09/29の日記

00:26
【ユーラシア】ルバイヤートの東漸

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 こんばんは。(º.-)☆ノ





前回は、ペルシャの酒と恋愛の歌として世界的に有名なルバイヤートが、なんとBLなのではないかという話をしましたが‥

最初は正直半信半疑だったぼく自身、ブログを書いてみると‥ この話、案外イケルんじゃないかと思うようになりました←




  





 ところで、そのルバイヤートは、19世紀後半〜世紀末に西洋で知られるようになり、20世紀に入るとようやく日本にも紹介されました。最初に出た日本語訳は、蒲原有明の『有明集』(1908年)に載った6首だと言われています:





 泥沙坡
(ナイシヤプル)とよ、巴比崙(バビロン)よ、花の都に住みぬとも、
 よしやまた酌む杯
(さかづき)は甘(うま)しとて、苦(にが)しとて、
 絶間あらせず、命の酒うちしたみ、
 命の葉もぞ散りゆかむ、一葉
(ひとは)一葉に。


 朝毎に百千
(ももち)の薔薇は咲きもせめ、
 げにや、さもあれ、昨日
(きのふ)の薔薇の影いづこ、
 初夏月
(はつなつづき)は薔薇をこそ咲かせもすらめ、ヤムシイド、
 カイコバアドの尊
(みこと)らのみ命をすら惜しまじを。


 歌の一巻
(ひとまき)(こ)のもとに、
 美酒
(うまき)の壺(もたひ)、糧(かて)の山、さては汝(みまし)
 いつも歌ひてあらばとよその沙原に、
 そや、沙原もまたの天国。





 「ナイシャプル」は、東部ペルシャ・ホラサンの州都でハイヤームの生地「ニシャプール」。「ヤムシード」「ケイコバード」「ケイホスロウ」は、ペルシャの伝説上の王様だそうです。

 ルバイヤートの厭世哲学を、和製の無常観と武士道で換骨奪胎したような代物ですが、当時の日本では一種エキゾチックな“月の砂漠”の興趣をかもして、それなり立っていたのだと思います。

 ただ、ハイヤームが歌ったような・広大な時空の中で卑小な己れの存在を浮き立たせるような、また世の流れの無常を逆手に、いま・ここでの悦楽に耽るべしと誘うような、あの芳しいおもむきは無限に薄められてしまっています。





 その後、ルバイヤートのまとまった訳詩集も現れて、1910年代には、日本でも一般に知られるようになったといいます。





 バビロンとナイシャプールをわれ問はず、
 さかづきは苦くとも、あまくともあれ、
 命の酒は雫ひまなく浸みやまず、
 命の葉、ひと葉、ふた葉と落ちやまず。


 朝には千の薔薇
(さうび)と汝(なれ)言ふや。
 さなり、ただ昨日
(きそ)の薔薇はいづかたぞ。
 この夏の薔薇をはこぶはじめ月、
 ジヤムシツド、カイコバツドを奪
(と)り去らむ。


 ここにして木の下にいささかの糧
(かて)
 壺の酒、歌の一巻
(ひとまき)――またいまし、
 あれ野にて側
(かたはら)にうたひてあらば、
 あなあはれ、あれ野こそ楽土ならまし。





 ↑これは、1911年に出版された竹友藻風・訳『ルバイヤット』。現在は、マール社から復刻版(2005年)が出ています。

 蒲原訳よりも原文に近い翻訳らしいことは判りますが、かえって情趣が伝わらなくなった気がしますw 詩の翻訳は難しいですね。

 じつは、この竹友訳も、上の蒲原訳も、ハイヤームのペルシャ語から翻訳したものではなく、フィッツジェラルドの英訳からの重訳なのです。当時までに日本で出ていたルバイヤートはすべて英語からの重訳で、しかも大部分はフィッツジェラルド訳からでした。

 日本で初めてペルシャ語から翻訳したルバイヤートが現れたのは 1920年、『中央公論』誌に掲載された荒木茂訳でした。






 フィッツジェラルドの英語訳は、ルバイヤートが世界に知られるきっかけになった訳詩集なのですが、ハイヤームの原詩を正確に訳したものではなく、かなり自由に意訳していまして、‥いわば、ハイヤームのルバイヤートにインスピレーションを得たビクトリア朝風の英詩と言ったほうがよいものです。





「フィッツジェラルドの名作,換言すれば原詩の忠実な訳というよりはむしろハイヤームの詩からインスピレーションを得て作詩した英詩人の詩による邦訳
〔…〕については今日まで十数種以上の優れた全訳・抄訳が発表されてきたが,これはむしろ英文学の領域に属するので,ここでは割愛する.」
黒柳恒男・訳注『ルバーイヤート』,1973,大学書林,p.XIV.





「フィッツジェラルドは、原文のペルシャ語ルバーイイの1行分ぐらいを訳し、あとは自らの感性で英語詩に仕立てたようだ。
〔…〕

 フィッツジェラルドは無神論者であることから考えて、ハイヤームの詩に精神的な慰めを求めてはいなかっただろう。

 また、フィッツジェラルドの訳詩は、ハイヤームが生きた時代の出来事や、イスラム思想の社会で戒律に逆う詩をつくりつづけたハイヤームの思想面をまるごと排除している。

 以上の観点から、フィッツジェラルドの『ルバイヤート』は英語のすぐれた詩ではあるかもしれないが、オマル・ハイヤームの精神世界を反映してはいないと言えそうだ。」

金子民雄『ルバイヤートの謎』,2016,集英社新書,p.66-67.















 ところで、日本でルバイヤートが知られるようになった 1910年代に、宮沢賢治、保阪嘉内の2人はちょうど青年期を迎えていました。そこで、1917年、盛岡高等農林で彼らが発刊した同人誌『アザリア』にも、フィッツジェラルド訳のルバイヤート1篇が英語で載せられているのです:




「And that inverted Bowl we call the sky,
 whereunder crawling coop't we live and die,
 Life not thy hands to It for help, for it
 Rolls impotently on as Thou or I」

保阪嘉内「打てば響く」, in:『アザリア(THE AZALEA)』,IV号,1917.12.16,p.6.





 『アザリア』に保阪が「小説」と銘打って書いた文章の途中に、英語のまま(訳なし)挿入されています。


 のちほど詳しく検討しますが、このルバイイの引用は、宮澤賢治の詩や童話に大きな影響を与えましたし、賢治と嘉内の“友情”のモメントとしても重要なものです。⇒:『ゆらぐ蜉蝣文字』8.2.21





 この詩は、フィッツジェラルド訳『ルバイヤート』の78番。当時、イギリスから取り寄せる原書は高価で、学生などが手に入れるのは無理だったようですが、上田敏・編『ビクトリア詞華集(The Victorian Lyre)』(1899年,丸善)という英詩アンソロジーが日本国内で出版されていました。多くの人はそれを見ていたそうです。


 ただし、保阪の引用を、現行のマール社版竹友訳に併載されているフィッツジェラルドの英詩原文と比べてみると、若干の異同があります。

 まず、3行目の「Life」は原文では「Lift」。これは保阪か製版者の誤記でしょう。life では意味が通りません。

 1行目「the sky」は原文では「The Sky」。2行目「whereunder」は「Whereunder」,「coop't」は「coop'd」。3行目「it」は「It」。これらも英詩の表記のしかたをよく知らないことによる写しまちがえ。

 3行目「thy」,4行目「Thou or I」はフィッツジェラルド原文(『The Victorian Lyre』も同じ)では「your」「you or I」。4行目「Rolls inpotently on」は「As impotently rolls」(『The Victorian Lyre』は「As impotently moves」)。これらはどちらでも英詩として平仄が合っています。とすると、保阪に伝わったのは、現行マール社版とは別のテキスト(フィッツジェラルドの改訂か、引用過程で他の人の手が加わったか)だということになります。





  





 当時出ていた竹友訳では、この詩は、つぎのように翻訳されています:




「    七十八

 またわれら空と呼ぶ覆
(かへ)したる鉢、
 その下に這ひ入りて生き死ぬものに、
 手をあげて、助もとむるなかれ、そは、
 汝と我がごとくめぐれり、力なく。」






 金子さんの口語訳も見ておきましょう:



「われらが天空と呼ぶ  あの逆さまになった椀
 その下で這いまわり  閉じ込められて生死するわれら
 それに手を差しのべて 助けを求めようと無駄なこと
 天空とてわれらと同じ むなしくめぐっているのだから」



 つまり、「われら」が「手を差しのべて助けを求め」るのは、「逆さまになった椀」つまり「天空」に対してです。フィッツジェラルドの原文は“It”(3行目中央)を斜字体にして注意を促していますから、まちがえないでしょう。この点、竹友訳は誤訳と言わなければなりません。


 いまペルシャ語から直接訳されているハイヤームのルバイヤートの中を探しても、このフィッツジェラルド訳78番にぴったりと当てはまるものが見当たりません。おそらく、フィッツジェラルドは、何篇かのルバイヤートを合わせて1篇として意訳したのでしょう。





 ここで、保阪の「打てば響く」を、詩の引用の前後の部分を含めて見ておきたいと思います:




「吾々が絶対と云ふもの。しかしこれは吾々がつけた言葉だ、吾々が真の絶対の絶対の絶対と云ふもの。これまた吾々がつけたのだ。その上に我々がなんと云ふても吾々がつけた名にすぎない。

 こゝにほんとうに限りなき、きわまり無き空と土とを思ふ。

 この空と土とに居ますまことのひとがある。ほんとうにある。そのひとびとが見たら、おそらくこのわれわらの頑張り屋達の世間がほんとうに滑稽に、ふけばとぶ虫の様に見えるにちがひない。そのひとだ。その時だ。その事だ。その人に又その時に若し私が立つ事が出来たとしたらどうだらうか。

 人間とは一たい何だい

 人間なんかと云ふそのおれとは一たい何だい

 なき出さずにや居られないぢゃないか。
〔…〕勝手な熱をふいて勝手に悲観して勝手に死んで行くがいゝ。勿論人間のわれわれは勝手なものだ。吹けばとぶだらう。でっかーい眼で、――心で見てゐたら吹き出さずにや居られないだらう。〔…〕

 しかし、ここにまことの願あり、

“And that inverted Bowl we call the sky,
 whereunder crawling coop't we live and die,
 Life not thy hands to It for help, for it
 Rolls impotently on as Thou or I”(from Omar Khayyam)

 法守る神も鑑給へ か弱なる身に起したる願ひのまこと

 嗚呼遂に一人の友を我は無し………………

 あゝ何と憐れな詞だらうよ。何と悲しき言葉だらうよ。
〔…〕

 友よ、まことの恋人よ倚り来よ。

 われと思ふさま泣かうではないか、
〔…〕そして泣いて泣いて泣き死んだら恨はないであらう。そうだ恋人よ。おゝ恋人よ。まことの国はその時より我らの眼のまへに展開せられて来るのではないか。」
『アザリア(THE AZALEA)』,IV号,pp.5-6.




 ↑これを見ると、保阪がこの英詩の意味を十分に理解して引用していることはまちがえありません。

 「か弱なる身に」「まことの願ひ」を起こした人とは賢治を指しています。「きわまり無き空と土」――広大無辺の宇宙の下で、「吹けばとぶ」ような人間たちが「勝手な熱をふいて勝手に悲観して勝手に死んで行く」この世界に、「まことの国」をもたらそうという途方もない「願ひ」を起こした賢治に「まことの恋人」として倚り添い、ともに「泣いて泣いて泣き死ん」でやろうと言うのです。

 ここで、ルバイヤートの引用は、私たち人間の卑小さと比べ、全能神の支配する宇宙のとほうもない巨大さ、そして賢治の「願ひ」の厳しさ、むなしさを強く印象づけています。







彼方さん
作   







 ところで、ギトンも初めは、保阪が自分で、この英詩を見つけてきたものだと思っていました。しかし、国会図書館で『The Victorian Lyre』のマイクロ・フィルムを見て、その思いは吹き飛びました。

 『The Victorian Lyre』には、フィッツジェラルド訳のルバイヤートが、1番から101番まで、番号通り順序よく並んでいるのです。もちろん、日本語訳も注釈も付いていません。高等農林学校2年の保阪の英語力で、1番から順に英詩を読んで理解して行って、78番(『The Victorian Lyre』では72番)の内容が気に入って選び出したとは、とても思えないのです。

 また、現在遺されている保阪の日記や歌稿ノートにも(ギトンは直接見る機会を得ていませんが)、この詩以外のルバイヤートに触れた箇所は、見られないようです。



 そればかりでなく、『The Victorian Lyre』掲載のテキスト↓は、マール社版の原文とも、保阪のテキストとも、若干異なっている箇所があります:


「And that inverted Bowl they call the Sky,
 Whereunder crawling cooped we live and die,
 Lift not your hands to It for help--- for It
 As impotently moves as you or I」


 そうすると、保阪の典拠は『The Victorian Lyre』ではないと言わなければなりません。

 保阪は、誰かからこの英詩を教わったのではないか?‥ということが考えられてきます。



 保阪や賢治が在学当時通っていたと思われる盛岡のプロテスタント教会:『浸礼教会』『下ノ橋教会』には、アメリカ人の牧師・宣教師がいました。しかし、プロテスタントの宣教師が若い学生に、世紀末風に退廃したルバイヤートを教えるというのは、ちょっと考えられないように思います。

 そこでさらに憶測を広げてみると、保阪が卒業した甲府中学校には、彼の在学当時、札幌農学校でクラーク教頭の教えを受けた大島正健校長、そして大島が招へいした英語教師・野尻抱影がいました。⇒:風の谷(3) 甲府




「大島は英語教育に力を入れ、明治39年に英語教師として野尻抱影を招聘した。野尻抱影は大正元年3月までの約6年間にわたって甲府中学校に在職した
〔…〕

 野尻は、星の研究家として知られているが、嘉内が入学した明治43年に天文学上の大きな出来事があった。ハレー彗星の接近である。野尻は、明治43年5月19日白根三山
〔南アルプス北部。甲府から見える―――ギトン注〕の空にハレー彗星を見、その様子をスケッチしている。〔…〕実は、嘉内の中学生時代のスケッチブックの中にもハレー彗星を描いた絵がある。〔これは偶然とは思えませんから、野尻が生徒たちを連れて、彗星の観察会を催したのではないでしょうか―――ギトン注〕
『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』,2007,山梨ふるさと文庫,p.25.




 野尻抱影は、保阪を通じて宮沢賢治にも、間接的にさまざまな影響を及ぼしたと言われています。賢治の星空への関心がそうですし、野尻が早大英文学科で指導を受けた小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)から、原始仏教の死生観が、野尻、保阪を通じて賢治に伝えられたという指摘もなされています。⇒:トキーオ(8) 帝国図書館前の小泉八雲像

 しかし、これらについては、のちほど詳しく述べることにしましょう。







甲府第一高校(旧・甲府中学校)にある大島正健の肖像レリーフと“Boys, be ambitious”の揮毫






 野尻、もしくは大島から保阪に伝えられたルバイヤートは、賢治にも大きく深い影響を及ぼしています。

 

「日輪青くかげろへば
  修羅は樹林に交響し
   陥りくらむ天の椀から
    黒い木の群落が延び
     その枝はかなしくしげり」

宮沢賢治「春と修羅」



 ↑これが代表的なものですが、これ以外にも、天空を「天の椀」「天盤」「蒼穹」などと表現した作品は枚挙のいとまがありません。

 また、賢治は、日月星辰の日周運動を、「天の椀」がぎしぎしと軋りながら回転しているのだと感じていました。これもやはり、ルバイヤートの影響と考えられます。




「夜になりました。

 それから夜中になりました。

 雲がすつかり消えて、新らしく灼かれた鋼の空に、つめたいつめたい光がみなぎり、小さな星がいくつか聯合して爆発をやり、水車の心棒がキイキイ云ひます。

 たうとう薄い鋼の空に、ピチリと裂罅
〔ひび〕がはひつて、まつ二つに開き、その裂け目から、あやしい長い腕がたくさんぶら下つて、烏を握〔つか〕んで空の天井の向ふ側へ持つて行かうとします。烏の義勇艦隊はもう総掛りです。みんな急いで黒い股引をはいて一生けん命宙をかけめぐります。兄貴の烏も弟をかばふ暇がなく、恋人同志もたびたびひどくぶつつかり合ひます。」
宮沢賢治『烏の北斗七星』より




 「水車の心棒」とは、天空の“鋼の椀”を回転させている宇宙の機械装置です。

 天空は“逆さまの椀”ないし“鉢”だと考えるので、日周運動の振動によって、陶製の“鉢”にひびが生じると感じるのです。そのような天空面は、「トルコ石」「トルコ玉
(ぎょく)」「ターコイス」などと表現されます:




「野はらのはてはシベリヤの天末

 土耳古玉製玲瓏のつぎ目も光り」

宮沢賢治「丘の眩惑」,『春と修羅』所収






 そこで、次回は、宮沢賢治へのルバイヤートの影響について論じたいと思います。





   








ばいみ〜 ミ




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カテゴリ: ユーラシア

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