11/16の日記

02:36
【宮沢賢治】キメラ襲う(3)

---------------
.




  






 こんばんは。(º.-)☆ノ






 前回の終りころに、1933年8月の宮沢賢治の手紙を扱いましたが、これを正当に評価するためには、(賢治に厳しい評価となるかもしれませんが)この時点までの《満洲事変》・“満洲国”策動の経過を追っておく必要があります。



 なので、ちょっと蛇足のようになりますが、以下、年表風にまとめておくことにします。







 

(5)キメラの尾






1931年9月18日《柳条湖》爆発事件。満州鉄道線路の破壊は、日本側にとって損害となるため避けて、線路の脇で爆弾を破裂させた。“支那軍による爆破”を装う謀略の意図は、爆発音を響かせれば達せられると考えられた。ただちに奉天の関東軍は張学良軍の攻撃を開始し、関東軍司令官は翌19日午前1時ころ全軍に攻撃命令を下した。

 「15万の兵力を擁する
〔ギトン注―――中国側・張学良麾下の〕東北軍の主力11万は張学良とともに長城線以南に集結しており、残留部隊も各地に散在していた。〔…〕加えて、北平〔北京―――ギトン注〕で病気療養中であった張学良が戦火の拡大を避けるため東北軍に不抵抗・撤退を命じた」。「蒋介石率いる国民党は〔…〕国内統一を最優先課題として不抵抗主義を採り、全力を共産党包囲掃討作戦に集中していた」

 関東軍は、約1万の兵力をもって
「南満州の主要都市を占領。さらに」陸軍中央からの停止訓令を無視して、朝鮮駐留軍が送った「約4000の増援を得て」、吉林省にも戦火を拡大、「北満へ進出、翌32年2月のハルビン占領によって東北三省を制圧」した。
山室信一『キメラ』,p.63.


 若槻内閣の
「幣原喜重郎外相は事変不拡大と関東軍の早期撤兵を国際的に表明」、しかしその一方で、内閣は、政府の制止を無視した拡大に対しても、“経費は支弁する”と決定し、幣原も、国民党政府(蒋介石)との停戦交渉で有利な条件を獲得してから撤兵するという方針であった。(『キメラ』,pp.67-68;『満州事変から日中戦争へ』,p.109)

〇 立憲民政党の若槻内閣は、国際協調主義の“幣原外交”を推進していたが、《満洲事変》の関東軍の暴走に対しては、最初から腰砕けだった。



9月30日 国際連盟
「理事会は、日本軍の速やかな満鉄附属地内への撤兵を勧告する決議を採択し」(『満州事変から日中戦争へ』,p.129)た。

 しかし、日本は、決議を無視して戦線を拡大し、連盟理事会では拒否権を発動し続けて、満州全土の制圧と“満洲国”建国までの時間を稼いだ。

10月2日 陸軍参謀本部は『満蒙問題解決策』を決定、
「日本の保護下に満蒙を独立国家とすることとし、」満蒙の国家は、「国防を日本に委任し、鉄道・通信を日本の管理に委ねること」とした。「併せて、これまでの『既得権擁護』なる旧標語を『新満蒙の建設』なる標語に替え、これを広く内外に宣伝することによって新国家建設の機運を醸成していくことも決定を見た。」(『キメラ』,p.64)



10月8日 関東軍は、石原莞爾の作戦指導の下で、遼寧省錦州を飛行隊で爆撃。
(『新校本宮澤賢治全集』「書簡」校異篇,p.285)

 東北三省の最南端・錦州には、張学良軍が集結していた。張学良は、日本軍からの攻撃には抵抗せず撤退するよう麾下の東北軍に指示し、奉天を放棄して、錦州に拠点を移していた。

 陸軍大臣は、「止むを得ず取った自衛行為」だと説明したが、のちに《リットン調査委員会》報告書で否定された。

 錦州爆撃と、それが“自衛だ”という欺瞞的な説明は、各国の“幣原外交”に対する信用を失わせた。これ以後、国際連盟では、日本に対する強硬論が大勢を占めてゆく。



10月24日 国際連盟理事会は、
「11月16日までの期限付で満洲から撤兵する勧告決議案を 13対1 をもって票決。」(『キメラ』,p.68)日本だけが反対(拒否権行使)したため不成立。

同日、関東軍は『満蒙問題解決の根本方策』を決定、東北三省の統合による
「新国家の樹立を宣言せしむ」こととした。



〇 つまり、関東軍は、まったく撤兵する気がない。これを見て、国際連盟の各国は、現地調査団を派遣して実態を明らかにしたうえ、日本に制裁を加える方向に向かう。すなわち:↓


12月10日 国際連盟理事会は、《リットン調査委員会》の派遣を決定。



 ところが:

 「この間、日本国内では
〔…〕関東軍の行動を支持する声が高まっていた。〔…〕11月には社会民衆党も満州事変支持を決議、12月11日若槻内閣倒壊により幣原外交が終焉」して政府・外務省も“不拡大・撤兵”方針を放棄、「満蒙処理に関しては関東軍が主導権を掌握することとなった。」



12月28日 関東軍は
錦州への進撃を開始し、32年1月3日、無血入城した。すでに 31年11月、奉天・吉林・チチハル、東三省の省政府所在地がすべて陥落していたため、東北軍の軍事的拠点は錦州だけとなっていた。」
(『満州事変から日中戦争へ』,p.130)











遼河デルタ












1932年1月6日、政府は
「陸・海・外務3省協定案として『支那問題処理要綱』を提示、」陸軍中央・関東軍による「独立国家建設工作が追認され」た。

 そして、今後については、南京の国民政府との停戦交渉を長びかせて、その間に既成事実として“満洲国”を建国させてしまうことにより、
「『満蒙に対する一切の主張を自然に断念せしむるごとく仕向くる』〔…〕方針が確認された」

 こうして、
「関東軍の独断によって開始された満洲領有計画は独立国家案へと転化し、ついには国策として認定されることとなった」
(『キメラ』,pp.68-70)




 これに対して:

1月7日 アメリカのスティムソン国務長官は、日本の満洲全土に対する軍事制圧を、中華民国の領土・行政の侵害として非難し、パリ不戦条約に違反する一切の取り決め(“満洲国”の承認など)を認めないと、日中両国に向け通告した(スティムソン・ドクトリン)。

 《柳条湖事件》以来、中国各地の対日ボイコット運動、抗日闘争は、いっそう激化し、スティムソンは、日本の行動に対し激しい非難を繰り返した

(『キメラ』,pp.70,210)




 そこで、関東軍高級参謀・板垣征四郎は、
「中国と列国の関心を満洲からそら」すため、《(第1次)上海事変》を惹き起こした:

1月28日 上海で日中両軍の衝突により《上海事変》勃発。
「板垣は上海日本公使館付武官の田中隆吉少佐に依頼して」中国人を買収して日本人僧侶らを襲撃させた。これに激昂した日本軍民の中国人に対する報復的襲撃が発生、日中軍民間の緊張が高まっていた。《上海事変》による中国側「死傷者約4万人、家屋の全半壊は約16万戸に及んだという。」日本軍の攻撃は 3月3日まで続いた。

 この間に、満州では、“満洲国”建国に向けて
「十次にわたる関東軍幕僚による建国会議を開催して建国日程や国制の細目の詰めを重ねた。」 2月26日には、満蒙の中国人有力者を集めて東北行政委員会を組織させ、

3月1日 “満洲国”建国宣言に至った
(『キメラ』,p.70)。そして、その2日後に、上海の日本軍は戦闘中止を宣言するのである。

 まさに、《上海事変》は、満州での傀儡国家立ち上げ工作から、中国官民と列国の眼をそらすための茶番であった。


〇 日本軍のふざけた茶番劇のために、上海の住民は、なんとおびただしい犠牲を強いられたことか...




3月6日 “満洲国”の頭に据えるため天津から連れて来られた宣統帝溥儀(清朝の最後の皇帝)〔ここでも関東軍は、特務機関に《天津事件》を仕組ませ、その戒厳令下に 31年11月10日溥儀を天津から連れ出す謀略作戦をとった。
『キメラ』,p.147〕と関東軍司令官との間で《溥儀・本庄秘密協定》が結ばれた。溥儀は、この協定を、“満洲国”の執政(1934年3月から皇帝)にしてやるための条件として示され、受諾するほかはなかった(本人の自叙伝『我的前半生』では、国務総理が勝手に署名したと書いているが、それは言い逃れの嘘。この本は、戦後中国共産党の抑留下で書いたので、国民党サイドに罪をなすりつける嘘が多い)

 その内容は、“満洲国”全体を日本軍の傀儡とするものだった:


「満洲国は、国防および治安維持を日本に委託し、その経費は満州国が負担する。

 
〔…〕日本人を満洲国参議に任じ、またその他の中央・地方の官憲にも日本人を任用し、その選任・解職には関東軍司令官の推薦・同意を要件とする。」

 また、
「関東軍は、満洲国全域にわたって自由に行動する正当性を与えられ、必要とするあらゆる施設を随意に使用しうる」こととなった。

 関東軍は、
「日本人参議や官吏の選任、解職に関する権限を得たことにより、〔…〕日常的に満洲国の行政をコントロールする回路」を、条約・協定を通じての公式の回路に加えて獲得した。

 “執政”就任後、溥儀は、
「ただ形式的に裁可する以外なんら判断を要する公務がな」いことを知った。『執政の職権とは紙に書かれたものにすぎず、私の手の中にはないということを発見した』と彼は自叙伝に書いている。
(『キメラ』,pp.155,163-166)


〇 「日本国は国防および治安維持を………に委託し、その経費は日本国が負担する。」―――どっかで聞いたことのある話だなあ。。。




9月16日 《日満議定書》調印。9月4日に《リットン調査団》報告書が完成したため、報告書が国際連盟総会に出される前に、既成事実を作ってしまおうという意図で、日本は急遽、公式に《議定書》を交して“満洲国”を承認することにした。

 《議定書》の本文は、@日本の「既得権益」の承認と尊重、A日本軍の“満州国”内への進駐の承認 の2ヵ条だけだったが、「付属文書」とされた《溥儀・本庄秘密協定》の内容を併せると、
「満洲国統治の実権が法的にも日本国に掌握されることは明らかであった。」

 昭和天皇は、関東軍司令官に、「善政を布くよう努めよ」と訓示している。天皇は、誰が“満洲国”の統治者か、知っていたのである。

 “満洲国”の国務総理・鄭孝胥は、《議定書》の調印に抵抗したが、日本側書記官に急かされてようやく調印した。彼は、新聞記者に今後の抱負を尋ねられると、こう答えたという:

『わしは雇れてきた旅役者で舞台監督ではない。また脚本も他人が書き下したもので、わしは唯その筋書を知らされるだけだから、貴問にはお答しかねる』

(『キメラ』,pp.210-212)


10月1日 《リットン調査団》、報告書を国際連盟総会に提出。報告書は、“満洲国”については、
『純粋かつ自発的なる独立運動によりて出現したるものと思考することを得ず』と記していた(『キメラ』,p.210)



〇 
「満洲建国とともに起こった日本の "満洲熱" も、景気の回復とともに一時の熱狂も潮が引くように冷めていった。そして、時あたかも日本国内では、サトウハチロー作詞・徳富繁作曲『もずが枯木で』の呟くようなメロディーが口ずさまれていた―――

   兄さは満洲へ 行っただよ
   鉄砲が涙に 光っただ
   もずよ寒くも 鳴くでねえ
   兄さはもっと 寒いだぞ」

(『キメラ』,pp.207-208)


 ⇒:もずが枯れ木で(戦前版)

☆ もと歌では、歌詞の2行目は、「涙で」ではなく「涙に」だったようです。つまり、「アンサ」が涙をこぼしているのではなく(もしそうだったら検閲に引っかかったでしょう)、こちらの眼が涙でいっぱいなので、鉄砲が光って見えるのです。








  
     宗谷丘陵 稚内









1933年1月13日
「閣議で斎藤内閣は、熱河限定での作戦を諒承した。」

 前年 12月に張学良は熱河省に5個師団を進駐させていた。すでに 1932年初めの段階で、錦州を関東軍に占領されていたが、その西隣の熱河省では、省主席・湯玉麟が関東軍に近づいて“建国宣言”に署名する一方、張学良とも連絡しており、同省の帰属は事実上あいまいだった。

 
「参謀本部が 32年3月に作成した『熱河省兵要地誌』によれば、熱河を獲得するメリットは、」北京・天津方面を攻略・領得する「に際して、東からの作戦が可能になること」にあった。《熱河侵攻作戦》は、日本軍が満州の領有にとどまらず、北京と華北を獲得してゆくために打った布石だった。

 これを受けて国際連盟は、2月6日、日本に対する制裁・除名の方向へ動いた。連盟除名を恐れた内閣と天皇は、《熱河侵攻作戦》を中止しようとしたが、軍部は、“天皇の裁可を受けた以上、中止できない”と言って拒否。やむなく内閣は、国際連盟脱退の方針を固めた。
(『満州事変から日中戦争へ』,pp.163-167)



〇 ↑日本軍部は、天皇の統帥権をも踏み躙って《熱河作戦》を強行したのですが、この“一歩”こそは、日本にとって、国際連盟脱退 → 日中全面戦争へ突入 → 対米開戦 という“滅亡への道”の入口だったのです。

  しかし、軍部が、これほど強い態度に出ることができたのは、背景に、侵略政策に対する国民の支持があったからでした。たとえば、


 長野県
「下伊那地方の郡民大会は脱退を決議した。この地域では、〔…〕24年から国民精神作興運動がさかんであった。

 33年2月11日の大会宣言にいわく、『満洲国の独立と我が正当なる自衛権とを否認し、却て抗日、排貨運動を正当視せんとするが如きは、東洋の平和を攪乱し、国際連盟の精神を自ら没却するもの』だというのであった。」

『満州事変から日中戦争へ』,pp.167-168


 伊那地方では、かつて 1920年代前半には農村青年によって「伊那自由大学」が組織されていた。これは
「社会主義運動に参加していた青年たちが『プロレットカルト』(プロレタリア文化)の立場から進め」(『大正デモクラシー』,p.103)た“先進的”文化・教育運動だった。



 ギトンは、しばらく前に、たとえ天皇が戦争に反対しても、国民の形成する意思が排外的ならば、天皇を踏みにじって侵略へと突き進むに違いない―――と書きましたが…… あれは、おふざけでもジョークでもなかったのです。






  






2月23日
「関東軍2個師団による熱河侵攻作戦は開始された。2週間もたたずに熱河省〔の省都・承徳―――ギトン注〕が陥落し」日本軍は長城を越えて北京に迫った。(『満州事変から日中戦争へ』,p.169)

2月24日 国際連盟総会は、「満洲国不承認決議案」を、賛成42、反対1(日本)、棄権1 で採決、日本代表は退場した。3月27日、日本は脱退を通告、国際的孤立の道を驀進することとなった。

5月31日 《熱河侵攻》に関し、塘沽
(タンクー)停戦協定が結ばれた。もともと、熱河省と河北省の境界は長城の北側(満洲側)にあったが、この停戦協定で、日本は長城の南側(北京側)にある「非武装地帯内への自軍の駐留を強引に認めさせ」長城に日章旗をひるがえさせた。(『満州事変から日中戦争へ』,p.173)










ばいみ〜 ミ



 
同性愛ランキングへ  

.
カテゴリ: 宮沢賢治

前へ|次へ

コメントを書く
日記を書き直す
この日記を削除

[戻る]



©フォレストページ