10/22の日記

03:44
【ユーラシア】ルバイヤートと宮沢賢治(8)

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 こんばんは。(º.-)☆ノ




 今夜は、オリオン座流星群が見られるはずなのですが、残念なことに空には雲がかかっていて星が見えません‥。明晩は晴れてほしいものです。







 さて、ラフカディオ・ハーンと宮沢賢治の死生観は、偶然の一致とは思われないほどよく似ているのですが、両者の間には、なにかつながりがあったのでしょうか?


 原子朗氏によれば、両者の間の人的つながりを探ってゆくと、そこに、大正〜昭和にかけて、天文ファンの間では広く知られた“文科系の天文学者”“星の研究家”野尻抱影の姿がクローズ・アップされてきます:




「私は長年(といっても何十年も)疑問としてきた『幽霊の複合体』の理解に、これまでになかった一つの手がかりを、ハーンによって与えられたのであった。
〔…〕だが、それは同時に新しい疑問を伴なう発見でもあった。

 賢治の書いたものにはハーン、あるいは八雲の名など一度も登場しない。
〔…〕

 いかなる経路で賢治はハーンを読み、影響を受けたか。それが私の新たな疑問であった。
〔…〕より直接的な人間的な係累というか関連が考えられるのでは、と私は考えた。その考えに従って〔…〕『小泉八雲・野尻抱影・保阪嘉内・宮沢賢治』の人的系列」が浮かび上がった。
原子朗「『幽霊の複合体』をめぐって」, in:佐藤泰正・編『宮沢賢治を読む』,2002,笠間書院,pp.140-141.


「賢治の学生時代、八雲の美しい英文原作は、多く翻訳されて人気があった。また中学校の英語教科書には『怪談』はじめ原文が多く収載されていた。賢治もそれを学んでいる。ただ、」
『塵』は、英語リーダーには収載されていないし、翻訳の刊行もないことが「調査でわかった。」
op.cit.,p.144.





 そうすると、賢治は、当時米国のホートン・ミフリン社
(米国の大手・教科書出版社)から発行されていたハーンの単行本『Gleanings in Budda-Fields』か選集を読んだことになります。(⇒:ルバイヤートと宮沢賢治(6)

 賢治が、『帝国図書館』などで英文のハーン選集を請求して読み、あるいはわざわざ外国から取り寄せて読んだとすると、それには何がしかの動機がなければならないでしょう。

 その動機を賢治に伝えたのが、小泉八雲→野尻抱影→保阪嘉内→宮沢賢治の「人的系列」だった、という仮説なのです。













 星の研究家として知られる野尻抱影
(本名:正英 1885--1977)は、小泉八雲の早稲田大学での教え子で、崇拝者。児童文学者の小川未明とは同じ早大英文科で、小川が1級上でした。小泉八雲が東京帝国大学講師をクビになった時、この2人が中心になって誘致運動を起こし、早大文学部に迎え入れたのでした。

★ たとえば、「冥王星」という和名は抱影の命名。日本各地に残る民俗的星座名(オリオンを「からすきぼし」など)の発掘・収集も、抱影の大きな功績の一つ。


 抱影は、
「八雲の影響で学生時からギリシャ神話の研究を志し、版を重ねる『星座巡礼』(1925)をはじめ、星座の論文や本を次々に発表、刊行し、早くから志賀直哉にも影響を与え」た。

 
「札幌農学校出身のクリスチャン校長大島正健にみこまれ、」「早稲田卒業後すぐ甲府中学英語教師、兼舎監として赴任、忽ち生徒らの信望の的とな」った。

「教室ではユーモラスな脱線多く、いつの間にか小泉八雲
〔の話―――ギトン注〕が登場していたと教え子たちは述懐する。〔…〕

 ラフカディオ・ハーンの数々の英文原著は教員室の抱影先生の背後の特製の硝子戸つきの書棚に揃っていた。

 家が甲府で通学可能でも、舎監を慕ってわざわざ寄宿舎に入る生徒もいたという。

 後に盛岡高農に進学し賢治の親友となる保阪嘉内もその一人だったようだ」。

 たしかに、嘉内の実家がある韮崎から甲府までは、国鉄中央線の汽車で通えましたから‥

「残念ながら甲府中2年のとき、抱影先生は東京の麻布中学に転勤、しかし、その後も旺盛な抱影の著作をとおして、その影響は持続していた。」

原子朗「『幽霊の複合体』をめぐって」, in:佐藤泰正・編『宮沢賢治を読む』,2002,笠間書院,pp.141-142.

 ⇒:風の谷(3):甲府




 保阪嘉内 → 宮沢賢治 のつながりについては、いまさら書くまでもないでしょう。⇒:《ゆらぐ蜉蝣文字》0.8.2



 たしかに、“星の先生”野尻抱影の影響が、嘉内から賢治に伝えられたということ‥‥‥直接の証拠はないものの、記憶をめぐらしてみると、いろいろ思い当たるふしはあるのです。

 まず、嘉内が抱影の指導を受けたとしか思えないハレー彗星の観測。そこから、賢治の『銀河鉄道の夜』の構想にヒントが与えられたという説(これまた、直接の証拠はない“仮説”なのですが‥)が、賢治研究者やファンの間に広まっています。

 また、中学生時代はあれほど舎監を嫌い、舎監排斥運動を起こして寄宿舎から追い出されたほどの賢治が、高等農林卒業後は、“寄宿舎の舎監になりたい。”と中学同窓の阿部孝に漏らすようになり(『ラジュウムの雁』;〔古びた水いろの薄明穹のなかに〕『詩ノート』#1057)、じっさいに、花巻農学校に就職後は熱心に寄宿舎の宿直を務めているのです。これも、嘉内から、“舎監の抱影先生を慕って寄宿舎入りした。”という話を聞いていたとすれば、よくわかることです。


 こうして、嘉内から賢治へ、野尻抱影の“星座と星”に関する知識が伝えられたとともに、ラフカディオ・ハーンの思想も伝えられ‥ 少なくともそのエッセンスが伝わったのではないか?‥




 これこそ事実!‥と思いたくなるような胸の膨らむ話なのですが、残念ながら根拠は乏しく、‥いっさいは今後の調査次第というところでしょうか……





  







 ちょっと調べてみたところ、“星と星座”に関する限り、“人的系列”には疑問が多々あるようです。

 野尻抱影が“星の先生”として有名になったのは、天文学と星座伝説に関する啓蒙書を書くようになった 1924年以降です。それ以前―――嘉内が甲府中学にいた期間も、嘉内と賢治の間に密な交友があった高等農林〜1921年までの期間も―――には、単著は出ていないのです。⇒:wiki:野尻抱影

 有名な『星座巡礼』は 1925年に出ています。



 もっとも、「国会図書館サーチ」を検索してみたところ、野尻の翻訳書は 1924年以前にもあって、つぎのようです:


 @ゴーリキー『廿六人と一人』1913

 Aビエルンソン『フョールドの娘』1915

 Bテオドール・フルールノイ『心霊現象と心理学』1922

 Cオリヴァー・ロツヂ『他界にある愛児よりの消息』1922

 Dレイモンド『人間永生の証験記録』1924



 このうち、BCDは、心霊現象に関する本のようです。@Aも、星とは関係のない小説です。

 なお、野尻は 1922年に「日本心霊現象研究会」を設立しています。


 ですから、ラフカディオ・ハーンの『怪談』や『塵』のような死生観に関する方面はともかくとして、こと“星と星座”に関しては、抱影 → 嘉内 → 賢治 という影響関係には疑問があります。野尻が甲府中学から私立麻布中学へ転勤した後も「旺盛な抱影の著作をとおして」保阪への「影響は持続していた」という推測が疑わしくなるからです。。。

 なお、宮沢賢治が“星と星座”に関して参照していた本として、ふつう挙げられるのは、野尻抱影よりも、吉田源次郎『肉眼に見える星の研究』,1922 などです。たとえば、さそり座の主星アンタレスを、サソリの「赤いめだま」と呼ぶ賢治“独特”の見方
(ふつうの星座絵図では、アンタレスはサソリの心臓の位置です)も、じつは、この吉田源次郎の啓蒙書に典拠があります。(草下英明『宮沢賢治と星』,1975,学芸書林,p.32)



 もっとも、雑誌記事や論文に関してはまだ調べきれていませんから、ギトンとしては、“人的系列”については原氏の“仮説”をご紹介するにとどめておきたいと思います。
















あかいめだまの さそり

 ひろげた鷲の  つばさ

 あをいめだまの 小いぬ、

 ひかりのへびの とぐろ。


 オリオンは高く うたひ

 つゆとしもとを おとす、

 アンドロメダの くもは

 さかなのくちの かたち。」

宮沢賢治「星めぐりの歌」から





 この「星めぐりの歌」で、オリオン座が「露と霜とを落とす」と書いていることに注目したいと思います。というのは、ここから、賢治が、とくに夏〜秋の時期のオリオンに注目していたことがわかるからです。

 オリオンは、ふつう“冬の星座”とされますが(たとえば、野尻抱影『新星座巡礼』[中公文庫]では1月の星座とされています)、夏〜秋の時期には、宵から夜半過ぎにかけて東の地平線から昇って来て、夜明け、気温が下がり露や霜が降りる時間帯に中天に懸かります:




「すると葡萄園の農夫
が立って演説をしました。

 『諸君
〔…〕見たまへ天の川はおれが良く知らないが何でもχといふ形になってしらじらと空にかゝってゐる。〔…〕愉快な愉快な夏まつりだ。たれももう今度はくらしのことや誰が誰よりもどうだといふやうなそんなみっともないことは考へるな。

 おゝおれたちはこの夜一晩東から勇しいオリオン星座ののぼるまでこのつめくさのあかりに照らされ銀河の微光に洗はれながらたのしく歌ひあかさうぢゃないか。
〔…〕

    ポランの広場の夏まつり

    ポランの広場の夏まつりとかうだ。』

 演説はおしまいにへんてこな歌になりました。」

『ポランの広場』

★ この「葡萄園の農夫」と、『チュウリップの幻術』系列の「園丁」との関係は、たいへん興味深いテーマです。賢治が、『ルバイヤート』から受け取ったハイヤームの現世的エピキュリアニズムに対して、その後、『ポランの広場』が成立した 1924年2-3月頃(『春と修羅』の最終改稿・“反恋愛論”挿入の時期!)にどんな考えを持っていたかがわかるからです。⇒:『若い研師』『研師と園丁』







   
9月15日・午前3時の東南の空       





028《いま何時です
029三時四十分?
030
〔日の出まで――ギトン注〕ちやうど一時間
031いや四十分ありますから

   
〔…〕

118オリオン、金牛、もろもろの星座
119澄み切り澄みわたつて
120瞬きさへもすくなく
121わたくしの額の上にかがやき
122 さうだ、オリオンの右肩から
123 ほんたうに鋼青の壮麗が
124 ふるえて私にやつて來る

   
〔…〕

189かすかに光る火山塊の一つの面
190オリオンは幻怪
191月のまはりは熟した瑪璃と葡萄
192あくびと月光の動轉

『春と修羅』「東岩手火山」1922.9.18.

 ⇒:東岩手火山(賢治の詩)


「ここで『オリオンの右肩』というのは、オリオン座の姿は誰でも知っているように、左手に獅子皮の盾、右手に棍棒をふりあげて、牡牛座の猛牛と闘っている図であって、」
オリオンがこちらを向いている通常の星座絵図ならば「オリオンの右肩といえば、その棍棒を持った方の手の附根即ちα星のベテルギウス(この固有名も『巨人の右肩』の意である)に該当する。〔…〕夜明けの薄明の空『鋼青の壮麗』が湧いてくるというのは〔…〕星座の東方、東の地平から薄明穹が湧き上ってきて次第に拡ってゆく様を表現したもの」
草下英明『宮沢賢治と星』,p.75.







 賢治がどうして、「オリオンは幻怪」だと思っていたのかはよくわかりませんが、同じ『春と修羅』の「昴」(1923.9.16.)にも、


04オリオンの幻怪と青い電燈


 と書いていますから、オリオン座にそういうイメージを持っていたのはまちがえありません。





 そういえば、オリオン座の近くにある双子座にも、賢治はとくべつなイメージを持っていて、1916年3月〜4月の短歌を見ると:



「#265 あゝつひにふたたびわれにおとづれし かの水色のそらのはためき

 #266 いかでわれふたゝびかくはねがふべき たゞ夢の海しら帆はせ行け



 #283 双子座のあはきひかりはまたわれに告げて顫ひぬ水色のうれひ

 #284 われはこの夜のうつろも恐れざりみどりのほのほ超えも行くべく

 #285 伊豆の国三島の駅にいのりたる星にむかひてまたなげくかな」

『歌稿A』



 #265,266 は、関西修学旅行の帰途、3月29日午後7時ころ三島駅での短歌。#283-285 は、盛岡に戻って新学期が始まってからのものですが、前後の歌を比較してみると、#283- 以下は、三島駅の夜空を思い出して詠んでいますから、#265 の「水色のそらのはためき」、#266 の「夢の海」の中心には、双子座が耀いていたことになります。

 3月・4月の午後7時ころ、双子座はほぼ天頂付近にあります。


 天頂の双子座を見上げながら涙ぐむ賢治‥ 保阪嘉内と出会う(1916年4月)直前の賢治は、これほどにまで狂おしく“心の友”を待ち望んでいたのでした。。。

 ⇒:《あ〜いえばこーゆー記》旅程ミステリー東海篇(5) ⇒:駿河路(3)






“ふたごの星”―――カストルとポルックス








 その双子座の下に見えるのは、大犬座の主星シリウス―――冬の南空に輝く、全天で最も明るい恒星です。大犬座は、猟師オリオンの引連れている猟犬のうちの1匹。

 そばの小犬座は、もう1匹の猟犬です。「星めぐりの歌」には、


「あをいめだまの 小いぬ、」


 と歌われていますが、wiki で調べてみると、小犬座の主星プロキオンは、青より黄色に近いようです。「あをいめだま」は、さそりの「あかいめだま」と対にするための詩的モディファイなのでしょう。



 さて、シリウスは、『冬のスケッチ』に、つぎのように登場します:



「電信のオルゴール

 ちぎれていそぐしらくもの

 つきのおもてをよぎりては
- - - - - - - - - - - - - - - -
 青じろ、にぶきさびを吐く。

 (そのしらくものたえまより

  大犬の青き瞳
(め)いまぞきらめきのぞくなれ。)」
『冬のスケッチ』(38)5;(41)1.



 『冬のスケッチ』は、発見された原稿がばらばらの状態だったので、どの紙がどの紙に続いているのか、よく分からない箇所があります。↑引用の前半(38葉)と後半(41葉)の間もそうで、破線の上下がつながっているというのは、あくまでも推定です。
(↑上の 38-41 という接続は、全集編集者による推定ですが、菅原さんの本では 40-41 という接続推定に従って読んでいます。内容的に見ると、(38)5 が一貫した7・5調のリズムであるのに対し、(41)1 は、むしろ破格の口語詩的リズムなので、この二者の接続は座りが悪いように感じられます。「青じろ」い「さびを吐く」のも、雲よりは、(40)5 にある「すぎ」のほうが、賢治の形象体系に合っているかもしれません。もっとも、(41)2 には「月の鉛の雲さび」という語句があるのですが。)


 「大犬の青き瞳」と表されたシリウスは、ここでは何か恐ろしいふんいきを漂わせています。






 菅原千恵子氏によれば、賢治は「犬」という語を『冬のスケッチ』以後の詩作品の中で多用しており、たとえば:



「それに姥屋敷ではきっと
 犬が吠えるぞ 吠えるぞ。」

『春と修羅』「小岩井農場」【清書後手入れ稿】「第六綴」


「なぜ吠えるのだ二疋とも
   
〔…〕
 なぜさう本気に吠えるのだ」

『春と修羅』「犬」


「さあ犬が吠え出したぞ」

『春と修羅・第2集』,#17,1924.3.24.「丘陵地を過ぎる」【定稿】


「その恐ろしい巨きな闇の華のした
 犬の叫びが
 崖や林にあやしくこだまするなかを」

『春と修羅・第2集』,#46,1924.4.6.「山火」【下書稿(一)】


 というように、「まことの道からそれて歩き出す者を監視したり番をしたりする存在としての意味」を持つといいます
(『宮沢賢治の青春』,角川文庫,pp.132-135.)

 この『冬のスケッチ』の「大犬の青い瞳」も、「するどく監視するべく」雲の間から覗いていると言うのです。


 そういえば、保阪嘉内が《アザリア》に掲載した自作短歌の中に:


「大空はわれを見つめる、これはまた、おそろしいかなその青い眼が」


「うっかりと嘘言をいひたり七月の青空の眼の見てゐぬ暇に」


 という2首がありました。


 嘉内の『打てば響く』によれば、
「大空はまことのひとの存在する所でもあり、正しい裁きの象徴ともなり、また人間界を見おろす『でっかい青い眼』ともなるのだ。こうした『空』に対する意味づけは、賢治と嘉内にとっては暗黙の了解があった」
菅原千恵子『宮沢賢治の青春』,角川文庫,pp.56-57.




 賢治が、シリウスを「大犬の青い瞳」と表現したのは、保阪との間で了解された“人間たちを監視する空の青い眼”という宇宙観を踏まえていると思われます。




 このことが重要なのは、れいの 抱影 → 嘉内 → 賢治 の“人的系列”に関係してくるからです。

 二人の間では、岩石・鉱物の話題だけでなく、こうした宗教的ふんいきの“誓い”とともに、“星と星座”についても話題になっていたことが推測されます。そして、そこから、ハーンの死生観や、抱影の星空への関心が、嘉内から賢治に伝えられた可能性も、高まってくるのではないでしょうか?‥






《ルバイヤートと宮沢賢治》終り。







  











ばいみ〜 ミ




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カテゴリ: ユーラシア

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