11/03の日記

12:55
【シベリア派兵史】よい本が出ました!!

---------------
.




  






 こんばんは。(º.-)☆ノ





 《シベリア派兵》については、100年たった現在も適当な概説書すらないと嘆いておりましたが‥

 最近やっと、一般向けの良い本が出ました:






麻田雅文『シベリア出兵―――近代日本の忘れられた七年戦争』,中公新書 2393,2016年9月.







 《シベリア派兵》をテーマとした一般向けの歴史書(小説、ノンフィクションを除く)としては、おそらく現在入手可能な唯一のものでしょう。

 まだ、ざっと拾い読みしただけですが、著者の姿勢はわりあい客観的で、また、さまざまな問題への目配りが効いています。なによりも、1925年の撤兵・日ソ国交回復までの《派兵》の全過程をカバーしている点は、専門書としても本書が初めてではないでしょうか。

 著者が岩手大学(盛岡高等農林学校の後身!!)の先生、というのも好感が持てます。








 著者が、この《派兵》を客観的な眼で見ていると思ったのは‥、たとえば、連合国の派兵目的です:

 それは、社会主義革命への干渉でも、人道主義的な捕虜救出でもなく、ロシア革命で穴が開いた“第1次大戦の東部戦線を再構築するため”だったと―――――ギトンが考えていたのと同じことが、この本に書かれているのを見て感動しましたw






 ソ連がまだ倒れていなかった時代には、ソ連ではもちろん、《シベリア干渉》は連合国=資本主義諸国が、社会主義のソ連を潰そうとして起こした干渉戦争だ―――という公式が罷り通っていたわけで、

 その影響を受けた日本や欧米の歴史学界でも、“革命干渉が目的”のイデオロギーに基づく派兵だったと信じられていました。《シベリア派兵》プロパーでない通史の類には、いまでもそう書かれているものがあります。


 しかしそれは‥、いわば“結論先にありき”みたいなことではないかと思うのです。

 ソ連崩壊後、そうした歴史認識を塗り替えようとする動きが、ロシアなどでは出てきたようで、Wikipedia など、項目によっては、ソビエト赤軍に批判的な叙述が見られます。しかし、そちらのほうも‥、やはり“結論先にありき”で、かつてのイデオロギー史観を逆立ちさせたようなものが目立ちます。

 ‥本来は、下からひとつひとつレンガを積むように個々の事実の解釈を積み上げて行くのが、歴史認識の王道であるはずなのに、そうなっていないのは‥‥、やはりそれだけの積み重ねをするには、大ぜいの学者の関心と、テマとヒマが必要なわけでして、《シベリア派兵》のようなマイナーな領域――しかも資料は膨大かつ未整理―――では、主な資料を読み直すだけでも相当に時間がかかってしまうのだと思います。








 すでにちょっと書きましたが、アメリカでは派兵反対論・慎重論が非常に強かった。なぜなら、アメリカの支配層にとってロシア革命は、とりあえずは経済発展を阻害していたロシア帝国の体制が壊れて、ロシアという広大な国家が、貿易市場としても、投資市場としてもたいへん有望になったからです。軍隊を送り込んで荒らし回りでもしたら、ロシアの人々に嫌われて、Made in USA を買ってもらえなくなります...

 いわば、人を動かしたのは、イデオロギーよりも“金儲け”だったのです。

 この・突然に開かれた“おいしいロシア”を、イデオロギーうんぬんにこだわって、みすみす敵に回して逃してしまうようなことを、アメリカ人がするわけはないのです。

 いや、アメリカだけではない。

 ヨーロッパでも、国内の意見はさまざまある中で、各国の支配層を構成する人たちの思考は、やはり、 共産主義政権だから経済取引をしない‥などとは考えなかったはずです。

 ‥じっさい、レーニンのソ連はまもなく政策を変更して、投資も貿易も喜んで受け入れるようになりました(NEP:新経済政策 1921-1928)。NEP(ネップ)については、少なくとも連載の1回を当てる必要がありますが、社会主義を目指していたボルシェヴィキ政権が、農民の反乱や農民の反革命・白軍への参加を抑えるために、つまり農民をなだめるために、一時的にとった資本主義的経済・外交政策―――と、一般には言われています。

 しかし、↑この説明の「一時的に」という語は、ソ連型の“社会主義への道”が致命的な錯誤ではなかったことを前提とする点で、正確ではありません。

 ネップに政策転換する時、レーニンは、「これからは、もっと日和見主義になろう!」と演説しています。《10月革命》の暴力的・統制的路線を、自ら否定してネップに移行しているのです。「一時的」な戦術ではなく、資本主義との平和共存を見通した恒久的路線転換と考えなければなりません。ところが、まもなくレーニンが死亡すると、ソ連は《10月革命》の戦時共産主義に戻って、権力統制を強め(
“スターリニズム”などと言いますが、気の狂った指導者ひとりの責任ではありません)各国の共産党もその指導に盲従し、半世紀後にみな“滅亡”するのです。詳しくは ⇒石堂清倫『20世紀の意味』,2001,平凡社,pp.26-28,41-44. 参照。



 どんな政権であれ、国民・人民を味方にするためには、経済振興策が必要なのです
(そもそも10月革命が成功したのは、社会主義の教条を覆して、農民に土地改革・農地分配を約束したからだと言われています)。それには、帝政と戦争で荒廃したロシアには、外国資本の導入がぜひとも必要でした。




 “イデオロギー優先”の冷戦思考は、第2次大戦後 40年間だけのもので、前の時代にも、後の時代にも通用しないと、ギトンは思っていますが、詳しくはこちらを⇒:両極端の時代(3) . 両極端の時代(4)










ウラジオストック








 ちなみに、日本の派兵目的は―――すでに書いたように⇒:【シベリア派兵史】派兵と住民と若者たち―――これまたイデオロギーなどではなくて、シベリアの領土(あわよくば‥)と権益です。だからこそ、本格的な兵力を送り込んで、現地に傀儡政権を打ち立てようと画策するのです。

 日本が、欧米の先進資本主義国――帝国主義諸国と少し違っていたのは、その“経済進出”が、民間企業や個人の主導によるものでなく、つねに国家と軍による先導と援護を必要とするものだったという点です。これは、おそらく日本の戦前資本主義の前近代性・脆弱性、それゆえの政商的性格と結びつくでしょう。‥《シベリア派兵》終結後の 1926年に関してですが、↓次のような統計データがあります:





「26年の統計は、日本の対外投資の 68% が満州に向けられ、」
満州への「投資額の 93% が国家関連であり、私企業のそれは 7% に満たなかったことを教える。」

「日本が満蒙に獲得した権益は、
〔ギトン注―――イギリス、オランダ等の〕東インド会社など、私企業の獲得した権益と異なり、戦勝による講和条約によって規定されたものだった。」

「国家関連であるということは、自己責任ではなく、組織をもたず自治能力をも欠く在留邦人が、国家権力に守られて現地に進出するという構図になる。一朝ことあれば国家権力の発動に依存する関係
〔…〕このような性格を満蒙権益がもっていた」
加藤陽子『満州事変から日中戦争へ』,2007,岩波新書,pp.239-240.












 さて、麻田氏の新書に戻りまして‥

 目配り‥という点では、たとえば↓つぎのような記述があります:





「出兵に慎重だった『読売新聞』も、途中から『シベリア出兵は得策なり』の社説に急変した
(『読売新聞八〇年史』)。その背景には、軍部からの資金流入があった。

 1917年12月までの『読売新聞』社主は、
〔…〕本野一郎外相だった。」

 本野外相は政府部内で出兵論を強く主張していたが、『読売新聞』社長を任せられていた秋月は、政友会で原敬とともに出兵に強く反対していた牧野伸顕の義兄で、本野が社主を弟に譲った後は、本野が出兵論を支持するように働きかけても、秋月は頑として応じなかった。

「これに目をつけたのが、田中義一参謀次長である。田中は出兵のため世論を味方に抱き込もうと、陸軍の機密費を新聞界に注ぎ込んでいた。経営難だった『読売新聞』にも、田中は自分の子飼いの記者、伊達源一郎を雇う条件で、同社への資金援助を本野に申し出る。本野はその誘いに乗り、1918年5月に伊達を主筆に迎えた。

 伊達は強引に社論を転換する。まず5月31日の社説で、寺内内閣にシベリア出兵の決断を求めた。6月9日の紙面では『ああだ、こうだといわずに早く決めよ』と迫り、7月に入ると連日のように出兵論を展開する。

 その後も田中はシベリア出兵の世論工作に関与した。陸相就任後の1919年5月には、陸相直属の新聞班を設置している。新聞班の業務は、
〔…〕実際はシベリア出兵に関する『美談』や『労苦』をウラジオ派遣軍から集め、時には金銭を渡して、それらを新聞記者に書かせようとするなど、露骨な世論操作を行っている。

 宣伝活動を業務とする陸軍の常設の組織は、ここから始まる。その後も組織は名前を変えながらも、マスメディアとの関係を深めていく。シベリア出兵はそのきっかけとなる戦争だった。」

麻田雅文『シベリア出兵』,pp.64-65.







 つまり、マスコミを抱き込んでの世論操作は、戦前から行われていたわけですが、それは、もとをたどれば軍部が侵略戦争を国民に支持させるために始めた秘密謀略であったわけで‥、

 そのような日本の世論操作の特質は、100年後の今日‥‥今では、内閣官房が先頭に立って白昼堂々とやっているわけですが、‥‥でもやはり、《派兵》のための言論統制たる伝統を、いかんなく発揮しています。。。






  








 ところで、《シベリア派兵》を調べていて、いちばん頭を悩ませるのは、基本的なデータが、なかなかひとところにまとまって見つからないことです。“《尼港事件》の真相”のようなことならば、たとえ個々の文献の叙述に多少の偏りがあったとしても、何冊か読んでまとめれば、全貌が見えてくるでしょう。しかし、たとえば‥:


 日本以外の各国軍の正確な派兵時期、進駐した地域、撤兵時期―――といった、まったく基本的なデータが、容易に判明しないのです。。。










 日本以外はみな小規模の派兵だからといって、どうでもよいわけではありません。各国軍の行動を見ることによって、各時期の連合諸国の意向(当初の派兵目的からの逸脱,内戦への介入など)が判るはずですし、日本軍が、どの程度勝手に行動できたのかもわかります。

 たとえば、イギリス軍は、西シベリアに反革命の《コルチャーク政権》が誕生する際には、きちっと警備の役割を果たしていますし、コルチャークの最期(処刑)は、護衛していたチェコスロヴァキア軍★に裏切られて、ボルシェヴィキ政権に身柄を引き渡されたことによります。

★ “連合諸国の派兵目的は、シベリア鉄道沿線に取り残されたチェコスロヴァキア兵を救出することにあった”ということが、高校の世界史の教科書にはかならず書かれているのに、ギトンがそのことに触れないのは、各国にとってそれがどの程度見せかけで、どの程度本気だったのか、↑上記の基本データと擦り合わせなければ検証できないからなのです。ともかく、チェコスロヴァキア軍団は、ドイツからの独立を目指してロシア側に投降した精鋭部隊であり、赤軍と衝突になった際にはしばしば勝利しています。モスクワのボルシェヴィキ指導部の態度(チェコスロヴァキア軍団を味方とするか敵とするか)は2転3転しています。










 とくに、ギトンがいま関心を持っているのは、中国(中華民国)の派遣軍です。《シベリア派兵》の時期は、《辛亥革命》後に政権を握っていた袁世凱が死亡した後で、中国近代史の本を見ると、各地に軍閥が割拠していたとしか書いてありません。

 しかし、中国軍も、列国にやや遅れて 1918年11月に派兵を開始し、1920年にアメリカが撤兵したのと同じころに撤兵している。少数の守備隊が中ソ国境付近で警備を行なったと‥‥

 ↑このデータも、じつは、原氏の本にも、麻田氏の新書にも、wikipedia にもなくて、『日本の装甲列車』というミリタリーの本で見つけたのです...





 歴史の本をいくら調べてもわからないので、本屋さんのミリタリーの書棚へ行って、兵器やら戦車やらの写真がベタベタ出てくる本を、マニアの人たちと押し合いへし合いしながら立ち読みしてきたのでありますッ








 しかし‥、中国も派兵していたとなると‥、派兵していたのは、いったい中国のどこの政権なのか?‥ “軍閥割拠”だとすると、北京・北洋軍閥の安徽派か?直隷派か?それとも、シベリアに近い張作霖の奉天派政権か?

 ところが、《尼港事件》(1920年)では、中国の艦隊が赤軍側パルチザンに協力して、日本の守備隊を砲撃し、壊滅させているのです。(麻田雅文『シベリア出兵』,p.158)



 張作霖(1928年日本軍人により爆殺)は、親日‥どころか、日本のスパイ上がりで、日本の傀儡とまで言われているんではなかったっけ‥??

 などなど、まったくわけが分からないのです。。。







 《尼港事件》での砲撃は、現地の中国艦隊の独断だったのか?それとも、派遣元の中国・地方政権の意向があったのか?

 シベリア派遣軍どうしの間で、ある国が別の国を攻撃したなどというのは、この時一度きりだったと思われ、

 ここにも、なにか深い深い闇が見えるようです。。。








 それにまた、中国の派兵開始時期が 1918年11月というのも気になります。この月にはヨーロッパでは第1次大戦が終結して、連合国としてはもう《派兵》の必要がなくなっていたはず‥

 にもかかわらず、遅れてでも派兵したのは、中国には中国の派兵目的(ニコライェフスク(尼港)での砲撃とは、直接つながらないとしても‥)があったのではないかと、思わせます。それは、‥地図を見ただけで判ることではないかという気もするのです↓

 《シベリア派兵》で日本軍が進出・占領した地域は、シベリア鉄道に沿って中国の“東北部”――“満州”を、ぐるっと帯状に取り囲んだうえ、中国領内を横断して(東清鉄道に沿って)います。いくら各地に割拠して仲間割れしている軍閥政権だからといって、これに無関心ではいられないでしょう。シベリアを掠め取るついでに、“満州”まで取られてしまっては
(1928年には、じっさいに取られてしまうのですが‥)、たまったものではありませんから。











(注) 「外蒙古」(現・モンゴル国の範囲)は、
1915-19年中華民国下で自治を認められ、
1921年ソ連の援助で立憲君主国として独立、
1924年「人民共和国」(社会主義)へ移行。









 日本は、《シベリア派兵》は「防衛戦争だ」などと主張していましたが―――“海の向こうの防衛戦争”とはまた‥100年後にも言い続けているよーなw―――中国の場合には、“防衛”は、もう少し現実的な派兵目的であったかもしれません。














ばいみ〜 ミ



 
同性愛ランキングへ  

.
カテゴリ: 日本近現代史

前へ|次へ

コメントを書く
日記を書き直す
この日記を削除

[戻る]



©フォレストページ