11/14の日記

07:41
【宮沢賢治】キメラ襲う(2)

---------------
.




  
長城と山海関      






 こんにちは。(º.-)☆ノ











(3)キメラの逆襲






 宮沢賢治の“早すぎる死”につながった 1931年9月18日の東京行きは、同じ日に勃発した《満洲事変》とあまりにもぴったりと時間的に符合しています。

 ギトンの知る限り、この2つの事件を関連させて考えてみた人は、これまで皆無の状態なのですが、ほんとうにこの2つは偶然の一致なのでしょうか?

 前回は、率直に疑問を投げかけてみました。







 《満洲事変》は、国粋主義宗教団体『国柱会』の会員である石原莞爾が、周到な計画の下に実行した謀略であり、日本の軍と国家は、彼に扇動され引きずられて“満洲国”建国に至ったのでした。他方、宮沢賢治もまた『国柱会』会員でした。

 《満洲事変》と宮沢賢治―――この2つの間をつなぐ“呪われたリング”として、『国柱会』の存在がクローズアップされます。

 しかし、田中智学の影響の下で、一直線にエリート軍人への道を歩んでいた石原莞爾とは異なり、賢治は、その動揺する人生行路の中で、『国柱会』との関係も一筋縄でない経緯をたどっていました。


 そこで、今夜は、まず少し時間を巻き戻して、『国柱会』と田中智学の国粋主義運動の経過を振り返り、その中での宮沢賢治の関わりを確認しておきたいと思います。



 日露戦争(1904-05年)の際に
「『世界統一の天業』〔1903年講演、1904年出版、出征兵士数千人に配布―――ギトン注〕で、日本の国体を、日本書紀巻の3の神武天皇紀を基礎にして説明し、自らの国家観を築いていた智学は、1918年には、ロシア革命とデモクラシー」の隆盛に対抗して国家主義的政治運動の側面を強化し、“日蓮主義”を“国体”と強固に結び付け「『国体宣揚に努めねばならぬ、一心不乱に』と呼びかけていた」。1919年には、 「『思想問題解決特別大講演会』を全国各地で開いたのであった」

 智学は、『世界統一の天業』の中で、
「『世界統一の実行者・指導者』は日本国の王統だとする」。天皇は、インド伝説上の『世界統一の王家』である“転輪聖王”の子孫であり、日本国家は仏教(智学の“本化日蓮宗”)による世界征服の使命を負っているとした。

 そして、《シベリア派兵》中の 1919年の講演では、
「シベリヤ・蒙古方面の布教」について熱っぽく語っている。

 1918年末から 1919年3月まで在京した宮沢賢治は、
「国家主義的な熱気に包まれた智学の講演を聞き、」「絶対真理」である『法華経』「の法体たる日蓮大聖人の御語〔おことば〕に正しく従ひ」「田中先生に絶対に服従」する思想(1920年12月2日,保阪宛て書簡[177])を固めて行ったのでした。
秋枝美穂『宮沢賢治の文学と思想』,朝文社,2004,pp.320-322.




 しかし、この時期(『国柱会』の“日蓮主義運動”の「黄金時代」であり最高揚期だった 1918-20年)における智学の膨張主義的煽動は、熱気に満ちた激烈なものではあっても、その内容は多分に観念的でイデオロギー色の強いものでした。

 それに対応して、賢治の熱狂の内実も観念的で、一時の興奮が醒めれば政治的確信は薄れ、宗教的な関心だけが残るようなものだったと思われるのです。

 そして、宮沢賢治は、『国柱会』に身を投じる覚悟で東京へ出た 1921年1月以降、『国柱会館』で冷たくあしらわれ、アルバイト先の印刷所で、『国柱会』信者である小ブルジョワ商工業者(旦那衆)の実像を目の当たりにして、

「主人一人が利害打算の帝国主義者です。
〔…〕主義の点では過激派よりももっと悪い。田中大先生の国家がもし一点でもこんなものならもう七里けっぱい★御免を蒙ってしまふ所です。〔…〕社会の富の平均よりも下の方に居る人はこゝでは大抵過激派で上は大抵国家主義者やなにかです。変れば変ります。」
(1921年1月30日,関徳弥宛て[185])

★ 「七里けっぱい」は「七里結界」の転訛。自分の周囲7里四方に結界を張って、魔障が侵入して来ないようにすること。


 と述べ、『国柱会』の政治運動的側面とは(またおそらく「折伏」による布教の側面とも)袂を分かつことを決意したのです。それ以後(同年4月初めの父との関西旅行が転機になっていると思われます)、在京は続けたものの、もっぱら童謡・童話の創作に専念し、保阪宛て書簡でも、それまでの「折伏」的な調子がぴったりと止んでいます。




 このように、はじめ、観念的な熱狂から『国柱会』に入会し、やがてその政治的側面を切り捨てて信仰の研鑽と日常の実践のみを心がけていたミヤケンにとって、《満洲事変》は、精神の均衡を破壊する衝撃を与えたのではないでしょうか?

 おそらく、《事変》の首謀者である石原莞爾とも連絡のある『国柱会』の機関紙『天業民報』には、《柳条湖事件》発生より以前から、「満蒙」への膨張の世論を煽る記事が満載されていたことでしょう。

 その内容は、相変わらず観念的宗教的色彩の強いものだったかもしれませんが、日本社会一般での陸軍軍人らによる“国防思想普及運動”すなわち侵略思想宣伝では、宗教・道徳意識を超えて、「日本民族の生存に絶対必要」だ式の、民衆の欲望と自己保存本能に直接訴えかける煽動が、軍と国家の名において公然と行なわれていました。

 「満蒙の沃野」を

「頂戴しようではないか。」

「他人様のふところに手をつっこむのは褒めたことではなかろう。しかし背に腹はかえられないではないか」

 という明らさまな略奪行為の唱道が行なわれていたのです。



 『国柱会』・“日蓮主義”運動の宗教的観念的面だけが脳裏にあった宮沢賢治にとって、その政治的現実的表現である軍事侵略の全面発動を目の当たりにしたことは、智学の教説は非武力的なものと信じていた★この童話作家に、激しい衝撃を与えたのではないでしょうか?

★ 田中智学の提唱する“転輪聖王の垂統たる天皇・日本による世界の教化・統一”のプログラムには、それが武力征服によって行なわれるのか、軍事力を用いないで実現されるのかについて、何も述べられていませんでした。いつも、観念的・宗教的な構想だけが高々と掲げられていたのです。しかし、仏教一般の知識によれば、“転輪聖王”は非武力で(太陽を象徴する「金輪宝」の威力によって)諸国を帰服させたとされています(『定本宮澤賢治語彙辞典』)。そこで、賢治もまた、仏教一般の理解に基いて、智学のプログラムを非武力的征服として受け取っていたと思われるのです。















 この 1921年と1931年の間に宮沢賢治に起こった事柄については、述べなければならないことが、あまりにも沢山ありますが、

 いま、それらのうち一つだけ、社会的なできごとをあげておくと、デモクラシーの進展(1925年:男子普通選挙制度の成立、1928年:第1回普通選挙実施)と並行して、“国民精神”に対する締め付けが厳しくなってきたことが注目されます。

 ロシア革命中の1917年に内閣直属「臨時教育会議」設置、1923年震災後に出された「国民精神作興詔書」、“学校演劇禁止”の訓令(1924年)、大葬大礼報道(1925-26年)、「国体観念涵養に関する訓令」(1928年)と続く流れの中で、農学校での宮沢賢治の演劇活動も中止に追い込まれ、『羅須地人協会』の発足に対しても思想警察が介入したのです。

 治安維持法成立(1925年)、改訂拡大(1928年)による左翼への弾圧とともに、それを上回る規模で、国民一般に対する締め付けが強化されてきたことを、見逃すことはできないと思います。



 《満洲事変》と大陸侵略へと向かう日本社会の滔々たる流れの中で、宮沢賢治の活動は、何度にもわたって阻害され、窒息させられて行ったのです。








(4)宮沢賢治は侵略を支持していたか?








 《満洲事変》に際して、日本のすべての言論人が侵略を支持ないし容認していたわけではありませんでした。ごく少数ながら、大勢の流れに掉さして果敢に抵抗した人々がいました。

 おそらく、当時もっとも明確に反対論を述べていたのは、社会主義者でも左翼でもなく、“経済自由主義”を標榜する『東洋経済新報』主筆・石橋湛山(1884-1973 第2次大戦後、自民党総裁・首相[1956-57])でした:






「支那は、我が国にとっては、最も旧い修好国であり、かつては我が国の文化を開いてくれた先輩国でもある。
〔…〕しかるに最近十数年の両国の関係は、残念ながら大いに親善といい得ない。〔…〕

 奉天においてはついに遺憾至極の不祥事
〔《柳条湖事件》を指す―――ギトン注〕まで爆発した。〔…〕争いの根本は、主としていわゆる満蒙問題にある。〔…〕

 我が国民にして従来通り、満蒙における支那の主権を制限し、日本のいわゆる特殊権益を保持する方針を採る限り、いかに我が国から満蒙問題の根本的解決を望むも、その目的はとうてい達し得ぬこと明白である
〔…〕問題の解決が困難なるは畢竟満蒙が支那の領土であるからだから、これを何かの方法で日本の領土に帰せしめたらなどいう者もあるか知れぬ。しかしそれでも同じ事だ、仮りにさような勝手の真似が出来たにせよ、支那国民は断じてそれに満足せぬからだ。

 而して支那国民が日本の満蒙に対する政治的進出を、いかなる形においても肯んぜず、しきりに排日行動に出づるに対して、我が国人は過去の歴史や条約やあるいは支那に対する日本の功績やらを理由として、彼らを非難し、その不道理を説くけれども、そんな抗議は畢竟するに、この問題の解決には無益である。
〔…〕いかに善政を布かれても、日本国民は、日本国民以外の者の支配を受くるを快とせざるが如く、支那国民にもまた同様の感情の存することを許さねばならぬ。

 しかるに我が国の満蒙問題を論ずる者は、往々にして右の感情の存在を支那人に向って否定せんとする。明治維新以来世界のいずれの国にも勝
〔まさ〕って愛国心を鼓舞し来れる我が国民の、これは余りにも自己反省を欠ける態度ではないか。

 
〔…〕今日中華民国の建設に奔走しつつある青年支那人は、例えば明治維新当時新日本の建設に奔走せる日本人が、徳川幕府の〔…〕日本人とは異なった日本人であったが如く、〔…〕彼らの胸中には、清朝時代全く消滅せるかに見えた国民意識が驚くべき強烈さを以て蘇った。それは彼ら中華民国の建設者らが、いかに近年国民教育に意を注ぎ、〔…〕以て国民の愛国心を養い、国家の統一をはかるに努めつつあるかを見てもわかる。〔…〕

 しかるに右の教育について、また我が国人は非難を浴せる。
〔…〕なるほど支那教科書の排日記事は、随分露骨で、また多数である。しかしこれも支那の今日の立場から考えれば、一概に非難し難い。〔…〕支那は今日何事を差し置いても、国民の愛国心を鼓舞し、国家の統一を図らねばならぬ時期にある。これはあたかも我が国が、明治維新の大業を完成するために、国民の間に極端なる国家主義を鼓舞する必要のあったと同様だ。

 而して今日支那が国民の間に国家主義を鼓舞するには、
〔…〕清朝末期以来、諸外国に圧迫せられ、国力の衰微するに至った歴史を以てする以上に、有力なる教材を発見することは困難であろう。〔…〕ただ不幸にして〔…〕敗退の歴史のみあって、光栄ある勝利の記録がないからして、自然その記事が悲憤慷慨的なるはやむをえない。記者は敢えて支那を弁護するではないが、自ら省みて、彼の立場に同情せざるを得ない。

 
〔…〕それらの支那教科書のいわゆる排日記事が、〔…〕事を若干過大に取り扱える節は往々認められる。しかし〔…〕全然虚偽と見做さるべきものはない。

 のみならず彼はまた善く自国の欠点も認め、過去の政治の誤りを説いている。仔細にそれらを読めば、彼らのいわゆる排外排日記事が、単なる排外排日を目的とせるものにあらざることが解せられる。」

石橋湛山「満蒙問題解決の根本方針如何」,1931.9.26./10.10., in:松尾尊~・編『石橋湛山評論集』,1986,岩波文庫,pp.177-182.




 湛山の論法は、ひじょうに明快です。現在の中国の立場と、過去(明治維新期)の日本の立場を入れ換えて考えてみよ、と言うのです。中国は、国家を統一し、国民国家を建設するために、多少無理をして民族主義を鼓舞しているかもしれない。“排日”運動も、その中にあると湛山は見ます。

 しかし、明治維新期の日本だって、近代国家として独立するために無理をして国家主義を鼓舞してきたではないか。

 しかも、“排日教科書”の記述に虚偽は無い。事実日本が行なってきたことを、多少誇張して書いているに過ぎない。

 そして、そのように、今日の中国における民族主義と愛国心の高揚が、正当な基礎を持っている以上、これを押しとどめることはできないし、日本が“満蒙の特殊権益”に固執し続けるならば、衝突は避けられなくなる、と言うのです。





  







「よし支那の統一国家建設運動は、その成功する場合には、我が国に取ってはなはだ不利な事柄だとするも、
〔…〕我は潔く彼の要求を容認し、口先ばかりの日支親善でなくして、実行の上において、彼の志を援け、而して我は別に我が安全と繁栄とをはかる工夫をすることだ。」
「満蒙問題解決の根本方針如何」,1931.9.26./10.10.,『石橋湛山評論集』,pp.184-185.


 すなわち、日本は「いさぎよく」、「満蒙」のみならず中国に持っている全「権益」と「権益」要求を放棄して、中華民国の「統一国家建設運動」を援助すべきだ、と湛山は主張します。

 ここには、「中国のナショナリズムへの理解と、日本の既得権益の放棄を唱える湛山の立場」が表れています(姜克實『石橋湛山』,1994,丸善ライブラリー,p.94)






 これに対して、「満蒙」の「権益確保」に固執する人々は、「満蒙の我が政治的権力を放棄し」たら、我が国の独立は保てなくなる、「国民生活の向上」をはかれなくなると主張する。


「即ち満蒙なくば我が国亡ぶというのである。
〔…〕

 それらの人々は、我が国は人口多く、土地は狭いから、是非そのハケ口を支那大陸に求めねばならぬと説くのだが、しかし人口問題は、領土を広げたからとて解決は出来ぬ。論より証拠、我が国は、
〔…〕台湾・朝鮮・樺太を領土に加え、関東州・南洋諸島を勢力下に置き、満洲の経営にまた少なからざる努力を払ったが、その結果は全く何ら人口問題の解決に役立っていない。将来とてもおそらくは同様だ。〔…〕

 そこでそれらの人々は論鋒を転ずる。そして我が国には鉄・石炭等々の原料が乏しいから、満蒙の地を、その供給地として我が国に確保することが、国民経済上必要欠くべからざる用意だと称うる。これも現在までの事実においては、全く違う。満蒙は何ら我が国に対して原料供給の特殊の便宜を与えていない。

 が仮りに」
将来は原料供給地になりうるとしても、「もしただそれだけの事ならば、〔…〕平和の経済関係、商売関係で、悠々目的を達し得る事である。否、かえってその方が、より善く目的を達し得るであろう。

 第三にまた或る論者は、満蒙なければ我が国防危しと説く。
〔…〕がこれはあたかも英国が、その国防を全くするには、対岸の欧大陸に領土を有せねばならぬと説くに等しい。記者はさようの事を信じ得ない。」

 それでも、私たちは、もし「満蒙」が手に入るのなら、手に入れておいてもいいじゃないか。「満蒙が日本の領土」になれば、何がしか利益はあるはずだ。反対することはないじゃないか‥と思うかもしれない。

「しかし満蒙は、いうまでもなく、無償では我が国の欲する如くにはならぬ。
〔…〕支那全国民を敵に廻し、引いて世界列国を敵に廻し、なお我が国はこの取引に利益があろうか。それは記者断じて逆なるを考える。」
「満蒙問題解決の根本方針如何」,1931.9.26./10.10.,『石橋湛山評論集』,pp.185-187.







 湛山の論文には、「侵略」という語も「帝国主義」という言葉もありません。したがって伏字はなく、もちろん発禁を命ぜられてはいません。

 にもかかわらず、これだけ健全な論評をなし得ているのを見て、私たちは目からウロコの落ちる思いがしないでしょうか?

 侵略を是認しないためには、特別な主義思想の研究も、マスコミに現れない“真相”情報の入手も、必要ではないのです。相手(中国、中国人)の立場を自己と同等に見ること、煽情的な欺瞞を断固として拒否すること、……といった全く常識に基づいた考察で十分なのです。要は、それを、いかなる場合にも、いかなる問題に対しても徹底できるかどうかです。
















 ところで、石橋湛山については、ミヤケンとのつながりにも触れておく必要があります。

 湛山は、日蓮宗の僧侶の息子として生まれました。

 父・日布は、のちに身延山・久遠寺の法主となった高僧でしたが、宗門の寺々を住職として巡歴していたので、息子を、宗門の仲間が住職を務める寺に預けました。湛山は、ここから甲府中学校に入学しました。

 そうして、あの大島正健校長の薫陶を受けることになるのです。湛山は、保阪嘉内よりも数年上級にあたります。⇒:風の谷(3)



「意気盛んな、豪傑はだであった大島校長を通じて、湛山はクラーク博士の『徹底した民主主義教育』の理念と『剛健な開拓者精神』に傾倒し、一生を支配する影響を受けた。」

姜克實『石橋湛山』,1994,丸善ライブラリー,p.4.
 





 湛山の父・日布上人は、久遠寺法主・日蓮宗管長となった 1925年ころ、東北を巡回布教した際に、花巻に立ち寄っています。花巻では、日蓮宗の信者たちが、宮澤恒治氏(賢治の叔父)を中心に教会所を建設中でした。

 もともと花巻には日蓮宗の寺院は無く、第2次大戦前は政府の宗教統制が厳しくて寺院を建立するのは容易なことではなかったので、まず教会所を設けることから始めたのです。

 花巻の日蓮宗信者は、遠野・南部家36代にあたる日実上人を、しばしば身延山から招いて布教を行ない、1924年頃には信者数も 20人を越えていました。

 そこで、花巻銀行の常務取締役だった宮澤恒治氏が顧問になり、氏と行員2名の日蓮宗信者が中心となって、身延山から日蓮の等身大・木像(日朗上人作)を将来し、法華堂を建てて安置しました。そのさい、宮澤賢治が起草した『法華堂建立勧進文』を『岩手日報』に掲載して、寄付を集めました。

 花巻農学校の前の畑を買って、そこに教会所と法華堂を建築し、1928年、南部日実を開基とし恒治氏を発起人として、教会所が正式に設立されました。






遠光山身照寺 花巻市石神 現在は、農学校跡から南へ下った坂の途中に移転している。





 花巻教会所は、第2次大戦後 1946年に日蓮宗「身照寺」に昇格。恒治氏は、寺院昇格以前から檀家総代を務め、1951年には、賢治の父・宮澤政次郎氏も一家で改宗、浄土宗・安浄寺から墓所と代々の骨壺を改葬・移転しました。

 「身照寺」は、もと八戸にあった南部氏由緒の日蓮宗寺院でしたが、さびれて廃寺となっていたのを再興する形で、花巻に移したのでした。(森荘已池『宮沢賢治の肖像』,pp.437-445;『定本宮澤賢治語彙辞典』)
 



「南部政光公に依り八戸根城に創立せられたる遠光山身照寺、圓公山身延寺(勅願所身延山最古の別院)と傳えらるゝ南部家菩提寺を昭和二十一年九月十二日遠光山身照寺と再興せるものなり


身照寺中興開基           
南部家三十六代 大信院日實(花押)」

身照寺「当山開山開基歴代上人之覚灵」側面の由来記

☆ 南部政光:?--1427. 根城(八戸)南部氏第8代当主。南部氏は、もと甲斐国南部郷に勢力を持ち、身延山の日蓮宗とも繋がりが深かった。江戸時代に盛岡藩を持ったのは一支流の三戸南部氏で、別の支流・根城南部氏は遠野へ移って遠野南部氏と称した。





 このように、宮沢賢治と日蓮宗をつなぐ回路は、『国柱会』だけではなく、もうひとつあったことがわかります。こちらの回路は、総本山身延山久遠寺につらなる正統的な信仰であり、『国柱会』とは異なって、政治運動とも“世界征服”とも無関係です。

 宮沢賢治も、1928年以後は少なくとも内心においては、『国柱会』よりも、信仰本位の日蓮宗に近づいていたと思われるのです。

 賢治は、後半生にわたって、日蓮の著作・経文を読誦し、田中智学によるその研究を熱心に読んでいましたが、だからといって常に『国柱会』を通じて日蓮宗に帰依していたと考える必要はないように思います。智学は、優れた日蓮研究★として参照していたのであり、賢治の真意は日蓮と『法華経』そのものに向っていたと考えてよいのではないでしょうか。

★ 田中智学の日蓮研究としての価値は、現在も宗派を越えて評価されており、たとえば、国粋主義とは最も遠い位置にある日本山妙法寺(日本共産党のシンパサイザーであり、反核・反戦平和運動への参加は有名)も、智学の業績を讃えています。











  





〔冒頭原稿なし〕

   何かをおれに云ってゐる

 (ちょっときみ

  あの山は何と云ふかね)

   あの山なんて指さしたって

   おれから見れば角度がちがふ

 (あのいたゞきに松の茂ったあれですか)

 (さうだ)

 (あいつはキーデンノーと云ひます)

   うまくいったぞキーデンノー

   何とことばの微妙さよ

   キーデンノーと答へれば

   こっちは琿河か遼河の岸で

   白菜
(ペツアイ)をつくる百姓だ

 (キーデンノー?)

 (地図には名前はありません

  社
〔やしろ〕のある百五米かのそれであります)

 (ははあこいつだ

  うしろに川があるんぢゃね)

 (あります)

 (なるほどははあ あすこへ落ちてくるんだな)

   あすこへ落ちて来るともさ

   あすこで川が一つになって

   向ふの水はつめたく清く

   こっちの水はにごってぬるく

   こゝらへんでもまだまじらない

   
〔…〕

 (いやありがたう

  きみはいま何をやっとるのかね)

 (白菜を播くところです)

 (はあ今かね)

 (今です)

 (いやありがたう)

   ごくおとなしいとうさんだ

   盛岡の宅にはお嬢さんだのあるのだらう

 中隊長の声にはどうも感傷的なところがある

 ゆふべねむらないのかもしれない

 川がうしろでぎらぎらひかる」

宮沢賢治〔何かをおれに云ってゐる〕, in:『口語詩稿』







 ↑この口語詩は、作品番号・作品日付が無いことから 1927年8月以後であり、北上川畔の“自耕畑”で白菜を作っていることから 1928年以前の作と思われます。

 “自耕畑”で白菜の播種をしていた賢治に、(おそらく、『羅須地人協会』の近くに廠舎のある工兵隊の)中隊長が、地形図を見ながら山の名前を尋ねてきた際の会話ですが、二人のややちぐはぐなやりとりが面白い作品です。

 「琿河」「遼河」は、満洲にある川。「遼河」は「満州南部を流れる大河。内蒙古自治区→吉林省→遼寧省を流れ、渤海湾に注ぐ」(Wiki)。「琿河」は、ネットで検索すると「松江省に位置する」と出て来ます。「松江省」は、現在の延辺自治区〜牡丹江市。しかし、「遼河」の支流「渾河」(遼寧省の撫順、瀋陽を流れる)の書き誤りかもしれません。








遼河デルタ 中国遼寧省







 ともかく、賢治は、いきなり質問してきた軍人を快く思わず、


「  何かをおれに云ってゐる

   
〔…〕

 あの山なんて指さしたって

 おれから見れば角度がちがふ」


 などと呟き、わざと訛った発音で山の名を答えます。


 「キーデンノー」は「きゅうてんのう」の訛り。花巻近郊にある「旧天王山」。


 中隊長は、地図に出ていない変な名前を言われて、目を白黒させています。地形図には、この小さな山の名前は書いてありません。



「  うまくいったぞキーデンノー

   何とことばの微妙さよ」






 中隊長をケムに巻いた賢治は得意です。自分が、中国の農民になって、中隊長は進駐してきた日本の軍人。あたりは満洲の荒野で、北上川は大陸の大河です。無遠慮にやってきた異国の士官を、中国の農民が翻弄する図を想像しているのです。

 白菜は、たしかに華北〜満洲が原産地で、当時まだ日本では栽培が始まったばかりでした。





「  あすこへ落ちて来るともさ

   あすこで川が一つになって

   向ふの水はつめたく清く

   こっちの水はにごってぬるく

   こゝらへんでもまだまじらない」


 「旧天王山」の向こうから流れて来る猿ヶ石川が、“イギリス海岸”の北で北上川に合流することを言っています。北上川の濁水に対し、猿ヶ石川の水は澄んでいるので、温度の違う2種類の水が、合流した後も交わることなく並行して流れるようすが見てとれます。

 数キロ下流の、賢治の“自耕畑”のあたりでも、まだ分離して流れていると言うのです。

 これは、「中隊長」と「作者」―――満洲に進出した日本の軍民と、中国人農民との、隣り合わせに立ちながら決して交わることのない疎遠な関係を暗示しています。





 かつて、『春と修羅・第1集』制作当時には、ともすれば自他の関係があいまいになるセンチメンタリズムに陥っていた賢治の、これは何という進歩でしょうか。

 妹の死に際しての“自他分離”の体験、“樺太体験”によるカルチャー・ショック、“学校演劇禁止令”、『羅須地人協会』活動への思想警察の介入、3・15弾圧と労農党解散による衝撃、そして生徒が次々に召集されて外地へ送られたことによる『協会』活動の崩壊…… これらの体験が、賢治を、この地点にまで登らしめていたのです。






  







 それでは、宮沢賢治は、《満洲事変》に対しても、消極的にではあれ抵抗していたと言えるのでしょうか?

 これは、たいへん難しい問題だと思います。




 たしかに、死の直前に至るまで、賢治は旺盛な創作活動に衰えを見せてはいませんでした。その晩年の膨大な作品の中で、日本軍、戦争、外征―――こういったものを讃美した部分は、まったく見あたらないのです。

 しかし、それが意識的な沈黙ないし抵抗であったかと言うと……評価はたいへん難しいと思います。

 ↑上の「キーデンノー」の詩にしても、単なる機会的なユーモラスな洒落にすぎないのか、それとも、日本の軍事的膨張とアジア諸民族(中国人農民、アイヌ、ギリヤーク、朝鮮王朝の軍勢、白熊の皮を着たシベリア・パルチザン、韃靼人の剣士、‥)との“たがいに交わることなき関係”について深い思索をめぐらしていたのか?―――かんたんには読みとれません。




 そこで、最後に、《満洲事変》から2年後、満洲駐在軍の兵士に送った賢治の手紙を見ておきたいと思います:



「いろいろそちらの模様に就ては、弟への度々のお手紙また日報等に於る通信記事、殊に東京発刊の諸雑誌が載せた第二師団幹部とか、従軍記者達とかの座談会記録に仍て読んで居りますが、実に病弱私のごときただ身顫ひ声を呑んで出征の各位に済まないと思ふばかりです。

 然しながら亦万里長城に日章旗が翻へるとか、北京(昔の)を南方指呼の間に望んで全軍傲らず水のやうに静まり返ってゐるといふやうなことは、私共が全くの子供のときから、何べんもどこかで見た絵であるやうにも思ひ、あらゆる辛酸に尚よく耐えてその中に参加してゐられる方々が何とも羨しく(と申しては僣越ですがまあそんなやうに)感ずることもあるのです。

〔…〕既に熱河錦州の民が皇化を讃へて生活の堵に安んじてゐるといふやうなこと、いろいろこの三年の間の世界の転変を不思議なやうにさへ思ひます。

   
〔…〕

 私もお蔭で昨秋からは余程よく、尤も只今でも時々喀血もあり殊に咳が初まれば全身のたうつやうになって
〔…〕しかしもう只今ではどこへ顔を出す訳にもいかず殆んど社会からは葬られた形です。それでも何でも生きてる間に昔の立願を一応段落つけやうと毎日やっきとなってゐる所で我ながら浅間しい姿です。

 十月は御凱旋の趣、新聞紙上にも発表ありましたが、そちらとしてもだんだん秋でもありませうし、どうかいろいろ心身ご堅固に祖国の神々の護りを受けられ、世界戦史にもなかったといはれる此の度の激しい御奉公を完成させられるやう祈りあげます。まづはお礼まで申し上げます。」

1933年8月30日 満洲派遣歩兵第三十一聯隊第五中隊、伊藤與藏宛て[484a]




☆ 《柳条湖事件》から 1933年までの経過⇒:キメラ襲う(3)







 伊藤與藏氏は、『羅須地人協会』の会員で、合奏や衣料品製作にも参加しています。生家と実家が『協会』のすぐ近くで、賢治の“自耕畑”と隣合って畑を持ち、1928年の第1回普通選挙では、賢治に誘われて労農党候補の演説を聞きに行っています(『新校本全集』「年譜」)

 賢治の弟・清六氏とも文通のあったことが↑上の文面からわかりますが、宮沢兄弟と親しい間柄だったようです。しかし、この手紙は、満洲派遣軍に所属して出征中の伊藤氏に送られたものであり、検閲もあり、また軍務中の相手への配慮から、賢治は胸の内を正直に書いてはいないと思われます。

 この年1月の年賀状では、宛先が「錦州憲兵隊、伊藤與藏」となっており、その後、伊藤氏は、長城の北京側に「調定線」を設定して長城を警備中に、この手紙を受け取ったそうです。まさに、最前線に配属されていたことになります。

 ↑最後の段落で、「世界戦史にもなかったといはれる此の度の激しい御奉公」と書いているのは、この戦争の評価としてはおおげさすぎますが、伊藤氏の置かれた立場(思想偏向を疑われてか、最も厳しい場所に投入された)への同情として見れば、よく理解できます。

 最初の段落の「ただ身顫ひ声を呑んで出征の各位に済まないと思ふばかりです。」は、この手紙の下書稿(賢治の遺筆の中に残っていました)では、「ただ身顫ひを呑んで‥」でした。これも、意に反して出征している教え子たちに対する賢治の悔しい気持ちが滲み出ています。伊藤氏と同じ部隊に、『岩手国民高等学校』(1926年)で賢治の「農民芸術論」講義を聴講した教え子などもいることが、上の手紙の省略部分に書いてあります。

 第2段落の「全軍傲らず」は、下書きでは、「軍規厳に」でした。しかし、「万里長城に日章旗が翻へる」というのは、もともと省界は長城の北側にあるのに、日本軍は長城を越えた南側(北京側)まで占領して停戦ラインを設定したわけで、これ自体が日本軍の度を越えた侵略性を示しています。

 これが重大なのは、仮に日本軍の表向きの主張を認めて“満洲国”が正当な国家だったとしても、“国境線”と長城を踏み越えて北京側に侵入するのは明らかな侵略行為だからです。(詳しくは、キメラ襲う(3)の《熱河侵攻作戦》を見てください)

 そして、賢治が新聞等で日本軍の動きを知った上で書いていることも行論から明らかです。

 また、第2段落と第3段落の間は、下書きでは、「我々が永い間夢に見た満蒙熱河の民が皇徳を讃えて生活の場に安んじてゐる‥」となっていました。これに、下書き以後に書き加えられた「参加してゐられる方々が何とも羨しく‥」を併せて読むと‥‥ いったい賢治は、どれだけ事態を理解しているのだろうかと思ってしまいます。

 たしかに、子どもの時から、ことあるごとに外地への進出を夢見るように叩き込まれてきたのかもしれません。高等農林の関西修学旅行も、皇室関係(京都御所、桃山御陵など)と農事試験場を、息つく間もない過密スケジュールで巡らされています。しかし、だからといって、‥労農党の応援に誘ったこともある教え子に、この文面は無いのではないでしょうか?。。。

 次の段落の「殆んど社会からは葬られた形です。」は、賢治自身は、この「この三年の間の世界の転変」からは離れた位置にあることを感じさせ、ややほっとさせます。

 「昔の立願を一応段落つけやうと‥我ながら浅間しい姿です。」は、下書きでは「昔の一念を通さうと‥あなた方に比べては実に滑稽でお恥ずかしくって話になりません。」でした。

 「昔の一念」「昔の立願」とは、『羅須地人協会』などの理想に燃えた活動を指すのでしょう。下書きのままでは、まるで敗北宣言ですから、表現を変えてよかったのだと思います。ともかく、「時々喀血もあり殊に咳が初まれば全身のたうつやうにな」りながらも、農民芸術(詩作の推敲)と農業技術指導に心血を注ぎ込んでいるようすは伝わってきます。






 さて、‥以上を読んでみて、宮沢賢治は、《満洲事変》・中国侵略戦争の開始と、それに伴う社会の「転変」(軍事ファッショ化)に対し、消極的なりとも抵抗しているのか?‥それとも、しぶしぶながら、これを理想化して受け入れようとしているのか?……… まだ、ちょっと結論は出せないと、ギトンは思っているのです.....

















 ところで、『キメラ襲う(1)』の最初に出した「犬」という詩ですが、

 この 1933年、賢治が亡くなった後で、花巻農学校で彼の親しい同僚だった堀籠文之進氏が、追悼文「宮澤さんを憶ふ」の末尾に、この詩の全文を掲載しているのです。

 生前出版された詩集『心象スケッチ 春と修羅』の中で、この詩は、あまり目立たない作品ですが、とりたててこれを載せた堀籠氏の意図は何だったのでしょうか?





「いつもあるくのになぜ吠えるのだ

 ちやんと顔を見せてやれ

 ちやんと顔を見せてやれと

 誰かとならんであるきながら

 犬が吠えたときに云ひたい

 帽子があんまり大きくて

 おまけに下を向いてあるいてきたので

 吠え出したのだ」





 堀籠氏は、「宮澤さんを憶ふ」の中で、


「真夜中に町となく里となく彷徨ひ歩くのが好きであつて夜歩をは恐しいと人々が云ふが俺の恐しいものは人間ばかりで夜歩きは何も他の事に気が散らないで感じ
〔詩想―――ギトン注〕をまとめるのに最もよいと口々にして居られた。」


 と書いています。

 「俺の恐しいものは人間ばかり」―――賢治がもっとも恐れたのは、“キメラ”のような人間たちの行ないだったのかもしれません。。。









ばいみ〜 ミ



 
同性愛ランキングへ  

.
カテゴリ: 宮沢賢治

前へ|次へ

コメントを書く
日記を書き直す
この日記を削除

[戻る]



©フォレストページ