01/08の日記
05:14
【宮沢賢治】青年たちはセボネに沿ってw
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こんばんわ_^)ノ
ハコネってやっぱり便利ですね?w
湯本から箱根町まで、国道1号線は10分ごとにバスが走ってて、
こっちでちょっと降りて見てから、またバスに乗って次のスポットへ‥ なんていう甘ちゃんなことを一日中やってられるんですから、すごい!!(^o^)/
人がうじゃうじゃ集まるだけのことはありますねえ‥ww
というわけで、物好きに箱根まで行って、遊覧船にも乗らず、甘酒も飲まずに(タダ飲みのあっつーいお茶は、しっかりいただきましたー...)体中にオナモミをくっつけながら、藪だらけの石切り場の跡を徘徊したり、崖をよじ登ったり‥泥だらけのマウンテンジャケットを、周りの高級ブランドにスリスリしながら満員バスに乗り込んだりwwww。。。
拾ってきた石をハンマーでガンガン叩いたり、ルーペで覗き込んだり..., 台所でやってたら、同居人に不審の眼で見られてしまったwww
まぁその成果は、ひきつづき《ぎゃるり》のほうでアップして行くとして。。。
そんなことをしてケンさんの足跡を追いかけながら、ひとつ思いついたことがあります…
ケンさん、旅の途中で目についた石を拾って歩いているように見えるけど‥、じつは、この旅、中央構造線に沿って計画してるんじゃないかって。。。
《中央構造線》‥‥‥といえば、どなたも名前を耳にしたことくらいはあるはず....
九州の西のはじ──天草あたりから、大分県佐賀ノ関で海を渡って、四国を佐田岬から吉野川まで縦断し、和歌山県の紀ノ川に沿って東へ伸びて、伊勢湾を渡って南アルプスへ ‥ずーっと、細長い山脈と溝のような地形が東西に続いています。この1000キロメートル以上にわたって、地下深くまで、《中央構造線》という巨大な断層がつらぬいているためです★
★ ちなみに、最近《中央構造線》が話題に上っているのは、一部が活断層(いまも動いている断層)だからです。《中央構造線》は世界有数の大断層です。《中央構造線》の北側はユーラシア・プレート、南側はフィリピン海プレートの上に乗っかっていて、それぞれ違う方向に動いてますからw、じょじょにじょじょに‥ズレて行くわけです。目に見えない遅い速度でずれて行くこともあれば、地震を起こして、ばんッと一度にズレることもありますw そして、最近とくに注目を集めているのは、《中央構造線》スレスレの場所に3つの原子力発電所が建っているからです。中でも四国の伊方原発は、活断層の《中央構造線》から8kmという至近距離(8km離れた場所で地震を起こしながら断層が動いたら、事故が起きないほうが不思議でしょうねえ‥)にあります。3つの原発の2つ目は、最近運転を再開した川内原発。3つ目は、福島第一原発です(←もー手遅れだけど‥)。ただし、福島第一の近くを通っている断層が《中央構造線》の続きだというのは、ひとつの説ですが。
(↑上図の《中央構造線》より北側(図の上側)は、ユーラシア・プレート(ユーラシア大陸)の上に載っています。南側は、フィリピン海プレートに載っています。フィリピン海プレートは、ゆっくりと北へ動いていて、ユーラシア大陸の下へもぐって、地球の内部に沈み込んでいますが、その“沈み込み”の境目は、いまは、↑上図の《中央構造線》より少し南側の位置(南海トラフ)に移っています。
《中央構造線》と南海トラフの間の帯状の部分は、フィリピン海プレートに載ってやってきた火山島や海底の岩盤が、ユーラシア大陸のへりに押し付けられてペシャンコになって積み重なったもの(付加体)です。付加体には、北から順に“三波川帯”“秩父帯”“四万十帯”などの名前がついています。これらは、フィリピン海プレートが沈み込む時に積み残していった岩石ですが、もともと海側プレートの一部だったものですから、大陸プレートに完全には接着していなくて、大陸と付加体の間の割れ目(《中央構造線》)は、現在も横ズレを起こす状態で一部が活断層になっているわけです。)
《中央構造線》の両側は、地質構造が異なっています。
北側の“領家帯”は、大陸を造っている岩盤のへりで、おもに花崗岩ですが、プレート衝突の影響で、高温のマグマに接して熱せられ、帯状に接触変成しています。
南側の“三波川帯”は、プレート“沈み込み”の巨大な圧力で圧縮された圧力変成岩です。
中央構造線露頭(長野県大鹿村北川)
宮沢賢治と高等農林の級友たちの旅は、関西への修学旅行の帰り道に、伊勢・志摩から、伊勢湾汽船(現在は伊勢湾フェリー)で渥美半島→知多半島→蒲郡に渡って、東海道線に乗って箱根へ向かうんですが、
この伊勢・志摩から渥美半島‥というのは、まさに《中央構造線》が、そこを通っている場所なんです。伊勢では、二見ヶ浦から伊勢湾の海底に続いています。
賢治が伊勢・二見で採集した緑泥片岩☆が、いまも盛岡高等農林(現・岩手大学の資料館)に残っていますけれども、
じっさいに採集した岩石は、もっと多かったはずです‥ 渥美の伊良子岬でも、豊橋でも、下船・下車して採集したかもしれない。。。
☆ 緑泥片岩は、《中央構造線》南側の“三波川帯”を構成する岩石のひとつで、秩父の寄居、長瀞周辺では随所に見られます。
この旅、表向きは“お伊勢詣り”ってことで、伊勢神宮に日露戦争の記念碑があって感動したとか‥ww 宮澤ケンさん、もっともらしく『校友会会報』に報告記を書いてるんですが
どーしてどーして、彼らのほんとの目的は、セボネ‥ いえ、地質にあったのかも‥
それに‥ たぶんこれはケンさんひとりのことではなくて、いっしょに行った11人の級友たちの中に、同じ関心で行った人はほかにもいただろうと思います。
というのは、かれらの多くは「農学科第二部」‥つまり、地質、岩石、土壌‥そういったことを中心に勉強する学科に属していたからです。
ところで、当時から100年たった現在では、《中央構造線》───こういうものがどうしてできたのか?‥という成因についても、かなり解明されてまして‥ プレートテクトニクス‥ 太平洋のはるかかなたで、海底火山が噴火したり、サンゴや珪藻の死骸が堆積したりしてできた地層やら岩石が、プレートに乗って、はるばる太平洋の西の端まで運ばれて、ユーラシア大陸のへりにギューウッと押し付けられて細長い縞になった‥
ざっと言うと、こういうことらしいです。
しかし、こうしたことが判ってきたのは、せいぜいここ数十年のことで、100年前には、《中央構造線》の成因は、まったく解っていませんでした。。。
ただ、‥とにかく日本列島の西半分に、ずうっと続いているひじょうに目立つ断層構造ですから、
当時から、何か、この列島の生い立ちの鍵を握る重要な証拠なのではないか? ‥いわば、“日本列島の背骨”にあたるものではないか? ‥といったことは予感されていたと思うのです。
ところで、その《中央構造線》ですが‥
南アルプスで、ググッと突き出て高い山脈を造ったあとは、糸魚川と静岡の間で《フォッサ・マグナ》にぶつかりますから、
本州を南北に横断する大断層《フォッサ・マグナ》に、ぶった切られて、いったん見えなくなります...
そして、《フォッサマグナ》の東側で復活してるんですが、そこでは、グイッと角度をひん曲げられて、群馬県の三波川・鬼石から、南東方向に走っていきます。
その南側の“三波川帯”が、秩父・長瀞の“岩畳”を造っているわけです。
(じつは、《中央構造線》は、東端の秩父周辺のほうが、先に研究が進んだので、構造線と並行する“三波川帯”“秩父帯”といった地質区分の名前は、秩父周辺の地名で名づけられています。紀伊半島でも四国でも、《中央構造線》に沿って、“三波川帯”と“秩父帯”が続いているのです...)
《中央構造線》が、《フォッサマグナ》の左右で、グイッとひん曲がっているのは、
もとは真っ直ぐだった日本列島が、ゴゴゴォッと回転して本州の真ん中で折れ曲がった時に、そこにあったフィリピン海プレートの火山島──伊豆半島と箱根──にぶつかった(今も衝突中!!!)せいだということも、最近になって分かってきました...
‥そうすると、箱根の火山も、《中央構造線》と無関係ではなくて、‥むしろ《中央構造線》の成り立ちに大きな影響を及ぼした関係者だということになります
秩父、長瀞は、‥賢治たちが、この年(1916年)の夏に、学校の地質調査旅行で訪れる予定でしたから、
3月の修学旅行の帰りの旅は、いわばその“予習”として、秩父に達する《中央構造線》を、西のほうから追いかけてみた‥ ということかもしれません。
もちろん宮沢賢治は、《中央構造線》の両側に並ぶ縞模様のような地層構造が、地球プレートの巨大な力で寄せられたものだということは全く知りませんでしたし、箱根と伊豆半島がフィリピン海プレートに乗ってやってきた‥などということは想像もできなかったはずです。。。
しかし、“秩父古生層”(当時は、“秩父帯”を、そう呼んでいました)に含まれる石灰岩やチャートは、遠い昔に、熱帯のような温暖な海で、サンゴやプランクトンの死骸が積み重なってできたものだということは、当時から知られていましたから、
石灰岩を、南国の海のイメージと結びつけて想像することはできたはずです。。。
これら葬送行進曲の層雲の底
鳥もわたらない清澄(せいたう)な空間を
わたくしはたつたひとり
つぎからつぎと冷たいあやしい幻想を抱きながら
一挺のかなづちを持つて
南の方へ石灰岩のいい層を
さがしに行かなければなりません
『春と修羅(第1集)』「雲とはんのき」
↑この詩のように、石灰岩を“南”の方角に結び付ける“心象世界”のイメージが見られるのです。。。
宮沢賢治といえば、サハリン、北海道、シベリアといった北方の地に憧れる“北方志向”については、最近とみに指摘されますけれども...
同時に、いわば“南方志向”も、彼にはあったのだと思います。
……南の海の
南の海の
はげしい熱気とけむりのなかから
ひらかぬまゝにさえざえ芳り
つひにひらかず水にこぼれる
巨きな花の蕾がある……『三原三部』「三原 第一部」1928.6.13.
↑伊豆大島・三原山火山の描写かと思われる幻想的な光景ですが、これも“南方志向”の一つの現れだと思います。
(もし賢治が、九州の阿蘇や霧島、また南西諸島の島々の火山を見る機会があったら‥、もっとはっきりとした“南方志向”を燃え立たせていたにちがいないと‥、この点は少々残念ではあります...)
つまり、いわば“南北の軸”が、宮沢賢治の思考にはあったのだと思います。
そしてこの点は、“東西の軸”(東洋と西洋)を思考の基準とする人が多い戦前日本の知識人の中では、特異な例ではないかと思っています。。。
この“南北志向”は、一見すると、‥“北方”“南方”への軍事侵略・植民地獲得を目指していた当時の国策と一致しているかのようですし、じっさい、宮澤賢治は、そうした国家主義思想に心酔していた時期もあったのだと思います。
あの田中智学と『国柱会』への賢治の傾倒も、その文脈の中にあります。
たしかに当初───高等農林在学中から1921年の“出奔上京”に至る時期には、彼自身のなかの“南北志向”は、国策的な“北方進出”“南方進出”との間に矛盾を感じてはいなかったと思われます。
むしろ、秋枝美保氏が指摘されるように、賢治の志向は、国策の侵略的国家主義に影響されていた面さえ顕著に見られると思います。
しかし、1921年東京での“国柱会体験”をひとつの契機として、賢治の思考軸としての“南北志向”は、現実の政治的国策からは次第に離れてゆきます。
離れるようになったひとつの理由として、高等農林の同級生・佐々木又治※など、じっさいに国策に沿って“南洋群島”へ就職した人が、辛酸を舐めて帰還した体験に接したことがあると思います。
“海外雄飛”の国策キャンペーンは「あてにならない」「騙されて、ひどい目に遭う」という教訓が、“田舎者”を自覚する賢治の脳裡には、刻み付けられていったと思うのです。
※ なお、佐々木又冶は、高等農林3年時の水沢江刺地質調査に賢治と同行している人で、宮澤賢治との間では地学の話題も豊富だったと思われます。賢治は、南洋群島の地質や珊瑚礁等について、彼から知見を得ていた可能性があります。
もうひとつは、宮沢賢治のもとからの資質としてある仏教的平和主義が、“軍事的進出”に異議を唱えるようになったのだと思います。
“シベリア出兵”をテーマにした『氷河鼠の毛皮』や、兵士・軍人を主要人物とする童話『月夜の電信柱』『烏の北斗七星』などの作品に、私たちは、賢治の迂回蛇行する思考の跡をたどることができると思います。
ともかく、こうして現実世界の政治・国策とは、相対的に距離を置いたことによって、宮沢賢治の“北方志向”“南方志向”は、豊かな文学的成果を結実させる思考軸として、彼の中で成長を始めたと思うのです。。。
ばいみ〜 ミ彡
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