10/02の日記

01:01
【宮沢賢治】ゼロからのエクリチュール(5)

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「あなたは春から東京へ出られますか

 お仕事はきまってゐますか

 私の出来る様な仕事で何かお心当りがありませんか

 学術的な出版物の校正とか云ふ様な事なら大変希望します


 今や私は身体一つですから決して冗談ではありません

 けれどもあなたにひどく心配して戴く事は願ひません 学校へは頼みたくないのです

 勉強したいのです 偉くなる為ではありません この外には私は役に立てないからです」

([1921年1月17日頃] 保阪嘉内宛て)






これは、東京への“家出”(1921.1.22.頃)☆の・わずか5日前に書かれた手紙ですが、『国柱会』も日蓮宗も、ここにはまったく出てきません!



☆(注) “家出”の日付は1月23日とするのが通説です。それは、1月30日付の関徳弥宛て書簡を根拠にしています。しかし、ギトンは、1月25日消印の保阪宛て葉書などから、“家出”は1月22日夕刻と推定します。“家出”から1週間経過した1月30日における日付の記憶よりも、“家出”直後の記憶のほうが正確だと考えるからです。(賢治は、夜行列車で東京に向かい翌朝到着したので、家を出た日付の記憶は、何日か経った後では混乱しやすいのです。)しかし、22日か23日かの相違は、ここでの行論に影響するものではありません。



上京したいという切なる願いが行間に滲み出ていますが、それは、どうやら保阪からの通信によって刺激されたもののようです。

「あなたは春から東京へ出られますか」と書いていますから、保阪から、そのような予定が書き送られてきたと想像してもよいのですが、‥しかし、保阪側の資料によると↓、どうもそれは無いようなのです。


あるいは、賢治は保阪の手紙の言葉の端を、自己流に受け取って(誤信ないし曲解して)、保阪も上京しようとしていると、勝手に解釈したのかもしれません。







保阪嘉内の日記類に基く大明敦氏の研究「保阪嘉内の生涯」★によれば、この間、嘉内のほうは、具体的な上京計画を持ってはいなかったようです。

★(注) 大明敦・嘉内・賢治生誕110周年記念会・編著,保阪善三・保阪庸夫・監修『心友 宮沢賢治と保阪嘉内 ──花園農村の理想をかかげて── 』,2007,山梨ふるさと文庫,pp.11-152.





保阪嘉内は、1920年11月30日除隊して兵役を終え、山梨県北巨摩郡駒井村(現・韮崎市藤井町駒井)の実家に戻っていましたが、


「嘉内もまた、大正7年に帰農を決めて以来、父との考えの違いに悩まされてきた。〔…〕

 兵役を終え、再び農業に取り組もうとしていた嘉内にとっても、父との対立は避けられないことであった。それだけに、賢治の気持ちも痛切に感じられるのであった。」

 嘉内の日記帳の1921年「1月25日◆のところに、次のような記述がある。

『□おれのやらうとする仕事の二つ三つ、

 一、法華経及び日蓮の研究、易経、漢書ノ渉猟

 二、閑居中ノ日記

 三、弓、剣術、謡曲、及画、写真

 四、真理を求むる事

 五、人民及自個への同化ノ努力(例ヘバ珠算ノ稽古)』」
(大明,op.cit.,pp98-99.)


◆(注) これを記した時点で、嘉内はまだ、賢治が家出・上京したことを知りません。賢治が嘉内に家出を知らせた第1報の葉書は、1月25日東京・九段の消印で投函されています。




 ↑この日記を見る限り、嘉内の関心は、とくに東京には向けられていません。「一、」の「法華経及び日蓮の研究」は、前年12月から始まった賢治からの日蓮宗入信の強い勧めに対応するものでしょう。

 嘉内は、賢治の勧めをうのみにするのではなく、独自に法華経と日蓮について勉強し、自分の考えで判断しようとしています。


「この頃〔12月頃?───ギトン注〕の嘉内の日記に

 『神はおのれのうちにある』

 というメモがあり、それは賢治の国柱会入会を知らされた時の嘉内の呟きであったかもしれない。」

(菅原千恵子『宮沢賢治の青春』,1997,角川文庫,p.94.)


↑このメモも、安易な迎合を自戒する趣旨でしょう。それは、1月25日の日記で「四、真理を求むる事」を課題としていることにも通じます。



「二、閑居中ノ日記」


からは、当分この郷里の地に「閑居」する意志が窺われます。この時点では、上京を考えてはいません。「三、」の趣味は、郷里で行なえることばかりです。

「五、」は、郷里での営農活動に関わることと思われます。ソロバンの練習もして、少しでも周囲の庶民・農民に親しまれるようになろうとしているのです。嘉内にとっては、そうした現実的・日常的な努力こそが、トルストイ的“花園農村の実現”という高い理想を実現する道でした。





嘉内が上京を考えるようになるのは、賢治の上京の知らせを受け取った1月末以降のことと思われます。◇

◇(注) 賢治の嘉内宛て書簡(1921.1.30.)に、「お葉書ありがたく拝見いたしました/お父様や弟さんを棄てるなんどは私ならば致しません。」とある。2月上旬と推定される書簡には、「お父様や弟様を捨てゝ着のみ着の儘こちらにおいでになる事はどうしてもいけません。」とある。






 




上の賢治の手紙は、


「けれどもあなたにひどく心配して戴く事は願ひません 学校へは頼みたくないのです」


とも述べていますから、前年(1920年)末ころに、現存していない手紙の往復があったかもしれません。

嘉内は賢治の“東京行き”を心配して、母校の高等農林に頼んで、東京の適当な勤め先を紹介してもらったらいいと書いてきたように、上の段落からは読めます。しかし、それほど具体的な“東京行き”の話は、現存する賢治の書簡には出てきませんから、散逸してしまった書簡があったと考えなければなりません。




しかし、賢治は、その“東京行き”にしても、『国柱会』や宗教とは無関係な企てとして計画していたと思われます。上の賢治書簡の内容からして、そのような宗教関係(布教活動、あるいは“日蓮主義”の学習・研究)は全く窺われないからです。










宮沢賢治は、上の手紙で、保阪に対して、


「私の出来る様な仕事で何かお心当りがありませんか

 学術的な出版物の校正とか云ふ様な事なら大変希望します」


と訊ねています。東京へ行って“自活”するためには、何かアルバイトをしなければならない。

これは、まったく当然の常識で、賢治は、この手紙では、正常な常識に従って書いています。

これと比較すれば、上京早々、アポ無しに国柱会館を訪ねて、「下足番でも何でも致しますから置いてください」と懇願したという1月23日の賢治の行動を、この書簡から予想することは、たいへんに困難です。





ところで、ここで注目したいのは、賢治が述べているアルバイトの職種です。


学術的な出版物の校正とか云ふ様な事」


↑のちに、じっさいに東京で賢治がありついたアルバイト口から見れば、あまりにも高級でキレイな仕事を想像していて、フッと微笑ましくなるほどですw



しかし、ともかく、しきりに“東京行き”の希望を洩らしてきた・これまで1年半の間、「宿直室でもさがしませう」以外には何ひとつ具体的言及のなかった・東京での仕事内容について、ここではじめて触れられていることに注目しなければなりません。











↓次は、じっさいに上京した後で、就いた仕事について報告している書簡です:




「拝啓 昨日帝大前のある小印刷所に校正係として入り申し侯 仕事は大学のノートを騰写版に刷りて出す事に御座侯
[ござそうろう] 何卒御安心奉願侯[ねがいたてまつりそうろう] 乍末筆御健勝祈上侯 合掌」([1921年1月]28日 保阪嘉内宛て葉書)





「三日目朝大学前で小さな出版所に入りました。謄写版で大学のノートを出すのです。朝八時から五時半迄座りっ切りの労働です。周囲は着物までのんでしまってどてら一つで主人の食客になってゐる人やら沢山の苦学生、辯(ベンゴシの事なさうです)にならうとする男やら大低は立派な過激派ばかり 主人一人が利害打算の帝国主義者です。後者の如きは主義の点では過激派よりももっと悪い。田中大先生の国家がもし一点でもこんなものならもう七里けっぱい御免を蒙ってしまふ所です。

さあこゝで種を蒔きますぞ。もう今の仕事(出版、校正、著述)からはどんな目にあってもはなれません。こゝまで見届けて置けば今後は安心して私も空論を述べるとは思はないし、生活ならば月十二円なら何年でもやって見せる。

     一向順序もありません。ごめん下さい。」
(1921年1月29・30日 関徳弥宛て)





「〔…〕この一週間は色々の事がありました。上野に着いたらお金が四円ばかりしか無くあてにして来た国柱会には断はられ実に散々の体でした。御本尊と御書と洋傘一本袴もなく帽子もなく筒袖の着物きのみきのまゝ明治神宮に詣ったり次から次と仕事をたづねたりしました。

 『何故学校の招介であらかじめ職を求めなかったか』これはみんなに聞かれませう。そしてそれにはあなたが御返事してやって下さい。

 今や私は宿も定まり、仕事もつまらぬ労働乍ら、楽しくあなたに手紙を書きます。

 〔…〕

  やがて拝眉の節を期します。尚私は今後は出版関係の仕事からはなれません。
(1921年1月30日 保阪嘉内宛て)





このアルバイト先は、当時宮沢賢治とともに・そこでアルバイトをしていた人の回想記から、東京・本郷の東京帝国大学・赤門前にあった《文信社》とされています(⇒画像ファイル:《文信社》)。


賢治の手紙では「校正係」「出版関係」などと言っていますが、それは、上京前に語っていた希望との落差を見せたくないからでしょう。

じっさいの賢治のアルバイト先の仕事は、大学で学生が筆記した講義ノートを、謄写版にして印刷し、他の学生や、大学に入れない人に売りつけるのです。


《文信社》は、教授を著者とした活字本のまともな講義録も出していたようですが、謄写印刷のほうは、教授の校閲も許可も経ていない・学生の試験目当ての海賊版です。

賢治は、「過激派」「帝国主義者」などと書いていますが、仕事そのものが、そういうヤクザ稼業なのです。












しかし、この体験を通じて、賢治の職業志望も、ようやく具体性のある形に整ってきたように見受けられます。


「もう今の仕事(出版、校正、著述)からはどんな目にあってもはなれません。こゝまで見届けて置けば今後は安心して私も空論を述べるとは思はないし、生活ならば月十二円なら何年でもやって見せる。」

「私は今後は出版関係の仕事からはなれません。」


と述べているのが、それです。





じっさいに宮沢賢治は、その人生行路において、出版業に携わることにはならなかったわけですが、

「著述」という点は、彼の一生の仕事──不幸にして、生活の資を得るには至らなかったとしても──になったと言えます。


1918年に保阪宛て書簡に記した『アンデルゼン白鳥の歌』などは、一種の翻訳の試みと言ってよいでしょう。翻訳の仕事としては、たいしたものではありませんが、賢治文学の作品としてみれば、これもたいへんに価値のあるものです。


このように、『白鳥の歌』以来、宮沢賢治の中に胚胎していた文学への“職業”意識は、“東京行き”の体験を通じて、ようやく本人も明確に意識するものになったと言うことができます。


東京滞在中、「爆発するような勢いで童話を書いた。〔…〕一ヵ月の間に、三千枚書」いた(宮沢清六『兄のトランク』,ちくま文庫,pp.252-253.)と言われている伝説的な童話執筆も、多少の誇張はあっても事実だと考えます。なぜなら、宮沢賢治は、いまや“天職”を自覚しているのですから。。。





なお、「出版、校正」についても、賢治は、『心象スケッチ 春と修羅』の自費出版の際には、非常に努力して自分で編集・校正を行なっています。できあがった誤植だらけの初版本を見れば、彼に校正の才が無かったことは、あまりにも明らかなのですが‥(⇒『春と修羅』初版本







しかし、ここで私たちは、東京での苦学生のようなアルバイト生活の中で、何が賢治をして“天職”に向かわせたのか‥‥その具体的なフェイズを心理的に掘り下げて見ておきたいと思います。





ばいみ〜 ミ彡  


  
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カテゴリ: 宮沢賢治

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