08/13の日記
22:02
【ユーラシア】グレイト・ゲーム(1)
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こんばぬわ(^。^)o
同居人に言われて、部屋にエアコン入れました。
電気屋さんも、同居人が探してきた小さなお店に頼んだら、とっても親切で、顔もまぁまぁのイケメンお兄さんで(顔は関係ないか)、お値段もほどほどにお安くてよかったです。
涼しいと‥、なんか家にいるときの気分がまるでちがうw
ちなみに、今夜のおかずはニラたま:
ぼくは、同居人のマラたまのほうが好きなんだけど…… おっと失言w
作ったはいいけど、なかなか帰って来んのう。。。
というわけで、同居人は、ここんところ涼しい部屋に引きこもってネットゲームに余念がありませぬ(^,^)
そこで、わたくしめもグレイト・ゲームの本を1冊完読しました:
金子民雄さんの『西域 探検の世紀』(岩波新書 新赤776)――今年の1月に再版されていますから、今なら入手容易です。
あはは‥、ネトゲとは関係ありません。「グレイト・ゲーム」とは、現実世界の国家間“ゲーム”です。中央アジアを舞台にした大国間のスパイ戦争・情報戦。
19世紀から第1次大戦をまたいで第2次大戦がはじまるころまでのお話。
19世紀には、インドでセポイの反乱が鎮圧され、インド亜大陸は隈なくイギリスの支配を受けるようになったのですが、‥その後でも、
カシミールの北のほうには、まだインド人の小さな土侯国が2,3、植民地に編入されないで残っていました。
まして、そこから“世界の屋根”パミール高原を、北に越えた中央アジア―――シルクロード・オアシス地域となると、さすがに大英帝国の勢力もほとんど及んでいなかったんですね、‥西域(タリム盆地)の西の入り口カシュガルに、領事を駐在させておくのがせいぜいだったのです。
その一方で、ロシア帝国は、すでに西トルキスタン―――カスピ海からサマルカンドまで:現在のトルクメン共和国、ウズベク共和国―――を手中に収めて、カシュガルにも代表部を置き、あわよくばインドへ南下しようと虎視耽々と狙っています。
こんな砂漠の真ん中に軍隊を派遣できるわけでもありませんから、イギリスとロシアの勢力争いは、もっぱら情報戦です。
両国とも、各オアシス都市の長老を秘密の情報提供者にして、スパイ監視網を張り巡らしています。
各交通路を行き来する隊商や巡礼僧、さらには西洋人探検家‥ かれらの中に混じったスパイの活動を探索して本国に報告するためです。
“混じった”と言うより、ほとんどすべての通行者は、多かれ少なかれどこかの国とつながっていて、ひそかに現地を測量したり、他国の勢力の動きを聞きこんだりしていたようです。
この“西域”――タリム盆地周辺は、当時も名目上は中国(清国)の領土だったのですが、―――現在の「新疆ウイグル族自治区」:今でもなにかと紛争が絶えないですね―――
清国の地方官は、“君臨すれども統治せず”。窃盗・殺人が起きようが、外国の勢力が入り込もうが、まったく我関せずでしたから、スパイ活動などは、各国のし放題でした。
ヘディン、スタインなど、有名な探検家の中央アジア探検も、探検にかかる莫大な費用は、ヨーロッパのどこかの政府が出しているわけですから、表向きは学術調査であっても、情報収集が内密の目的でない限り、探検隊など送れるわけがないのです。
しかし、そうした情報戦の渦中に、いわば“何も知らずに”飛び込んだ‥探検隊の中の唯一の例外―――純粋な西域学術探検が、日本の「大谷探検隊」だった―――というのが、金子さんのこの本の大意です。
「大谷探検隊」とは、
浄土真宗本願寺派(西本願寺)の法主(ほっす)・大谷光瑞(こうずい)が、1902年 - 1914年(明治35年 - 大正3年)の間、前後3次にわたって中央アジアに派遣した探検隊:
第1次探検(1902年 - 1904年)
大谷光瑞・本多恵隆・井上円弘(カシュガル→北インド)
渡辺哲信・堀賢雄(カシュガル→西域)
野村禮譲・茂野純一(雲南方面)
第2次探検(1908年 - 1909年)
橘瑞超・野村栄三郎(モンゴル→西域)
第3次探検(1910年 - 1914年)
橘瑞超・ホッブズ・吉川小一郎(西域・ジュンガリア)
英・露・中は、「大谷探検隊」も、当然のことながらほかの国の探検隊と同様に、日本政府の意を受けたスパイ団だと決めており、とくに第2次探検の際には、探検隊の動静を逐一探っていました。(『西域 探検の世紀』,pp.129f.)
しかし実際には、「大谷探検隊」は、大谷光瑞が個人の発案で派遣した・まったく私設の探検隊で、日本の政府からもどこからも、資金援助も指示も受けていなかったのです。
ばいみ〜 ミ彡
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