08/29の日記

09:00
ラヴォアジェ(20)

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こんばんは。。







物質を構成する《原子》や《原子》団の形・大きさ・運動・配列によって化学現象を説明する・ボイルの機械論的《原子論》は、

一挙にあらゆる化学変化や物質変成を説明してしまえる・いわばオールマイティーな理論でした。












たとえば、ボイルによれば、


「ニワトリの受精卵がヒヨコになるとき、

 卵を作っていた物質からヒヨコを作る物質へと」、物質をつくっている原子の「再配列が起こるわけである。」(T.H.ルヴィア,化学史学会・監訳『入門化学史』,2007,朝倉書店,p.27.)


「同じように、農夫が、果樹園のスモモの木に洋ナシの若枝を接木すれば、1本の木に洋ナシとスモモがなるだろう。〔…〕2種類の果実の成長に同じ物質が養分を与えているのだ。」(op.cit.,p.28.)養分物質を構成している原子、原子団の再配列のしかたによって、同じ養分が、洋ナシにもスモモにもなるのだ。☆



☆(注) それでは、何が“再配列”のしかたを司っているのか?‥ボイルは、ガッサンディの原子論にしたがって、桃の種(たね)は桃の「形相」を宿し、梨の種は梨の「形相」を宿しているから、桃の種から成長した枝にはモモの果実が成り、梨の種から成長した枝には梨の果実が成るのだと考えました。そして、同じことは、地中で金属鉱石ができる場合にも言えて、さまざまな金属が地中から掘り出されるのは、地下に金属の“種(たね)”があって、鉄鉱石は鉄の“たね”から、銅鉱石は銅の“たね”から、成長してくる‥と説いたのです。“種(たね)”すなわち「形相」が、さまざまな物質をその物質たらしめるという考えは、アリストテレス哲学に基づく中世的自然観です。「形相」すなわち“種(たね)の力”が、たくさんの原子をまとめあげ、「それぞれの物質をそのものたらしめる必須の諸性質の統一性」を保証しているのです(ルヴィア,op.cit.,p.27)。ボイルの《原子》は、物活論的な「形相」の力に統御されてはじめて、秩序ある自然界を形成することができたのです。




 しかし、「あらゆることをカバーする説明というのは、じつは何も説明していない。」

 たしかに、ボイルは、哲学的な《原子論》を述べる一方で、実験室の化学者としての彼は、「性質に応じて物質を分類することができた。

 しかし〔…〕実験室の物質分類を、構成原子による説明と明確に関連づけることは、まったくできなかった。」

 たとえば、ある物質の原子構成から、その物質の性質や分類を予想する、といったことは、ボイルの《原子論》では、まったく不可能だった。(金が、重くて輝きがあって錆びない金の性質を持つのはなぜかと言えば、それは、金の「形相」に支配されているからだ、ということになってしまって、‥これでは、“金は金だから金なのだ”というトートロジーに等しい。)



「理論に予測の力がなく、実地の物質分類との間にたしかな相互関係がないのなら、それはたいして役に立たない。

 ボイルの機械論的説明は、結局のところ実りがなかったのである。」(a.a.O.)









では、ニュートンの《原子論》は、どうだったでしょうか?



ニュートンは、原子、原子団の形や大きさよりも、「物体が力や能動的原理によって相互に作用するという考えを基本にしていた。」(op.cit.,p.29.)


 ニュートンは、万有引力によって、地球上の物体の運動や、天体の運動を、みごとに説明したが、

 葡萄酒の醗酵の原因は、万有引力とは別の力と思われた。それでも、《原子》や《原子》団のあいだに働く未知の力──それをニュートンは「引力」「斥力」と名づけた──を解明することができれば、醗酵も、月や木星の運動と同様に数学的に説明できると思われた。


「ニュートンより若い世代の研究者の中には、〔ニュートン力学の法則体系と同じように──ギトン注〕化学法則の正確な数式を見出すのは、たいして難しいことではないと軽々しく主張する者もあった。〔…〕

 ちょうど重力を理解することによって物体の運動が予測できるようになったのと同様に、化学的引力が解明されれば、化学反応の結果は予測できるようになると、思われたのである。」

 機械論的物理学で化学現象を解明しようとする「この企ては、結局失敗に終ったのだが、自然科学者たちは、その試みをやめようとはしなかった。

 18世紀末の物理学者ラプラスは、「ニュートン主義天文学のみごとな総合をなしとげ」たが、さらにミクロの世界をも征服しようと企て、「天体力学に匹敵する化学力学を作ることができると考えた。しかし、やがて彼も、化学に関してはそうはいかないことに気づき、ついにはそのことを認めるようになった。」



 こうして、「機械論的化学は袋小路に突き当たった」(op.cit.,p.30.)









 







 しかし、「機械論的化学の流行は〔…〕主にフランスとイギリスの範囲内に限られたことであった。」(a.a.O.)




 その一方で、別の化学のグループが、「ヨーロッパ全土で活動し、とりわけドイツで最も有力であった。

 この流派の人々は、化学は医学の一部であるとか、あるいは、医学は化学の一部であるとすら考えた。」

 それは、パラケルススの流れを汲む『医化学派』であって、「彼らは17世紀から18世紀に入っても、その化学すなわち医化学を続けていく一方、機械論派のやっていることは、ほとんど気にもとめなかった。」(op.cit.,p.31)







 当時「神聖ローマ帝国を構成していた散在するいくつかの小国や公国は、厳しい経済問題に直面しており、」諸侯は、錬金術師などの専門家を“顧問官”や“侍医”として雇って、重商主義的な産業政策を進めた。

 各領邦国家は、「国内経済を厳しく統制し、原材料や産業を効率的に利用することによって自給自足の国家をめざした。鉱業やガラス、織物、ビール、ワインのそれぞれの製造業にかかわる問題があったため、ドイツの諸国家は化学を真剣に受け止めるようになった。」(W.H.ブロック,大野誠・他訳『化学の歴史 T』,2003,朝倉書店,p.64.)



 同じ時代のイギリスのボイルやニュートンとは対照的に、ドイツの化学者(錬金術師)たちは、高尚な哲学には関心がありませんでした。彼らが関心を持ったのは、実用であり、金属や酒の製造、医薬の調合、金銀宝石・不老長寿をもたらす魔術でした。なぜなら、彼らを抱えている王侯貴族の関心は、もっぱらそれらに向けられていたからです。


 ベッヒャーは、主著『地下の自然学』に、つぎのように書いています:


『豪華な邸宅、安定した職、名声、繁栄のいずれにも、私は関心がない。むしろ、私にとって意味があるのは、ふいごによって舞い上がる石炭の煙、すす、炎のなかで見出した化学薬剤である。ヘラクレス以上に、私は不潔きわまる家畜小屋でいつも働き、炉のまばゆい光でほとんど視力はなくなり、水銀蒸気に災いされて呼吸もままならない。〔…〕

 他の人たちから評価されることもなく、仲間もなく、財貨のうえでは乞食だが、精神の領域ではクロイソス〔古代の億万長者───ギトン注〕である。』



 このように序文に書かれた『地下の自然学』は、「経済的に重要な鉱物を科学的に成長させるという古来の問題に関わるものであった。この著作は、宗教的な性格が強く、生気論的であり、パラケルスス主義的な傾向をもつ作品であった。

 ベッヒャーにとって、化学者である神が創造した自然界は、変化と交換の永続的なサイクルであ」った。



 聖書の『創世記』で、天地と水が創造された後で、鉱物は生成したと、ベッヒャーは考えたので、「彼は、鉱物が土と水から生成したと考えた。〔…〕

 鉱物は、形成原質の存在下で、多様な割合の土と水の種子から成長するのであった。」

(ブロック,op.cit.,p.65.)








 ヨハン・ベッヒャーは、『地下の自然学(Physica Subterranea)』(1667年)の中で、すべての物質は、空気、水、そして三つの「土」からなっているとした。(Wiki 独語版)



 しかし、「ほとんどの17世紀の化学者と同じく、ベッヒャーにとって空気は、真の化学原質ではなかった。

 彼によれば、空気は、化学原質や、それから作られている物質を混合するための作用因(agent)であった。



 それゆえ、彼にとっては、こそ、真の原質もしくは元素であり、それらが空気と混合されると、有機体や鉱物が生成されるのであった。

 〔…〕彼は、金属と鉱物類には3種類の異なったが必要であると考えた。」(ルヴィア,op.cit.,p.34.)



つまり、ベッヒャーの体系では、“”と“3種類の”が、《元素》であることになります。






 “3種類の”とは、


● 「流動土 (terra fluida)または水銀性の土」

● 「燃える土(terra pinguis)または脂肪土 」

● 「石の土 (terra lapidea) またはガラス質の土」


であり、これらはほぼパラケルススの《三原質》:水銀硫黄に対応している。



 そのうち、パラケルススの“硫黄”に相当する「燃える土」は、「物質に、油性、硫黄性、可燃性を付与する」ものとされ、あらゆる可燃性物質に含まれている。(Wiki 独語版)


 ベッヒャーによれば、「これは燃焼の原因であった。これは油性で可燃性を示し、ベッヒャーはそれを可燃性の硫黄と呼ぶこともあった。それは中世の錬金術師や、さらにアリストテレスにまで遡る伝統につらなる概念である。

 ベッヒャーは、可燃性を表現するために、フロギストスというギリシャ語を用いた。」


 ベッヒャーの「燃える土」、「可燃性の硫黄」、すなわち「フロギストスな土」は、18世紀にはフロギストンという名で呼ばれるようになり★、「この考えは、パラケルススの《三原質》や、ベッヒャーの他の種類の“”よりも長く生き延びることになった。」(ルヴィア,p.34)



★(注) 「フロギストス φλογιστός」は、“燃える,可燃性の”という意味のギリシャ語(形容詞・男性形)〔アリストテレス『気象論』にある語〕。他方、ボイルやシュタールの著書には「フロギソン」または「フロギストン φλογιστόν phlogiston」(「フロギストス」の中性形)と書かれています(シュタール,田中豊助・他訳『合理と実験の化学』,1992,内田老鶴圃,pp.iii-v,145,416)。












17世紀も終りころになると、神聖ローマ帝国下のドイツ・オーストリアは、ようやく《三十年戦争》の惨禍から復興し、群小諸国が分立して混沌としていた状況から、プロイセン、オーストリアという2大強国が台頭してきます。


この気運の中でハレ大学の医学教授から、プロイセン王国の宮廷侍医・顧問官となったゲオルク・シュタールは、ベッヒャーの著作を再評価して、実用と実験を基調とする化学を構築するのです。



 シュタールの「最初の著作『醗酵術の基礎』(1697年)は、ビール、ワイン、パンの醸造法を取り上げた作品だった。

 彼がベッヒャーの著作に関心を向けるようになったのは、鉱石の精錬を改良する際に、役立つと考えたからであった。」(ブロック,op.cit.,p.66)


 ベッヒャーは、「自然界が一貫した秩序を保つと考えていたので、」鉱物や金属鉱石の研究だけでなく、「最終的には植物界や動物界のもっと複雑な組成についても言及していた。

 しかし、〔…〕シュタールは、ベッヒャーの鉱物理論だけを集中的に取り上げた。」(op.cit.,p.65)







シュタールは、ベッヒャーの「燃える土」「可燃性の硫黄」すなわち“フロギストン”を継承して、《フロギストン説》を唱えたことで有名になりましたが、


《フロギストン説》は、シュタールの化学の一部に過ぎません。

シュタールの主著である『合理と実験の化学 Chymia Rationalis et Experimentalis』(1720年)には、“フロギストン”は、ほとんど出て来ないのです(シュタール,田中豊助・他訳『合理と実験の化学』,1992,内田老鶴圃)


むしろ、シュタールの《フロギストン説》は、彼の化学を受け入れた18世紀のフランス、イギリスの化学者たちが、シュタールの説をいくぶん変形しながら、あらゆる化学反応の説明に応用するようになったために、一世を風靡したのでした。





とくに、それまで、神学的・哲学的な思弁を中心としていたフランスの学者たちの世界に、啓蒙主義の思潮が起こり、現実の社会や自然に目が向くようになった時期にめぐりあわせたことが、シュタール流の実験化学の“流行”を生み出しました。

 ドイツから伝えられた実験と実用を重んずるシュタールの化学を、フランスの化学者たちは、大きな驚きをもって迎えたのです。



「18世紀中葉のフランスで重要な化学者のほとんどは、パリの王立植物園で行なわれたルエルの講義を聴講した。」(ルヴィア,op.cit.,p.39)


 ルエルは、王立植物園の教授ではなく、実験の実演によって教授の講義を補う役目の“実験教示者”だったのですが、聴衆は、教授の話よりもルエルの実験を見るために集まって来たのです。ルエルの実験が行なわれる階段教室の前には、貴族や貴婦人の馬車が、ところ狭しと詰めかけ、ルエルが、さきほどの教授の講義と正反対の結果を証明して見せると、われるような拍手喝采が上がったといいます(ドーマ,島尾・他訳『ラヴォワジエ』,pp.7-9.)。

「上背のある不恰好な容姿で、かつらの下からいつもはみだしているもじゃもじゃの赤毛の頭を振り立て、ルエルは礼儀や言葉遣いにはいっこう無頓着だった。」(ドーマ,p.10)

「彼のスタイルは伝統的な学者のやり方ではなかった。実験に熱が入ると、袖をまくり、手や腕、ときには顔やシャツまで汚して、化学がとりわけ実践的な学問であることを身をもって示した。」(ルヴィア,pp.39-40.)


 このルエルが伝えたのが、彼独自に改良を加えたシュタールの化学でした(a.a.O.)


 ルエルの実験講義を、とりわけ熱心に聴講したのは、『百科全書』を編纂した有名な啓蒙哲学者ディドロでした。ディドロは、自分の筆記したノートをもとに、ルエルの講義録を出版しています(ドーマ,p.10)

 当時のパリを席捲した“実験化学熱”にかけては、あの啓蒙思想家ヴォルテールも、人後に落ちませんでした。ヴォルテールは、「自分の城館に化学実験室を造って、愛人とともに化学の最新の進歩を実験して楽しんだ。」(ルヴィア,p.41.)


 そして、ルエルの講義に詰めかけた若い学生たちの中に、20歳になったばかりのアントワーヌ=ローラン・ラヴォアジェの姿もあったのでした。。。(ドーマ,pp.26-27.)










王立植物園 Le Jardin du Roi(パリ植物園)







しかし、私たちは、まず、シュタールが提唱した実験重視の化学体系の全体像を見ておく必要があります。


というのは、化学史で有名になった《フロギストン説》だけを取り上げて、そのままラヴォアジェに繋げてしまうならば、私たちは、“ラヴォアジェ以前”について大きな誤解をしてしまいかねないからです。





ラヴォアジェは、シュタールの“空想”を実験によって覆したのではありません。

むしろ、静かな植物園を愛し、しばしば訪れては物思いに耽っていた空想的な青年ラヴォアジェの前に、ルエルの演ずるシュタールの実験化学が、青天の霹靂のように立ち現れ、彼の人生を変えてしまうほどの深甚な衝撃を与えたのだと思います。


なぜなら、それは、ラヴォアジェを化学に傾倒させ、《フロギストン説》との“たたかい”へと引き込んだだけでなく、

彼がギロチンにかかることとなった裁判の“訴因”:徴税組合への入会もまた、莫大な費用・時間のかかる化学実験を行なう資金、そして生活の余裕を得ることに、ラヴォアジェの動機があったからです。

「ラヴォアジェは、1768年3月、徴税組合に入った。それはアカデミー会員に任命されてからまもなくのことであった◆。〔…〕彼は科学に身を捧げようと望み、莫大な資産こそ自分の研究を容易にし自由を保証してくれると感じ、母から受けついだ財産を自分の力で利殖させようと思ったのである。」(グリモー,田中豊助・他訳『ラボアジエ 1743-1794』,内田老鶴圃,1995,p.21.)




◆(注) ラヴォアジェは、1768年5月18日科学アカデミー内の選挙によって推薦を受け、まもなく補助会員に任命されています(任命権者は国王)。したがって、科学アカデミーへの任命と、徴税組合入会は、ほぼ同時でした(グリモー,p.20)。ラヴォアジェの母は、彼が5歳の時に亡くなりましたが、ラヴォアジェはまもなく母方の遺産数万リーヴルの代襲相続人となりました(グリモー,p.2)







ラヴォアジェは、シュタールとその承継者たちが切り拓いた、実験化学の豊饒な土壌を踏みしめていたのです。







ばいみ〜 ミ



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カテゴリ: ラヴォアジェ

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