12/28の日記

17:09
「宮沢賢治はファッショではない」と【吉本隆明】は言った。

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 こんばんみ。(º.-)☆ノ







 日本の主な詩人、小説家、思想家のすべてをペンの刃で薙ぎ倒したあの吉本隆明さんが、なぜか宮沢賢治だけはべたほめで、「批判したことがない」(吉本氏自身の言)w

 これは、もしかすると、吉本氏が批判してやまなかった日本の文学者のファッショ的傾向(国家主義★、農本主義など)、ファッショに対する“諂曲”の傾向に対して、そういうものに抵抗しうる元地を、宮沢賢治なり賢治作品なりがもっているのからなのではないか、‥ということを、前回は考えてみたわけです(⇒:【吉本隆明】の戦中文学史――三好達治の詩について

★ 児童文学誌『赤い鳥』を主宰した“日本の児童文学の祖”鈴木三重吉は、宮沢賢治の童話原稿を見て、「俺は国家主義者だ。こんなのはロシアにでも持っていけ。」と言ってボツにしたと言います。


 それは、吉本氏のミヤケンへの思い入れが深いために、ほかの作家や詩人に対してのように客観的に見ることができない‥ひいき目で見てしまう、ということもあるかもしれません。

 たとえば、吉本氏は、いつものように宮沢賢治を絶賛した講演の最後のところで、




「本当は、このあたりからそろそろ批判的なこともいわなければならないのですけれども、そういうことはいわなくても、いってもどちらでもよいのではないかというふうにもかんがえられますので、これで終わらせていただきます。」

吉本隆明「宮沢賢治の世界」, in:ders.『宮沢賢治の世界』,2012,筑摩選書,p.68.



 と述べて、ミヤケン流の「倫理の中性点」の言い方でしめくくっていたことがあります。




 しかし、吉本氏がミヤケンについて論じた著書や講演録をよく見てゆくと、賢治に対して“批判のメス”を入れることをためらっているわけではないのがわかります。たとえば、『宮沢賢治』(ちくま学芸文庫)の第T章「手紙で書かれた自伝」は、東京出奔(1921年)までの書簡と『日蓮文集』を突き合わせながら、賢治の法華経信仰の紆余曲折、その狂信的性格と狂信ゆえの挫折、父に対してあまりにも弱く残念な息子の“父との葛藤”、日蓮に忠実たらんとしたためにそうならざるをえなかった賢治の、生活人としては致命的ともいえる弱点を剔抉しています:



 父に対する
「宮沢賢治のわかりにくいぐしゃぐしゃした振舞い方」について、「もうひとつ推測ができる。賢治が法華経の日蓮による理解の流れを、どうしても離れられなかったことだ。そこでは父母を敬い仕えることと、父母を法華経護持の流れに帰順させることは、信仰の至上の課題だった。」

 つまり、賢治は、日蓮の法華経理解――“これが法華経だ”と称する日蓮の教え――を実践しようとすれば、浄土真宗の篤信家であり、グレーゾーンの金融業者である父の意向に忠実に沿いながら、父をして金融業と念仏宗から“足を洗わせ”、日蓮宗に改宗させなければならないのです。

 これは、
「賢治には生涯のエネルギーを使いはたすほど重たい仕事だった。またそうしようとして、わたしたちからみれば、ほとんど理解を絶するほど不透明な父親との関係を、生涯とることになった。」
吉本隆明「手紙で書かれた自伝」, in:ders.『宮沢賢治』,ちくま学芸文庫,1996,p.42.


「日蓮を介した法華経の信仰は、かれの生涯をねじ伏せるほどのつよい影響をあたえた。また狂者の拘束衣みたいに行動とこころをしめつけた。」

「手紙で書かれた自伝」,p.53.


「信仰は、矛盾に眼をむけることを卑しいことのようにみなす超越のレベルでしか成り立っていない。」

「手紙で書かれた自伝」,p.61.




















 ところが、この論文でも吉本氏は、賢治と農本主義(吉本氏が「農本ファシズム」と呼ぶ戦前〜戦中期の右翼思想)との関係については、




「だがほんとうをいえば宮沢賢治は資質的に国家至上主義の観念はもてなかった。また農民芸術という概念をじぶんなりにつくり、それを説いたときも農本主義の理念はなかった

 賢治はじぶんなりの法華経の見方をもつにつれて、国柱会の理念をはなれたとおもえる。」

「手紙で書かれた自伝」,p.53.





 と述べているのです。その後の「羅須地人協会」時代の賢治についても、



「当時でも農民運動はあって、それは後に戦争が深まっていけば、権藤成卿★とかの右翼系の農民運動家になっていくわけですし、また、満洲開拓のナントカだというふうな、農民運動が戦争に入っていってしまうような流れが当時でもあったのですが、宮沢賢治はそういうのがあまり好きではなく、
〔…〕肥料の設計をして農民の相談に応ずるという形で、独自の農民運動のやり方をしていったわけです。もちろん戦争が深まっていった時にどうなったかということはわからない、その前になくなったのですけれども、

 ただ、宮沢賢治に直接教えを受けたことがある松田甚次郎なんかは、やっぱり戦争が深まっていくと民族主義的な、右翼的な農民運動のなかに入っていきました。」

吉本隆明「賢治の世界―――宮沢賢治生誕百年に因んで」, in:ders.『宮沢賢治の世界』,2012,筑摩選書,p.335.

★ 権藤成卿(1868-1937):右翼結社『黒竜会』に参加し、「対露開戦、日韓合邦論を主張」。その後、「資本主義,都会主義を批判し、農村を基盤とした古代中国の社稷型封建制を理想として、共済共存の共同体としての“社稷国家”、東洋固有の“原始自治”を唱えた。」1932年、権藤を顧問に迎えて結成された『自治農民協議会』は、「農家負債3年据え置き、補助金、満蒙移住費補助の三か条を掲げた請願運動」を行ない、政友会(同年の5・15事件を容認し、親軍政策をとる)の支持を得て衆議院を通過させた。しかし、権藤は、軍部のクーデターによる“国政革新”に反対し、日中開戦を批判したとされる。⇒:Wiki



 と述べて、少なくとも賢治自身が国家主義・排外主義の方向で運動したり主張したりしたことはないという事実を、しっかりと把握しておられます。

 ついでに言えば、松田甚次郎という人は、賢治が亡くなった後で、自分は「宮沢賢治の弟子である」と公言して(もっと賢治と親しかった人たちは、そこまで言わないのにw)、賢治の「教え」として、「百姓になれ」「小作人になれ」とか、いろいろ一方的なプロパガンダをした人でして、こうした人たちのおかげで、戦時中も賢治作品は発禁にされないですみ、戦後は良くも悪しくも誤解されるもととなりました。






 吉本氏は、賢治、シモーヌ・ヴェイユ、そして旧約聖書の『ヨブ記』を論じた講演録「宗派を超えた神」のなかでも:





「日蓮宗は天台宗とおなじで、一種の復古主義的宗派です。
〔…〕復古主義で、国家仏教としての面を、つまり最澄とおなじように鎮護国家というか、仏法をもって国家を鎮めるという考えを復活させた人で、特異な人です。

 日蓮宗の信者で偉大な人が幾人かいるわけですが、
〔…〕政治思想家でいえば、二・二六事件の支柱であった北一輝がいます。かれもはげしい法華経の信者です。つまり天下国家にたいして、一定の経綸をもっているこの種の人たちは、日蓮宗から生まれてくることが多いのです。それはたぶん宗祖日蓮の〈受難〉、個人の受難も、国家の受難もあり、〔…〕法華経を護持する者は苦難に出あうという日蓮の法華経の読み方の眼目になっていて、その種の日蓮宗の行者のなかから、日本の近代史に特異な宗教国家主義者が現れています。

 このなかで宮沢賢治は国家主義に陥らなかった特異な法華経の護持者でした。」

吉本隆明「宗派を超えた神」〔1989年講演〕, in:ders.『ほんとうの考え・うその考え』,春秋社,1997,pp.27-28.



 と述べています。

 最近では、宮沢賢治についてよく調べもしないのに、満洲事変を起こしたファシスト謀略者である石原莞爾と通底させた皮相的な著書で好評を博している――本人はともかく世間に対しては、ミヤケンをダシにして“満洲国”謀略を正当化させる効果をもちます――大学教授までがいて、まったく話にならないのですが‥

 吉本さんはさすがに、この 1989年―――善い意味でも悪い意味でも賢治評価の分岐点となった“生誕百年”より以前―――の時期において、すでに賢治をよく解っていらっしゃったと言えます。









  





 ところで、こうした天台宗、日蓮宗という鎮護国家的な宗派を生んだ『法華経』そのものは、国家主義的なのでしょうか?

 もともと、インドの仏教では、仏教徒としての修行は、権力者の地位・生活とは相いれない面があって、さまざまな仏教説話(ジャータカなど)でも、仏教に帰依した王様は、地位をなげうって身ひとつで仏門に投じるとか、一族・廷臣をひきつれて王宮を去り、シャカの弟子集団に合流してしまうということになります。(そのへんは、初期のキリスト教団とよく似ています)

 その後、『法華経』のような大乗仏教、また中国・北朝の仏教では、衆生の救済が前面に出てきますから、国家権力との癒着――結合関係が、どうしても強くなるのでしょう。

 それでもなお、『法華経』には、“権力への誘惑を断つ”ことを、布教にあたって守るべき要諦として命じている箇所があります:





「法華経をじぶんなりに読むようなってから後の宮沢賢治が、どこで法華経を読んだかを推察していきますと、14章の『安楽行品』を中心に読み込んでいったと推察できます。この『安楽行品』には法華経を護持するに際して、こういうことをしてはだめだということをあげています。

 ひとつは、文学、芸術それから娯楽、芸能に近づいてはいけない。もうひとつは、女性に近づいてはいけない。そしてまた権力に近づいてはいけないと言っています。これは法華経がきびしく要請しているところです。」

吉本隆明「宗派を超えた神」, in:ders.『ほんとうの考え・うその考え』,pp.29-30.







 そこで、吉本氏の指摘に従って「安楽行品」を見てみますと:




「菩薩の行処と親近処とに安住して、能く衆生のために、この経を演説すべし。
〔…〕

 云何なるを、菩薩・摩訶薩の親近処と名づくるや。菩薩・摩訶薩は、国王・王子・大臣・官長に親近せざれ。」

「マンジュ=シュリーよ、
〔…〕求法者は行動と交際の範囲を基礎として、この教説を宣揚すべきである。どのようにすれば、求法者は行動と交際の範囲を基礎として行動する者となるであろうか。求法者が忍耐強く、心が平静で、心を静める根拠を会得して、心に怖れおののくことなく、嫉妬の心がないとき、そのようになるであろう。また、求法者がいかなる対象にも心を惹かれることなく、それらのものの固有な特徴をありのままに観察するとき、そのようになるであろう。〔…〕

 求法者は王者に親しみ近づいてはならないし、王子にも王の大臣・従者らにも、親しみ近づいてはならない。」

坂本幸男・他訳注『法華経(中)』,1964,岩波文庫,pp.243-245.
上段は、鳩摩羅什・漢訳『妙法蓮華経』の読み下し。下段は、サンスクリット原典からの翻訳。





 つまり、仏道修行の一環として『法華経』を宣べ伝えようとする者は、王や王族、大臣たちに説法するのはよいが、彼らと親しくなったり、ねんごろに交わったりしてはならない。なぜなら、権力者に近づくことによって、権力に対する嫉妬心や執着心などが生じて、仏教者の平静な心持ちを乱すことになり、ひいてはものごとの冷静な観察・判断を妨げることになるからだ、というわけです。

 ここでたいへん目につくのは、“権力に近づくこと”の忌避は、芸術、娯楽、女色などよりも先に、忌避すべきことの真っ先に挙げてある点です。

 もし吉本氏の言うように、賢治が、この「品」を中心に『法華経』を読んだのだとしたら、芸術やセックスの禁止―――とくに芸術・娯楽の禁止は、詩や童話や学校劇の上演に力を入れていた賢治にとって、問題にならないはずがないのですが―――にもまして、権力への接近禁止の教えが胸に刻まれたはずです。

 “権力に近づいてはならない”“権力者とねんごろにしてはならない”―――宮沢賢治は、『法華経』のこの教えに忠実であったと言えます。

 逆に言えば、田中智学、石原莞爾、北一輝といった人々が、ここをいったいどう読んでいたのか、知りたいところではあります。

 日蓮は、権力を挑発し批判するだけで、自ら権力に近づこうとはしていませんから、まぁ‥わかるのですがw
















 同様のことは、この14章の「偈
(げ)」にも書かれています:




「若し菩薩ありて 
〔…〕この経を説かんと欲せば

 応
〔まさ〕に行処と および親近処とに入るべし。

 常に国王と および国王の子と

 大臣と官長と 凶険なる戯者とを離れよ」


「この経典を世に弘めようとする求法者たちは、

 行動と交際の範囲を守るべきである。みだりに人と交わらず清浄であれ。

 王子たちや王たちと懇意になることを常に避けよ。

 また、王の従臣である連中に懇意にしてはならない。」

坂本幸男・他訳注『法華経(中)』,1964,岩波文庫,pp.248-251.








 ところで、吉本氏は、先日引用した三好達治論と同じ時期に書いた草野心平・編『宮沢賢治研究』の書評のなかで、




「いまも、どのような革命家にも、文学者にも、化学者にもまぶしさを感じたことはないが、この総合的な詩人には、まぶしさを感じないわけにはいかない。わたしは、かつては同じ可能性の線上にありと信じた宮沢の軌道から、はるかに転落した。もはや、敬して遠ざかるより外にすべがないのである。
〔…〕

 おそらく宮沢賢治は、詩人としては未完の大器にすぎず、作家としては童話作家にすぎず、化学者としては一介の農芸化学技術者にすぎず、農村実践家としては、ラスキン、ウィリアム・モリスの徒にすぎまい。
〔…〕しかし、総合的な批評というものがあるとすれば、その観点からは、宮沢賢治は、依然として膨大な存在たることをやめない。

 ここに収録された論文、追想は、いずれも分析的批評で一面をつつくか、または傾倒のあまり大宗教論文のごときものをかいているかのどちらかである。たまにある冷静な批評も、截断力と再現力を欠いている。かけばそういうことになる外はないのは、論者の故ではなく、宮沢賢治の性格によっている。こういう特異な存在を、網にひっかけるような批評の観点が、あみだされないかぎり研究は今後も累積されるとおもう。

吉本隆明「草野心平編『宮沢賢治研究』―――まぶしさを感ずる総合的な詩人」,初出1958年; 引用 aus:『吉本隆明全集』,第5巻,2014,晶文社,p.607-608.




 と書いています。それから半世紀あまり、「論文、追想は、いずれも分析的批評で一面をつつくか、または傾倒のあまり大宗教論文のごときものをかいているかのどちらかである。……研究は今後も累積されるとおもう。」という吉本氏の予言は、的中したようです。

 膨大な数の宮沢賢治「研究」が「累積」され、いま現在も「累積」されつづけています。草野心平編集の『研究』が出た当時と比べると、各分野に優れた論考が輩出しているのはたしかですが、その一方であいかわらず「一面をつつく分析的批評」や「大宗教論文」が量産されているのも事実です。

 もちろん、専門家/素人を問わず、いろいろな人が細かい問題についても考え、さまざまな意見を発表するのは、とても良いことです。しかし、もし大きな切り口で的確に論じたものがすでに知られていれば、その後に発表される論文の質は、おのずからそれに応じて上昇するのではないかと思われるのです。




 こうした現状を見ると、吉本氏が待望した「截断力と再現力」のある批評も、宮沢賢治の全体を網にかけるような「総合的批評」も、まだ私たちの前に現れていないのかもしれません。








  






 しかし、吉本氏自身、↑上の書評を書いてから亡くなるまでの間に、宮沢賢治に関しては、著書1冊といくつかの論文、そして10篇あまりの講演を公にしています。

 いま、ありがたいことに、それらはまとめられて、たやすく入手できるようになっています:



@ 吉本隆明『初期ノート』,2006,光文社文庫.(電子書籍⇒:kindle版 Amazon


A 吉本隆明『宮沢賢治』,ちくま学芸文庫,1996.


B 吉本隆明『宮沢賢治の世界』,2012,筑摩選書.






 @は、戦前・青年時代の吉本氏の手稿を集めたもので、半分くらいが宮沢賢治論―――と言っても、メモ書きのようなもの―――になっています。現在、電子書籍が入手しやすいですが、電子書籍はアンダーラインとか引けないので不便ですね。多少値段が高くなってもよいから、コピーやプリントアウトのできる媒体にしてほしいところです。


 Aは、ミヤケンに関する吉本氏の唯一の単行著作。ギトンは、だいぶまえに通読したのですが、あまり頭に残りませんでした。今回、Bを読んだ後で読み直してみると、いろいろ重要なことが書いてあるのがわかりましたし、以前読んだときに「?」をつけた箇所も解決しました。


 Bは、現在入手可能な(録音等の記録がみつかっている)宮沢賢治に関する全講演録。こちらを最初に読めばよかったと思いました。内容的に、Aとは重複していません。Bは、賢治作品の読みこみ方、ないし分析方法、Aは、それをじっさいに適用した研究成果―――として読むことができます。


 @AB以外にも、宮沢賢治を扱った文章はいくつかあるようで、これは、『吉本隆明全集』をめくって探してみないとなりません。








 そういうわけで、吉本氏の宮沢賢治論は、再読してみるとたいへん示唆的で‥、また、現在までのところ賢治研究者に十分に利用されてはいないようですから、今後、おりにふれてギトンの考察も加えながらご紹介して行きたいと思います。







ばいみ〜 ミ




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カテゴリ: 宮沢賢治

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