10/06の日記

19:27
【宮沢賢治】ゼロからのエクリチュール(8)

   ──── 「青い哀しみ」からの出発


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こんばんは(^.^)o









菊坂町の床屋について、宮沢賢治は、なつかしい思い出を懐いていたようで、晩年になってから、↓つぎのような文語詩を書いています:







    崖下の床屋   
〔下書稿(一)手入れ(1)〕
   

  かなしみいとゞ青ければ

  かの赤砂利の崖下の
 
  唖の床屋に行かんとす



  さいかちのえだ、ふぢもつれ

  みかづき凍る銀なゝこ




  凍りし泥をうちふみて

  かの赤砂利の崖下の

  唖の床屋に急ぐなり
(『文語詩稿一百篇』より)



☆(注) ななこ【魚子/斜子/七子】@彫金技法の一。先端が小円になった鏨(たがね)を打ちこみ、金属の表面に細かい粒が密に置かれたようにみせるもの。A=ななこ織り。織物の表面が魚卵のように粒だった絹織物。羽織地などに用いる。B=ななこ紋様、ななこ紋。魚のウロコが沢山並んだ形の模様。切子硝子のグラスや、型板ガラスに施される。






散文『床屋』では、機知に長けた「床屋の弟子」とのユーモラスな会話が活写されていましたが、ここでは一転して「唖の床屋」と呼んでいます。





この文語詩は、草稿の用紙(黄罫26/0行)から判断すると、1931年に起草されたと推定できます(杉浦静『宮沢賢治 明滅する春と修羅』,1993,蒼丘書林,pp.243-250)


1921年の東京生活から10年が経過していますが、作者の記憶する“心象”映像は鮮明です。









第1連。「赤砂利の崖下」:《床屋》のあった菊坂通りは、谷底の地形にあるので、通りの両側は急坂と崖になっています(⇒写真(チ)(リ)(ヌ)





第2連。4行目:「さいかち」「ふぢ(藤)」、いずれも、崖っぷちに生えているのでしょう(⇒画像ファイル

サイカチはマメ科の落葉樹で、川原によく生えるトゲのある樹です。



5行目の「銀なゝこ」ですが、ここでは、“ななこ文様”の型板ガラス。

“ななこ”(魚子,斜子)は、彫金と織布技法では、魚の卵のようなツブツブのもようですが、ガラスの場合は、魚のウロコ状のもようを“ななこ”と言います(⇒画像ファイル:ななこ


ここでは、のちの〔下書稿(三)〕から考えて、《床屋》の窓に嵌められた“ななこ模様”の型板ガラスを通して、外に出ている月が、ぼんやり見えるようすと理解します。

つまり、この詩の1、3連は、《床屋》に向かう途中ですが、2連では、《床屋》の中から外を見ています。《床屋》に早く行きたいという気持ちが、《床屋》の中からの風景を作者の眼に映し出してしまうのです。


そして、「みかづき凍る」から、時刻はもう夜で、暗くなった空に三日月が鋭利に光っているのですが、その宵闇の中で、もう(少なくともナナコ硝子を隔てた《床屋》の室内からは)見えないはずのフジとサイカチが、「えだ」と長い莢を垂れています。

第2連の風景は、じっさいに見える風景の写生ではなく、“心象風景”‥‥‥分析的に言えば、昼間の日蔭で陰鬱に枝を垂れる樹木の光景と、夜間に《床屋》のぎざぎざの窓ガラスを透して見た三日月の空(これから見るであろう近未来の光景)の組み合わせとも言えますが、“組み合わせている”のではなく、これ全体で一つの“心象世界”なのです。

サイカチとフジは、たとえ真っ暗であっても、その真っ暗な厳寒の戸外で息づいている以上、その息吹を感じとる作者には、見えるのです。






第3連。「凍りし泥」を踏んで歩いて行くとありますが、賢治が下宿生活を始めた2月頃は、東京でも朝晩は道路の泥が凍っていたでしょう。現在では、東京の道路はみなアスファルト舗装されてしまっていて、「凍りし泥」を踏んで歩く苦労など、したくてもできません。しかし、当時は、どろんこ道ばかりだったはずです。











この「崖下の床屋」については、小沢俊郎氏の紹介論文があります(小沢俊郎「崖下の床屋」, in:栗原敦・他編『小沢俊郎宮沢賢治論集 3 文語詩研究・地理研究』,1987,有精堂,pp.57-61)。簡単な鑑賞ですが、少し引用しますと:


「この作品の、最初に書かれた形は、次のように始まっている。

  かなしみいとど青ければ/かの赤砂利の崖下の/唖のとこやに行かんとす

 作者の『かなしみ』の内容は不明ではあるが、『青い』かなしみは、孤独感のようなものを感じさせる。そのかなしみゆえに、唖の床屋へ足を向ける気持が、この詩の創作動機だったのだ。右の第一連につづく詩句では、凍った泥を踏んで夕景の中を床屋へ向かう気持をうたっている。この詩の最初の主題は、わがかなしみゆえに、同じくかなしく不幸に耐えている唖の子の床屋へ足を向けたという作者の思いにある。」(op.cit.,p.59.)


小沢氏は「夕景」と見ていますが、5行目の「みかづき凍る」から、もう空は暗くなっていると考えたほうが詩想が一貫します。「いとゞ青」い「かなしみ」という色彩から、空はほとんど闇に近く暮れた「鋼青」の時刻と見てもよいでしょう。



「『青い』かなしみは、孤独感のようなものを感じさせる。」───これは、まさに、東京生活を始めたばかりの賢治の孤独を想像させます。東京に、たとえ知人は多くとも、親に逆らって、目的もはっきりしない家出をしてしまったからには、誰にも顔向けできないし、頼ることもできません。

 表向きは宗教‥ というより狂信的な日蓮教団への投企。“ただひとりの親友”にしか打ち明けられない本心は、著述と創作。どちらも、誰にも理解してもらえる余地がない‥‥

 作者は、どんなに孤独だったでしょうか?‥



「その
〔孤独の──ギトン注〕かなしみゆえに、唖の床屋へ足を向ける気持」

「わが
〔孤独の──ギトン注〕かなしみゆえに、同じくかなしく不幸に耐えている唖の子の床屋へ足を向けたという作者の思い」


 作者は、行き場のない孤独感から、“共感”を求めて《床屋》へと「急ぐ」のです。

〔下書稿(一)〕の「唖のとこや」とは、その後の推敲形態を見ると、《床屋》で見習いをしている「唖の子」であることが判明します。《床屋》の「弟子」というより、雑用に使われている子供のようです。



前回見た散文『床屋』に登場していた教養と機知に富んだ「床屋の弟子」とは、何という違いでしょうか。。。



しかし、小沢氏は、さらに続けます:


「先に私は、『同じくかなしく不幸に耐えている唖の子』と書いた。『同じく』は、賢治のことばではないけれど、『かなしみいとど青ければ』という理由づけのしかたに『同じく』という気持が入っていると思われたのである。だが、『同じく』はいかにも甘かった。かなしみが『同じく』ということはあり得なかったのだ。

 初めの形の作者の唖の子への思いは、あくまで一方的な共感だった。そこにひそむ甘さを、推敲段階では切り捨てる。」(op.cit.,p.60.)




たしかに、この詩によって、“《他者》のいる世界”を構築するのであれば、自己と「唖のとこや」(=唖の子?)を無限定に同一化して共感を求めようとするのは「甘すぎ」ます。

しかし、題材の1921年段階で東京生活をしていた賢治の“心象”として考えれば、むしろ別の面に注目してもよいように思われます。







 






さきほど指摘したように、この「崖下の床屋」と、散文『床屋』を比較すると、両方の“床屋”の人物像の著しい落差に驚かされます。

あるいは、散文『床屋』に登場した賢く機知に富んだ「床屋の弟子」のほうが事実に近い像で、「唖のとこや」あるいは「とこや」にいる唖の子は、作者の《心象》が創り出した人物像かもしれません。(あるいは、その逆かもしれませんが、さしあたって散文のほうが事実に近いと仮定してみましょう。)


そうすると、おもしろいことに気づきます。小沢氏は、推敲後の形態まで読んでいるから、「唖のとこや」とは、「とこや」にいる唖の子のことを言っているに相違ない───と決めていますけれども、‥‥〔下書稿(一)〕ではまだ“唖の子”は出て来ないのですから、かならずしもそう考える必要はないはずです。



それでは、「唖のとこや」とは何か?‥ 作者が共感を求めて向かって行く「とこや」は、なぜ「唖」でなければならないのか?‥




それは、1921年、東京生活を開始した時点での作者自身が「唖」だったからではないでしょうか?



「唖」とは、言語を自由に扱えない者の謂いです★

1921年はじめの宮沢賢治は、本郷・菊坂町という“文人の町”に、ささやかながらも居を定め、出版・著述の分野で生きて行くと決意したにもかかわらず、世に問うべき作品はまだ一作も書けず、雑誌への投稿は採用されたこともなく、孤独のうちに呻吟している存在だったのです。。。


★(注) 「唖のとこや」への作者の共感は、ここに書いたような・「エクリチュール」(書くこと)の不自由さ、ということのほかに、話し言葉の訛りによる東京生活での“ひけめ”が関係しているかもしれません。当時はまだラジオ放送もありませんでしたから、ラジオ、テレビなどのメディアで発音が標準語化している現在の方言話者とは事情が違うと思います。当時の岩手県人の場合、たとえ言葉そのものは標準語で話しても、発音の訛りのために、東京の住民との意思疎通には困難があったのではないでしょうか?‥作者の障害者への共感の根底には、方言話者が東京で受けた“被差別体験”があるのかもしれません。(それは、賢治が“国際共通語”エスペラントに興味を持った動機にも通じると思います。既存のどれか一国語に‘特権’を与えることなく、公平で中立的な意思疎通手段を使用することが創始者ザメンホフの思想でしたから。)



つまり、“エクリチュールのゼロ点”───それこそが、“天職”に目覚めた宮沢賢治が踏みしめていた現実の谷底であり、はかりしれず孤独な地点であったのです。





ところで、前々回引用した金田一京助の回想は、東京での宮沢賢治の訪問を、次のように書いていました:


「ある時本郷森川町の私の寓へひょっこりたずねてみえたことがありました。
〔…〕一、二語啄木のうわさなどした記憶がありますが、私は東大におりましたので、もしか東大の入学というふうな心をもって訪問されたかと思ったら、そうでもなかったようです。また下宿でもたずねているかと思ったらそうでもありませんで、結局、田中智学師を慕って上京し、その大道説教団の中にいる、と話された時には、さだめし私の顔がけげんな表情をしたことだったでしょうと思います。

 その数日前に、私は上野の清水堂の下の大道に、田中さんの大道獅子吼の姿をみうけて帰ったことだったのですから。」

(『金田一京助全集』第13巻,p.248)



金田一は、弟が盛岡中学校で賢治と同級生だったので、賢治とは一応の面識がありました。その金田一には、賢治が『国柱会』の街頭宣伝に参加しているということが、非常な異和感をもって感じられたというのです。


田中智学の街頭演説での「獅子吼の姿」とは、どんなものだったのでしょうか?‥おそらく、少なくとも金田一の頭の中では、穏やかな風貌の宮澤賢治とは、容易に結びつかないものだったに違いありません。

ヨーロッパでのヒットラーやムッソリーニの演説が、日本でも持てはやされていた当時のことです。さぞかしドスの効いた激烈なものだったにちがいないでしょう。。。



そして、その「獅子吼」のそばでビラ播きを手伝っている賢治は、どんな思いだったでしょうか?‥それこそが、“唖の孤独”ではなかったでしょうか?


あるいは‥“この人々と自分とは、目指すものが違う”と思い始めたのではなかったでしょうか?‥

保阪宛てに、あれほど続いていた入会・改宗を勧める手紙も、3月からぱったりと止んでいるのです。。。




まもなく賢治は、大量の原稿用紙を購入して、「一ヵ月の間に、三千枚」とも言われる精力的な童話執筆を始めたのでした。















さて、ここでシリーズを締めくくりたいところですけれども、‥ 小沢氏も影響された推敲後の詩稿を、さいごに一瞥しておきたいと思います。





『崖下の床屋』は、最初の〔下書稿(一)〕では、もっぱら1921年の東京生活を題材にしていますけれども、その後の推敲形態では、1922年頃の短篇『毒蛾』(これは盛岡市が題材)の一部を取り入れたり、床屋の客として、「郡書記」「支店長」「町助役」といった花巻を思わせる人物を登場させたりします。

〔下書稿(三)〕までと〔定稿〕が現存しており、それぞれが、著しい再考と改作の手を加えられています。


数ある異稿の中から、ここでは、ギトンがもっとも気に入っている〔下書稿(三)〕を示すこととします:






    崖下の床屋   
〔下書稿(三)〕
   

 あかりを外
(そ)れし古かゞみ

 客あるさまにみまもりて

 唖の子鳴らす空鋏
(からばさみ)

   
 かゞみは映す崖のはな

 ちさき祠
[ほこら]に蔓[つる]垂れて、

 三日月凍る銀なゝこ

   
 のれんをあげてアーティスト

 白きガウンに出できたり

 弟子の鋏をとりあぐる。


 凍
(い)そめし泥にふみなづみ

 手桶をさげし唖の子が

 影こそ過ぎれ古かゞみ
(『文語詩稿一百篇』より)




床屋の店内には客がいないので、「唖の子」は鏡を見ながら、鋏をチョキチョキと鳴らして理髪の真似をしています。遊んでいるようですが、本人としては、床屋の見習いとして理髪の練習をしているつもり‥一生懸命なのです。


床屋の鏡が映す情景、ななこ硝子の窓を通してぼんやりと映る戸外の風景が、一種重層的なこの詩の“世界”を作っています。

「三日月凍る銀なゝこ」───やはり、時刻は夜です。


客が登場したとは書いてありませんが、作者自身が客としてこの場に現れたことが、言外に暗示されています。というのは、第3連で「アーティスト」(洒落た風の理髪師なのでしょうか?)が店の奥から出て来るからです。


「唖の子」は、どうやら、床屋の「弟子」というより、もっぱら雑用に使われているようです。鋏を取り上げられたその子供の、手桶で水を運んでいる「影」が、ななこ硝子を透して、店の鏡に映っています。


最初の行と最後の行に登場する「古かゞみ」は、なにか象徴的です。





ばいみ〜 ミ彡  


  
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カテゴリ: 宮沢賢治

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