10/24の日記

12:51
【シベリア派兵史】派兵とデモクラシー

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シベリア鉄道    






 こんばんは(^_-)y



 これからしばらくの間、第1次大戦中から大戦後にかけて日本軍が行なったシベリア派兵について、ときどき書いてみたいと思います。というのは、《シベリア派兵》は、この作家――宮沢賢治の青年期に起きた重要な社会的事件の一つだからです。

 このテーマについては、先日ちょっと、“序の序”的なことを書かせてもらいましたが(⇒:【ユーラシア】シベリア出兵)、このさい【シベリア派兵史】という新しいカテゴリーを立てることにしました。







 とはいっても、できあがった形で物語れるほどギトンは日本近代史に詳しくないのですw

 むしろ、《シベリア派兵》についていろいろ調べていきながら、知識を整理するための“ノート”として、このブログを利用させていただこうと思っています。

 ゆくゆくは、“同時代の中の宮沢賢治像”を語るために、その材料集めとしてです。







サハリン南端・コルサコフの埠頭





 日本史や日本の政治について語ろうとするのではなく、ミヤケンとの関連で、この事件の周辺を語ろうとする以上、おのずから内容は、‥そういったことがらになります。スジは多岐にわたってしまいますが、思いつくままに挙げると:





(1)ロシアで2回の革命が起きて、連合諸国が、派兵すべき‥、いやすべきでない‥といった議論を始めるのが、第一次大戦中の 1917年。賢治は、高等農林学校の3年次(最高学年)で、この年7月に仲間と《アザリア》を創刊しています。

 この《アザリア》創刊も、よく考えてみれば、ロシア革命(最初の「2月革命」)のニュースが世界と日本を沸き立たせた思想動向と無関係ではないはずです。


 2月革命(1917.2.27.-3.3.:ロシア暦の2月に起きました)は、帝政が倒れた革命で、とりあえず自由主義者(カデット[立憲民主党],十月党など)中心のリヴォフ内閣が政権を担当しますが(第1次連立政権)、民心を掌握しきれず、政情不安が続きます。レーニンはまだスイスにいます(ドイツ政府の仕立てた“封印列車”でペトログラード[ペテルブルク]へ戻るのは、グレゴリオ暦4月16日)。

 注目したいのは、この期間には、社会主義・共産主義系の社会民主労働党よりも、ナロードニキ系の社会革命党(エスエル)が民衆の間に支持を集めていたことで、7月24日には、ケレンスキーを首相とする内閣(第2次連立政権)を成立させています。

 日本でも、この1917年中の段階では、社会主義革命が起きるなどということは、まだだれも予想していなかったと思われます。日本の思想界に及んだ衝撃の内容は、ニコライ2世が退位して帝政が倒れたということと、ナロードニキ派が政権をとったということではないかと思います。

 日本国内では、雑誌『白樺』が発禁になっています。『白樺』は、トルストイをはじめとするナロードニキ系の思想の紹介をしていたので、その関係で当局の警戒の対象となったのでしょう。日本政府・思想当局も、自由主義的な言論や、ナロードニキ(“農民主義”?)的な言論を取り締まりの対象にしたのではないでしょうか。

 このことは、翌年3月の“保阪退学事件”に関係してきます。


 そういうわけで、ミヤケンとの関係では、2月革命の影響、日本の思想界での受け止め方、日本の当局の思想取締り動向、といったことが重要になります。






  






(2)ロシアで10月革命(1917.11.7.)が起きて、レーニンのボルシェヴィキ(社会民主労働党左派)が政権を握ってからも、連合諸国は“派兵”の是非をめぐって延々と議論を続けていました。“革命干渉”ならば、すぐに派兵してよさそうなものですが、なかなか足並みがそろわなかったのです。じっさいの《シベリア派兵》が開始されるのは、翌1918年8月になってから、それも、当初決定したのは数千人という小規模のものでした。まもなく、日本が米国との協定を無視(ないし曲解)して大規模に軍隊を派遣したので、本格的な干渉戦争にハマって行ったのです。

 少なくとも、外交史で見る限り、連合諸国の派兵目的は、革命干渉よりも、継続中の第1次大戦で、同盟国側ドイツの勢力が、権力空白状態になったロシアに及ぶのを阻止するというものだったようです。派兵を主張する勢力(主に英仏)が表向き主張したのは、連合国の一部だったロシアの帝政が倒れたので、その空白を修復して“東部戦線を再建”しなければならないということでした。

 もっとも、じっさいに、ロシアやシベリアにドイツ勢力が浸透した事実があったのかというと、‥今日の眼で客観的に見るかぎり、それはきわめて疑問ですし、‥当時にあっても、派兵論をもっともらしく主張するために取ってつけた理由、あるいはセンセーショナルで根拠のないアジテーションと映ったのではないでしょうか?

 たとえば、1918年3月初め、ドイツとソヴィエト・ロシアの間にブレスト=リトフスク講和が成立すると、イギリス、フランスの新聞は一斉に、ドイツ人捕虜の活動と「ドイツ勢力の東漸」を防止するために、日本をしてシベリアへ出兵させるべしと書き立てたと言います(細谷千博『シベリア出兵の史的研究』,岩波現代文庫,pp.52-53)。



 これに対して、派兵に反対する意見は、アメリカでは有力で、ウィルソン大統領に影響を与えていました。イギリスにも、派兵反対論がありました。

 英米の派兵反対論は、革命後の自由主義的ロシアは、国際市場として有望になるので、派兵干渉などをしてロシア国民に悪感情を持たれるのは、将来的に得策でない、というものです。つまり、派兵に反対したのは、主に新興産業家層だったようです。

 しかも、アメリカでは、保守派や軍指導部も、慎重意見でした。保守派は、共産主義者の政権などが長続きするわけはないから、うっかり手を出して評判を悪くするよりも、何もしないで自壊を待つべきだと、少なくとも初めのうちは主張していました。

 さらに、米軍指導部となると、8月に米国内の大勢が派兵に傾いてからも、最後まで慎重意見を維持しました。その理由は、シベリアへの派兵は、日本に大陸進出の機会を与えることになって、極東での欧米諸国の権益を害するというものだったようです。これは、ある意味で、もっとも正確な見通しだったかもしれません。


 ともかくそういうわけで、英仏が派兵を強く主張しても、シベリアは遠いし、ヨーロッパは第1次大戦継続中。英仏軍は西部戦線に張りつけられていて、自ら派兵する余裕などない。かたや、派兵する余裕があるアメリカでは、国内のさまざまな勢力が、それぞれの理由から派兵に反対、ないし慎重だったので、じっさいの《シベリア派兵》の開始は、たいへん遅れたのでした。

 そして、そのような国内の派兵慎重論を背景に、国際社会に対して“スポークスマン”となったのが、理想的な平和主義を掲げる大統領ウィルソンだったようです。

 ウィルソンは、1918年1月8日に《14か条の平和原則》を発表して、民族自決原則を唱えます。派兵は、こうしたウィルソンの唱える理想主義とは矛盾するものです。

 ミヤケンの父・宮澤政次郎氏などの《シベリア派兵》反対論は、ウィルソンに影響されるところが大きかったようですから、ウィルソンの動向(同年8月には派兵に踏み切るのですが)は重要です。





 ちなみに、なぜシベリアだけが派兵の対象地域になったかと言いますと‥、これは、世界地図を広げてみればわかることです。

 第1次大戦で、同盟国側は、ドイツ、オーストリア・ハンガリー、ブルガリア、トルコなどでした(これに、独立前のフィンランドが、ロシアからの独立を狙ってドイツ側に加わっていました)。ロシアの西側の国境は、北極海からトルコまで、全部ドイツ同盟国の領土によってふさがれていたのです。ウクライナでは、第1革命後も、ドイツとロシアの戦闘が続いていました。

 たしかに、ロシア国内の革命内戦では、ボルシェヴィキ政権の赤軍と、帝政派および自由主義派の白軍がもっとも激しく戦闘したのは、南ロシアでした。ショーロホフの『静かなるドン』という小説や映画を見れば、よくわかります。そこで、英仏は、南ロシアの白軍から要請を受けて、資金援助はしているのですが、軍隊を派遣することはできませんでした。ロシアの西と南は、ドイツ側によってふさがれていて、連合国が派兵をする余地はなかったのです。

 ですから、イギリスが、ロシアの北極海に面した港に小規模の派兵をした以外は、もっぱらシベリアが派兵の対象となったのでした。















 ところで、問題は、この間(1917.11.〜1918.8.)の日本国内での派兵論議ですが、日清・日露戦争で台湾と南樺太を獲得し、かつ“満州”侵略の足がかりを築き、次は蒙古へ、シベリアへと狙っている日本の膨張主義勢力にとっては、ロシア革命による権力空白状態は、またとない絶好の機会であったはずです。

 しかも、日本国内では、もともと大陸への進出・膨張に反対する意見など、無いにひとしい。ほとんど全部が膨張主義勢力―――という状態でした。




「実のところ、吉野
〔“大正デモクラシー”の旗手として民本主義を主張した政治学者吉野作造―――ギトン注〕は日露戦争には同調的であり、〔…〕中国侵略の対華21ヵ条要求に対しても、それを支持していた。」
成田龍一『大正デモクラシー』,2007,岩波新書,p.29.

「そもそも、民本主義の基礎をなす立憲主義の出発点は、『内に立憲主義、外に帝国主義』を唱えるところにあった。
〔…〕また、浮田和民は、『過去の帝国主義』と区別し、『現今の帝国主義』には『多くの倫理的要素』があり、『軍事的』でなく『国民の経済的要求』であることをいい、経済的な膨張主義は容認している〔…〕

 この帝国主義を容認する立憲主義や民本主義の観点からは、膨張主義に対しての歯止めがなされにくい。」

『大正デモクラシー』,pp.32-33.



 そもそも武力による対外侵略は、つねに“国民の経済的要求”を背景に、そこに理由づけてなされますし、じっさいの主要な獲得目標も、経済的利益・権益にほかならないのですから、当時の帝国主義の文脈で“軍事的”と“経済的”を区別することは無意味なのです。



 このように、100年たった現在の時点からふり返って見れば、《シベリア派兵》という事件は、侵略的な大陸進出という大きな流れの中に位置づけられた1箇の飛び石(しかも日本にとっては無残な失敗に終った)として見えるわけで、おおよそその意味はあきらかなのですが、

 流れの中にある当時の人々が流れを見透すことは、容易ではなかったのだと思います。

 流れを見通す位置から見れば、なぜ膨張に反対しなかったのだ?‥と思うかもしれませんが、当時派兵に反対した人たちにしても、流れを見通すことができない以上、反対の論拠は、それぞれの原則論から持ってくるほかはなかったのだと思います。





 このことは、たとえば、今日、私たちの時代の“派兵”にもあてはまるかもしれません。これから 100年もたったら、おそらくいま私たちが置かれている流れが見えてくると思います。おそらくそれは、100年前の帝国主義・膨張主義とは、まったく別のものでしょう。‥はたしてそれは、世界の平和維持に貢献する活動の一環なのか?‥欧米諸国の石油利権を確保する尖兵なのか?‥それとも、なにか日本独自の野望を追求する過程にあるのか?‥流れの中にいては、流れは見えないのです。

 そこで、今日の“派兵”に反対する議論も、流れが見えて言っているわけではないからといって、それを愚かな意見だとみなすことはできないでしょう。‥憲法に反するからだ。戦争に巻き込まれるおそれがあるからだ。‥等々、それぞれの原則論から理由づけるほかはないのです。しかし、ずっと 100年たってから見れば、客観的には、止めるべき流れに抵抗していたことになる………のかもしれないし、あるいはその逆であるのかもしれない‥




 そういうわけで、《シベリア派兵》に関しても、日本国内の派兵反対論は、膨張主義そのものに反対する立場でなされたわけではなかったのです。

 ただ、そのようにしてなされる反対論は、場合によってはひじょうに危うい論拠の上に立つことになります‥




 じっさいに派兵が開始されるまでの半年以上の期間、政府内部で派兵に反対した人物として、政友会総裁・原敬には注目しておく必要があると思います。というのは、原は盛岡の出身であり、原の意見は、宮澤家やその周辺の人々にも影響を与えていたと思われるからです。

 
 原敬は、もちろん吉野作造に代表される民本主義推進派の政治家であり、首相として政党内閣を実現したことが、日本史の教科書には必ず書かれています。


「吉野作造は、原内閣の誕生を『何といっても時勢の進展並びにこれに伴う国民の輿望である』とし」
て歓迎した。
『大正デモクラシー』,p.90.

 
 したがって、―――民本主義は帝国主義・膨張主義に反対しない、と先ほど引用↑したように―――原は、派兵そのものには反対しませんでした。軍隊を、ロシアという他国の領土に送り込んで、内戦に介入するようなことはすべきでない、というような原則論は、彼らには無かったからです。

 派兵を是認したうえで、しかし、派兵をするには条件がある――というのが、原の意見でした。

 その“条件”とは、アメリカが派兵に同意することです。派兵は正当なことか、そうでないか、という議論はあえてせずに(正当を前提にしていると言わざるを得ないでしょう)、日本が派兵するには、アメリカの経済的助力(石油などの物資資源の供給)が不可欠なのだから、アメリカの同意なく勝手に派兵すれば、補給困難になって、あとが続かなくなる。“絶好の機会”だからといって、いま急いで進出するのは得策でない。むしろ今は実力養成に努めるべきだ―――と言うのです。

 (↑“アメリカの同意”を、“国連の決議”に置き換えれば、100年後の議論になるでしょう‥)



 たしかに、アメリカは派兵に慎重であり、ウィルソンの《原則》から言えば、派兵不可のはずでした。

 しかし、自らの立論の根拠を、アメリカという他国の意向いかんにかからせるのは、きわめて危うい立場だったと言わなければならなりません。もし、そのアメリカが同意してしまえば、反対の論拠は直ちに崩れ去ってしまうのですから。。。

 そこで、日本政府内の派兵論者は、あたかもアメリカが同意したかのように見せかけて原ほかの反対論を封じ、同時にアメリカに対しては、日本は小規模の派兵しかしないように見せかけて、協定を成立させ、じっさいには本格的な派兵開始に持ち込んだのでした。(細谷千博『シベリア出兵の史的研究』[原1955,有斐閣],2005,岩波現代文庫)

 




  









 ところで、ミヤケンの父・政次郎氏の反対論を見ると、原敬とは少し異なっている点が注目されます。


「先達テノ中ノ誠意ナキ出兵説ノ立消ニナリタル事ハ国民ノ大多数ニ取リ誠ニ結構ノ事ト存ジマス 併シ当路ニモ如何ハシキ野心家ノ居リタリ又国民ノ一部ニモ軽佻浮薄ノ論議者モアル事故此上トモ油断ハ出来マセヌ」

宮澤政次郎書簡、暁烏敏宛て 1918年4月9日付


「私は今日の我国の人達が小さな国家主義や民族主義に籠城して、征服主義と侵略主義に捕へられて居るのをあき足らず思ひます。この身体があり、この家があり、この村があり、町があるやうに、国もあり民族もあります。然しながら、この世界は一民族の、一国家の、一個人のものではなくて、もっぱら広い広い壇[垣]のとれた広い世界であることを忘れてはなりません」

『汎濫』,大正7(1918)年7月15日号,暁烏敏.


 つまり、かれら浄土真宗・開明派の人々にとっては、「この世界は一民族の、一国家の、一個人のものではな」い。

 だから「小さな国家主義や民族主義に籠城して、征服主義と侵略主義に捕へられて居る」べきではない。革命の起きた他国に軍隊を派遣して、自分勝手な正義を振りかざそうとするのは、「誠意ナキ出兵」であり、そのような議論は「如何
〔いかが〕ハシキ野心家」「軽佻浮薄ノ論議者」のものである、と言っているのです。

 
 これは、“アメリカの同意がないから派兵しない”という原敬の議論とは異なる、原則論からの反対意見である点が注目されるのです。⇒:岡澤敏男〈賢治の置土産〉316 政次郎とシベリア出兵




 
 もっとも、この 1918年の段階では、息子の賢治のほうは、むしろ、好戦的な『国柱会』への傾斜を深めていたように思われます。

 その賢治が、数年後には『氷河鼠の毛皮』を書き、派兵批判に傾いてゆくのは、どんな経緯なのか?‥その過程が、非常に重要だと思います。











 さて、だいぶ長くなってしまいましたので、(3)以降は次回に回したいと思います。










ばいみ〜 ミ



 
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カテゴリ: 日本近現代史

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