11/09の日記

23:55
【シベリア派兵史】日露戦争から満州事変へ(2)

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フランス外務省 1928年、パリ不戦条約はここで調印された。  






 こんばんは。(º.-)☆ノ








(4)不戦条約と《満州事変》






 ヴェルサイユ講和条約の締結(1919年6月)、国際連盟の成立(1920年1月)によって、第1次世界大戦の戦後処理は、いちおう完了し、

 大戦終結直前に開始された《シベリア派兵》も、最後には日本軍単独の干渉戦争であることが誰の眼にもあきらかになったすえに、列国の慫慂によって全面撤退で終結しました(1925年)。

 そして、日本国内では普通選挙法と治安維持法が公布され(1925年4-5月)、第1回普通選挙の実施(1928年2月)と、共産党・無産政党の大弾圧(同年3月15日)を経た 1928年8月、15ヶ国(のち65ヶ国が加入)によって《パリ不戦条約》が調印されました。

 翌年10月以降に諸国を襲う《世界大恐慌》の勃発は、まだ予想されてもいませんでした。






「     不戦条約

 1.締約国は国際紛争解決のため,戦争に訴うることを非とし,かつその相互関係において国家の政策の手段としての戦争を抛棄することを,その各自の人民の名において厳粛に宣言す(第1条).

 2.締約国は相互間に起こることあるべき一切の紛争又は紛議は,其の性質又は起因の如何を問わず,平和的手段に依るの外,之が処理又は解決を求めざることを約す(第2条).」

加藤陽子『満州事変から日中戦争へ』,岩波新書,p.57.





 ↑どこかで聞いたことのある文句が並んでいると思いませんか?w

 日本国憲法・9条1項は、


 「
〔…〕戦争〔…〕は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」


 となっています。



 《不戦条約》は、(文言の上では)それよりも広く、「国際紛争解決のため」および「国家の政策の手段としての戦争を抛棄する」と宣言していたのです。

(《不戦条約》は現在も有効であるという説と、実質的には国際連合憲章2条に吸収されたとの見解とがありますが、いずれにしろ現在も、その内容は「確立された国際法規」(憲法98条2項)の一部です。wikipedia の説明は不正確。)


 

 たとえば、世界のどこかで局地戦争が起きたとき、"世界平和を維持するために" その戦争に介入することも、「国家の政策の手段としての戦争」です。"世界平和の維持" を "集団自衛権の行使" と言い換えても、やはり国家の選択する一政策に過ぎないでしょう。

 なぜなら、地球の裏側で何が起きようと、"集団自衛権の行使"など糞喰らえ、"我関せず"として局外中立をまもることも、国家の政策としてはありうるからです。




 じっさい、《不戦条約》が締結された当時のアメリカは、《モンロー主義》の原則(1923年)に従って、ヨーロッパや南北アメリカ大陸の諸国間の紛争に介入しない外交方針でした。

 そこで、アメリカは、《不戦条約》が例外として許容する「自衛戦争」の範囲についても、厳格に狭く解していました:




「アメリカのケロッグ国務長官は、
〔…〕自衛権の中身については『攻撃または侵入に対して、その領土を防衛するの自由』だけである、と狭く解釈していた。ケロッグは、〔…〕『自衛権の行使を主張する国は、国際世論と〔ギトン注―――この〕条約の締約国の前で自分の行為を正当だと証明しなければならない』とし〔…〕ていた。
『満州事変から日中戦争へ』,p.56.


 締約国の相互牽制と国際世論によって、「自衛権」の濫用を制限しようと考えていたのです。




 これに対して、アメリカと対照的だったのはイギリスで、


「イギリスは、不戦条約第1条に留保を付した。『英国政府は世界のある地域において防衛及び保全が、英国のため特別かつ近接の利害関係あることに注意を喚起せんとす。
〔…〕これらの地域の攻撃に対して防護することは英国にとりては自衛手段なり』として、明言は避けたがエジプトとペルシャ湾についての行動の自由を留保した。」
op.cit.,p.57.





 《不戦条約》の当時、イギリスは“7つの海を支配する大帝国”でしたし、アメリカはまだ、そうではなかったのです。

 最近のように、アメリカのほうが“大帝国”になってくると、「不戦」の解釈も行動も、半世紀前とは違ってくるわけですw
















 ともかく、《不戦条約》調印に際して、イギリスなどは、独自の「留保」を付して条約に加入しました。

 そして、当時の国際法によると、多国間条約では、ある締約国が付した「留保」は、全締約国に適用されると解釈されていました。そこで、日本は、独自には何らの留保を付すことなく、無条件に《不戦条約》の調印に加わったのでしたが、

 問題は、《不戦条約》の許容する「自衛権」の範囲で、日本は、自国の「特殊権益」☆の領域だと主張する「満洲」「満蒙」に対して、軍事行動をなしうるのか?‥という点でした。

☆ 「特殊権益」の「特殊(special)」とは、"主として条約により、その国だけに排他的に認められた" 権利を意味する国際法用語です。 







 《不戦条約》批准が迫った 1929年5月、外務省は、「中国」と「満蒙」に関して、3つのケースを想定して、議論をまとめていました。(op.cit.,pp.58-59)




 〔ケース1〕

 「中国に在住する日本国民を保護するための出兵」は、「学説上も実行上も」「自衛権の発動」として「正当化できる」、と外務省の文書は言います。

 たしかに、この"居留民保護のための出兵"という口実を、日本は、《シベリア派兵》においても、また3回の《山東出兵》(1927-28年)でも唱えていましたが、‥しかし、「学説上」異論が無かったわけではありません:

 1927年、吉野作造は、《山東出兵》に関して、


「居留民の保護という
〔出兵の―――ギトン注〕理由は、まったく独立国家としての中国の立場を無視した日本の独善的な理屈に過ぎないと吉野は考えた。〔…〕もし仮に日本で争乱が起こった場合に、中国や米国は当然の権利として在留自国民の保護を理由に日本に出兵することができるであろうかと。〔…〕

 居留民という資格で『よその国に居て、而もその国の市民が血みどろになって国運改新の悪戦苦闘を続けて居る真中に踏み留つて、己の躯には一指をも触れさせまいとするのは、余に虫のよ過ぎる要求ではあるまいか。生命財産が惜くば速に一時引き揚げたがよい』」

松本三之介『吉野作造』,pp.317-318.


 と述べて、「居留民保護」は、日本が自分勝手な派兵を正当化するための口実に過ぎないことを突いていました。



 〔ケース2〕

 「在満の日本権益擁護は自衛権で説明できるか。」―――この点になると、「自衛権」による正当化の説明は苦しくなります。

 「満蒙権益の擁護は、自衛権の学説上から無条件に正当だと説明できない」
。しかし、「特殊権益」そのものについては、英米仏3国に「承認されている以上」、「権益擁護の措置は自衛とはいえない」けれども、それも「『列国の承認を得たるものと見做すを得べし』」。こうなると、ほとんど詭弁です。

 しかも、「特殊権益」が、英米仏3国に「承認されている」とする前提自体、外務省内部でさえ意見が一致してはいませんでした。たとえば、亜細亜局長は、28年7月の公文書で、「英米など列国は、これまでにも、日本の満蒙特殊利益などを承認したことなどない」とし、


「『現に最近英国外相さえ下院労働党議員の質問に答え、英国は日本が満州において、なんら特殊の利益を有せるものと認めず、と述べ居る程。』」

『満州事変から日中戦争へ』,p.60.


 と書いています。



 〔ケース3〕

 「日本は満蒙権益のため、治安維持にあたるのだと主張できるか。」

 このケースについては、外務省も、「自衛権」によって正当化することはできないと率直に認めていました。「満蒙」は、中国という他国の領土である以上、そこで治安維持にあたることができるのは、中国の官憲か、たかだかその依頼を受けた者に限られるからです。★

★ ちなみに、ごく最近も、日本では、この当然の道理をわきまえない人たちが、ある野党には居るということに、驚かされました。彼らは、バングラデシュでのテロル勃発に際して、自衛隊を早く治安出動させよ、派遣せよと、政府に要求していたのです!‥‥‥






 こうして、政府は、将来日本が満州で、自らの「権益」を確保し、あるいは拡げるために軍事行動に出た場合、《不戦条約》違反だとの抗議に対しては、「自衛戦争」だと取り繕って答える方針でいました。



 関東軍では、1929年7月に作戦参謀・石原莞爾を中心に「満蒙領有計画」が策定され、1930年を通じて、「領有」した軍事占領地に対する統治方法の研究が進められました。31年5月頃からは、それと並行して、軍事行動を開始するための謀略(柳条湖爆破事件)が計画されて行ったのです(『満州事変から日中戦争へ』,p.101;山室信一『キメラ――満洲国の肖像』,増補版,2004,中公新書,pp.28-29,35-36)

 しかし、陸軍中央は、急激な軍事行動の拡大を「自衛行動」として説明するのは難しいことを、《柳条湖爆破事件》の実行以前から気づいていたようです。

 《事件》4日後に関東軍で開かれた参謀会議で、中央から派遣された建川美次少将は、中国側の張学良「政権を潰し」、清朝皇帝を立てて親日「政権を樹立するを得策とすべし」と提議し、関東軍は、それまでの「満蒙領有」つまり単なる軍事占領の構想から、満州を日本の傀儡国家として中国から分離独立させる方針へ転換します(『キメラ』,pp.59,139)


 これは、アメリカ大統領ウィルソンの提唱(1918年)によって第1次大戦後の世界潮流となった「民族自決権」を逆手に取った戦略でした。すばやく短期間に満州全土を占領したうえ、政治的実力のない旧皇帝を担ぎ出して、"満州民族の独立" を宣言させる。そうすれば、日本軍の占領は、"民族自決"政府の依頼に基く秩序維持活動として正当化されると考えたのです(『満州事変から日中戦争へ』,pp.16-18)

 (最近、米軍や日本の自衛隊が外国でやっている "秩序維持活動" も、論理はこれとよく似ているように思いますが‥ 「満洲国」の場合は、ずっと幼稚で子供だましの細工です)






  
    柳条湖 《満州事変》鉄道爆破現場










(5)「自衛」か「侵略」か





 《満州事変》は、1931年9月18日、"満州"★の遼寧省・奉天(瀋陽)柳条湖で起きた南満州鉄道・線路の爆破をきっかけに、

 自ら爆破を起こした日本軍(関東軍)が、これを、中国側軍閥による攻撃だと主張し、またたくまに "満州" 全域に戦線を拡大し、翌1932年2月18日には中国からの「満州国独立」を宣言しました。

★ 「満州」(正確には「満洲」, Manchuria)とは、中国ないし満洲民族が用いた地名ではなく、中国の「東三省」(遼寧省、吉林省、黒竜江省)にあたる地域を、西欧諸国と日本が呼んだ名称です(『満州事変から日中戦争へ』,pp.19-21)。その点で「支那,China」という呼称に似ています。しかし、以下では慣用に従って「満州」を地域名として使用することにします。


 《満州事変》の特徴は、日本の軍部と官僚によって周到に計画され準備された戦争であったという点にあります。

 《満州事変》の謀略は、関東軍高級参謀・板垣征四郎、作戦主任参謀・石原莞爾を中心として、計画・遂行されました。日本軍部は、数年来、首謀者を何度か交替させながら、一度は謀略に失敗し(張作霖爆殺事件:1928年6月)、試行錯誤の末、最終的に板垣、石原らにより、満州における中国領土僭窃計画を成功させたものと言えます。





 ところで、このような日本軍の軍事行動は、《不戦条約》に抵触するおそれはなかったのでしょうか?‥抵触するとわかっていて、あえて軍事行動を起こしたのか?‥




 《不戦条約》は、「自衛戦争」と、イギリスの「留保」したエジプトなどの地域を除いて、すべての戦争を禁止している、‥‥"世界平和のため" だろうと何だろうと、すべて禁止している―――ということは、当時はすべての国によって認められ、まったく異論はなかったのですが、

 問題は、そこで言う「自衛戦争」の範囲でした。






 ↑前節で述べたように、アメリカは「自衛戦争」の範囲を、

「攻撃または侵入に対して、その領土を防衛する」
場合に限る――――

というように狭く解していたのですが、それはあくまでもアメリカという一締約国の解釈であって、《不戦条約》には、「自衛戦争」の明確な定義は無いのです。






 この点について、アメリカのケロッグ国務長官が関係各国に送った『覚書』(1928年6月)で、↓つぎのように述べている点が注目されます:





 もし、条約に「自衛戦争」の定義規定を置いてしまうと、
「『無法なるものにとりては、協定せられたる定義に適合するよう事件を捏作すること、極めて容易なるが故に、条約を以て自衛の法律的概念を規定することは、平和のため利益に非ず。』

 
〔…〕無法者による悪用を避けるため、あえて自衛権概念を法律的に明確に規定しないとの言明は注目にあたいする。『定義に適合するよう事件を捏作する』とは、3年後に起こされた関東軍の謀略〔《満州事変》を指す―――ギトン注〕を正確に予言したかのようにみえる。」
『満州事変から日中戦争へ』,p.18.








 じっさい、《満州事変》を計画・準備するにあたって、日本の政府と軍部がもっとも苦心したのは、いかにして欧米諸国による非難と制裁・介入を避けるか―――"不戦条約違反" との非難を、いかにして避けるか、という点でした。


 政府・外務省のほうは、「自衛権」で答弁する方針を固めていましたが、その論理は詭弁と言われてもしかたないような苦しい答弁でした。



 これに対して、軍の一部、じっさいに《満州事変》の謀略を立案していた石原莞爾らは、↑上記のアメリカ代表ケロッグの意図を知ってか、知らずか、「自衛戦争」を装う方法では、《不戦条約》違反の非難を免れないと、見抜いていたようです。



 そこで彼らが考え出したのは、軍事行動開始と同時に、できるだけ早く清朝皇帝を担ぎ出し、“満州民族”の国家として「満洲国」の独立宣言をさせ、《民族自決》原則に基づいて“満州民族”が中国から独立したかのような体裁をとることでした。



 (じっさいに、《満州事変》と「満州国」建国ののち、中華民国の提訴により審査に当たった『リットン調査団』の報告書 [32年10月1日,連盟理事会に提出] は、日本の主張する「自衛権行使」と「民族自決」を、両方とも否定しましたが、

 その一方で、日本軍の行動を、《不戦条約》違反、連盟規約10条[領土保全]違反[侵略]等々と断定することは、避けたのでした。)






柳条湖・鉄道爆破現場を調査するリットン調査団









 そこで、日本軍部・関東軍の計画としては、満州での軍事行動開始後、できるだけ早く満州全土を制圧して、「満州国」傀儡政府の要人となるべき人々が、安心して集まって来られるように整える必要があったのですが、


 だからといって、最初から大軍を派遣することなどできません。そんなことをすれば、あからさまな「侵略」として指弾を浴びることになります。そうなれば、《不戦条約違反》を盾に、アメリカが軍艦を送って介入して来ることは避けられないでしょう。(『満州事変から日中戦争へ』,pp.15-16)



 したがって、軍事行動の開始は、現に満州に駐屯する関東軍の兵力(1万400名)だけで起こさなければならない。対する中国側は、奉天軍閥・張学良の率いる軍だけでも19万名。(op.cit.,p.5)満州北部には、さらに他の軍閥軍もあります。

 たった1万の兵力で、19万の張学良軍を攻撃して、またたくまに満州全土を制圧するために、石原莞爾らのとった戦術は、張学良と、国民党・南京政府の蒋介石が、ともに首都を空けて内戦戦闘に出かけている留守を突く奇襲作戦だったのです。

 1931年9月13日から、蒋介石は、反蒋連合軍の「広州国民政府」と戦うために湖南省へ遠征していました。他方、張学良は、華北の石友三軍の反乱に対処するため、精鋭11万5000を率いて長城の南へ出かけていました。そもそもこの反乱は、張軍を引き付けるために、日本軍特務機関が石を買収して起こさせたオトリ作戦でした。



 こうして、奉天には、司令官のいない張軍の兵士7万5000だけが残り、南京の国民党政府が急を聞いても駆けつけて来られない隙に、9月18日、柳条湖の鉄道爆破は起こされたのでした。

 







ばいみ〜 ミ



 
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カテゴリ: 日本近現代史

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