02/22の日記

20:54
【宮沢賢治】旅程ミステリー:東海篇(2)

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(2)宮澤父子はカモシカだった?!





 ちょっと年代は跳びますが、京都〜伊勢間の時刻表が出てくるミステリーを、もうひとつ‥






 1921年4月初め、父・政次郎氏は、東京に“家出”中の賢治を訪ねて、関西巡礼の旅に誘います。

 ちょうどこの年は、天台宗の祖・最澄の1100年遠忌、聖徳太子1300年遠忌にあたっていたので、伊勢神宮→比叡山→(聖徳太子の墓のある)河内・叡福寺という巡礼のプランです。

 聖徳太子と最澄は、どちらも法華経信仰を日本に導入した重要人物なのです。聖徳太子は『法華義疏』という日本最初の法華経注釈書を書いていますし、最澄の天台宗でも法華経は教学の根本経典です。

 しかも、宮澤家の崇拝する浄土真宗・親鸞と、賢治が熱中している日蓮宗の日蓮は、どちらも比叡山延暦寺で学んで、天台宗から別れてきた宗派ですから、比叡山・最澄は、ふたりの信仰のいわば“共通の祖先”。

 これに、賢治が熱を上げている『国柱会』──国家主義派が、最も尊崇する天照皇大神宮(伊勢神宮)を組み合わせた政次郎氏のプラニングはなかなかのものですねw 頑固なミヤケンが、(おそらく)二つ返事で同行を承諾したのも、むべなり‥


 この旅の日付は記録がないのですが、賢治の短歌で判る天候や、訪れた寺刹の行事関係と照合して、

 (A) 4月2日東京出発、7日東京帰還。

 (B) 4月5日東京出発、10日東京帰還。

 ↑この2説が両極端で、間に 3日出発、4日出発 の諸説があります。

 しかし、いずれにしろ※、6日間の日数と旅程については異論がありませんから、(A)か(B)かはさほど重要ではない。
 

※ じつは、この1921年4月の・おそらく始業式前、花巻高等女学校教諭だった宮澤トシ(賢治の妹)は、母校・日本女子大学校に教師の斡旋を頼むために上京しています。この上京は、家出・下宿中の賢治の様子を見て来ることが副目的で、トシの報告を聞いた政次郎氏は、居ても立ってもいられなくなって突如上京して賢治を訪ねる───という経緯を推定しているのは、『妹トシの拓いた道』を書いた山根知子氏(同書,p.71.)この推定が当たっているとすると、花巻高女の始業式は4月5日(『新校本全集』「年譜」)で、トシの東京への往復には車中泊を入れて3日以上かかると思われるので、帰花と始業式の間に1日以上の休養日を入れたとすれば、トシ上京は4月1〜3日、その報告を聞いた政次郎氏の上京は、早くても3〜4日の夜行、(政次郎氏が賢治の下宿に1泊したことは複数の証言があるので)“父子巡礼”の出発は4月5日になります。







 






 さて、ミステリーは、つぎの点にあります。

 父子は、2日目に外宮・内宮の参拝を終えて二見ヶ浦に宿泊し、翌3日目(4月5日東京出発ならば4月7日)の朝、列車で次の“巡礼”先・比叡山に向かいます。

 この旅程は、堀尾青史氏の『年譜』では、↓つぎのようになっています:


「第三日、二見駅より京都行(草津線経由)にのり大津駅下車。琵琶湖岸石場浜から湖南汽船にのり船中食事、下坂本に下船。これより比叡登山約四粁。午後三時ころ根本中堂に詣で、更に進んで大講堂へ。」

(堀尾青史『宮澤賢治年譜』,1991,p.134.)



 『新校本全集』の「年譜」は、↑この堀尾氏の年譜を増補したもので、↑この部分は加除訂正無しにそのまま収録しています。


 ところが、『新校本全集』に掲載されている・この旅程の時刻表を見ますと:




 参宮線上り
〔中略〕二見浦 0713 山田 0728 亀山 0937

 関西本線上り
〔中略〕亀山 1026 柘植 1120

 草津線下り・東海道本線下り
〔中略〕柘植 1145 草津 1249 大津 1308

 湖南汽船
〔中略〕石場浜 1340 下坂本 1430



 つまり、下坂本港(☆)に着いたのは午後2時半で、30分後の3時には、山頂の延暦寺・根本中堂に詣でているというのです!!

 このタイムは、異常に速過ぎるのです。比叡山に徒歩で登拝した方には解ると思いますが、坂本から延暦寺まで30分というのは、もうおよそ人間わざではありません!!!!




☆ 坂本は、比叡山・東麓の登山口。現在は比叡山ケーブルの山麓駅があります。(当時はもちろん、ケーブルカーなどありません。すべて歩きです。)下坂本は、坂本の琵琶湖岸。





 ↑『年譜』には「約四粁」とありますが、マピオン地図で測ってみると、下坂本の湖岸から、最短の「本坂」参拝路を経由して根本中堂まで約5kmです。

 登山地図(昭文社『山と高原地図・京都北山』2007年版)の標準コースタイムでは、途中の京阪線坂本駅から根本中堂まで1時間45分。湖岸(漁港)から坂本駅までは約900m、約14分(時速4kmとして)。合計約2時間かかります。

 長距離歩行の速度は、個人差がありますが、健脚者ならば、平地で時速4km、上り坂では、これに標高差100mあたり6分を加えます(山歩きに慣れた人の場合です)。

 琵琶湖岸は標高85m、根本中堂の標高は668mで、比高583mですから、5km÷4km/h=1時間15分に、(583m÷100m)×6min=約35分を加えて、1時間50分。

 ただし、↑上の計算はどちらも休憩時間を入れていません。急坂の連続で脚が痛くなっても、歩き始めと同じ速度を維持してグングン登るっ!まさにシゴキのコースタイムです。


 ところがところが‥‥ 宮澤父子は、これを僅か30分で踏破したと言うんですから、すごいものですww 山岳マラソンの選手でも、こんなに速くは走れないでしょう。

 まさに人間ケーブルカー。カモシカ顔負け、鳥でなくては太刀打ちできません...


 イカロス父子の飛翔!!‥琵琶湖にドボンと落ちなかったのが幸いでしたねえ。。。w


 (ちなみに‥、こんな恐ろしい矛盾が、なぜ今まで見過ごされていたのかというと‥、たぶんミヤケンを崇拝する人々は、雨ニモマケズと口先で言いながら、歩くのを嫌がってケーブルカーで登っちゃうんでしょうねえww)












 いったいどうして、こういうことになったかというと‥

 列車と船の時刻表で、下坂本到着が午後2時半、そして3時に根本中堂に参拝‥というデータから、30分の“早駆け”という結果になったのです。

 しかし、この「午後三時ころ根本中堂に詣で」たという時刻は、堀尾氏の『年譜』にあるだけではなくて、政次郎氏から直話を聞いた他の著者も書いているのです:




「参宮を終えて、その夜は二見に行き、海岸の旅館に宿を取りました。二見は早朝に発つことになりました。

  
〔…〕

 二見を発ち、草津で乗り換え、昼頃大津駅に下車し、琵琶湖を坂本かよいの乗合汽船に乗りました。船中で食事をし、船は二時間ほどかかったようで、午後一時頃坂本に着きました。

 この日のうちに、京都には入る予定であったのに昼を過ぎたことですから、幸いに坂本からはそんなに坂もけわしくなかったので、急いで登りました。

 根本中堂下の坂は、余り長くはなかったのですが、、そこの坂だけはかなりの急坂だったので、二人は春の汗を額にしながら午後三時頃根本中堂に着きました。
〔…〕
(佐藤隆房『宮澤賢治』,改訂増補版(第5版),1970(初版1942),冨山房,p.70.)




 もし、堀尾氏の記述が佐藤氏の伝記に倣って書いたのでなく、自身も政次郎氏から「午後三時ころ」という時刻を聞いたのだとすれば、この時刻の信憑性は高いと思います。



 堀尾氏はもちろんのこと、佐藤氏が政次郎氏から聞いたのも、賢治が死んで何年も経ってからの思い出話で、時刻など細部の記憶はあてにならないかもしれません。政次郎氏は、延暦寺も伊勢神宮も、生涯何度となく訪れているはずで、この時のことを他の機会とごっちゃに記憶している恐れさえ、無いとは言い切れないのです。


 しかし、少なくとも比叡山に関しては、賢治のような健脚者を相方に、早駆けのように登り下りしたというような体験は、政次郎氏もこの時一度きりだったろうと思います。したがって、ほかのことはともかく、時刻や経路に関しては、かなり正確に覚えているのではないかと思うのです。


 それに、もし根本中堂が午後3時でなく、もっと遅かったとすると、そのあとの下山が困難になります(下山の所要時間は、京都・北白川まで約3時間50分!)。真っ暗になった後で(麓に下りてから暗くなるのではなく)見知らぬ山道を降りて行くことは、宮澤父子でも避けたにちがいありません。

 しかし、じっさいには京都へ徒歩で下山して、三条の旅館に泊っているのです。




 そういうわけで、根本中堂=午後3時という頂上の時刻は動かせないようです。

 “30分の早駆け”の謎を解くには、“下坂本=午後2時30分”のほうを疑わなければなりません。下坂本港に着くまでの旅程を洗いなおす必要がありそうです。






 




 そこで、当時の時刻表ですが、現在復刻されている時刻表は、1921年8月1日発行のもので、その前は、これまで何度か引用してきた1915年3月1日発行版になってしまいます。

 もちろん、当時時刻表は毎年何回か発行されていました。

 しかし、復刻版はたいていの都府県立図書館にありますが、当時の時刻表(書名は『公認汽車汽舩旅行案内』)そのものは、さいたま市にある『鉄道博物館』へ行かないと見ることができません。

 父子の巡礼旅行は4月で、復刻時刻表よりも4ヶ月早いのですが、その間に大きなダイヤ改正はないはずですから、ここでは8月1日発行版を見ておきたいと思います:





・・・・ @・ A・ B

二見浦発 ── ── 0722

・山田発 0515 0640 0745

・亀山着 0720 0845 1011
・亀山発 0728 0855 1030

・柘植着 0818 0951 1124
・柘植発 0828 ── 1140

・草津着 0950 ── 1245 
・草津発 0955 ── 1250 

・大津着 1022 ── 1317※


※ ここで言う「大津」駅は、1921年7月31日までの旧・大津駅(現・膳所駅)。下で説明するように、旧・大津駅は、1921年8月1日京都−(現)膳所間の新線開通により旅客営業を廃止、新線上に新しい大津駅(現・大津駅)が開設された。しかし、この時刻表は(1921年8月1日発行だが)、7月31日までの旧・大津駅の旧発着時刻を掲載している。(旧大津駅とともに廃止された大谷駅の発着時刻が掲載されているので、7月31日以前のダイヤであることが判る。)



 Bは、『全集』に載っている鳥羽発一番列車です。たしかに、二見浦駅で乗ろうとしたら、これより早い列車はありません。

 しかし、人力車などで山田駅(現在の伊勢市駅)まで行けば、@Aの2本があります。ただし、Aは柘植で接続する草津線の列車がありませんから、けっきょくBの11時40分発に乗ることになります。

 そういうわけで、『全集』に載っていない経路は@です。山田発の午前5時15分といえば、日の出の30分前。まだ真っ暗な時間に二見の旅館に人力車を呼んで出かけたことになります。

 しかし、父子は、きょう1日で比叡越えをして京都まで行く計画を立てていたようですし、早起きはこの二人にとっては日常事でしょう。

 この1921年、賢治が東京での生活の中で書いた散文『床屋』に、次の一節があります。




   床 屋

      本郷区菊坂町

    
〔…〕
  
          ※


 鏡の睡気は払はれて青く明るくなり今度は香油の瓶がそれを受け取ってぼんやりなった。

 「失礼ですがあなたはどちらに出ていらっしやいますか。」

 「図書館だ。」

 「事務員ですか。」

 「いゝや、頼まれて調べてゐるんだ。」

 「朝はお早いでせう。」

 「朝は六時半にうちを出るよ。」

 「ずゐぶんお早いですね。」

 「どうせうちに居たっておんなじだ。」


          ※








 何も用事がなくても、早起きして早く出かけてしまうのです。それが、この人たちの生活習慣でした。

 したがって、宮澤父子が@の経路をとった信憑性は高いと、ギトンは思っています。







 たしかに、堀尾氏は、「二見駅より京都行(草津線経由)にのり」と書いています。二見浦駅で乗車できる列車で、Aより早いものはありません。

 しかし、佐藤氏の記述を、もう一度よく見てください:



「参宮を終えて、その夜は二見に行き、海岸の旅館に宿を取りました。二見は早朝に発つことになりました。

  
〔…〕

 二見を発ち、草津で乗り換え、昼頃大津駅に下車し、
〔…〕
(佐藤隆房『宮澤賢治』,a.a.O.)


 「二見を早朝に発つ」のと、「二見浦駅を発つ」のとは違います。二見ヶ浦にある集落の名前は「二見」ですが、駅の名前は「二見浦」。これは、「ふたみのうら」と読みます。当時も現在も、そうです。ギトンは、冬のさなかに現地へ行って、二見浦駅で寒さに凍えながら列車を待ったので、駅名標示板の平がな記載を覚えているのです。

 堀尾氏は地名と駅名をごっちゃにしています。しかし、佐藤氏は、「二見〔の集落〕を早朝に発」ったという政次郎氏の話を、正確に記録しているのだと思います。



 30分で比高600メートル踏破という超人的“早駆け”を想定するよりは、政次郎氏の話が堀尾氏には正確に伝わらなかった※と考えるほうが、ずっと現実的な想像だと思います。


※ 政次郎氏から直話を聞いた著者として、ほかに小倉豊文氏がいるのですが、氏は、「宿で朝飯をすませた二人は、二見駅から京都行の列車に乗つた。」と書いているそうです(ギトンは資料未見)⇒父子関西旅行に関する三氏の記述(PDF) しかし、小倉氏の場合は、単に駅名を間違えているだけでなく、「京都行の列車に乗つた。」という有り得ない記述をしている点でも、信憑性を欠いています。上の時刻表で見たように、二見浦駅で乗れる京都行き列車というものは、存在しないのです!直通列車は、京都−山田間にのみあります。





 そういうわけで、宮沢父子が@の経路をとって、夜明け前に二見の宿を発ち、午前5時15分山田発の列車に乗った蓋然性は高いといえます。

 このことは、賢治がこの時二見で詠んだ短歌の情景にも適合します(⇒伊勢湾を越えて(3)):



      ※ 二見

 ありあけの月はのこれど松むらのそよぎ爽
〔さや〕かに日は出でんとす。
(『歌稿B』#773)




 日はまだ出ておらず、あたりは暗くて、「有明の月」が懸かっています。波音のする海岸の方向もまだ暗くて、風景を見ることはできませんが、松林から吹いて来るらしい風はさわやかで、もう朝の気配を漂わせています。

 おそらく、宿から山田駅に向かう途中の情景でしょう。













 さて、大津から下坂本までの船旅について検討しましょう。

 まず、当時の「大津」駅の場所ですが、1913年6月1日から1921年7月31日まで、現在の膳所(ぜぜ)駅が「大津」駅と称されていました(Wikipedia)。1921年8月1日に京都−(現)膳所間の新線が開通し、新線上に現「大津」駅が開業するとともに、旧「大津」駅=(現)膳所駅は、旅客営業をやめたのです。(わかりやすい論述と地図は、こちら⇒「石場浜乗船」のこと

 上で引用した時刻表に掲載されているのは、この旧・大津駅ですし、宮澤父子が下車したのも、旧・大津駅です。

 つまり、当時は、現在の大津駅の東隣りの膳所駅が「大津」駅だったわけですが、そのすぐ前の琵琶湖岸に石場浜があります。

 当時、琵琶湖では、「湖南汽船」「太湖汽船」という2つの船会社が競合していました。

 時刻表で見ると、「湖南汽船」は、佐藤氏が「坂本かよいの乗合汽船」と言っているように、草津−大津−坂本の短区間を、港ごと停泊しながらのんびりと運行するいわば“鈍行”遊覧船だったのに対し、「太湖汽船」のほうは、琵琶湖周航の“急行”船だったようです。

 ↓下に時刻表を引用しますが、「石場」は石場浜港、「坂本」は下坂本港、「大津」は浜大津港を指すようです:




○湖南汽船

膳所発 1050 1130 1210 1250 1330 1410
石場発 1100 1140 1220 1300 1340 1420  
坂本着 1150 1230 1310 1350 1430 1510


○太湖汽船

大津発 1330
坂本発 1405




 ↑このように、「湖南汽船」のほうは便がたくさんあるのに、「太湖汽船」は、この時間帯には1本しかありません。


 まず、宮澤父子の乗船した港ですが、旧「大津」駅からの距離が最も近いのは膳所港(1.3km)だそうです。

 石場港(あるいは石場浜港)のほうは、場所がよく判らないのですが(⇒「石場浜乗船」のことは、参照すべき先行研究)、当時、紺屋関港を石場港と称していたとすれば、駅からの距離は1.8km。

 「太湖汽船」の着く「大津」港(ないし浜大津港)は、さらに遠くなります。

 ともかく、歩速4km/h とすれば駅から20分ないし27分で港に着くことになります。


 上述の@の経路で列車が大津駅に着くのは 10時22分ですから、膳所発 1050 石場発1100 坂本着1150 の便でも、急げば乗れそうです。





 ところが、佐藤氏の記述によると、坂本(下坂本)に着いたのは午後1時頃だというのです:


「二見を発ち、草津で乗り換え、昼頃大津駅に下車し、琵琶湖を坂本かよいの乗合汽船に乗りました。船中で食事をし、船は二時間ほどかかったようで、午後一時頃坂本に着きました。

 この日のうちに、京都には入る予定であったのに昼を過ぎたことですから、幸いに坂本からはそんなに坂もけわしくなかったので、急いで登りました。
〔…〕
(佐藤隆房『宮澤賢治』,a.a.O.)




 そこで、「午後一時頃坂本に着」く船をさがすと、膳所発 1210 石場発1220 坂本着1310 というのがあります。

 しかし、歩いても30分足らずの港まで2時間もかけて、いったい何をしていたのでしょうか?

 このあとの比叡越えの“猛スピード”を思えば、ここでなぜもたもたしていたのか、たいへん気になります。。。

 また、佐藤氏が、「船中で食事をし、船は二時間ほどかかったようで」と書いているのも妙です。↑時刻表を見ると、膳所,石場−坂本間は、50分ないし1時間で運航しています。

 たしかに、1時間近くあれば、船上でのんびり食事をするには十分でしょうけれども、それを2倍の時間乗っていたように記憶しているのはなぜなのでしょうか?


 堀尾氏の記述も見ておきましょうか?


〔…〕大津駅下車。琵琶湖岸石場浜から湖南汽船にのり船中食事、下坂本に下船。」
(堀尾青史『宮澤賢治年譜』,a.a.O.)


 こちらは時刻の記入がありませんが、乗船地は「石場浜」だとしています。「船中食事」は、佐藤氏に同じ。





 






 この大津での“1時間半の空白”を、どう考えるのか?‥ 名探偵の腕の見せ所です。みなさん、ひとつ考えてみませんか?

 ギトンの答案は、次回お見せすることにします。







ばいみ〜 ミ彡  


  
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カテゴリ: 宮沢賢治

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