09/28の日記

15:13
【宮沢賢治】ゼロからのエクリチュール(2)

---------------
.














こんばんは_^)ノ




さて、けさほどは、宮沢賢治の“文学的出発”は、1918-19年頃と1922-23年頃の間のどこかに置かれることになる───というところまでだったわけですが、ここで平澤信一氏の「宮沢賢治における文学の発生・序説」☆という論文を取り上げたいと思います。

☆(注) 平澤信一『宮沢賢治《遷移》の詩学』,2008,青丘書林,pp.26-47.



平澤氏は、この論文で、

「宮沢賢治における文学の発生は、岩手県立盛岡中学校〔…〕在学中の短歌制作に始まる。〔…〕大正十年〔1921年──ギトン注〕夏までにほぼ終息する〔…〕その作歌の営みは既に、われわれが宮沢賢治と呼ぶ言語運動の圏内にある。」

として、『歌稿A』に収録された中学在学および卒業時の短歌2首★:


#79 うしろよりにらむものありうしろよりわれらをにらむ青きものあり

#96 鳥さへもいまは啼かねばちばしれるかの一つ目はそらを去りしか 


に注目しています。

★(注) 79番は、中学2年時(1910年9月23-25日)の岩手山登山の短歌5首のうち『歌稿A』で最後に位置するものですが、「[明治]四十五年一月」(つまり1912年)という標題の章の末尾に (補) として収録されているので、制作時期は1910年ではなく1912年以後の可能性が高い。「青きもの」は、岩手山火口湖のひとつ《御釜湖》の水面と思われます。96番は、中学卒業時に原因不明の高熱(肺結核の初期症状か)で岩手病院に入院した際の多数の作歌のひとつで、「一つ目」は月と思われます。いずれも、先行する連作歌からそのように理解できます。






しかし、賢治はやがて、短歌という短い形式、あるいはその連作をもってしても盛りきれない詩情や、物語的構想の表現手段を求めて、口語自由詩(「小岩井農場」のような長大な作品をも含む)や散文へと転換してゆくことは周知でして、

平澤氏も、それを前提として、散文・自由詩への転換の画期として、「アンデルゼン白鳥の歌」(保阪宛て書簡[1918.12.16.]に初出、その後、『歌稿A・B』で補充)に注目しています。







79番の短歌にある「われらをにらむ青きもの」は、連作中の他の歌を参照すれば、「みづうみ」を指していることは明らかなのだが、


「賢治の実際に見た《もの》が、《みづうみ》という言葉では決して掬いきれない〈何ものか〉であったこと〔…〕おそらく、そのとき短歌は、彼にとってこの〈何ものか〉を捉え得る唯一の手段であった。五七五七七という凝縮された形式の内側に何とかして、この〈何ものか〉を封じ込めること。」(平澤,op.cit,pp.39-40.)

「そこに在るのはただ単に《うしろよりにらむもの》であり、《うしろよりわれらをにらむ青きもの》としか言いようのない、まさに《もの》そのものなのだ。」(op.cit.,p.27.)


同様に、96番の「ちばしれるかの一つ目」も、血走ったように赤い《ゆみはりの月》には違いないのだが、


「しかし、《ちばしれる》のはやはり《月》の向うにある《一つ目》であり、敢えて言うなら《一つ目》の奥にある得体の知れない《もの》そのものなのだ。〔…〕

 折口信夫によれば、〈もの〉という語はかつて〈鬼〉の訓にも当てられ、その〈おに〉の第一義と言えば〈「死人の魂」で神に近いもの〉〔…〕だという。それは〈もののけ〉の〈もの〉であると同時に我々が〈ものがたり〉という時の、あの〈もの〉にほかならないというわけだ。

 そして、宮沢賢治が短歌という定型を得てはじめて発見したこの《もの》こそ、彼がこのさき様々な形で定着を試みる《修羅》の原型であり、」短歌の定型「に出会う事で彼は、理性の奥深くに蠢いていた《もの》の存在を確信しえたとは言えるのである」。


「『賢治の意識は、たえず物質の方に摺り寄ってゆき、幻聴・幻視的な感覚がとらえるヴィジョンを、ほとんど口述筆記のように紙上に写しとることに専念しているかのようだ。』

 とは賢治短歌の表情を的確に捉える大岡信の指摘だが、短歌という凝縮された表現形式との出会いは宮沢賢治をして、〈私〉を突き抜けた《われら》という無意識の領域(大岡の指摘する〈幻聴・幻視的な感覚〉であり、折口が言うところの〈もの〉)へと遡行せしめる決定的な契機となった。」(op.cit.,pp.27-28.)





「だが同時に宮沢賢治は、自分の心にどうしようもなく触れてくる、短歌では掬いきれない物語の存在を、〔…〕感じ取っていた。連作『アンデルゼン白鳥の歌』」は、アンデルセン『絵のない絵本』の一節を連作短歌に直した一種の翻案であるが、翻案である以上に、「やがて賢治の行使する言語が散文化していくその運動の原型を典型的に辿ることができる、極めて重要な作品である。」(op.cit.,p.29.)




そして、平澤氏は、この連作短歌の分析によって、〈対偶法〉および〈連続反復〉という、のちの『春と修羅』の諸篇に連なる手法──「二種類の言語運動の存在」◆を指摘しておられます。(pp.35f.)

◆(注) それは、同じ表現を、さまざまに変化させつつ反復しながら「〈もの〉そのものの存在に迫」ってゆく運動と言えるでしょう。たとえば、『春と修羅』収録の作品「岩手山」(⇒【40】岩手山)も、このような角度から見直すことができます。(op.cit.,p.42)










しかし、私たちにとって、より重要なのは、この、短歌から《心象スケッチ》へと転換する画期の作品が、保阪宛て書簡に書かれていることです:




「『私は求めることにしばらく労
[つか]れ、』と書いたと思ひます。但しあなたに求めるものはあなたの私を怒らないことです。今年も匆々暮れます。

  アンデルゼンの物語を勉強しながら次の歌をうたひました。



 『聞けよ。』又月は語りぬやさしくもアンデルゼンの月は語りぬ。

 みなそこの黒き藻はみな月光にあやしき腕をさしのぶるなり。

 ましろなるはねも融け行き白鳥は群をはなれて海に下りぬ

 わだつみにねたみは起り青色きほのほの如く白鳥に寄す

 あかつきの瑪瑙光ればしら\/とアンデルゼンの月は沈みぬ。

 白鳥のつばさは張られかゞやける琥珀のそらにひたのぼり行く」
([1918年]12月16日 保阪嘉内宛て)














平澤氏が指摘されるように、賢治はここで、アンデルセンの文にある「めずらしい海草」の「長大な茎」を、「月光にあやしき腕をさしのぶる」「水底の黒き藻」と読み替え、月に照らされて「かがやく水」の「青い火」に、「わだつみ」の「ねたみ」の「青きほのほ」を読み込んでいます。

そして、天上の月と、海底の海草と水面が作り出す夜の「あやしき」世界を通り抜け、暁とともにふたたび翼を広げて、一心に仲間に追いつくために飛翔してゆく一羽の白鳥の姿が描かれるのです。



ここには、アンデルセンの原作にはない賢治の“物語”が展開しています。そのテーマは、賢治ののちの用語を使って言えば、“修羅”を通り抜けるということで、保阪との間では十分に通じ合うことのできるメッセージであったと言えます。





ばいみ〜 ミ彡  


  
ランキングへ
.
カテゴリ: 宮沢賢治

前へ|次へ

コメントを書く
日記を書き直す
この日記を削除

[戻る]



©フォレストページ