10/04の日記

04:44
【速報】保阪庸夫氏逝く

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 7月5日に、保阪嘉内ご子息(次男)の保阪庸夫さんが亡くなっておられました ⇒:宮沢賢治とアザリアの友たち

 賢治生誕120年の歳、しかも“アザリア”記念期間中(7月1日は、同人誌『アザリア』発刊から99年目)のご逝去でした。ちなみに本年は、嘉内と賢治の“出会い”からちょうど100周年です。

 謹んでご冥福をお祈りいたします。








大地溝帯(フォッサマグナ)と韮崎市―――銀河鉄道展望台付近から 



 

 保阪庸夫さんは、御尊父・保阪嘉内が大切にしていた宮沢賢治からの書簡を身に着けるようにして守り、時期を見て公表に踏み切られたことは、私たちが何度思い返しても足りない功績であり、また親族としての重い苦悩を乗り越えての決断でした。

 賢治研究者・小沢俊郎氏との共著で『友への手紙』が出版された後も、二人の“交った航跡”の真実を伝えるために庸夫さんが払われた努力は、察するにあまりあるものです。




「賢治と亡父嘉内との交友は、昭和12年2月の
〔保阪嘉内の―――ギトン注〕死以後、賢治の手紙を取巻く嘉内の遺族と云う私〔ひそ〕かなものに変質致しました。数少い遺品の中でも取分け故人の愛着が籠って居たので、私どもにとってこれは公共性をもつ文化遺産と云うより以上の意味を持つものとなりました。何等の慮りなく此等の手紙を公表するのは、二人の故人の墳墓を謂れもなく発くに似た心無い業になると思われました。

 その朝、死後の整理に当った人々は枕頭の手文庫から草色の切抜き帖
〔嘉内が賢治からの手紙を保存していたスクラップブック―――ギトン注〕を見出しました。眼を泣き腫らした叔父がそれを座敷の書棚に収めたのを幼い私の眼が捉えました。〔…〕

 時世の流れと一家の生活苦の裡に日月はゆき、やがて敗戦、そして昭和廿二年となりました。勉学の為上京する廿才の私の行李の底に草色帖1冊が私かに収められていました。苦しい学生々活の間文字通り心の支えとなった賢治の手紙は、
〔…〕遂に誰の眼にも触れませんでした。〔…〕

 まことに真実を視る詩人の眼、分けても後年の詩聖賢治と無名の人嘉内との懸隔をいみじくも言当てて居るかの様な大正7年3月、9年7月、10年7月の手紙等は、其等を受けた時嘉内が感じたと全く同じ激しい痛みを私に与えました。そして大正11年以降昭和期の空白――父は棄てられたのかも知れない――は賢治を父以上に愛するが故に益々辛い寂寥でした。やはり此等の手紙を第三者の冷い手好奇の目に暴すにはゆかない。
〔…〕

 
〔…〕仮に後半生の二人に形としての交流が無かったとせよ、その友情の確かさは自分自身の体験と照らして実感出来ます。ましてや昭和7年頃『児童』〔宮澤賢治作『グスコーブドリの伝記』が掲載された雑誌『児童文学』第2号―――ギトン注〕の寄贈を〔賢治から―――ギトン注〕受けた事(父にその頃グスコブドリの伝記を聞かせて貰った)もあってみれば、賢治の博い愛情と嘉内の熱い友情とが二人の関係を草色帖時代で断切ってしまう筈がないと思えます。親しくして戴いた大学の教授に故郷へ帰り賢治の手紙を編んでみたいと告げたのは此の安心立命が出来てからでした。

 両者の相克を考えるに
〔…〕「こわしてしまった芝居」の蒼冷と純黒の共感的対立位のものではないでしょうか。

 寧ろ大人びてからの二人は互に
〔…〕異る境遇の中での実践を通して再び相会う事を確認し合ったに違いないと考えます。こうして昭和42年、小沢俊郎さんと一緒に、『宮澤賢治友への手紙』一巻を纏める事が出来ました。〔…〕

 結局嘉内は己の除名放校とそれに因する後々迄の拙い生涯と云う自らの不幸を代償として、詩人の若い魂の凝集物――手紙――を此世に購いました。嘉内は
〔…〕此点に於て賢治の文学精神形成に大きな寄与をなしたと言えるのではないでしょうか。」
保阪庸夫「如何なる天意の下に」, in:『宮澤賢治全集』付録「月報」11号,1968.8.,筑摩書房.




 この機会に庸夫さんの↑上の文を再読して、やはり@賢治と嘉内の間に“訣別”などは存在しなかったのであって、ふたりの“友情”はそれぞれの生涯を貫いたということ、またA嘉内は賢治の文学形成において、余人の追従を許さないほど決定的な寄与をなしたこと―――この2点を、しっかりと論証していきたいと、あらためて思ったのでした。





  







 3か月もたってから‥ ギトンのは、ちっとも速報じゃありませんね←

 告別式には、菅原千恵子さんはじめ、賢治ゆかりの方々も出席されたのでしょうか‥

 私たちには知りようがなく、また詮索すべきことでもありませんが、華々しい“賢治アニヴァーサリ”の陰に、ほとんど世間には知られることもない人々の地道な行動と思いが、いつも積み重ねられていることを言いたいので書きました。







 ちなみに、ギトンがちょっと気になっているのは、今年5月に韮崎を訪問したさいには、市役所にある展示室“ふるさと偉人資料館”から、例の“ノーベル賞”に押されて、保阪嘉内の関係展示が全部撤去されていたこと、そこにいた案内係の人に問い合わせたところ(ただ質問しただけなのに)、


「いつも展示は変りますから。ずっと展示してるわけじゃありません!」(←これは大嘘。10年近く、ここで展示していた。)


 と、“貴様、ノーベル賞を何と心得る?!”と言わんばかりの剣幕で叱責されてしまいますたw



 また、市の文化ホールの前にある賢治・嘉内の友情記念碑に、真新しい大きなキズが付けられていたことでした。。。 関連記事:風の谷(4)「花園農村の碑」







 われわれをして 田園都市を作らしめよ 模範農村を作らしめよ そしてわが幸ある天地の神に感謝をさゝげしめよ

     
〔…〕


 あゝ諸君、人民に行け、人民に行け、
〔…〕

 諸君人民にゆけ、百姓をせよ、そしてわれわれのハッピイ・キングドムを作れ、パラダイスを作れ。

保阪嘉内・ノート断片(1916年?)より








ばいみ〜 ミ



 
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カテゴリ: 宮沢賢治

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