02/24の日記

21:43
【宮沢賢治】旅程ミステリー:東海篇(3)

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(3)ホーム・ドクターの呟き。。。





 歴史を調べていて、どうにもわけがわからなくなってしまったとき、ギトンは、現代の身の回りの問題に引き直して考えてみることにしています。

 たしかに、1921年と2016年では100年近くの隔たりがあります。社会のしくみも、人の考えもすっかり違っているかもしれません。ですから、現代に引き直して思いついたことが、そのまま100年前の時代に通用することはないかもしれません。

 それでも、われわれの感性が自由にはたらく現代の社会で一度考えてみることは、考察の1プロセスとして有益だと思うのです。




 宮澤父子は、旅行3日目の一日で伊勢から近畿に移動し、比叡山を越えて(当時の手段は徒歩のみ!)その日のうちに京都に入ってしまう計画だったことは、まちがえないでしょう。

 最初からその計画で、そのために朝暗いうちに二見の旅館を出発し、午前10時過ぎには大津に着いているのだとすれば、

 琵琶湖遊覧でもハイキングでもなく、延暦寺参詣こそが目的の父子としては、何よりも早く坂本へ行って登りはじめ、日が暮れるまでに山頂の諸寺を廻るための時間を、できるだけ長く確保しようとするのではないでしょうか。

 “比叡越え”は、通常ならばまる一日かかる旅程だということは、宮澤父子には十分解っていたはずです:



〔…〕二見に行き、海岸の旅館に宿を取りました。二見は早朝に発つことになりました。

 
〔…〕この日のうちに、京都には入る予定であったのに昼を過ぎたことですから、幸いに坂本からはそんなに坂もけわしくなかったので、急いで登りました。〔…〕
(佐藤隆房『宮澤賢治』,a.a.O.)



 という政次郎氏の回想(佐藤氏の聞書き)は、

 比叡越えには時間がかかるのに、登る前に正午を過ぎてしまった‥これは急がなければならない‥父子のそういう認識を伝えているのだと思います。



 にもかかわらず、佐藤氏によれば、じっさい、坂本(下坂本港)に着いたのは午後1時頃なのであり、父子は、大津(膳所港または石場浜港)から下坂本港まで1時間たらずの船旅に、(大津[現・膳所]駅から港までの移動時間を含めて)2時間半以上かけていることになるのです。。。

 なぜ、こんなところで時間をかけたのでしょうか?

 なんとなくぶらぶらしていた、もたもたしていた‥というような想像は、この場合にはあてはまらないと、ギトンは思います。

 父子は、この日最初から早旅の計画を立てていて、夜明け前に車夫を呼んで山田駅の上り一番列車に駆けつけ、‥坂本から登山を開始した後は猛スピード(登り2時間としても、シゴキの登山タイムで、参拝者としては猛スピードです)で駆け抜けているのですから、

 その中間の大津→坂本の移動だけが、こんなにもったりしているのは、どうしても解せないわけです。











 旅程の途中で、いやに時間がかかっている‥という場合、現代の私たちなら、どう考えるでしょうか?

 乗り物が遅れたと思うのがふつうではないでしょうか?

 ギトンが通勤に使っている常磐線の場合、「線路内にお客様が立ち入りました」だの「信号が故障しました」だので、5分、10分の遅れは日常茶飯事です。しかし、1時間を越える遅れとなると、そうとうひどい人身事故か、強風で電車が利根川や江戸川の橋を渡れない‥という場合です。


 同じことは、琵琶湖の船でもあるのではないでしょうか?とくに、強風で船が欠航したり遅れたり、といったことはありそうに思います。汽車が正常に走っているときでも、船は強風で出航できない‥という場合がありそうです。

 天候以外にも、船の故障とか、その他人為的な原因で遅れることは、いろいろ考えられます。たとえば、当時は船員のストライキはありえなかったでしょうか?

 もちろん、当時は労働三権など保障されていませんから、ストライキはすべて違法です。おおっぴらにはできないでしょう。しかし、船の故障にかこつけたり、風の強さを誇張したりして事実上のストライキをして船を遅らせる‥いわば“順法闘争”で雇い主の譲歩を引き出そうとする‥そういったことは、あったのではないでしょうか?

 この時代の大規模な労働争議は歴史に残っていますが、遊覧船を1時間遅らせるといった小さな(日常的な?)サボタージュは、まったく記録されていないかもしれません。


 それにしても、佐藤氏の伝記にも、ほかの著者の聞書きにも、「船が遅れた」といった記述がまったく無いのは、どうしてでしょうか?

 もし船が遅れたとしても、政次郎氏は‥乗客は、なぜ遅れているのか知らなかった、‥知らされなかったのではないか?

 電車が1分遅れただけで、駅の窓口に遅延証明書を求める乗客の列が出来る現代の交通機関とは、当時は違っていたでしょう。30分、1時間遅れただけで文句を言う乗客は、いなかったかもしれません。しかも、もともと“のんびり”が売りの遊覧船です。乗っていたらなんとなく遅れて‥、途中の港の停泊時間がなんとなく長くて‥、着いてみたら時刻表より1時間遅かった‥‥なーんて感じかもしれません。





 そこで、佐藤氏の記述をもう一度見てみますと:




〔…〕昼頃大津駅に下車し、琵琶湖を坂本かよいの乗合汽船に乗りました。船中で食事をし、船は二時間ほどかかったようで、午後一時頃坂本に着きました。」
(佐藤隆房『宮澤賢治』,a.a.O.)





 「船は二時間ほどかかったようで」という言い方が微妙です。

 「ようで」とは、どういう意味でしょうか?‥“1時間かかったのか2時間かかったのか、よく分からない”という意味にも取れます。あるいは、“2時間かかっているはずだが、どうして2時間もかかったのか、よく分からない”という意味かもしれません。

 ともかく、この「二時間」については、佐藤氏も(あるいは、語っている政次郎氏自身も)首をかしげている感じが、「ようで」という言葉遣いから伝わってきます。



 そういうわけで、私たちとしては、2氏の「?」をそのまま受け取って‥、なにか原因は分からないが、船が遅れた‥‥港で待たされたのか、乗ってから2時間かかったのかは断定できないが‥‥とにかく、船の遅れで、坂本まで2時間半かかってしまった‥‥そう理解すべきだと思います。

 佐藤氏の「船は二時間ほどかかった」という記述をすなおに受け取れば、(たとえば)父子は、大津駅到着後急いで10時50分膳所出航(あるいは11時石場浜出航)の船に乗ったのだが、船は遅れて、1時頃坂本港に着いた───ということになります。



 ここで、もう一度、当時の時刻表を出しておきます↓




○官有鉄道

大津(現・膳所)着 1022 1317


○湖南汽船

膳所発 1050 1130 1210 1250 1330 1410
石場発 1100 1140 1220 1300 1340 1420  
坂本着 1150 1230 1310 1350 1430 1510









 







 以上の考察によって、午後1時坂本着、2時間の徒歩登山、午後3時根本中堂参詣───という佐藤氏の記述は、信憑性が高いということが分かりました。

 父子の乗った列車は、堀尾氏、小倉氏、および『新校本全集』の想定する“二見浦7時22分発”ではなく、佐藤氏の記述から読み取れる“山田5時15分発”であったと言えます。

 その場合に生ずる、途中“2時間の船旅”という疑問点も、遊覧船の運航の遅れを想定すれば矛盾がないということが判明しました。





 この日、宮澤父子は、一日で比叡越えをして京都に入る──という計画の下に、夜明け前に山田駅に駆けつけ、列車を乗り継いで、午前10時過ぎには大津駅(現・膳所駅)に到着しました。

 このまま行けば、余裕で延暦寺の寺刹を廻って、夕方には京都に降りられるはずでした。“山越え”に備えて腹ごしらえをしておこう‥と、父子は船内での食事を予約して、ゆったりした気分で乗船したに違いありません。

 ところが、あろうことか、船の運航が遅れてしまい、坂本港に着いて時計を見ると、午後1時。すでに日は中天を回っています。

 それでも、脚力に自信のあった父子は、登り行脚で遅れを取り戻そうと、他の登拝者を追い越し追い越し、登龍の勢いで最短の本坂参道を早駆けします。

 途中、何度か立ち止まって琵琶湖の風景を振り返ったほかは、休みなく登りつめて、港から約2時間という登山部並みのスピードで午後3時に根本中堂に入った───ざっとこんな状況だったと思われます。






 さて、延暦寺・根本中堂までの旅程が判明したところで、そのあとの峰めぐりと京都への下山の旅程についても考察を進めて行きたいのですが‥



 それらについては、ギトンは、じっさいに現地を踏んだあとで再度考えてみたいと思っています。というのは、現地の“感じ”をつかまないことには解決しない疑問をいくつか抱いているからです:





       ※

778 うち寂む大講堂の薄明にさらぬ方してわれいのるなり。

       ※

781 みづうみのひかりはるかにすなつちを掻きたまひけんその日遠しも。

       ※

783 みづうみは夢の中なる碧孔雀
〔あおくじゃく〕まひるながらに寂しかりけり。

       ※〔随縁真如〕

785 さながらにきざむころの峯々にいま咲きわたす厚朴
〔ほお〕の花かも

       ※

786 暮れそめぬふりさけみればみねちかき講堂あたりまたたく灯あり。

(『歌稿B』)




 根本中堂のあと、↑大講堂に参詣し、そのあと下山にかかるあたりの和歌から拾ってみたのですが、

 #778の「薄明」は、あたかも夕刻を思わせますが、じっさいの時刻は、午後3時からそれほど経っていないはずです(根本中堂から大講堂まではスグです)。それでも、もう陽は傾き始めている。傾いた陽の光が、薄暗い大講堂に差しこむようすを「薄明」と表現したかもしれません。

 #781の「湖の光はるかに」も、傾いた陽の反射で、琵琶湖は輝いて見えるが、周囲の寺刹はすでに薄暗い状況を叙景しているでしょう。

 ところが、#783では「湖は‥真昼ながらに」と言うのです。あるいは、じっさいの「まひる」──午後1〜3時の船上での琵琶湖の印象が、脳裡に残っているのかもしれません。

 ともかく、このへんの事情は、大講堂なり、延暦寺のどのへんの場所から琵琶湖が見えるのか、どんなふうに見えるのか、といったことを現地で確認しないことには何とも言えません。 





 






 上に引用しなかった歌も含めて全体に、賢治は、人が少なく閑散とした延暦寺のようすを見て、“諸宗の宗祖たる天台宗の本山にしては、さびれすぎている”という失望の思いを禁じえなかったようです。佐藤氏の記述にも:



〔…〕根本中堂に参じ大講堂を拝しました。信仰に燃える賢治さんは参詣人もなく、研学の僧もない、静かな講堂を見て内心甚しく憤懣でありました。

  
〔…〕

 帰途は裏に回って白川路を行くこととなりました。」

(佐藤隆房『宮澤賢治』,pp.70,72.)


 と書かれています。

 しかし、それにしては、#785の歌は、静かな悟りを得たような歓喜に輝いています。

 ご存知の方は、散文『峯や谷は』や『マグノリアの木』を想起されることでしょう⇒『峯や谷は』 『マグノリアの木』





〔峯や谷は〕

『アザリア』第6号 1918.6. 

「峯や谷は無茶苦茶に刻まれ私はわらじの底を抜いてしまってその一番高いところから又低いところ又高いところと這ひ歩いてゐました。

 雪がのこって居てある処ではマミと云ふ小さな獣
(ケモノ)の群が歩いて堅くなった道がありました。

 この峯や谷は実に私が刻んだのです。そのけわしい処にはわが獣のかなしみが凝って出来た雲が流れその谷底には茨や様々の灌木が暗くも被さりました。雨の降った日にこの中のほゝの花が一斉に咲きました。

  けわしくも刻むこゝろのみねみねにさきわたりたるほゝの花はも。

 又、

  こゝはこれ惑ふ木立のなかならず忍びを習ふ春の道場。

 ほゝの花は白く山羊の乳のやうにしめやかにその蕋は黄金色に輝きます。
〔…〕





マグノリアの木


〔…〕と思ふと俄かにぱっとあたりが黄金に変りました。

  霧が融けたのでした。太陽は磨きたての藍銅鉱のそらに液体のやうにゆらめいてかゝり融けのこりの霧はまぶしく蝋のやうに谷のあちこちに澱みます。

 (あゝこんなけはしいひどいところを私は渡って来たのだな。けれども何といふこの立派さだらう。そしてはてな、あれは。)

  諒安は眼を疑ひました。そのいちめんの山谷の刻みにいちめんまっ白にマグノリアの木の花が咲いてゐるのでした。その日のあたるところは銀と見え陰になるところは雪のきれと思はれたのです。

 (けはしくも刻むこゝろの峯々に いま咲きそむるマグノリアかも。)

  斯う云ふ声がどこからかはっきり聞えて来ました。諒安は心も明るくあたりを見まはしました。

  すぐ向ふに一本の大きなほうの木がありました。その下に二人の子供が幹を間にして立ってゐるのでした。

 (あゝさっきから歌ってゐたのはあの子供らだ。けれどもあれはどうもたゞの子供らではないぞ。)諒安はよくそっちを見ました。

  その子供らは羅
〔うすもの〕をつけ瓔珞をかざり日光に光り、すべて断食のあけがたの夢のやうでした。〔…〕

  諒安はしづかに進んで行きました。

 『マグノリアの木は寂静印
〔じゃくじょういん〕です。こゝはどこですか。』
 
 『私たちにはわかりません。』一人の子がつゝましく賢こさうな眼をあげながら答へました。

 『さうです、マグノリアの木は寂静印です。』

  強いはっきりした声が諒安のうしろでしました。諒安は急いでふり向きました。子供らと同じなりをした丁度諒安と同じくらゐの人がまっすぐに立ってわらってゐました。

  
〔…〕

 『ごらんなさい、そのけはしい山谷にいまいちめんにマグノリアが咲いています。』

 『えゝ、ありがたう、ですからマグノリアの木は寂静です。あの花びらは天の山羊の乳よりしめやかです。あのかほりは覚者たちの尊い偈
〔げ〕を人に送ります。』

 『それはみんな善です。』

 『誰の善ですか。』諒安はも一度その美しい黄金の高原とけはしい山谷の刻みの中のマグノリアとを見ながらたづねました。

 『覚者の善です。』その人の影は紫いろで透明に草に落ちてゐました。
〔…〕
(『新校本宮澤賢治全集』,9巻,本文篇,pp.270-272.)












 『峯や谷は』は、盛岡高等農林卒業直後の1918年6月、同人誌『アザリア』の最終号に掲載したもの。『マグノリアの木』は、その発展形で、原稿用紙の種類(「10/20」藍色罫)と筆跡から判断すると、1921年より後で、『土神ときつね』と同じ頃、『春と修羅・初版本』の《印刷用原稿》に取りかかる(1923年後半)よりも前と推定されます。

 そうすると、信仰の模索の中でもがいているような『峯や谷は』から、‥ようやく平静な“覚り”の地点に達した『マグノリアの木』に至る間に、1921年比叡山での↑#785 の短歌があることになります。


 これらの散文、そして和歌に込められた賢治の感銘は、いわば“寂静の覚り”です。

 ↑上の延暦寺での和歌の「うち寂む」「寂しかりけり」その他全体をおおっている・さびしい気分は、必ずしも、天台宗の現状に対する幻滅と憤懣のみを表しているとはかぎらない‥ むしろ、“寂静の覚り”につながる気分を表しているかもしれない‥ ということには、留意すべきだと思います。


 延暦寺の現状に接した賢治の印象を、批判的・否定的なものとのみ見ることはできないと思うのです。※



※ ここで個人的なことを言わせてもらえば‥、賢治が比叡山で失望ばかりを味わったわけではないことを知って、ギトンは、ほっとしているのです。というのは、「参詣人もなく、研学の僧もない」、つまり人が少ない、人気が無い、ということから、その宗派が落ちぶれていると考えるのは、いかにも低レベルではないかと思うからです。ギトンは宗教のことは分かりませんが、学問や思想諸派に引き直して考えてみれば、信奉者が多いとか少ないとか、行事が盛んだとか静かだとかいうことは、その学派が正しいかどうかとは無関係なはずです。宗教だって、同じではないでしょうか?宗派は営利会社ではないし、教義は商品ではありません。売れるものが良いものとは限らない。“売れていないから失望した”のだとしたら、宮沢賢治の信仰はそんなに低レベルだったのか!と思わなければなりません。しかし、幸い、そうではなかったようです。







 さいごに、#786「暮れそめぬ ふりさけみれば みねちかき 講堂あたり またたく灯あり。」は、根本中堂・大講堂よりも標高の低い大乗院のあたりから、あるいは、そこからさらに行って下山路にかかってから、大講堂を振り返っているようです。

 すでに、日は西の稜線(比叡山で最も高い大比叡〜四明岳の尾根)に沈んで、大講堂には燈火がともっているというのですから、(大乗院の地点で、1921年4月7日の日没時刻は、18時22分)午後5時は回っているでしょう。6時過ぎているかもしれません。

 ここも、じっさいに現地へ行って、大講堂付近が下から見えるのは、下山路のどのへんまでなのか、確認する必要があります。





 





 ともかく、今回考察して分かったことは、佐藤隆房氏の宮沢賢治伝は、少なくとも政次郎氏からの聞き取りとしては非常に信頼性が高い、正確なものだと考えてよい、ということです。


 佐藤隆房(1890-1981)、千葉大学医学部卒、外科医、医博。花巻市に佐藤外科耳鼻科医院を開業し、1923年、花巻城址の『稗貫農学校』跡地に『花巻共立病院』(現『総合花巻病院』)を創立、院長。1925年頃宮澤賢治に病院花壇の設計を依頼した経緯、および晩年の賢治を足しげく往診して最期を看取った状況は、宮沢賢治のいくつかの詩と短篇小説に描かれている。1942年、賢治生前の自己の体験と、賢治の父ほか関係者からの聞き取りによる伝記『宮澤賢治』を上梓、改訂増補を重ねた同書は、『宮沢賢治―素顔のわが友』という題名で現在も版を重ねている。版元:富山房企畫⇒Amazon

 花巻の「雨ニモマケズ」詩碑(『羅須地人協会』跡地)近くに私設博物館『桜地人館』を開設し、宮澤賢治、高村光太郎ほか花巻ゆかりの芸術家の作品・遺品を展示。同館は佐藤氏没後、法人として存続している。





 宮澤家の主治医であった佐藤氏の聞書きが、ほかの諸氏よりも正確だということについて、

 ギトンはやはり、ホーム・ドクターという佐藤氏の立場が大いに益したのだと思います。

 地元に居るホーム・ドクターならば、しじゅう訪問して家族の話を聞く機会に恵まれています。遠地からはるばる花巻に足を運んで聞き取りをした小倉豊文氏などより、その点ははるかに有利です。

 しかも、医師というものに対して、私たちは特別な心構えを持たないでしょうか?私たちは、診察を受ける際には、自分の症状や体験を、できるだけ正確に話そうと努めるものです。しじゅう診察を受けているホーム・ドクターならば、無意識のうちにそういう態度をとるようになるでしょう。単なる思い出話をする場合でも、相手がドクターならば、無意識に正確に思い出して正確に話そうとするのではないでしょうか?





花巻市の桜地人館






ばいみ〜 ミ彡  


  
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カテゴリ: 宮沢賢治

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