10/04の日記

05:22
【宮沢賢治】ゼロからのエクリチュール(7)

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こんばんは(^o^)v














さて、宮沢賢治の下宿先《稲垣宅》と《文信社》との間の道沿いに、床屋があります:⇒写真(ト)(チ)(リ) 写真(カ)




原稿末尾に「1921 6.--」との記入のある『床屋』(はじめ『床屋の弟子とイデア界』と題して、推敲時に改題)は、東京滞在中に書かれたと思われる散文作品ですが、『初期短篇綴』には収録されていません。


副題が「本郷区菊坂町」となっている点からも、下宿の近くの・賢治が行きつけていた床屋の見習い理髪師を題材としているのは間違えないでしょう。






   床 屋

      本郷区菊坂町



          ※


 九時過ぎたので、床屋の弟子の微
(かす)かな疲れと睡気(ねむけ)とがふっと青白く鏡にかゝり、室(へや)は何だかがらんとしてゐる。

 「俺は小さい時分何でも馬のバリカンで刈られたことがあるな。」

 「えゝ、ございませう。あのバリカンは今でも中国の方ではみな使って居ります。」

 「床屋で?」

 「さうです。」

 「それははじめて聞いたな。」

 「大阪でも前は矢張りあれを使ひました。今でも普通のと半々位でせう。」

 「さうかな。」

 「お郷国
(くに)はどちらで居らっしゃいますか。」

 「岩手県だ。」

 「はあ、やはり前はあいつを使ひましたんですか。」

 「いゝや、床屋ぢゃ使はなかったよ。俺は大抵野原で頭を刈って貰ったのだ。」

 「はあ、なるほど。あれは原理は普通のと変って居りませんがね。一方の歯しか動かないので。」

 「それはさうだらう。両方動いちゃだめだ。」

 「えゝ、噛っちまひます。」


          ※


 鏡の睡気は払はれて青く明るくなり今度は香油の瓶がそれを受け取ってぼんやりなった。

 「失礼ですがあなたはどちらに出ていらっしやいますか。」

 「図書館だ。」

 「事務員ですか。」

 「いゝや、頼まれて調べてゐるんだ。」

 「朝はお早いでせう。」

 「朝は六時半にうちを出るよ。」

 「ずゐぶんお早いですね。」

 「どうせうちに居たっておんなじだ。」


          ※


 睡気が忽
(たちま)ち香油の瓶を離れて瓦斯(ガス)の光に溶けて了(しま)ひ室が変に底無しの淵のやうになった。

 「丁度五分かゝりました。あなたの頭を刈り込むのに。」

 「早いな。」

 「いゝえ。競争の時なら早い人は三分かゝりません。」

 「指が痛くなるだらう。そんなにしたら。」

 「えゝ、指より手首が苦しくて堪らなくなります。」

 「さうだらう。どうせそんなぢゃ永くは続かない。」床屋の弟子はバリカンを持ったまゝ手首をぶらぶらふってゐる。


          ※


 瓦斯の灯
(ひ)が急に明るくなった。

 「僕のひげは物になるだらうか。」

 「なりますとも。」

 「さうかなぁ。」

 「も少し濃いといゝひげになるんだがなぁ、かう云いふ工合に。剃らないで置きませうか。」

 「いゝや、だめだよ。僕はね、きっと流行るやうな新らしい鬚の型を知ってるんだよ。」

 「どんなんですか。」

 「それはね。実は昔の西域のやり方なんだよ。斯う云ふ工合に途中で円い波を一つうねらしてね、それからはじを又円くピンとはねさすんだよ。こいつぁ流行るぜ。」

 「今どこで流行ってゐますか。」

 「イデア界だ。きっとこっちへもだんだん来るよ。」

 「イデア界。プラトンのイデア界ですか。いや。アッハッハ。」

 「アツハッハ。君。どうせ顔なんか大体でいゝよ。」


          ※















『床屋』は、童話作家の宮沢賢治にしては異色の作品に見えるかもしれませんが、

賢治は、東京滞在中、当初は小説を志していたと思われます。

結果的には、在京中に書かれたこの種の散文は(遺稿中に残されたものは)『床屋』と、もう1篇のみで、「爆発するような勢いで」(宮澤清六氏)書き溜めた大トランクいっぱいの原稿のほとんどすべては童話だったのですが。。。






しかし、この作品にも、よく見れば、すでに賢治らしい特徴が現れています。



会話文の部分だけを読むと、軽妙な随筆のようにも見えますが、最後のところに:


 「イデア界だ。
〔…〕

 「イデア界。プラトンのイデア界ですか。いや。アッハッハ。」


というやりとりがあります。



東京帝大の“お膝元”だからかどうか分かりませんが、この床屋の弟子は、たいへんに学があって、しまいには西洋哲学の知識をさりげなく覗かせて、田舎者のスノブ(自分ではひとかどのインテリだと思っている)をやりこめてしまう───というのが、この会話のオチでしょう。



しかし、「イデア界」は、単なる冗談ではありません。

各節の最初に書かれた散文詩的な描写───賢治は、これを「イデア界」と呼んでいるのだと思います。のちの呼び方で言えば、“心象世界”ないし“心象スケッチ”です:




 九時過ぎたので、床屋の弟子の微
(かす)かな疲れと睡気(ねむけ)とがふっと青白く鏡にかゝり、室(へや)は何だかがらんとしてゐる。

   
〔…〕

 鏡の睡気は払はれて青く明るくなり今度は香油の瓶がそれを受け取ってぼんやりなった。

   
〔…〕

 睡気が忽
(たちま)ち香油の瓶を離れて瓦斯(ガス)の光に溶けて了(しま)ひ室が変に底無しの淵のやうになった。

   
〔…〕

 瓦斯の灯
(ひ)が急に明るくなった。







見習い理髪師の「疲れと睡気」が「ふっと青白く鏡にかゝ」った、───「鏡の睡気は払はれて青く明るくな」った ─── 今度は、「香油の瓶」が眠気「を受け取ってぼんやりなった。」 ───「睡気が忽ち香油の瓶を離れて」ガス灯「の光に溶けて」しまった。───という、目に見えない心理的なものを、即物的・視覚的に感じ取って表現する手法。

また、「室は何だかがらんとしてゐる。」「室が変に底無しの淵のやうになった。」という、深い感情に彩られた環境風景の描写。


これら、3年後の『心象スケッチ 春と修羅』の主調をなす“心象世界”が、すでにはっきりと現れています。






そして、その“心象世界”を発見した☆賢治が、当初それを「イデア界」と呼んでいたことは、私たちには非常に示唆的ではないでしょうか?‥


☆(注) “心象世界”ないし「イデア界」は、中学時代から高等農林時代にかけての短歌にも、すでにはっきりと現れています。1920年に大部分が完成している『初期短篇綴』収録の散文では、さらに顕著です。しかし、賢治自身が方法的に自覚したのは、この東京滞在時代あたりではないでしょうか?




 







↓以下、〔 〕内は、ギトン注。

「『つぎに』と私は言った。『教育にかかわる我々の本性と、そのような経験が欠如している場合とを比較すると、こうなるだろう:

 ある種の地下の洞窟に住んでいる人々を、想像してみたまえ。

 この洞窟は、洞窟と同じ幅の長い通路によって、外界から隔てられている。人々は、子どもの時から脚も首も縛られていて、その場から動けないと思ってみたまえ。そして、真っ直ぐ前しか見ることができず、縛めのために首を回すことすらできないのだ。

 さらに想像したまえ。光は、はるか上方に燃えている焚火から来るのだが、それは、彼らの背後の離れた場所にある。そして、焚火と彼ら囚われ人との間には、高架の道があって、道に沿って低い塀が建てられている。

 ちょうど人形劇の演じ手のように、人々〔囚われ人たちの背後の通路の上を通って行く人々〕自身の前には隔壁があり、彼らはその上に人形を出して見せ〔ながら通〕るのだ。』

 『たいへんよく分かります。』と彼は言った。

 『では、つぎのことも理解したまえ。塀の後ろで、いろいろな種類の道具が、塀の上に差し上げられて運ばれて行く、また、木や石などで造られた人の彫像や動物の模型も。運んで行く人々は、声を出す者もいれば、黙っている者もいる。』

 『奇妙な風景をお話しになりますね』と彼は言った。『また、奇妙な囚われ人たちを。』

 『われわれと同じなのだ。』と私は言った。『というのは、まず手始めに、答えてくれたまえ。この人々〔囚われ人たち〕は、焚火によって彼らの目の前の洞窟の壁に映される影のほかには、自分自身の一部でも見ることができるだろうか?あるいは、自分たちを互いに見ることができるだろうか?』

 『どうしてできましょう』と彼は言った。『もし、彼らが、生涯にわたって頭を動かさないように強いられているのだとしたら。』

 『では、次の質問だ。彼らの背後で運ばれて行く物品についても、同じことが真実ではないかね?』

 『まさに、そうでしょう。』

 『そうすると、彼らが互いに話をすることができたとすれば、彼らは、彼らが見ているもの〔すなわち、単なる影〕を名指しながら、〔彼らの背後を〕動いて行く物を名指していると思い込むのではないかね?』

 『そうならざるを得ません。』

 『そして、彼らの牢獄〔つまり洞窟〕が、彼らの対面の壁からこだまを返すとすれば、〔彼らの背後を〕通過する者の誰かが声を出したときには、はたして、彼らは、目の前の壁を動いている影が、声を出したと思うだろうか?』

 『ゼウスに誓って、そんなことはありません。』と彼は言った。

 『だとすれば、そのような囚われ人にとって、現実とは、造りものの物品の影以外のものではありえないことになるだろう。』

 『そうなることが避けられません。』と彼は言った。

 『それでは、考えてくれたまえ。この束縛と狂気から彼らを解放し治癒する方法は、どんなものであるのか ── もし、自然の過程によって、その種の何かが彼らに起きるのだとすれば。

  〔囚われ人の〕ひとりが縛めを解かれ、急に立ち上がるように強いられ、後ろを振り返って歩き出し、〔焚火の〕光に向かって眼を上げるようにさせられたとしてみたまえ。彼は、こうしている間じゅう痛みを感じ、光の眩しさと輝きのために、これまでその影だけが見えていた物品を〔通路の上に直接見ても、まぶしくて〕見分けることができない。もし、彼に向かって誰かが、‘いままで君が見ていたものは、すべてイカサマであり幻影だったのだ。今や、君は真実〔の世界〕に近づき、より本当の物品に眼を向けることによって、今までより真実に見ているのだ’と教えてやったら、彼は何と答えるだろうか?そして、もし誰かが、〔通路の上を〕運ばれて行く物品のいちいちを指し示して、これは何か、あれは何かと質問して答えを強要するならば、彼は途方に暮れてしまうとは思わないかね?そして、彼は、今指し示されている物品よりも、以前に見ていた〔影の〕ほうが、より真実だと見なしてしまうのではないかね?』


 『〔影のほうが〕ずっと真実に見えるでしょう。』と彼は言った。

 『そして、もし彼が、光そのものを見るように強制されたならば、それは、彼の眼を痛ませないかね?彼は身を翻して、自分が見分けることのできるもの〔影〕のほうへと逃げ込み、それらのほうが、いま指し示されている物品よりも、実際に、より明確で正確なものだと、見なすのではないかね?』

 『それはそうです。』と彼は言った。

 『そして、もし』と私は言った。『誰かが彼をそこから無理やり引きずって、でこぼこした急な坂を登っていき、逃がさないようにして、太陽の光の中に引きずり出したとしたら、彼は〔洞窟の入口で〕周りがそんなに明るいことを苦痛に感じ、いらだつのではないかね?そして、彼が〔洞窟の外の〕光の中に出ると、彼の眼は光線で満たされてしまって、われわれが現実と呼ぶ物を、何ひとつ見ることができないのではないかね?』

 『それは、すぐには無理でしょう』と彼は言った。

 『すると、より高度なものを見ることができるようになるには、馴れる必要がある〔と言う〕のかね?そう考えてみよう。そして、はじめのうちは、彼がもっとも見分けやすいのは、影だとしよう。その後には、〔真実の物の〕似せ絵や、水に映った・人や人以外の物の姿〔を見分けられるようになる〕。そして、その後に、それらの物自体を〔見分けられるようになる〕。

  そして、それらから、彼は、空に現れるものや、空そのものを、熟視するようになるだろう。夜間に星と月の光の下では、昼間、太陽や太陽の光を見るよりも容易に〔それができるだろう〕。』

 『もちろんです』と彼は言った。

 『こうして、最後に彼は、太陽そのものを見ることができるようになり、彼はその真実の本性を見るだろう。水に映して見るのではなく、かけ離れた設定でのその幻を見るのでもなく、それ自身の場所において、その物自体を見るのだ。』

 『まちがえなく』と彼は言った。

 『そこで、ここに至って彼は推断し結論づけるだろう、すなわち、これ〔太陽〕こそが、四季と一年の経過をもたらし、可視界のすべての事物を統轄しているところのものなのだ、と。そして、〔太陽は〕ある意味で、彼らがかつて見ていた・これらすべての事物の原因なのである、と。』

 『明らかに、』と彼は言った、『それが次のステップでしょう。』」

(プラトン『国家』第7篇 514a-516c:英訳からギトン重訳 ⇒英訳 Platon:Republic


★(注) 宮沢賢治の生涯に関心のある方にお尋ねしたいのですが、このクダリを読んで、何かに思い当たらないでしょうか?‥ギトンは、賢治が中学卒業後の浪人時代に『漢和対照 妙法蓮華経』を読んで感動したという“法華経体験”を想起するのです。「その中の『如来寿量品』を読んだときに特に感動して、驚喜して身体がふるえて止まらなかったと言う。後年この感激をノートに『太陽昇る』とも書いている。」(宮沢清六『兄のトランク』,p.247.)ところが、当時の賢治の“日記代わり”の短歌にも、また、書簡類にも、そのような精神的転換は直ちに窺われません。それまでとは一転して自己に厳しくなり、勉強に打ち込んだという以外には。思うに、賢治にとって“法華経との出会い”は、洞窟の奥から太陽の下へ引き摺り出されるのと同じだったのではないでしょうか。眼が慣れるまでには数年の時間が必要だったのです。そう考えてみると、上の『国家』の引用にある「もし、彼に向かって誰かが、‘いままで君が見ていたものは、すべてイカサマであり幻影だったのだ。今や、君は真実〔の世界〕に近づき、‥今までより真実に見ているのだ’と教えてやったら、彼は何と答えるだろうか?」という部分は、「如来寿量品」で釈迦が、“これまでの私の説教は、みな‘方便’だった。これから言うことが、本当の教えである”と述べるのに似ていないでしょうか?もし賢治が『国家』を読んだとしたら、この部分で「如来寿量品」に思い当たったにちがいありません。また、「太陽昇る」という賢治のメモは、まさに“洞窟の比喩”を思わせるではありませんか?







洞窟の中で、光に背を向けて、洞窟の壁以外見えないように頭を固定されて縛られている「囚われ人」が、私たち人間の姿なのだと、プラトンは言うのです。

私たちが“現実の世界”だと思っている、この“眼に見える世界”は、真の世界の“影”でさえなく、真の世界の人や物をかたどった模型の・そのまた影にすぎないと言うのです。

そして、洞窟の外にある真実の世界──太陽の光に照らされた世界こそが、“イデア”の世界──「イデア界」です。

しかし、洞窟の中で“模型のそのまた影”だけを見ていた人が、いきなり洞窟の外に連れ出されたら、まぶしくて何も見えなくなってしまいます。



これが、“洞窟の比喩”です。 ⇒アニメ“洞窟の比喩”A アニメ“洞窟の比喩”B (Youtube)






ここでちょっと注意してほしいのは、プラトンは、“洞窟の囚われ人”───人間は、洞窟の外の“イデア”の世界を、絶対に見ることができないと言っているわけではありません。

いきなり太陽を見ようとしたら、眼が潰れてしまうから、段階を踏んで、修練を積んで行く必要がある、それが“教育”の役割だ──と言っているのです。

ふつうの人間の眼には見えない“イデア”の世界があって、それは“選ばれた者”だけが見ることができる‥ あるいは、“眼に見えない”世界を、“心眼”で見なければならない───そのように言い換えてしまうと、これはもう宗教であり、“神秘主義”です。

たしかに、そのようにプラトンを解釈した哲学思想──新プラトン主義──もあるのですが、プラトン自身は、そうではなかったとギトンは思っています。

プラトンは、だれでも、教育を受けて修練を積んで行けば、明るい太陽の光に照らされた・物の真実の姿を見ることができるようになる──そう考えていたのだと思います。















このへんで、宮沢賢治に戻りたいと思います。



プラトンと同じことは、宮沢賢治についても言えるのではないかと思っています。


宮沢賢治の“心象スケッチ”は、プラトンの「イデア界」のような“真実の世界”、あるいは、世界の“真の姿”を見るための方法としてあったのだと思います。

単なる“心のなかのイメージ”や“想像の世界”ではないのです。もっと客観的な──ひとことでいえば、もっとスケールの大きいものだと思います。


その点を明らかにして、“賢治の見た世界”を科学の狭い枠に閉じ込めて合理化したり、矮小化したりすることなく、十全に再現しようとする点に、《受容第V期》における賢治鑑賞の特徴があると思っています。


しかし、その“心象世界”を、宮沢賢治という“天才”だけが‥、あるいは“聖人”だけが見ることのできる世界だと決めつけてしまうと、“悪しき神秘主義”に陥るのではないでしょうか?

賢治もやはり、“誰でも見ることができる世界”を自分も見ている──そういう姿勢で、“心象世界”に臨んでいたと思うのです。










ばいみ〜 ミ彡  


  
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カテゴリ: 宮沢賢治

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