02/21の日記

02:30
【宮沢賢治】旅程ミステリー:東海篇(1)

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こんばんは(^^)o




 ミヤケンの旅程ミステリー………“宮沢賢治殺人事件”が10本くらいできそうな………じつはたくさんあるんですが、手始めに、東海道線の時刻表にかかわるものを2,3本...













(1)伊勢神宮にお参りするひまがないっ



 すでに⇒伊勢湾を越えて(2)←こちらで書きましたが、1916年の関西修学旅行の帰途の伊勢詣で、‥『全集』掲載の列車時刻で見ると、山田駅(現在のJR伊勢市駅)到着が午後3時43分になってしまって、それから外宮→内宮と回って、二見ヶ浦の旅館に投宿するには遅すぎる。。。


 もっと早い列車は無いのか?!


 というわけで、当時の時刻表を調べてみると(『公認汽車汽舩旅行案内』,246号,1915.3.1.):



・・・・ @・ A・ B
京都発 0500 0715 0955 

大津着 0543 0758 1040
大津発 0600 0804 1050

草津着 0608 0824 1113 
草津発 0630 0825 1115 

柘植着 0810 0944 1236
柘植発 0906 0949 1254

亀山発 0945 1037 1339

山田着 1133 1239 1543



 @は、大津で、大津発山田行き直通に乗り継ぎ。

 Aは、京都発山田行き直通列車。

 Bは、『全集』に載っている大阪発柘植行きで、柘植で鳥羽行きに接続します。


 ところが、ミヤケンが書いて、学校の『校友会会報』に掲載された旅行記には:



「二十八日 火曜日 〔解散〕

宮澤 賢治

 午前八時十二名よりなる伊勢参宮の一体は先生並に一同に厚く旅行中の御尽力を謝し、九時発の上り列車にて伊勢路に向つた
〔…〕

 草津を過ぎ逢坂の関を越え鈴鹿の突道を出でて後は伊勢独特の渺々たる菜種畑の真只中を一直線に南下するのである。伊勢米の産地たる安濃一志の大平野を過ざて神都に着いたのは午後三時である。

 山田市の市民は今や皇后陛下の行啓を迎ふべく混雑を極めて居る時であつた。先づ外宮に参拝し自動車にて直ちに内宮に向ふ。
〔…〕
(盛岡高等農林学校『校友会会報』第31号,1916年7月)



 と書いてあります。前の日は京都見物をして三条の旅館に宿泊したと、前の担当者の旅行記にありますから、

 28日は「午前八時」に「先生並に一同に」挨拶して京都・三条の旅館を出発し、徒歩で京都駅へ行って「九時発の上り列車」に乗った。山田駅到着は「午後三時」───という時間関係は、読み違えようもありません。



 しかし、朝9時(じっさいには9時55分)の列車で出発というのは、当時の人の感覚では少し遅すぎないでしょうか?

 「九時発の上り列車」と言いながら、実際にはほとんど10時近いというのも、なんだか解せない気がします。





「伊勢神宮かぁ〜‥ あーめんどくせえ」

「しゃーねー。行ってやるか。」

「あっ。。。 55分まで汽車がねーんだと。」

「朝酒かっくらってるしかねーぢゃんっ」


     ‥みたいな旅行だったんでしょうかねえ。。。





 





 そこで、ちょっと考えたんですが、

「午前八時」は「午前六時」の製版ミス

「九時」「三時」も、それぞれ「七時」「一二時」の誤り

 ということはありえないでしょうか?


 『校友会会報』はガリ版刷りでしょうから、字の間違えは起きやすい。「午前六時」「七時」「一二時」ならば、↑上のAの列車にピッタリ該当します。何よりもAは京都発の直通列車ですから、計画的な旅行ならば、きっとこれに乗るはず... とも言えます。

 12時39分山田駅着ならば、外宮・内宮参拝に、二見ヶ浦周辺の岩石採集までやっても、時間に無理がありません。


 「六」→「八」
 「七」→「九」
 縦書きの「一二」→「三」

 たしかに漢字の形は似ています。。。

 ミヤケン独特の、あのコミック書体で原稿が書いてあったら、見間違えてもおかしくはない。


 しかし、よりによって、こんなにうまく3つの読み違えが重なるものでしょうか??

 それに‥、「午後一二時」って、言いますかね?!←




 




 もし、印刷されたとおりに午後4時近い到着だったとしても、当時の寺社は、今とはちがって門限というものが無かったかもしれない。。。(これは、‥困難ですが、調べられないことはないでしょう)

 この日の日没時刻は、内宮入口で18時10分です。

 山田駅のホームから外宮まで徒歩15分、両宮とも「一の鳥居」から「正宮」まで往復1時間、外宮から内宮まで乗合バスで30分とすると、内宮の中で日が沈む計算です。

 それでも、門さえ開いていれば参拝できないことはないでしょう。

 しかし、二見ヶ浦に着いたらもう真っ暗で(午後7時以後山田駅に停車する下り列車は、山田 20時9分発、二見浦 20時20分着の鳥羽行き最終があるきり)、岩石採集は無理です。

 朝早く起きて(日の出は5時46分)、神前海岸まで行ってきて(徒歩往復1時間では忙しい…)、二見港午前7時10分発の蒲郡行き汽船に乗船したのでしょうか?‥


 不可能ではありませんが、かなり無理の大きい日程です。








 はたして、賢治たちの乗ったのは、↑AなのかBなのか?

 確かめる手段はあると思います。旅行記に、

「山田市の市民は今や皇后陛下の行啓を迎ふべく混雑を極めて居る時であつた。」

 とありますから、大正皇后の到着時刻を調べればよいのです。もし午後3時以前ならば、賢治たちの列車は@かAでなければなりません。

 当時の新聞などを調べればよい。‥しかし、地元の地方新聞まで見ないとだめかもしれません。伊勢市の図書館でカンヅメになって古新聞の山と取っ組み合いかもしれませんね。。。





 








ばいみ〜 ミ彡  


  
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カテゴリ: 宮沢賢治

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