10/18の日記

05:44
【ユーラシア】ルバイヤートと宮沢賢治(6)

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 こんばんは。(º.-)☆ノ





 じつはひとつ気になっていることがあります。宮沢賢治が当時入手しえた『ルバイヤート』の邦訳―――こんにち私たちが見ることのできる金子訳、黒柳訳、そして岩波文庫『ルバイヤート』の小川訳‥‥これら、ペルシャの歴史や文学を専門とする人たちが直接ペルシャ語原典に取り組んだ名訳と比べれば、それらはたいへん不十分なものでした。


 不十分な邦訳を通じて、ハイヤームの謳いあげた同性愛的な部分は、はたして賢治に伝わったのか?‥もちろん、訳書についている解説には、ハイヤームの同性愛にふれた部分はありません。金子民雄さんが書いていた・サーキと呼ばれる若い男性が酌をしたということ(これは、岩波文庫の訳者小川氏も訳注で説明しています)さえ解説していないのです。




 しかし、『中央公論』の荒木訳に含まれている↓つぎの訳詩は、同性愛を思わせないでしょうか?





     第四拾五

 ◎耕野のほとりに果実酒の一瓶と友の唇。
   我が此の世の楽
(たのしみ)と爾の未来の幸を奪へり、
    人皆楽園と冥府とを信ず、されど、
     誰か冥府に達し又誰か楽園より来しや。




 「友の唇」という表現には、同性の合歓が暗示されているように感じます。もちろん、訳者がそのつもりでこの表現を書いたのかどうかはわかりませんが、そうでなくとも、同性愛者が読むと、同性愛の歓びを謳っているのだと思いたくなります。






     第七拾六

 ◎爾、悲の虜となるなかれ、
   現世の偽の虚念に捕はるゝなかれ、
    書籍と愛人の唇と野辺を忘れざれ、
     爾大地の裾に捕るべし。


     第百四拾九

 ◎僅かなる紅玉色の酒と一篇の詩集
(デイーリーン)を我望む
   我只生きん為めに半塊のパンを要するのみ、
    斯くて爾と我、寂寞
(ナイーラーン)に座せば、
     王領を與へられんよりも幸なり。


     第百五拾五

 ◎一塊の麺麭、一瓢の酒、
   羊の股肉を得て
    爾と我、寂寞に座すとき
     その喜びを何れの王か遮らん。





 宗教に背を向けて、愛人と酒への愛に‥現世的快楽へと向かうハイヤームの思想は、これらの訳詩からも読みとれます。

 しかし、現世的快楽と言っても、ハイヤームの場合は、王侯・富豪のようなぜいたくな生活、輝かしい名誉、‥といった世俗的快楽とはむしろ無縁で、愛する者との心底からの交歓、酒と音楽への陶酔、そしておそらくはセックスへの没入‥という、考えてみればまことに慎ましい快楽なのです。



 “ゲイ・テイスト”(同性愛者に特有の感覚嗜好)というようなものが、もしあるのだとしたら、『ルバイヤート』にそれとなく漂うハイヤームの“ゲイ・テイスト”は、当時の2種の翻訳を通じて、嘉内や賢治にも伝わったと見ていいのではないでしょうか?

















C ラフカディオ・ハーン『塵』からの影響






 さて、↑次のテーマは、とりあえず『ルバイヤート』からは少し離れるのですが、

 『怪談』で有名な明治の来日外国人ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の記している原始仏教的な死生観は、宮沢賢治のそれに似ているのではないか?‥ 宮沢賢治の観念は、ラフカディオ・ハーンの影響を受けたものなのではないか?‥ という最近提起された興味深い議論から始めたいと思います:





01わたくしといふ現象は

02假定された有機交流電燈の

03ひとつの青い照明です

04(あらゆる透明な幽霊の複合体)

05風景やみんなといつしよに

06せはしくせはしく明滅しながら

07いかにもたしかにともりつづける

08因果交流電燈の

09ひとつの青い照明です

10(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)

宮沢賢治『心象スケツチ 春と修羅』「序詩」






 問題になるのは、↑上に掲げた『春と修羅』「序詩」の最初の部分です。

 これがいったい何を意味しているのか‥ をめぐって、これまで多くの人がさまざまな読み方を主張してきました。



 しかし、ここで最初から解説を加えてしまうのはやめましょう。このクダリの意味を探ってゆくこと自体が、これから述べる内容にほかならないからです。

 注目してほしいのは、「わたくしといふ現象は‥」という最初の謎めいた文句、そのあとに散りばめられた「電燈」「照明」「明滅」という特徴ある語、そして、4行目の( )でくくった:


「あらゆる透明な幽霊の複合体」


 という、これまた奇妙奇天烈な表現です。宮沢賢治は、この詩集を世に問うにあたって、

「わたくしは‥あらゆる透明な幽霊の複合体‥です」

と自己紹介して、読者のドギモを抜こうとしているかのようです……




  











「『幽霊の複合体』という謎めくことばの意味するところを、長年私は考えあぐね、ようやく私なりの納得をすることができた
〔…〕

 『(あらゆる透明な幽霊の複合体)』の表面上の」
意味は、「『透きとおって実体は見えない、実に様々の、ありとあらゆる幽霊の複合体』、それが『わたくしといふ現象』である、という意味になろう。

 『幽霊の複合体』とは、いったい何か。この暗喩のイメージを賢治に想起させた影響源、ないしは出自がありはしないか。
〔…〕これさえ、もし私なりにつきとめ得たら、この難解とされる『序』も、私にはそれほど難解な〔…〕詩的宣言(マニフェスト)ではなくなると思われたのだった。〔…〕

 私は 1998年の春、インド国立J・ネール大学の大学院で日本の近代文学を講じていた。そこでの話題の中味からラフカディオ・ハーンを読む必要を感じ、図書館に行った。
〔…〕

 そこで手にしたハーンの「単行本 Gleanings in Budda-Fields(仏の畑の落穂,1897
〔…〕)に私は注目した。冒頭に法華経の一節を掲げる『Dust』(塵)がそこに収録されていたからである。

 しかも A composite of quintillions of souls(何兆もの霊魂の複合体)というフレーズが、ある驚きをもって私をとらえた」


 "quintillions of"(数百京の) を「あらゆる」に変えれば、これは宮沢賢治の「あらゆる‥幽霊の複合体」と同じ意味になる。

 そこで、日本語訳を取り寄せて確かめたところ、
「仙北谷訳」の『塵』「でも『幾兆の霊魂の複合体』となっており、感動を新たにした。題名の『塵』や『業の塵』の意味するところも、賢治作品の重要なキイワード『微塵』や『核の塵』とぴったり重なることも、再確認されたことだった。」

「極めつきは、

 『私は一人の個人―――一個の魂であろうか。否、私は一個の群衆である―――その数のおびただしさにおいて想像を絶し、億単位兆単位のグループに分けたところでとうてい計量することのできない(原子朗注―――これこそさっきの英文引用の quintillions)一個の群衆という他はない。私は世代に世代を重ね、永劫に永劫を重ねた末の存在である。

  今私を形作っている群衆は、数えきれぬ程度に解散を繰り返しては、又他の散らばっていたものと混じり合って来たのである。とするなら、次の解体を思い煩う必要などどこにあろう。

  恐らく幾多の太陽が無数の代を経て燃えさかる何兆年か後に、私を構成する一番いい要素が再び集まる時が来るかも知れない。』

 というくだりであろう
〔…〕

  『ぼくらの感情、思想、願望は、
〔…〕幾億万の死者たちの、感情、思想、欲求の再構成された複合体にほかならない』

 等々のハーンの情熱的な言明は、賢治の『わたくしといふ現象』すなわち『(あらゆる透明な幽霊の複合体)』という詩的主張と、なんと重なり合うことか。」

「念のためにいっておきたい。この『幽霊』をキーテーマとするエッセイ『塵』を私がことさら重視したのは、
〔…〕この『塵』はハーンの文学すべての出自の最も根源的なエッセンスでもある」からだ。
原子朗「『幽霊の複合体』をめぐって」, in:佐藤泰正・編『宮沢賢治を読む』,2002,笠間書院,pp.134-139.





 宮沢賢治の死生観・人間観は、ラフカディオ・ハーンの影響を受けていた‥‥という原氏の議論は、斬新な視点ですが、この『塵』に述べられたハーンの思想は、これまた原始仏教の深い理解に淵源しているように思われます。ですから、原氏の議論は決して突飛なものではなく、むしろ、内容的には私たちを強くとらえるものです。


 ただ、問題は、原氏も述べるように、両者の表現が似ているとしても、はたして両者の“つながり”が立証できるかどうか…にあるのでして、 ‥じゃあ、ハーンと何の面識もなかった賢治が、ハーンの思想をどうやって知ったのか?(『春と修羅』が出版された 1924年までには、ハーンの原著『Dust』はまだ日本国内では公刊されず、日本語訳『塵』も出ていなかったようなのです‥)という点にあります。









 







 それはともかく、私たちは、まずハーンの『塵』を読んでみたいと思います。





「路傍で土をこねて遊んでいる子供たちがいる。山や川や田んぼの小さな模型を作っているのだ。小さな土の村もある
〔…〕

 この子供たちの宗教
〔…〕の不思議に透徹した光に照らして見ると、〔…〕山も川も田んぼも〔…〕この現実世界が、子供のころに土で作った風景とさして異ならぬものに思えるのだ。そして恐らく現実感において両者はさ程違いがないのだろう。

 
〔…〕一切は幻である、とのあの思いにまたもや私は捉われているのであった。

   
〔…〕

 今日は暑いひっそりした日で、こんな時にはすべてをあるが儘の姿において観ずることができる―――海も山も平野も、その上の蒼穹も全く現実感を与えない。すべて幻である
〔…〕

 野良仕事をしている男女がいる。かれらはみな彩りのある動く影である。そして足もとの大地もまた―――かれらはそこから生まれ、いずれまたそこへ帰るが―――影である。

 その影の背後にあって作ったり壊したりする力、それだけが実在なのだ―――だから目には見えない」

小泉八雲・著,仙北谷晃一・訳「塵」,in:小泉八雲『日本の心』,1990,講談社(学術文庫),pp.234-237.






 現象の背後にある「目には見えない」「実在」というハーンの思想は、おそらく日本の大乗仏教の哲学から受け入れたものだと思いますが、宮沢賢治の「序詩」の思想とはやや異なっています。


 大乗仏教では、私たちの周りの“目に見える世界”は虚妄にすぎない。その背後にある“仏”とか、世界が存在するかのように表象している人間の“心”とか、“目に目ない世界”のほうが実在(本体)なのだ、という考え方をします。私たちは、生まれてから死ぬまで、幻を見ているのだ、というわけです。
(ちなみに、原始仏教や小乗仏教は、これほど極端な《唯心論》をとりません)





「上山 唯識でも色界
〔物質世界―――ギトン注〕というのは認めるわけですか。

 服部 それも心のあらわれです。物は実際に外界に存在するのではなくて、表象されているかぎりにおいてあるのだというのです。

 上山 完全な唯心論ですね。」

櫻部建,上山春平『存在の分析<アビダルマ>』,仏教の思想 2,1997,角川文庫,p.240.




 しかし、‥‥この点は、よく誤解されるのですが‥‥賢治の「序詩」の思想は、そのような大乗仏教的《唯心論》ではないのです。(⇒:秋枝美穂『宮沢賢治の文学と思想』,2004,朝文社)

 賢治は、この「序詩」のあとのほうで:





14(すべてわたくと明滅し

15 みんなが同時に感ずるもの)

   
〔…〕

19これらについて人や銀河や修羅や海膽
〔うに〕

20宇宙塵をたべ、または空氣や鹽水を呼吸しながら

21それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが

22それらも畢竟こゝろのひとつの風物です

23たゞたしかに記録されたこれらのけしきは

24記録されたそのとほりのこのけしきで

25それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで

26ある程度まではみんなに共通いたします




 と書いています。





 「わたくし」と「みんな」が「同時に感ずる」諸現象――目に見えるこの世界の事物にこそ、賢治は関心を寄せているのです。

 もし、大乗仏教に拠って、それらは「虚無」だ、虚妄だ、幻だと言うなら、言えばよい。たとえ「虚無」と名づけようとも、それらが「ある程度まではみんなに共通」する確たる現象として、私たちの目の前にあることに、変わりはないのだから。

 そして、それら、この世界の現象について、「人や銀河や修羅やウニは」「それぞれ」自分の好みに合った「本体論」を考え出すだろうけれども、そうした「本体論」―――真に“実在”する“目に見えない本体”とは、神だ、仏だ、イデアだ、“宇宙意志”だ―――は、それぞれ勝手なことを主張するばかりでどれがホントだかわからないし、けっきょくは「こゝろのひとつの風物」にすぎない………と言うのです。

 (『銀河鉄道の夜』でのジョバンニ少年の叫び:「そんな神さまうその神さまだい。」‥「ああ、そんなんでなしにたったひとりのほんとうのほんとうの神さまです。」は、まさにこのことを言っています。)



 また、この「序詩」の日付 1924年1月20日からまもなくの時期(2〜3月ころ)に、賢治は、『春と修羅』収録の「小岩井農場・パート9」に、次の詩行を挿入しています(⇒:《ゆらぐ蜉蝣文字》8.1.7 ⇒:《ゆらぐ蜉蝣文字》3.10.16):




79さあはつきり眼をあいてたれにも見え

80明確に物理學の法則にしたがふ

81これら實在の現象のなかから

82あたらしくまつすぐに起て






 この「序詩」において、そして『春と修羅』においては、賢治は“目に見える世界は幻にすぎない”とは考えていないのです。





  









 もっとも、ハーンの上記引用の部分も、自然観照の態度として見れば、賢治の《心象スケッチ》につながるものが感じられます。

 賢治の《心象スケッチ》は、子供の泥んこ遊びの山・川・村も、現実の山・川・村も、「現実感」において大差ないものとして無差別に見るハーンの眼に、近いかもしれません。






「宮澤賢治は、心象スケッチによって日常性を脱却していった。それは賢治自身の側からいえば、身に着けた衣服を脱ぎ捨てて『裸身』になることである。作用としていえば、自らの感受性を全面的に放下して、万象に身を曝け出すことである。
〔…〕

 『けれども、一郎が眼をさましたときは、もうすつかり明るくなつてゐました。おもてにでてみると、まはりの山は、みんなたつたいまできたばかりのやうにうるうるもりあがつて、まつ青なそらのしたにならんでゐました。』(『どんぐりと山猫』)

 
〔…〕詩人の長瀬清子は、賢治は『はじめて見たやうに自然を見てゐる』と表現したが、たしかに純粋で囚われのない眼差しでものごとを見て、そしてそれをそのままスケッチしていったのである。これはメルロ=ポンティの『生れいづる状態』、すなわち意味の発生する現場で捉えようとする現象学的眼差し」にほかならない。

「賢治は日常の使い古され、手垢に汚れたようなことばや概念をそのまま使用しない。どんな日常的でありふれた経験でも、いわば括弧に入れてその源泉に立ち還ろうとする。
〔…〕『黒板』なるものは第一次的経験ではない。最初の出会いをそのままスケッチすれば、『黒い壁』である。〔…〕『何か巨きな黒いものをしょって』(『セロ弾きのゴーシュ』)とは、ゴーシュが、『セロ』を担いで帰ってくるときの初見の様子である。『青い槍の葉』(同名詩篇)は、稲穂のことである。このように、いつも出会いの直截的感動をそのまま記述している。〔…〕

 
〔ギトン注―――フッサール現象学でいう〕還元とは、日常性を括弧に入れて、そこに埋没していたとき視野から消えていたものをあらためて浮かび上がらせる方法である。天沢退二郎が『心象スケッチという方法の意識的基盤』として剔抉した『〈経験〉と〈想像上のもの〉のこの同一視、重合』、言い換えれば『〈経験〉であることをやめないまま―――その点を宙吊りにしておいて―――それは〈想像上のもの〉へと化している』ことこそ、還元という『括弧入れ』に相当するものである。」
田中末男『宮澤賢治〈心象〉の現象学』,2003,洋々社,pp.324-327.






 すなわち、賢治もまた、現実世界の経験を「宙吊りにして」―――つまり、現実性と日常性への埋没から自由になった清新な眼で、この世界をふり返り、使い古された大人の言葉や常識を脱ぎ捨てて、生々しい体験の源泉に立ち還ろうとする「現象学的眼差し」を持っていたと言えます。

 それは、ハーンの言う「子供たちの宗教の不思議に透徹した光」で世界を眺めることにほかならないでしょう。

 それは、現実/非現実の区別を捨象(エポケー)し、現実意識を括弧に入れた、《還元》された世界なのです:





「森羅万象のなりたちを一から調べなおすために、感覚の生々しさにまで戻ること、それが超越論的還元である。」

岡山敬二『傍観者の十字路 フッサール』,2008,白水社,p.115.



「赤い球を知覚するとき、対象の赤い球は実在しているが、体験される感覚の生々しさは実在しているわけではない。
〔…〕感覚や体験の生々しさは、刹那のはかなさであり、文字どおり、つかみどころのない影である。〔…〕実在〔対象の赤い球―――ギトン注。以下同〕は表層で、その深層が非実在〔体験される感覚の生々しさ〕だといったほうがいいだろう。事実とは、この重層構造の全体で、このまるごとの事実が現象学のいう現象、純粋な現象ということになる。」
op.cit.,p.117.



「実在は、経験〈される〉出来事、出来あがってしまった静的な事実であり、経験〈する〉活動、生き生きと躍動する動的事実ではない。活動を終え、いわば死体のように浮かびあがった出来事の水面下で、生々しく躍動する刹那の息吹、これがフッサールのいう非実在、実的な体験である。

 目のまえにある机は、わたしがそれに気づかなくても、その机のままであるはずだ。
〔…〕実在は、個々の経験を超越し、それ自体でなりたつ。実在のこのありようが、フッサールのいう〈超越〉である。

 だが、超越
〔実在〕の背後にはいつでも、豊饒な体験が生々しく躍動している。超越〔実在〕という静的事実の深層に躍動する動的事実、この非実在の体験こそ、フッサールのいう〈内在〉である。」
op.cit.,pp.117-118.

















「夜が小さな影をすっかり吞み込んでしまうように、この幻の大地はいずれぼくらを呑みつくす。そしてその後で自らも消えてしまう。しかし小さな影も、その影をくらい尽くしたものも、再び姿を現わさずにはいない―――何かの形でどこかに出現せずにはいない。それもまた確かなことだ。
〔…〕

 土くれ、土、塵―――それをどう呼ぶかはお任せしよう。とにかくその名は、実物とは似ても似つかぬ人間の表象であるに過ぎない。本当は名前などなく、名づけようのないものだ。無数の力、運動、無限の可能性の一大集積なのだから。それを作ったのは果てしない『生と死の大海原』だ。
〔…〕

 それは生命を食べて生き、目に見える生命がそれから生まれ出る。それは新しい結合に入るのを待っている『業
(カルマ)の塵』である―――仏者が『中有(ちゅうう)』と呼ぶ生と生との中間状態にある祖先の塵なのだ。」
小泉八雲・著,仙北谷晃一・訳「塵」,pp.237-238.








 ここに述べられているハーンの死生観は、原始仏教の思想に近いものを感じさせます。


 「業
(ごう、カルマ)」とは、輪廻の死滅・再生の繰り返しを支配する原理で、“行為とその結果”というような意味。ある人間がよい行ないをすれば、次に生まれ変わる時には、高貴な人や天人になって、より快適な生活を送ることができる。悪いことばかりしていれば、牛馬や虫などに生まれ変って苦しみを味わうことになる。―――というのが、私たちにもなじみのあるインドの考え方ですが、原始仏教では、これに、人間は死ぬと土になってしまうのか?‥魂は死後も存続するのか?‥という問題がからんできます。

 結論を言うと‥、原始仏教でも、大乗仏教でも、魂の存続・永久不滅ということは認めないのです。






「服部 
〔…〕この世に牛として生まれるか、人間として生まれるか、あるいは金持ちの家に生まれるか、貧乏人の家に生まれるかを規定するのはその人の業であるという〔インドで―――ギトン注。以下同〕一般に行なわれている思想を仏教もそのまま受け入れます。〔…〕

 櫻部 説一切有部のアビダルマ★の場合は、
〔…〕無数のダルマ〔移り変わる事物の基礎にある存在の基本的不変要素 pp.70-71.〕が集まって有機体が構成されているというふうに考える。生きていたものが死ぬということは、〔…〕存在していた有機体としてのダルマの構成が解消される、ということでしょう。

 
〔…〕たとえば私がいま人間であって、死んで、次にネコに生まれるとするでしょう。そうすると、私が死ぬときに、私という人間の肉体を構成していたダルマが全部解散してしまう。肉体的要素ばかりでなく精神的要素もそうです。そして次にネコに生まれるというときには、新たなネコの生命を構成するダルマがそこに集合してネコという生命体すなわち肉体的精神的有機体を生み出すのであって、

 それは前の私が人間であったときに私を構成していたさまざまなダルマが残した原因が、結果としてネコとしてあらわれるダルマの合成を生んだというように考えればいいので、そのあいだになにか魂みたいなものがあって人間の体から抜け出しネコの体にはいるというように考える必要はない、というのがアビダルマの立場でしょう。」

『存在の分析<アビダルマ>』,pp.236-237.

★ アビダルマとは、「ブッダの教えを、ブッダ没後300-900年ごろの学僧たちが研究し、解明し、組織づけて、一つの思想体系にまとめあげた知的努力を意味する。」(p.18)「説一切有部」は、アビダルマの有力な学派の一つ。代表的な著作は、5世紀ころの世親(ヴァスバンドゥ)『倶舎論』。




 「ダルマ」は、事物の構成要素であり、目に見えないものですが、それをあえて頭の中でイメージすれば、死んだ人間や生き物を構成していた物質的・精神的要素の微粒子‥いわば「塵」が、飛び散って混じり合い、離合集散し、いつかはまた新たな構成の「塵」が集まって、前のものとは異なる新しい生物体が誕生する―――というようにイメージできるかもしれません。

 そういうことですから、ハーンの死生観、そして仏教の本来の死生観は、“死んだ親が、生前の記憶と精神を保持して、牛に生まれ変わって生きている”というようなロマンチックなものではないのです。生まれ変わりがいたとして、それがいったい何人、何匹、何羽の生物からカルマを受け継いでいるか、わかったものではないし、死者の記憶、感情なども、1個の個体に受け継がれるわけではないのですから‥







  





 ところで、ここでまたルバイイを出しておきたいのですが‥

 ↓つぎの荒木訳などは、宮沢賢治が読んだら、仏教の「業の塵」を連想して微笑んだかもしれませんね。(「酒盃」も「土瓶」も、賢治にとっては有情のものであり、土瓶に生まれ変わる人がいても賢治は驚かないでしょう。器物が有情のものだという思想は、日本に昔からあります。)







     第七拾九

 ◎飲めよ、爾の肉は大地に原子
(テフルー)となり、
   その爾の土、後に酒盃又は土瓶とならん、
    冥府と楽園より自由なれ、
     智者何ぞ斯る説に迷はさる。










ばいみ〜 ミ




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カテゴリ: ユーラシア

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