10/01の日記

01:31
【宮沢賢治】ゼロからのエクリチュール(4)

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こんばんは_^)ノ





1919年以後の保阪宛て書簡を見て行くと、将来が決まらない‥、というより、意に染まない質屋の店番で終ってしまいそうな行く手に対する賢治の焦りと苦痛を読み取れる手紙が続きます。


同時に、すでに19年夏から、賢治は、しきりに東京行きをほのめかしているのです:





「御葉書ありがたう存じます。私はとてもあなたの居る中に東京へは出て行けません。けれども東京の御宿は知らせて置いて下さい。何がどうなるやら一寸さきは判りません。

 東京は飛んで行きたい様です。〔…〕」
([1919年8月上旬] 保阪嘉内あて)


↑この時、嘉内は、『青年団指導者講習』を受けるために東京に滞在していました。保阪家に残っている修了証書によれば、講習の終了は8月17日でした。







「早く私もとびだしたくやきもきしてゐます。」

(1920年3月9日消印 南洋・東カロリン群島クサイ島・南洋拓殖工業会杜・佐々木又治宛て絵葉書)



佐々木又治は盛岡高等農林の同級生で、卒業後、南洋拓殖会社に入社しカロリン諸島に勤務していました。

前後の事情から推測すると、佐々木は外地の勤務先で劣悪な待遇を受けており、「とびだした」いとは、孤島に閉じ込められている環境から脱出する意味と思われます。したがって、賢治の「とびだしたく」も、海外へ行きたいという意味ではなく、郷里の実家を離れて上京したいということでしょう。






「ケレドモ来春ハ久々デオ目ニカカッテ大二悦ビノ声ヲアゲマセウ。ソレマデハ私ハヤッパリ陰気ナ古着店二布団綿ヤ質物ノ間二埋モレテ私ノ祖父ノ業、父ノ業ヲ続ケマス。」
([1920年7月末〜8月初め] 保阪嘉内あて)



保阪(11月まで兵役で東京滞在、「来春」は山梨県の実家に帰っているか。)との再会を期している場所は、東京がもっとも考えやすいと思います。






来春は間違なくそちらへ出ます 事業だの、そんなことは私にはだめだ 宿直室でもさがしませう。まづい暮し様をするかもしれませんが前の通りつき合って下さい。今度は東京ではあなたの外には往来はしたくないと思ひます。真剣に勉強に出るのだから。」
(1920年8月14日 保阪嘉内宛て)




↑兵役で東京滞在中の保阪に、関豊太郎教授が8月「二十日頃」東京に転居することを知らせる手紙。したがって、「そちら」は東京を指します。


上京の目的ですが、実家を出て自活することを考えているようです。しかし、仕事はあくまでも必要最小限のアルバイトにとどめて、東京で独学で「勉強」することが目的です

「勉強」の分野、仕事の職種については、まだ漠然としか考えていません。ともかく‥「事業だの、そんなことは私にはだめだ」───父が賢治に期待しているような実業家としての企業設立は否定して、独自の道を行く所存です。







来春早々殊によれば四五月頃久久にて拝眉可仕候
[つかまつるべくそうろう]

 切に御健康を奉祈上候
[いのりあげたてまつりそうろう](1920年9月23日 保阪嘉内宛て)



ここでも、「来春」の再会を約しています。再会の場所は、やはり東京を予定しているでしょう。











さて、問題は、↓次の手紙です。10〜11月の間に、何か大きな転換があったのでしょうか?‥



「 今度私は

   国柱会信行部に入会致しました。即ち最早私の身命は
   日蓮聖人の御物です。従って今や私は
   田中智学先生の御命令の中に丈あるのです。 謹んで此事を御知らせ致し 恭しくあなたの御帰正を祈り奉ります。

 あまり突然で一寸びっくりなさったでせう。私は 田中先生の御演説はあなたの何分の一も聞いてゐません。唯二十五分丈昨年聞きました。お訪ねした事も手紙を差し上げた事もありません。今度も本部事務所へ願ひ出て直ぐ許された迄であなたにはあまりあっけなく見えるかも知れません。然し〔…〕

 〔…〕今や日蓮聖人に従ひ奉る様に田中先生に絶対に服従致します。御命令さへあれば私はシベリアの凍原にも支那の内地にも参ります。乃至東京で国柱会館の下足番をも致します。それで一生をも終ります。〔…〕

  今私はこれら特種の事を何等命ぜられて居りません。先づ自活します。これらの事を私の父母が許し私の弟妹が賛しそれからあなたが悦ぶならばどんなに私は幸福でせう。既に私の父母は之を許し私の弟妹は之を悦び、みなやがて、末法の唯一の大導師 我等の主師親
   日蓮大聖人に帰依することになりました。」
(1920年12月2日 保阪嘉内宛て)




↑ここで急に、『国柱会』(田中智学の主宰する日蓮宗・国家主義団体)に入ったという話が出てきます。しかし、上田哲氏の調査によれば、賢治の入会は1920年4月中旬以前であり(『新校本全集』,第15巻「書簡」校異篇,p.95.)、11月23日に賢治の勧めで関徳弥☆が入会したのを期に“カムアウト”したものと思われます。

☆(注) 宮澤賢治の父・政次郎氏の従兄弟ですが、賢治より3歳年下で、歌人。宗教と文学に亘って賢治を先輩として尊敬しており、『心象スケッチ 春と修羅』の印刷・校正にも協力しています。


この書簡の「田中先生に絶対に服従致します。〔…〕国柱会館の下足番をも致します。」のクダリは、宮沢賢治が、『国柱会』の活動に身を投ずる決意で東京へ出奔したという“伝説”の典拠として、よく引かれる部分です。





しかし、注意してほしいのは、この手紙はあくまでも“入会”を知らせる手紙なのです。『国柱会』活動のために上京するなどという話は、この時点では、また、これ以前にも、まったく出てきていません!

“シベリアへ行く”“支那へ行く”“下足番で一生を終えてもよい”の部分は、それほどまでに“智学に絶対服従”するのだという“例え”を述べているに過ぎません。じっさいの行動計画ではないのです(少なくとも、この時点では)。


むしろ、現実的な予定としては、


「先づ自活します。」


と言っています。上京して「自活」することは、8月の手紙にも書いていました。


上京して、『国柱会』の世話になるとか、『国柱会』に身を投じて全生活を委ねるなどといったこと◆は、この手紙にさえ全く書かれていないことに注意してほしいと思います。

◆(注) それは『国柱会』の設立趣旨にも反することでした。田中智学の“日蓮主義”は、寺院・僧房・僧侶といった“宗教専従者”の存在を全面的に否定し、在家信徒のみで組織される宗教運動を目指していました。現実には、国柱会本部の理事や雇用人など、会の財政で生活している人たちがいたわけですが、それはあくまで“方便”です。他の宗派・教団のように、教団に身を預けて信者の寄付や托鉢で生活しながら修行と仏事に専心する──という僧侶の生き方は、田中の『国柱会』では、むしろあってはならないことだったのです。ですから、国柱会館へ行って、「どうか下足番でもビラ貼りでも何でも致しますからこちらでお使い下さいますまいか。」と言って懇願したが、にべもなく断られたと言う賢治の関徳弥宛て書簡(1921.1.30)、賢治に玄関先で応対し、「家には無断で上京してきたものであります。どういう仕事でも致しますから、こちらに置いて頂き御教導をいただきたいのです」と言われて困惑したと記す国柱会理事・高知尾智耀の回想記、また、「あてにして来た国柱会には断はられ」という保阪宛て書簡(1921.1.30)に述べられている『国柱会』側の拒絶的な応対は、むしろ会としては当然だったと言わなければなりません。“日蓮主義”を熱心に学習して入会した宮澤賢治が、この結果を予想していなかったとは、どうしても思えないのです。






最後の段落では、


「既に私の父母は之を許し私の弟妹は之を悦び、みなやがて、〔…〕日蓮大聖人に帰依することになりました。」


などと書かれていて、これはまったく事実とは正反対です。事実は、父・政次郎氏は、地元で著名な浄土真宗の篤信家でしたから、賢治の改宗の勧めを受け入れるはずもなく、家庭内の宗教論争となってしまい、挙句の果てに賢治が東京へ出奔した───というのが、ほとんどすべての宮沢賢治伝が描くストーリーです。(この経緯自体は‥“出奔”を引き起こした賢治本人の内心の動機という一点を除けば‥事実でしょう。)



つまり、この手紙の最後では、賢治は熱意のあまり願望と現実を混同してしまっているのです。。。

そのように“熱して”書かれた手紙ですから、その一段落前の「シベリア」「支那」「下足番」も、現実離れした空想として読んだほうが妥当ではないかと思います。














ともかく、重要なことは、宮沢賢治は、この年4月(またはそれ以前)に『国柱会』に入会していたにもかかわらず、書簡を見る限り、それ以前から(遅くとも1919年8月から!)、1921年初めの“家出”決行まで、しきりと洩らしている“東京行き”の希望は、どう読んでも、『国柱会』などの宗教活動と関わるものには見えないことです。



あるいは、“11月までは入会を隠していたから、上京の目的についても、はっきり言わなかったのだ。本人は最初から『国柱会』が上京の目的だった。”と言う人がいるかもしれません。

しかし、このあとで↓見るように、賢治が家出・上京直前の1921年1月に書いた上京を希望する手紙でも、宗教関係には、まったく触れていないのです。。。









そういうわけで、“宮沢賢治は、『国柱会』の布教活動に参加するために東京へ行った”という“伝説”に対して、ギトンは大きな疑問を持っています。

賢治が東京へ行きたがっていたこと、“家出”までの1年半、しきりと東京行きの希望を洩らしていたことは、むしろ『国柱会』とも日蓮宗とも無関係なことだった‥ 賢治の上京目的は、他にあった‥ ───そう考えたほうがよいと思うのです。




そもそも、“布教”ならば、まだ日蓮宗信者がほとんどいない地元岩手県、あるいは東北においてこそ、なされるべきです。そのことを宮沢賢治はよく解っていたし、じっさいに花巻での布教に努力しています。家出して東京に移った後で、東北の知人友人に東京から手紙を出して“布教”を行なっているのです‥!

“布教”のために東京へ出かける理由など、まったく無かったのです!!






ちなみに、12月になってから“カムアウト”して、保阪にも入会を強く勧め始めた理由ですが‥ ギトンは、これは、関徳弥氏の影響だと思います。



“影響”というのは、次のようなことです:

関氏は、この年10月中旬に単身岩手山中に入り、10日余りの荒行の末に:


「自分は正しく仏をみた。夢ではなくこの肉眼でありありと仏にあへた。その瞬間から心は俄にさやかになり、それまで無性に寂しかった人生は正に寂光土となつて見えるやうになつた。」(関徳弥:歌集『寒峡』「後記」)


という体験をします。関氏が山から下りて、さっそく宮澤賢治にこの話をすると、賢治は、

「そのとき仏は貴方に何かをたのみませんでしたか」

と訊ね、関氏が、「何もたのまれない」と答えると、落胆した様子で「ハア」と言ったそうです。(推測するに、賢治は、仏は自分に関わることを何か言ったはずだ‥仏は賢治の“弟子”である徳弥に現れたのだから、賢治に何か伝えてほしいと言ったはずだ、‥そう思ったにちがいない。もっとはっきり言うと:‥仏は、賢治をさしおいて徳弥に現れるはずがない。徳弥に現れたのは、あくまでも賢治の“弟子”に対してなのだ!‥)






宮澤賢治は、関氏のような宗教的な形で“仏の姿に出会う”体験をしたことは、なかったのです★。賢治が“落胆した”のは、後輩である関氏に“先を越されてしまった”という感覚だと思います。

なぜなら、賢治がはじめて、ウチワ太鼓を叩いて「南無妙法蓮華経」と唱題しながら花巻の町を歩くという思い切った行動に出たのは、関氏から体験を聞かされた直後の10月23日のことと推定されるからです(『新校本全集』16(下)年譜篇,pp.206-209.)


★(注) たとえば、「東には紫磨金色の薬師仏 空のやまひにあらはれ給ふ」(『歌稿A』#156:1914年)のような和歌はありますが、宗教的な神々しさというより、おどろおどろしい病的な幻覚です。先立つ #155 は:「そらはいま蟇[がま]の皮にて張られたりその黄のひかりその毒の光り」。







  






関氏に“先を越されてしまった”という焦りから、それまで自身の心の中だけで満足していた信仰を、誰にでも見えるような形で表現せざるを得なくなったのでしょう。11月23日に関徳弥を入会させた後は、両方の家の前に掲示板を吊るして『国柱会』機関紙『天業民報』を貼り出したり、親戚の者数名を誘って日蓮経典の勉強会を開いたり‥、といった活動が続きます。

逆に言えば、関氏の“指導者”として、そういった活動を始めた矢先(1921年1月22日頃)に、突然断りもなく東京へ出て行ってしまう賢治の行動は‥ どう考えても、まともな宗教指導者や信者のものではありません。にもかかわらず、あくまでも賢治は、宗教の目的で東京へ行った──と考えるならば、それは、気の狂った支離滅裂な行動とでも言うほかはないでしょう。。。



しかし、宗教活動の急激な開始は、いわば“後輩”信者に突き上げられてのことで、賢治自身の・以前からの本来的欲求は、宗教とは別にあった‥ “東京行き”が、『国柱会』へ身を投ずるような外形を持ったのは、そうした・いわば環境から強いられた“分裂”のためであって、“東京行き”そのものは、宗教活動とは別の欲求によって彼の中で準備されていた。突然の出奔は、そうした彼の本来的欲求が、“外被”を突き破って噴出したものにほかならない───このように考えれば、賢治の行動は理解できるのです。






ばいみ〜 ミ彡  



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カテゴリ: 宮沢賢治

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