張の硝子戸に額をおしつけてみると
 空いっぱいに雪も海も暮れてゆく。
 抵抗できぬこの大きな速度のなかに
 私はただ叫びごえをあげたくなった。
 その叫びたいこえをこらえて
 夜になるのを見つめていた。

秋山清「雪」,1936年作。




 ↑これは、太平洋戦争の開始よりも5年前、日中戦争開始(日華事変)の前年・冬に書かれたものですが、北海道の噴火湾沿いを走る列車からの夕暮れの光景をえがいています。

 前年(1935年)11月には、秋山がアナーキストとして所属していた『解放文化連盟』が、「無政府共産党事件」検挙によって壊滅しています。そして、この年5月には、2・26事件が起きます。

 くり返しが多く、やや冗長な感じを与えますが、それだけに当時詠んだままの作品を改変することなく戦後に発表したものと思われ、当時の心情そのままをたどることができます。

 夕暮れの噴火湾の暗澹たる風景を眺める作者の眼は、沿線に「人がいるかとうたがわれるほど粗末な小屋がある」道民の悲惨な境遇をも見逃してはいません。

 「抵抗できぬこの大きな速度のなかに/私はただ叫びごえをあげたくなった。」という詩行は、戦争とファッショへ突き進んで行く日本国家という列車に乗せられ、そこから脱出することもできない作者の鬱屈した心情をみごとに映し出しています。










 あざみは咲けりむらさきに
 野路
(のじ)のすえずえむらさきに
 あざみは咲けりふるさとの
 丘のほとりを踏みわけて
 わが越えくれば磯の香
(か)
 晩春
(おそはる)山の墓どころ

 御影石
(みかげ)の肌のなめらかに
 七つの石はきわたちて
 たたかい死にし若人の
 高くその名を刻みたり
 石のおもてに索むれば
 おさなき友もまじりつつ

 はや二年
(ふたとせ)をふるさとの
 丘にねむりて日もすがら
 香
(こう)のけぶりもゆるやかに
 むらさき咲ける花あざみ
 花の二本折りそえて
 採りてささげし人のあり

〔…〕


 ああ古里に夏近み
 海原遠く夕焼けて
 麦の香
(か)あまき丘のうえ
 路の小草にたちまじり
 とげある花のうつくしく
 あざみは咲けりむらさきに
 あざみは咲けりむらさきに

秋山清「あざみ」,1943年作。







 東京では空襲が激しくなった太平洋戦争末期に、何十年ぶりかで福岡県の故郷へ帰って読んだ詩の一つです。

 丘のうえにある村の共同墓地へ行ってみると、真新しい戦死者の墓標が立てられてあり、そのひとつの上に作者は幼なじみの名を読み取ります。

「あざみは咲けりむらさきに」と何度も繰り返される詩行が、野辺に点綴する紫色の花の、心に沁みとおるような鮮やかな色彩を深く印象づけます。

 ひさしぶりに会った故郷の人々は、作者に対して、たいへんよそよそしかったことが、他の詩に書かれています。幼なじみの戦死も、墓地へ行ってみてはじめて知ったのではないでしょうか。

 秋山は、組織的活動には参加していなかったため、所属組織が何度か受けた弾圧のさいにも検挙されずにすんでいましたが、それでも故郷の人々の間には、「あいつはアカだ」という噂がそれとなく流れていたかもしれません。

 共同墓地へひとりで向かい、ひとりで幼なじみの墓参りをするという孤立のなかで、それでも秋山の心情は、「遠く夕焼け」る「海原」、「麦の香」、「道の小草にたちまじる」鮮烈な色彩の棘ある「あざみ」―――これらのなつかしい風物から離れようとしません。

 秋山清は、なんでもない庶民への執着を棄てず、庶民のなかで生き、ただそのなかでも自らの“自我”と“こころざし”を、しっかりと保っていこうとしているのです。






ノアザミ










 そらの雲が
 かたちをあんなに変えてゆく。

 雲のないところは底のない青ぞら。
 地上に風はふいていない。

 雲のかたちをいろいろとかえて、
 高いところは、風がふいている。

 そんな雲のことなど誰も見ていない。
 風のことなど、誰もしらない。

秋山清「かぜ」,1943年作。






 これも故郷での作でしょうか?

 作者以外の人々はみな、破局の迫る戦局に気をとられ、毎日の動員に忙殺されて、そらを眺める余裕などありません。

 あるいは、人々の焦慮を超えた世界戦争の大きな動き―――金子光晴とはちがって、秋山の場合には、この戦争は、ファシズム対反ファシズムの闘争としてもとらえられていたでしょう―――や、軍部、天皇制政府の思惑を超えた大きな歴史の流れを、おおぞらの“自然”は象徴しているかもしれません。

 人々は、けっしてそれを見ようとはしないし、知ることもない。しかし、作者は雲の動きを見つめ、それを信じているのです。






     拍手
     
―――ニュース173号


 空母ホーネットの甲板に
 対空砲とどろき。
 曳光弾飛ぶ彼方
 海面すれすれに
 雷撃機が殺到する。
 弾幕の
 炸裂を
 間髪に制し
 決死の生命が
 機を操縦してせまる。
 私の目は
 その瞬刻をみつめた。
 突如館内はそうぜんたる賞讃の拍手に湧いた。
 私は目をとじた。

 註 ニュース第173号は米空母ホーネットの艦上から米軍が写したもの、同艦の拿捕により、ニュースとして上映された。


秋山清「拍手」,1944年.





 作者の思いは、「私は目をとじた。」という最後の一行に集約されています。

 
 映画館の中の「そうぜんたる賞讃の拍手」は、空母に体当たり(神風攻撃)する日本の爆撃機に対するものでしょう。作者は、自殺攻撃を賞讃することに耐えられないので目を閉じます。




 ↑上の「註」は、秋山氏の詩に付いているのをそのまま収録しましたが、あらためて事実関係を説明しておきます。

 まず、タイトルの「ニュース173号」は「177号」のまちがえ。正式名は「日本ニュース177号」(こちらで視聴できます:⇒日本ニュース177号・決戦

 「日本ニュース」は、戦時中に「日本映画社」が配給していた戦意高揚の週刊ニュース映画。「日本映画社」は、「文学報国会」と同様に、1940年に新聞社や通信社のニュース映画部門を国策により統合したものです。


 「177号」(1943年10月27日)は、冒頭で、空母ホーネットから領得した南太平洋海戦(1942年10月26日)の米軍撮影映像を6分に短縮編集して流した後、

「南太平洋に護国の華と散った英霊に報ゆるの道は只一つ 仇敵米英の反攻を撃砕
〔…〕さらば一億挙げて戦闘配置へ」

 という字幕を出し、「学徒出陣」(大学、高等専門学校等の文科系学生が戦場に送られ、大部分が自殺的戦闘で戦死)の映像につなげています。


 ホーネット映像には、

「死に物狂いの防御砲火の中へ突っ込む我が雷撃機。」

 という日本ニュースのアナウンスが流れています。



 以下、Wiki によりますと:

 南太平洋海戦とは、1942年10月26日にソロモン海域で行われた日米両軍の機動部隊による海戦を指す。アメリカ軍側の呼称はサンタ・クルーズ諸島海戦(Battle of the Santa Cruz Islands)。日本軍は米空母1隻を撃沈、米空母1隻を大破させたが、日本空母2隻も大破・中破し、多数の航空機と搭乗員を失った。戦闘の主目的であるガダルカナル島飛行場占領も失敗した。

 10月26日の南太平洋海戦当日、アメリカ軍は再度日本機動部隊を発見し、空母ホーネット(CV-8) は早朝より戦闘機・爆撃機による攻撃を開始。空母翔鶴を大破させ、重巡筑摩を爆撃して撃破した。

 しかし、ホーネットは入れ違いで殺到してきた日本側第1次攻撃隊(村田重治少佐。艦攻20機、艦爆21機、零戦21機)に発見された。第1次攻撃隊の攻撃により、ホーネットは250キロ爆弾3発と魚雷2本が命中。艦爆と艦攻各1機(隊長である村田機含む)がホーネットに体当たりした。ホーネットは被弾により艦内の動力を失い航行不能となり、火災を発生させた。また、11度傾斜した。

 重巡洋艦ノーザンプトンがホーネットを曳航開始したが、そこに日本軍第2次攻撃隊(艦攻7機、零戦8機)が来襲した。ホーネットのメーソン艦長は総員退艦準備を発令した。

 アメリカ軍はホーネットの放棄を決定し、乗員退艦後のホーネットに魚雷を打ち込んで沈めようとしたが、なかなか沈まず、そうこうしている内に、日本艦隊が迫ってきたので、米艦船は避退していった。

 日本海軍第三艦隊は、炎上し漂流中のホーネットを発見。拿捕曳航を行おうとしたが(その際に、ホーネット上で撮影された日本側攻撃機の映像を鹵獲した)、排水量に差がありすぎ、また火災が広範囲に広がっていたことから最終的に断念。結局、魚雷で処分し沈没させた。










  







 アッツの酷寒は
 私らの想像のむこうにある。
 アッツの悪天候は
 私らの想像のさらにむこうにある。
 ツンドラに
 みじかい春がきて
 草が萠え
 ヒメエゾコザクラの花がさき
 その五弁の白に見入って
 妻と子や
 故郷の思いを
 君はひそめていた。
 やがて十倍の敵に突入し
 兵として
 心のこりなくたたかいつくしたと
 私はかたくそう思う。
 君の名を誰もしらない。
 私は十一月になって君のことを知った。
 君の区民葬の日であった。

秋山清「白い花」,1944年.







 アッツ島(Attu Island)は、アラスカ州アリューシャン列島にある東西70km、南北30kmの島で、アメリカの領土です。

 日本軍は1942年6月、ミッドウェー作戦の陽動作戦としてアリューシャン列島の一部を占領しました。アッツ島には6月8日、陸軍第7師団の約1,100名が上陸したが、キスカ島に転進、その後 10月30日に米川中佐が率いる北千島第89要塞歩兵隊の2,650名が上陸してアッツ島守備隊となり、飛行場と陣地の建設を開始した。

 一年のほとんどが霧かシケという気候のため、守備隊にはストレスのあまり精神を病む者が続出した。

 1943年になると、アッツ島への米軍の空襲や艦砲射撃が頻繁になり、日本軍は人員・武器弾薬・物資の増援を計画したが、米海軍に阻まれ「アッツ島沖海戦(3月26日)」となって、輸送は一部しか果たせなかった。

 アメリカ軍はアッツ島上陸作戦を決定、3日間で全島を制圧する計画だった。この時期はアッツ島周辺ではもっとも霧の多い時期であった。しかし、日本軍は米軍の上陸を予想していなかった。

 米軍上陸部隊は、ブラウン少将が指揮する陸軍第7師団1万1000名。5月12日に霧に紛れて上陸を開始し、抵抗を受けることなく海岸に橋頭堡を築いた。

 アッツ島守備隊から米軍上陸の報告を受けた北海守備隊司令部は、

「全力を揮つて敵を撃摧すへし 
〔…〕 海軍に対しては直ちに出動敵艦隊を撃滅する如く要求中」

 との電報を送って徹底抗戦を指示した。⇒:Wiki

 彼我十倍の兵力の差を無視した無謀な指示だったと言えます。しかも、5月11日たまたま輸送任務のためにアッツ島へ向かっていた海軍特設空母「君川丸」、軽巡洋艦「木曾」、駆逐艦「白雲」「若葉」の艦隊は、米軍アッツ島上陸の報告を聞くと、慌ててアッツ島へ行くのをやめて引き返しています。

 太平洋戦争中のすべての「玉砕」と同様に、アッツ島「玉砕」もまた、日本軍部による非情な“トカゲのシッポ切り”の結果でした。



 米軍のアッツ島地上作戦は、濃霧に妨げられて進まず一進一退の状況が続いた。

 5月16日、アッツ島守備隊司令官・山崎大佐は、補給と増援の要請を行なったが、

 18日、大本営はアッツ島放棄を決定し、増援・反撃を中止した。23日、札幌の北方軍司令官は、アッツ島守備隊へ

「地区隊長以下凡百の手段を講して敵兵員の燼滅を図り最後に至らは潔く玉砕し皇国軍人精神の精華を発揮するの覚悟あらんことを望む」

 との電文を打って「玉砕」を事実上命令した。24日には、アッツ島守備隊にヒロヒトの“おことば”が打電された。

 その後、25日に第一水雷戦隊を中心とする艦隊が守備隊救出のためにアッツ島へ向け幌筵を出撃しているが、荒天のためアッツ島沖で待機しているうち、29日にアッツ島守備隊は全滅した。

 日本軍の損害は戦死2,638名、捕虜は29名で生存率は1パーセントに過ぎなかった。アメリカ軍の損害は戦死約600名、負傷約1,200名であった。

 5月30日、大本営はアッツ島守備隊全滅を発表し、初めて「玉砕」の表現を使った。それまでも、日本軍前線の守備隊が全滅することは何度かあったが秘密にされており、そのようなことが国民に知らされたのはアッツ島の戦いが初めてだったので、この報道は大きな衝撃を与えた。

 大本営は「山崎大佐は‥一梯一団の増援を望まず」と虚偽の発表を行なって、増援を要請されていたのに増援も救出もできずに全滅に至った事実をおおいかくした。

 大本営は、“どーせミッドウェーのおとりなんだから、最初から死んでもらうつもりだった”と言いたいのでしょうか?







東大雪、東雲湖











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カテゴリ: 日本近現代史

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