10/03の日記

21:26
【宮沢賢治】ゼロからのエクリチュール(6)

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只今表記に間借り致し侯 実にも転変の此二日、唯々大聖人御思召に叶はせ給へと念ずるのみに御座侯 切に大兄の御帰正を奉祈上侯」

「二十五日夜 東京市本郷区菊坂町七五 稲垣方 宮澤賢治」
(封筒表書き)
(1921年1月26日消印 保阪嘉内宛て)





「第二日には仕事はとにかく明治神宮に参拝しました。その夕方今の処に間借りしました。はじめの晩は実に仕方なく小林様
に御厄介になりました。家を出ながらさうあるべきではないのですが本当に父母の心配や無理な野宿も仕兼ねたのです。その内ある予約の本をやめて二十九円十戔受け取りました。窮すれば色々です。」(1921年1月29・30日 関徳弥宛て)



☆(注) 小林六太郎:日本橋本石町で薬品・化粧品問屋を営んでいた長野県小諸出身の商人。曽祖父の代に西洋蝋燭を発明し、全国的に売っていた。先代六太郎の時から宮澤政次郎と商売上の交際があり、政次郎の仲介で岩手県方面に販路を広げた。当代六太郎は賢治とも親しく、のちに賢治が欧米のジャズやポップ・ミュージックに目を開いたのは六太郎の影響と言われている。「この小林六太郎は、賢治の東京生活の中で、一番、よき相談相手であり、頼るべき人であったことは、父あての書簡から推して、想像に難くない。」

(奥田弘「宮澤賢治の東京における足跡」,pp.146-147, in:小沢俊郎・編『賢治地理』,1975,学藝書林.)


★(注) 日本橋の書店『丸善』へ行って、本の予約をキャンセルして送金してあった代金の返還を受けたと推定されている。





「今月の十六日は大聖人御誕生七百年の大切な大切な日です。それ迄に一寸お出でになられませんか。汽車賃は私が半分出します。失礼ご免下さい。ごはんは私の所では駄目ですがお出でになる丈なら三畳の汚い処ですが何十日でも宜しうございます。たゞ私の唯只の生活は実に見すぼらしいものですからそこは充分ご承知下さい。」
([1921年2月上旬] 保阪嘉内宛て)


  ⇒画像ファイル:宮沢賢治の下宿先


◇(注) 賢治は、ほかの手紙でも「三畳」と言っているが、奥田氏(op.cit,p.152)によれば4畳。畳を4枚並べた「ウナギの寝床のような」(森荘已池『宮沢賢治の肖像』,1974,津軽書房,p.445)細長い部屋で、路地に面していたと言う。稲垣家は、当時、主人稲垣信太郎亡きあと未亡人稲垣かつが、お手玉造りの内職と下宿経営で生活していた。賢治の間借りは、↑古写真で雨戸が閉まっている部屋だろうか‥。なお、近隣によれば、かつは戦後は駄菓子屋を開業し、子供たちが「宮沢賢治が2階にいたって、ほんと?」と訊くと、「ほんとだよ」と答えていた。














「賢治は、どうして、この東大の近くに部屋住いをしたのであろうか、一家改宗のためを理由にしての上京で、国柱会への奉仕が第一の目的であったならば、国柱会館
へもっと近いところに宿をとるのが自然のように思える。筆耕の仕事先は、そこからでも十分通えることと思う。多分、前記小林六太郎の案内でもあったのかもしれない。」
(奥田弘「宮澤賢治の東京における足跡」,p.153, in:『賢治地理』)


◆(注) 国柱会館:鶯谷駅(上野駅の隣り)前にあった。







奥田氏は、“賢治の東京行きは、宗教活動が目的”という頭があるので、そう思うのかもしれません。


しかし、いま、この菊坂町(現・本郷4丁目)界隈を歩いてみれば、宮沢賢治がここに住んだのは、非常によく判る気がします。



ここは、明治以来の“文人の町”‥‥《稲垣宅》のすぐ裏手の高台(“たどん坂”途中)には、かつて坪内逍遥が『小説真髄』を著した「常盤会」がありました。

言うまでもなく、『小説真髄』は、明治時代に日本の近代小説の開始を告げた評論書。坪内は、宮沢賢治の当時には、劇団を主宰してシェイクスピア劇の翻訳・上演などを行なっており、『国柱会』の田中智学との文化交流も有名でした。



《稲垣宅》の前の路地(菊坂下通り)を50メートルほど歩くと、樋口一葉の旧居跡があります。

宮沢賢治と樋口一葉───そう言われてみれば、両者とも俗語・方言(一葉は東京下町の話し言葉)で書いたこと、庶民の生活に深い関心を持った点、思春期の少年少女への傾倒など、共通点が少なくありません。

賢治は、夭折した明治の女流作家・一葉の跡を慕って、ここに居を定めた───と考えてもおかしくはないと思うのです。



このあたりは、『松坂屋質店』など、啄木ゆかりの場所も多いのです。賢治は、盛岡中学校の卒業生らから、亡き啄木の動静を聞いていたかもしれません。



赤門前には、夏目漱石がよく来る理髪店がありました。芥川龍之介がしばしば宿泊したホテルは、菊坂へ下る坂の途中です。



これら以外にも、文京区の掲示によると、宮澤賢治に先立つ明治・大正の文豪・文人の旧居・旧跡が目白押しなのです‥このあたりは。。。



宮沢賢治の住んだ下宿が、こういう場所だったのは、単なる“偶然”───だなどとは、とうてい言えないでしょう!


“家出”が22日だとすると、賢治は《稲垣宅》に入居するまで、まる3日間、宿探しをしています。“明治以来の文人が多く住み、近代文学のいぶきに満ちた”この街に住んでみたいという、宮沢賢治の人知れぬ願望が感じられないでしょうか?‥







「二十二日附のお手紙ありがたく拝誦いたしました。私は変りなく衛生にも折角注意して夜はいつも十時前に寝みますしお湯にも度々参りますしその他すべて仰せの様にして居りますからどうか御安心願ひます。殊に仕事の方は午前中四時間ですから一向一寸の間で疲れも何も致しません。

 〔…〕尤も月収百円や二百円は当地ではこの不景気の際でも一寸した労働者はみなとりますが〔…〕

 一般に云へば只今は資本を以て経営するのはあまり利益ではありません。私の所では主人夫掃がやきもき十二時間も働いて月純益三百円位、九時問筆耕するものは月百二十円にはなりみんなの捧給は五百円を越えませう。

 一、私は理財の能力が甚欠けて居りますから決して資本の運転はできません。お赦し願ひます。たゞの労働者としてなら何でも致します。」
(1921年2月24日 宮澤政次郎宛て)




↑この2月下旬には、賢治もだいぶ東京生活に慣れ、落ち着いてきたようです、父宛てに手紙を書いています。

やはり、一日中仕事をするのは賢治にはきつく、《文信社》のアルバイトは「午前中四時間」だけになっています。書かれている給与水準から計算すると月53円程度(ただし、休みを取らないで毎日働いた場合)。家賃を支払って、ぎりぎりの生活はできたでしょう。

政次郎氏は心配して、何度か小切手を郵送していますが、賢治は、3月まではすべて送り返しています。


「お湯にも度々参ります」


と書いていますが、《稲垣宅》と一葉旧居跡のすぐそばに『菊水湯』という銭湯が、当時からありました。いまでもあります。

宮沢賢治が行っていた銭湯は、ここにちがいない!(画像ファイル⇒写真(カ))











ところで、宮沢賢治は、《稲垣宅》から、《文信社》へ通い、夜は鶯谷の《国柱会館》へ行ったほか、日中、上野の《帝国図書館》へも通い、また、昼休みに田中智学が街頭演説をしていた不忍池畔▲で、ビラ配りを手伝ったりもしました。


▲(注) 1921年、宮沢賢治が、本郷の金田一宅に訪ねてきて、「田中智学師を慕って上京し、その大道説教団の中にいる、と話された時には、さだめし私の顔がけげんな表情をしたことだったでしょう〔…〕その数日前に、私は上野の清水堂の下の大道に、田中さんの大道獅子吼の姿をみうけて帰ったことだった」(金田一京助「啄木と賢治」, p.248, in:『金田一京助全集』第13巻,1993,三省堂.)。『清水観音堂』は、上野・寛永寺の堂宇の一つで、西郷銅像裏の不忍池畔にある(台東区上野公園1−29)⇒写真(サ)(キ)




これらの場所を地図に振ってみますと、↓このように、東京大学の敷地を中心に散らばっており、健脚の賢治ならば、十分に徒歩で回れる距離だったと言えます。


















《稲垣宅》から《文信社》までは、上り坂ですが約400メートルの至近距離です。

《文信社》から“赤門”をくぐって東京帝国大学の敷地に入り、“三四郎池”のそばを通って、“池之端門”から敷地の外に出ます。《文信社》から不忍池畔まで約1.4キロ、池を渡って、上野公園の《帝国図書館》(現・国立国会図書館国際子ども図書館:台東区上野公園12−49)までは、《文信社》から約2.3キロです。賢治なら30分程度で歩けたでしょう。

《帝国図書館》から《国柱会館》までは、約800メートルです。




ちなみに、このルートの途中に、東京国立博物館と、上野動物園があります。


国立博物館では、大谷探検隊が持ち帰った“ミーランの天子像”などの西域文物を展示していました(⇒ミーランの有翼天子像 ゆらぐ蜉蝣文字 3.8.2

また、『月夜のけだもの』という童話があります。宮沢賢治が上野動物園をしばしば訪れていたのは、まちがえないでしょう。。。







ばいみ〜 ミ彡  


  
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カテゴリ: 宮沢賢治

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