12/19の日記

03:47
【吉本隆明】の戦中文学史――三好達治の詩について

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 こむばんは。(º.-)☆ノ






 この日記では何度か言及している吉本隆明ですが、じつは吉本氏の文学論、芸術論をギトンはあまり評価する気になれないのです。『言語にとって美とはなにか』さえ熟読していないのにこんなことを言うのは僭越かもしれないのですが‥ 吉本氏の華々しい議論のなかで、純芸術理論の部分は意外にも日常的、“科学的”な素朴唯物論に立脚していて、面白みがないように感じます。



 しかし、吉本の文学・芸術論の政治的な部分は、やはり読んで面白いと思うのです。「面白い」と言うのは、その政治的立場に全面的に賛成するわけではないが、ということでもあるのですが‥







 たとえば、満洲事変について、吉本隆明氏は、



「満州侵略戦争は軍上層部がくわだてた。ブルジョア地主的政党による内閣の指導権を奪取し、国の内外政策を軍閥のほしいままに展開せんとする広汎な武力的計画(3月事件、10月事件のごとき)にもとづくところのものであり、その発火点であった。」



 という“規定”を神山茂夫『天皇制に関する理論的諸問題』から引用して、



「この見解は、わたしの知っているかぎりでは、もっとも正確な日本ファシズムへの理解である。」

吉本隆明「日本ファシストの原像」,初出1960年; 引用 aus:『吉本隆明全集』,第6巻,2014,晶文社,pp.178-179.


 と賛意を表明しています。しかし、神山氏の理解は、決して「正確」ではありません。




 この日記ではすでに詳しく検討したように(⇒:キメラ襲う(1) ⇒:キメラ襲う(3))、《満洲事変》は、

 @ 「軍上層部」ではなく、陸軍の中堅将校層が主導し、

 A 明治以来の「軍閥」は、「国の内外政策」を「ほしいままに」するどころか、《満洲事変》を境に無力化して行ったのです。

 B そして、もっとも重要な点は、対外侵略にしろ、内政の総動員体制化にしろ、軍部のみならず、政府、政党も多かれ少なかれ同じ方向を目指していたということです。






 陸軍中央は、中堅将校を中心に 1930年頃から“満洲”の軍事占領と植民地支配を計画し、まず国民へのカンパニア・扇動を進めていましたが、関東軍参謀板垣・石原らは、独自の謀略計画に基づいて、軍中央の機先を制して《柳条湖事件》を起こし、《満洲事変》を開始したのです。

 そして、“大陸侵略”という大枠に関する限り、@内閣・既成政党(政友会等)、A陸軍中央、B関東軍参謀の間に意見の相違はなかったのであり、相違があったのは、いついかにして始めるかという点についてであって、遅かれ早かれ実施するという点では、3つの勢力は一致していたのです。



 《満洲事変》勃発の半年前である1931年
「3月に策定された参謀本部の『昭和6年情勢判断』によると、『満洲は処理せざるべからず、而して政府に於て軍の意見に従はざる場合は断然たる処置に出るの覚悟を要す』と述べて」いる。
石堂清倫『20世紀の意味』,2001,平凡社,pp.182-183.



 神山氏は「軍上層部がくわだてた」と言っていますが、石原らの《柳条湖事件》謀略に乗っかって拡大を進めたのは、陸軍の中堅将校グループ(参謀本部・建川美次少将ら)で、陸海軍大臣ら上層部は、むしろ内閣とともに《満洲事変》の不拡大・撤収を当初は望んでいたのが事実でした。


 つまり、《満洲事変》は「軍上層部」ではなく、陸軍中堅と関東軍の参謀グループが主導し、軍上層と内閣、政府、諸政党は、それに引きずられつつ次第に自らの野望にのめりこんで行ったと言えます。





 《満洲事変》以来
「政治が軍事化するにつれて、軍内部の権力移動が生じた。軍内部で新しい『佐官支配』が確立したのである。それには先導した永田鉄山〔陸軍少佐、統制派―――ギトン注〕の役割が大きかった。」

 1921〜31年の
「10年のあいだに旧軍閥は実力を失い、新しい幕僚群が実力をもつようになった。それとともに『力は正義だ』という理念が自国民にも他国民にも適用され、道義の理念が蔭にかくれたのである。〔…〕彼らは国家総力戦を準備するうえで、〔…〕何故イギリスやアメリカが強大な軍事力をつくりあげたかをくわしく研究する代わりに、英米を侮蔑し、無視し、日本的精神力で相手を凌駕すべきだと信じた。」
石堂清倫『20世紀の意味』,pp.183-184.





 そして、6年後の《日華事変》(盧溝橋事件)では、軍が拡大論(おもに戦地の下士官〜中堅クラス)と不拡大論に割れるなか、近衛内閣は支那派遣軍増派を強行して日中戦争拡大へとひた走ったのです。(江口圭一『盧溝橋事件』,1998,岩波ブックレット,pp.2-3,59-61.)

 《日華事変》の場合には、むしろ《満洲事変》とは逆に、内閣が軍部の背中を押して日中全面戦争に踏み込んで行かせたと言えます。

 そして、近衛内閣は、「蒋介石を相手にせず」と声明して、国民から歓呼の声で迎えられました。これはまさに、政府が担当すべき外交による解決手段を、自ら放棄してしまったことにほかなりません。

 内閣が無責任なら、国民(というより翼賛世論を造り出していた御用メディア)もばかだったのです。












 たしかに、吉本隆明がこの論文を書いた 1960年の段階では、まだ実証的な歴史研究が少なく、《満洲事変》も《日華事変》も詳しいことは解っていなかったので、神山と吉本の誤解は、いたしかたないのですが‥、そうは言っても


「もっとも正確な日本ファシズムへの理解である」


 と言い切るのは、やはり“党派的”強弁ではないでしょうか。(吉本氏のような“オピニオン・リーダー”が、論証抜きの“テーゼ”を「正しい」と言い切ってしまうと、それを素朴に信じてしまう人が多いのです)

 なお、神山は、戦後、日本共産党からの除名と再入党を繰り返していますが、この1960年の時期には党員に復帰していました。






 じっさい、戦前日本の“軍部”の実体は、決して一枚岩ではなく、その内部には複数の頭部がアナーキーにうごめいている“やまたのおろち”が、「皇軍」イデオロギーという胴体でつながった組織だったようです。このような国家組織のアナーキーな分裂は、日本だけでなく、ドイツ、イタリアのファシズム、またスターリン以後のソ連のような独裁的権力組織には必ず見られる特質のようです。

 また、「総力戦」を至上命題として、国内の統制・動員と対外侵略を進めることは、この時期の軍部、政党、そして“左翼”の一部までをも巻き込んだ日本国全体の“国家的”了解事項だったと思われます。

 そうした実態を直視せずに、これを、国家のごく一部である「軍上層部がくわだてた」クーデター計画によるものだ―――などと矮小化して見てしまうならば、そのような見地は、今日の日本の政治・社会を見る目を、かえって塞いでしまうことになると思います。

 この種の“軍部が悪い”式の責任逃れは、私たちの歴史観の根底に巣食う病巣の一つだと、私は思っています。現に、1988年の奥野国土庁長官の「侵略」否定発言でも、


「私は侵略という言葉を使うのは大変嫌いな人間だ。
〔…〕あの当時日本には、そういう意図はなかったと考えている。日中戦争と言われているが、〔…〕政府は常に不拡大方針を指示してきた〔…〕」「日中戦争を日本は事変と呼び続けてきた。」
江口圭一『盧溝橋事件』,pp.2-3.



 と、“悪いのは軍部”“政府には戦争の意図はなかった”という「侵略」否定の論理に利用されてしまっているのです。

 もちろん、軍部は“悪い”。しかし、軍部の頸にかけた罪状札を、政府や国民の免罪符として転用することはできないのです。

 (政府は、《満洲事変》では「不拡大」を指示ししつつ、拡大のための予算は供給すると声明し、《日華事変》では、軍部に「拡大」を指示しつつ、外交的解決という退路を断って突進させました。)














 だいぶ枝葉のほうへ踏み込んでしまいましたが…、

 吉本隆明氏の“専門”から言えば、同じ《15年戦争》期についても、政治・軍事史より文学史に向けた発言のほうが重要かもしれません。





 ここで見ておきたいのは、立原道造、三好達治ら《四季派》の詩人たちに関する吉本氏の論文です。

 《四季派》のなかで、立原道造は早く死んでしまったので、直接《15年戦争》にかかわることはなくてすみましたが、三好達治は戦争の全期間を詩人として生き抜き、日本の戦争を讃美する少なくない詩業を残しています:




「神州の くろがねをもて きたへたる 火砲にかけて つくせこの賊

 この賊は こころきたなし もののふの なさけなかけそ うちてしつくせ

 無慙なる 奸黠
(かつ)ばらは ことごとに うちてしつくせ かげもとどむな」
三好達治『馬来の奸黠』より




 1941年、日本軍は真珠湾攻撃に先行して、英領マレー半島に上陸し占領しています。「奸黠」は、わるがしこい人。「馬来の奸黠」とは、植民地マレーのイギリス人を指しているのでしょうか。



「ここに、庶民大衆の戦意そのものの、論理的な表現をみることができる。今日において、わたしたちを愕然とさせるのは、『この賊はこころきたなしもののふのなさけなかけそうちてしつくせ』というような残忍な戦闘意識が、無意識のうちに表現されていることである。
〔…〕このような情緒的な残忍感覚は、三好が、原始シャーマニズム(神道)を、論理的に掘りおこすことによってつきあたった、伝統感性の一極点であった。」
吉本隆明「『四季』派の本質――三好達治を中心に」,初出1958年; 引用 aus:『吉本隆明全集』,第5巻,2014,晶文社,p.269.





 三好達治といえば、私たちは、


「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。

 次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。」

三好達治『測量船』より


 というやさしさに満ちた民話的情感や、↓つぎの「一點鐘 二點鐘」のように、一読して私たちの心に深くしみいる印象的な詩篇を忘れることができません:




「一時が鳴つた
 二時が鳴つた
 一世紀の半ばを生きた 顔の黄ばんだ老人の あの古い柱時計
 柱時計の夜半の歌
 山の根の冬の旅籠
(はたご)
 噫あの一點鐘
 二點鐘

 その歌聲が
 私の耳に蘇生
(よみがへ)
 そのもの憂げな歌聲が
 私を呼ぶ
 私を招く

    
〔…〕

 くるくるまはれ風車・・・
 くるくるまはれ風車・・・
 卓上の百合の花心は
 しつとり汗にぬれてゐる
 私はそれをのぞきこむ
 さうして私は 私の耳のそら耳に
 過ぎ去つた遠い季節の
 静かな夜を聴いてゐる
 聴いてゐる
 噫あの一點鐘
 二點鐘」

三好達治『一點鐘』より





 その三好達治が、「この賊は 心きたなし …… 撃ちてし尽くせ」のような、一点の哀れみもない好戦的な歌を詠めるものだろうかと、驚愕せざるを得ないのです。

 また、↓次の諸篇に見られるような、生き物に対する慈しみに満ちた情感は、どこへ行ってしまったのかと問いたくなります:




「     村

 恐怖に澄んだ、その眼をぱつちりと見ひらいたまま、もう鹿は死んでゐた。無口な、理窟ぽい青年のやうな顔をして、木挽小屋の軒で、夕暮の糠雨に霑
(ぬ)れてゐた。(その鹿を犬が噛み殺したのだ。)藍を含むだ淡墨いろの毛なみの、大腿骨のあたりの傷が、椿の花よりも紅い。ステッキのやうな脚をのばして、尻のあたりのぽつと白い毛が水を含むで、はぢらつてゐた。

 どこからか、葱の香りがひとすぢ流れてゐた。

 三椏
(みつまた)の花が咲き、小屋の水車が大きく廻つてゐた。



      庭

 夕暮とともにどこから来たのか一人の若い男が、木立に隠れて池の中へ空気銃を射つてゐた。水を切る散弾の音が築山のかげで本を読んでゐる私に聞えてきた。波紋の中に白い花菖蒲
(あやめ)が咲いてゐた。

 築地の裾を、めあてのない遑だしさで急いでくる蝦蟇の群。その腹は山梔
(くちなし)の花のやうに白く、細い疵が斜めに貫いたまま、なほ水掻で一つが一つの背なかを捉へてゐる。そのあとに冷たいものを流して、たとへばあの遠い星へまでもと、悪夢のやうに重たいものを踏んでくる蝦蟇の群。

 瞳をかへした頁の上に、私は古い指紋を見た。私は本を閉ぢて部屋に帰つた。その一日が暮れてしまふまで、私の額の中に散弾が水を切り、白い花菖蒲が揺れてゐた。」

三好達治『測量船』より






  






 しかし、吉本氏は、残忍な戦闘の心性を何のためらいもなく称揚する戦時短歌と、これらの優しい詩句とが、「異質であるとかんがえるのは、まったくの誤解にすぎない。」と言うのです。




「『四季』派の詩人たちが、詩形と詩意識との先祖かえりを敢行したとき、必然的につきあたったのは、日本の恒常民衆の独特な残忍感覚と、やさしい美意識との共存という現象だった。
〔…〕

 三好が、本来的に強靭な生活者であり、リアルな日常生活感覚の把握者であることが、このような恒常民的な感性につきあたるおおきな原因をなしている
〔…〕

 三好もまた、日本の達人的な生活者が、『家』や『社会的諸関係』のなかでたどる発想を、自分の詩の方法としている
〔…〕このような日本的な達人的生活者が、日常社会のなかでもろもろの事柄に『勝つ』過程は、〔…〕一方では人間対人間の社会的な諸関係を、情緒的なナレ合いに転化しながら、一方では、他人のことなどかまっていたらきりがない、人生は戦いだというような没社会的な生活意識を徹底させてゆくことにすぎないのである。このような日本的な生活認識が、日本の社会構造の特質にまつわる『恒常民』的な認識に、どこかでつきあたるのは当然である。三好が、その戦闘詩でつきあたった残忍感覚と、情緒的な日常性の併存というものも、生活意識的な面からかんがえればおそらくここに由来するものであった。」
吉本隆明「『四季』派の本質――三好達治を中心に」, op.cit.,pp.269-270.




 たしかに、↑上に引用した三好達治の詩「村」「庭」にも、優しさのかげに、隠れるようにして一種残忍な感覚が覗いています。それは、猟犬に咬み殺された鹿の死骸であり、散弾銃で撃たれて透明な水のような血を流す瀕死のヒキガエルなのですが、それらの光景を、作者は、


「私は本を閉ぢて部屋に帰つた。その一日が暮れてしまふまで、私の額の中に散弾が水を切り、白い花菖蒲が揺れてゐた。」


 と、まるで風景のように、抒情的印象のなかに溶かしこんでしまうのです。撃たれて死んでゆこうとするヒキガエルを見ながら、作者の指の脂汗が捺したかもしれないシミは、「瞳をかへした頁の上に、私は古い指紋を見た。」と、まるで、昔夜を明かした旅籠で聞いた古い柱時計の点鐘の記憶のように美しい思い出となってしまうのです。

 つまり、三好達治の描く詩の世界は、矛盾のない美しい詩情の世界―――というより、故意に矛盾を覆い隠された世界なのだと思います。

 その世界の装いが、優しければ優しいほど、そこに隠された“矛盾を矛盾ともしない”残忍さは、読む者の感性しだいでは、よりいっそう際立つのです。

 上の2つの散文詩が、官憲の犠牲となって息の根を止められた若い魂の、あるいは、戦闘の犠牲となって断末魔にのたうつ“土着”住民のアナロジーとして書かれたとすれば、作者は、ほとんど意識して自らの、そして日本人の“やさしい”残忍性を表出していることになります。














「われはゆかん
 牧人の鞭にしたがふ仔羊の
 あしどりはやく小走りに

 路もなきおどろの野ずゑ
 露じものしげきしののめを
 われはゆかん
 ゆきてふたたび帰りこざらん

 いざさらばうかららつねの
 日のごとくわれをなまちそ
 つねならぬ鍾の音声
 もろともに聴きけんをいざ
 あかぬ日のつひの別れぞ わがふるき日のうた――」

三好達治「鍾鳴りぬ」より





「『つねならぬ鍾
(かね)』とは、太平洋戦争を暗示する暗比喩であり、『牧人の鞭にしたがふ仔羊の あしどりはやく小走りに』は、戦争の危機に処する内心の焦慮と意志の表現であると考えても大過ない〔…〕

 軍部でさえ、当時総力戦・物量戦を呼号した太平洋戦争の実体は、三好の詩では、『鍾』とか『牧人の鞭』とかいうような、花鳥風月にモダニズムの衣装を着せた暗喩でしか触れられていない。
〔…〕もしも、このような感性的秩序が、詩概念のすべてを意味するならば、わたしたちは、詩をもって現実社会の体系にわけ入ることを恒久的にあきらめるより外ないのである。

 しかし、たとえば、第2次大戦期の欧米の戦争詩は、鉄量と砲火と生命の危機のなかで、戦争とメカニカルに対立している人間主体の過酷なすがたを、鮮やかに詩に定着してみせている。

 
〔…〕『四季』派の抒情概念が、非日常的な戦争の現実に触れる方法は、このような退化した主体によってしかおこなわれなかったのである。」
吉本隆明「『四季』派の本質――三好達治を中心に」, op.cit.,pp.262-263.



 「戦争とメカニカルに対立している人間主体の過酷なすがたを」表現しえた「第2次大戦期の欧米の戦争詩」の例としては、たとえば、スペイン市民戦争の従軍体験に基づくオーデンの詩(⇒:ある晩ふらり外に出て /⇒:両極端の時代(3) 記事の末尾)をあげてよいのではないでしょうか。




 ↑上に引用された「鍾鳴りぬ」の断章でも、三好の抒情世界の無矛盾性は一糸の綻びさえ見せていません。「われ」は、最初から「牧人の鞭」「鍾の音声」に“したがう”者なのであり、それどころか、「小走りに」まるで自らの意思によって、未踏のジャングルへと突き進むのです。「われ」扮する「仔羊」には、すすんで“したがう”以外の選択肢はありえないかのようです。

 ここでもし、「仔羊」が、「ゆく」のをいやがってウンチをしたり、「牧人」の腕に嚙みついたりすれば、三好の詩的世界は崩壊してしまうでしょう。そのような世界として、その抒情世界は成立しているのであり、それは、張りめぐらされた“見えない網”によって統制された世界なのです。

 しかし、自由な精神を窒息させる“統制”によってしか維持されない抒情とは、いったい何なのでしょうか?‥





「『四季』派の抒情詩の感性的秩序が、現実社会の秩序を認識しようとする場合、はっきりした自立感と遠近法をもたず、したがって現実の秩序と、
〔ギトン注―――詩人の〕内部の秩序とが矛盾・対立・対応がなされる以前に融合してしまっているところに、問題があるとかんがえなければならない。かれらは、自然や現実を、自己認識と区別できない平板上にとらえて、少しも疑おうとしていないのである。」

 かれらは、
「社会に対する認識と、自然に対する認識とを区別できなかった〔…〕。権力社会もかれらの自然観のカテゴリーにくりこまれてくる対象であり、〔…〕原始社会人が、日常生活の必要から鳥獣や他の部族を殺すことを、自然に加える手段の一部とかんがえているにすぎなかったように、〔ギトン注―――現代の戦争における〕殺りくも、巨大な鉄量の激突も、思想的対立も、すべて、かれらの自然認識の範囲にはいってくる何かにすぎないのである。」
吉本隆明「『四季』派の本質――三好達治を中心に」, op.cit.,pp.270-271.





 たとえば、三好の戦争短歌にあった:


「神州の くろがねをもて きたへたる 火砲にかけて つくせこの賊」


 は、現代の戦争を、あたかも鉄器をはじめて知った原始社会人のシャマニズムでのみ見ようとする時代錯誤的感性の表現と言うほかはないでしょう。じっさいに、太平洋戦争で使用された大砲の製造過程には、勤労動員された学生や婦女子、強制的に連れて来られた朝鮮人などが、それぞれの思いをかみしめながら従事していたはずです。それらの事実をすべて捨象して、「神州の黒金をもて鍛えたる」などと詠うことのできる感性は、その大砲がじっさいに殺戮を行なう以前にすでに、“無関心な”残忍さに満ちています。

 その残忍さとは、現代の巨大かつ複雑な社会と権力のメカニズム、そのもとでの"人間"の悲惨を、原始時代の神話的自然風景によって蔽い隠してはばからない残忍さなのです。





  






 三好達治は、「大学においてフランス文学を習得し、フランス文学を日本に移植し、また、モダニズム文学の一旗手であった詩人」です。



「日本の恒常民の感性的秩序・自然観・現実観を、批判的にえぐり出すことを怠って習得されたいかなる西欧的認識も、西欧的文学方法もついにはあぶくにすぎないこと――これが『四季』派の抒情詩が与える最大の教訓の一つであることをわたしたちは承認しなければならない。」

吉本隆明「『四季』派の本質――三好達治を中心に」, op.cit.,p.272.






 ところで、このようにモダニスト、抒情派を批判し、その戦争責任を厳しく追及する吉本隆明が、ただひとり宮沢賢治に対しては、絶賛をくりかえしているのです。

 これは、ひょっとすると、賢治作品には、同時代の他の作家・詩人とは異なって、戦争とファシズムへ雪崩をうった日本社会全体の動きに抵抗しうる何かがあるからではないか?‥と、ひいきめなことを考えてしまいます。

 残念ながら、吉本氏は、宮沢賢治論をたくさん書き、講演もしているのに、この面に関しては具体的に論じたことがなかったように思われます。(じつは、それとなく、他のテーマのあいまに言っているのかもしれませんが‥)



 しかし、賢治作品から思い当たることはいろいろとあります。

 たとえば、三好達治の詩的世界の無矛盾性とは対照的に、賢治の詩的世界は、つねに矛盾に満ちています。矛盾、相克、葛藤こそが賢治詩の本質―――と言ってもよいほどです:




「  《幻想が向ふから迫つてくるときは
    もうにんげんの壊れるときだ》

 わたくしははつきり眼をあいてあるいてゐるのだ
 ユリア、ペムペル、わたくしの遠いともだちよ
 わたくしはずゐぶんしばらくぶりで
 きみたちの巨きなまつ白なすあしを見た
 どんなにわたくしはきみたちの昔の足あとを
 白堊系の頁岩の古い海岸にもとめただらう

   《あんまりひどい幻想だ》

 わたくしはなにをびくびくしてゐるのだ
 どうしてもどうしてもさびしくてたまらないときは
 ひとはみんなきつと斯ういふことになる
 きみたちとけふあふことができたので
 わたくしはこの巨きな旅のなかの一つづりから
 血みどろになつて遁げなくてもいいのです

  (ひばりが居るやうな居ないやうな
   腐植質から麦が生え
   雨はしきりに降つてゐる)

 さうです、農場のこのへんは
 まつたく不思議におもはれます
 どうしてかわたくしはここらを
 der heilige Punktと
 呼びたいやうな気がします

   
〔…〕

 さつきもさうです
 どこの子どもらですかあの瓔珞をつけた子は

   《そんなことでだまされてはいけない
    ちがつた空間にはいろいろちがつたものがゐる
    それにだいいちさつきからの考へやうが
    まるで銅版のやうなのに気がつかないか》

 雨のなかでひばりが鳴いてゐるのです
 あなたがたは赤い瑪瑙の棘でいつぱいな野はらも
 その貝殻のやうに白くひかり
 底の平らな巨きなすあしにふむのでせう

    もう決定した そつちへ行くな
    これらはみんなただしくない
   
〔…〕


 ⇒:《ゆらぐ蜉蝣文字》【32】小岩井農場・パート9


 ↑これは長詩「小岩井農場」の一部ですが、雨の中を歩いているとつぎつぎに湧いてくる幻想に身を任そうとする意識(字下げのない行)が、それを批判して“正気”に戻そうとする醒めた意識(字下げの行)と相克しています。

 まるで、意識の分裂と言わなければならないような・こんなやりとりが、この詩だけでなく、ほとんど詩集『春と修羅』全篇にわたって続くのです。






  









「髪を正しくくしけづり
 セルの袴のひだ垂れて
 古き国士のおもかげに
 日の出を待てる紳士あり

   
〔…〕   

 俄かに朱金うち流れ
 朝日潰ひて出で立てば
 紳士すなはち身を正し
 高く柏手うちにけり

 時にあやしやその古金
 雲に圧さるゝかたちして
 次第に潰ひ平らめば
 紳士怪げんのおもひあり

 その虚の像のま下より
 古めけるもの燃ゆるもの
 湧きたゝすもの融くるもの
 まことの日こそのぼりけり

 舷側は燃えヴイも燃え
 綱具を燃やし筒をもし
 紳士の面を彩りて
 波には黄金の柱しぬ」

宮沢賢治「宗谷(二)」より


 ⇒:《ゆらぐ蜉蝣文字》【71】宗谷(二)


 ↑これは、日本の植民地であったサハリンからの帰途、宗谷海峡の連絡船上の情景ですが、「古き国士のおもかげ」をもつ紳士が正装して日の出を拝もうとしたところ、にせの日の出―――日の出前の太陽光の海面への反射を、御来光と間違えてカシワ手を打ってしまう、というものです。

 ここには、植民地の「国士」=ナショナリストに対する風刺があると思いますが、そればかりでなく、「国士」の期待を裏切って後から出てきた太陽のすがたも、一種異様なものに描かれています。

 「古めけるもの燃ゆるもの/湧きたゝすもの融くるもの」という、ナショナリスティックな崇拝を超越したおどろおどろしい姿なのです。そして、昇って来た太陽の強烈な光は、「紳士」の顔も、船も、波間も、すべてを深紅に染めてしまうのです。




 日の出の太陽に対して賢治がもっていた・このようなイメージに注目するならば《満洲事変》後の時期に完成された↓次の詩篇にも、重要な意味があるかもしれません:



「    雪峡

 塵のごと小鳥なきすぎ
 ほこ杉の峡の奥より
 あやしくも鳴るやみ神楽
 いみじくも鳴るやみ神楽

 たゞ深し天の青原
 雲が燃す白金環と
 白金の黒の崫
〔いわや〕
 日天子奔せ出でたまふ」

   


 「雲が燃す白金環と/白金の黒の崫
〔いわや〕を/日天子奔せ出でたまふ」は、実景としては、薄い雲に被われて虹の輪(白金環)をつくっていた太陽が、雲の外に出て光りはじめたということで、雨上がりなどに見られる気象現象です。

 しかし、「あやしくも」鳴る神楽の音とともに「日天子」(日本の天子?)が走り出て来るというのは、“皇国”の象徴としての天皇に対して一般に抱かれる厳粛なイメージを裏切ってはいないでしょうか?‥恐ろし気とも、滑稽ともとれるでしょうけれども、いずれにせよ厳粛なイメージではありません。





    






 そういうわけで、宮沢賢治の“詩的世界”は、日本の伝統的な抒情世界とも、それを西洋的感性で彩ったモダニズム詩の世界とも、大きく異なる独特のものだと言えます。

 しかし、それは単に特異な感性世界だというだけでなく、

 戦争と排外主義へとつながった日本社会の“勝者”の生活感覚になじまず、それを超越するものを、もってはいないでしょうか?

 その解明こそは、吉本隆明氏が果たそうとして果たせなかった課題であり、私たちへの・ちょっと厄介な“置きみやげ”なのではないかと思います。








ばいみ〜 ミ



 
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カテゴリ: 日本近現代史

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