04/20の日記

22:56
両極端の時代(4)

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こんばんは。。






1991年、“ソ連の崩壊”をもって終った“冷戦の時代”は、私たちに何を残したのでしょうか?






“冷戦の時代”に、“両側”の人々を熱狂させた2つのイデオロギーは‥、


その一方は、書店から関係の文庫本すべてが消え去るとともに完全に忘れられたかのようであり、かつての信奉者たちは、お得意の“総括”さえ唱えようとはせず、知らんふりの尻切れトンボを決め込んでいます‥




いま一方のイデオロギーもまた、経済学の装いを凝らした“自由主義神話”として一世を風靡した1970-80年代の力はなく、崩壊した“東側”の遺産を抱え込んだ西欧経済の沈滞の中で、影が薄くなっています。

(日本では、まだ、政権の中にも余韻を残していますが、それがもはや投票者へのジェスチャー以上のものでなくなっていることは、消費税と国家債務の増大‥‥それは、政府部門投資(公共事業)と移転支出(社会福祉)の止めどなき増大の他の面にほかならないのですが‥‥に示されています。)









しかし、イデオロギーは、“冷戦の時代”の本質的部分ではなかったと、ホブズボームは論じています。




イデオロギーは、2つの超大国が、それぞれ傘下の諸国、国民(たとえば、アメリカの選挙民)、支持者たち(たとえば、ソ連傘下の各国共産党員)を束ねるためのレトリックにすぎなかった。


“第2次大戦の10年”のようにイデオロギーが国家行動の指針となるようなことは、戦争が終った後にはなくて、

現実の国際関係を支配していたのは“現実政治”“権力政治”の原理であったのです。


















「冷戦の特異さは、客観的に言って世界戦争の直接的な危険はなかったという点にあった。しかも、双方の側〔…〕の世界終末論的なレトリックにもかかわらず、二つの超大国の政府はともに第2次大戦終結時の世界的な権力配分を承認していた。それはきわめて不均等ではあるが一つの力のバランスであり、基本的にはどちらもそれぞれに反対していない状態であった。

 ソ連は、地球の一部───戦争が終わった時の赤軍とその他の共産主義兵力が占領していた地帯───を支配し、あるいは〔…〕影響力を行使し」
たが、「その影響力の範囲を軍事力でさらに拡張させようとはしなかった。

 アメリカは、資本主義的な・世界の残りの部分、それに西半球と」
大西洋「とに支配権と優越的地位を保った。旧植民地列強のかつての帝国主義的指導権のまだ残っていたものをひき継いだわけであった。その代わりに、アメリカはソ連の指導権の承認されている地帯には干渉しなかった。」
(ホブズボーム『20世紀の歴史』,1994,河合秀和・訳,三省堂,1996,上巻,p.340)






“冷戦の時代”を特徴づけているのは、まさに、この“安定性”なのです。


相手側は、いつわれわれを滅ぼすかもしれない‥、と言って、制限のない軍拡競争と核兵器開発に国民を煽った双方の指導者たちのレトリック☆とはうらはらに、現実の“冷戦体制”は、確固としてゆるぎない安定を、地球規模で保証していたのです。



それは、冷戦の30年(1945-1975)を、その前の30年(1915-1945)と比べてみれば、あまりにも明らかなことです。




第3次大戦は起きなかったし、双方の誤算と偶然が重なるかもしれなかった何度かの危機の期間(たとえば、1962年のキューバ危機)を除いては、起きる可能性もなかったのです。





☆(注) 「冷戦のレトリック」とは、たとえば、アメリカの最も人気ある指導者の次のような選挙演説に使われているものです:

「敵は共産主義体制そのものである───無慈悲で飽くことを知らず、世界支配への衝動は休むことがない‥‥‥これは武器の優越をめぐる闘争ではない。それは二つの対立するイデオロギー、神のもとの自由と、残酷で神を知らぬ暴政の間の戦いでもある。」

(J・F・ケネディ、1960年大統領選挙において)













2つの勢力の間の“線引き”は、第2次大戦中の連合国首脳会談によって決められ、戦後46年間(1991年のソ連崩壊まで)その線は、ほとんど動きませんでした。






第2次大戦中、ドイツ軍の侵攻と戦争準備のために、連合国の中でもっとも疲弊していたのはソ連であり、もっとも被害が少なく繁栄していたのは、自国土が戦場となったことのないアメリカでした。戦争終結後、ソ連は、西ヨーロッパ以上に援助を必要とする状態になることは明らかでしたし、アメリカがそれを与えうることも明らかでした。



45年2月のヤルタ会談では、西側諸国は、勝利にはどうしてもソ連の協力が必要な情勢でしたから、スターリンの“分不相応”な要求にも応じて、戦後の線引きを行なったのでした。

しかし、ほんの数ヶ月で戦局は連合国側に圧倒的に有利になり、ヒットラーは追い詰められ、日本は主戦場の太平洋から駆逐されつつありました。




そこで、アメリカは、戦後の復興援助と引き換えに線の引き直しを提案したのですが、スターリンは、かたくなに「ニェット」(ロシア語で、No!)と言って、取引に応じませんでした。(op.cit.,pp.350-351)

 (それは、“現実政治”から見れば不合理なハッタリでしたが、反ファシズム・イデオロギーが優位に立った世界戦争の時代には、少しもおかしなことには思われなかったのです。)









その結果、大戦の終結とともに、地球上の勢力分割は固定化し、共産側は、戦争で荒廃した国土をかかえたままハッタリを続けることになったのでした。(op.cit.,pp.348-349)



逆に“西側”は、共産側の反ファシズムを志向した英雄的ハッタリに対抗する必要もあって、戦後は、アメリカの援助で復興を進めながら、社会制度改革を行なったのです。






そこで、日本のように、資本主義発展の邪魔になる半封建的地主制や財閥の工業独占を排除した国ではもちろんのこと、

西欧のように、社会保障と公共部門を増大させて不況の衝撃を極小にする装置とした諸国においても、

戦後復興に続く“冷戦の時代”は、めざましい経済発展の時期になりました。











こうして、“鉄のカーテン”の両側で、一方は、清貧と“牧歌的過去”の温存、他方は、著しい物質的発展とそれによる社会の不安定化★という、対照的な過程が進行したのでした。




それにもかかわらず、双方は、まったく同じようにイデオロギーのレトリックを駆使する指導者に唱導されて、架空の敵を恐れながら、必要のない量の軍備拡張と、ついに(冷戦時代には)使用されることのなかった核兵器の生産・蓄積に邁進したのでした。



★(注) 唯物論が公的ドグマである諸国で、古い精神的価値が保存され、唯物論を攻撃することが多数派の信仰箇条である国々で、物質的成功と精神的退廃が進行したことは、“冷戦の時代”の・もうひとつのパラドックスでした。












「現実に世界状況は、戦争直後にかなり安定し、1970年代半ば〔…〕までは、安定していた。その時まで、二つの超大国はともに〔…〕両国軍隊間の公然たる衝突なしに境界紛争
〔東西圏の境界に発生した局地戦争:朝鮮戦争、ベトナム戦争など───ギトン注〕を解決しようと必死であったし、イデオロギーと冷戦のレトリックとは反対に、両国間の長期的な共存は可能であるという前提に立ってことを進めていた。〔…〕公式に戦争の瀬戸際に立たされ、さらには戦争になった場合にも、相手方の自制心を信頼していた。」




 たとえば、朝鮮戦争に
「アメリカは正式に参戦し」たが、ソ連は参戦していないという“建て前”を双方が堅持していた。「ワシントンは、150機におよぶ〔北朝鮮側の───ギトン注〕中国機は現実にはソ連パイロットの操縦するソ連機であることを完全に知っていたが、その情報は公表されなかった。」それというのも、ソ連は参戦していないし戦争を望んでいないという国際的な“建て前”を維持することは、“冷戦”世界の安定を望むアメリカにとっても、死活の利益だったからです。



1953年に東ドイツで、ソ連の支配に抵抗する労働者の叛乱が起きたとき、
「ソ連戦車が出動し、共産党支配を再建したが、それが国際的には黙認された時、〔…〕ソ連は、アメリカの共産主義『巻き返し』論はラジオの芝居がかった演技にすぎないことを〔…〕学んだ」。だからソ連は、1956年のハンガリー革命では、西側が鎮圧の邪魔をしないと信じて、安心して戦車を繰り出すことができた。(op.cit.,p.342-343)





 “相手側の絶滅をめざす闘争”という冷戦のレトリックは、そのための国家行動を生み出しはしなかったのです。それによって生み出されたのは、‥“ジェイムズ・ボンドもの”をはじめとするスパイ映画でした。政府のレトリックによって過熱した西側国民の頭は、華麗なフィクションの世界で満足を得たのでした。










 中国とユーゴスラヴィアでの共産党政権の樹立は、アメリカにとってもソ連にとっても誤算でした。この2国は、どちらも、1945年の“線引き”では、共産主義の側に入っていなかったからです。

 そして、事実、スターリンは、毛沢東に対しても、チトーに対しても、共産党の国として独立することを禁止しました。スターリンにとっては、ソ連とその衛星国だけが共産主義国であれば十分であり、それ以上にお荷物を抱え込む気はなかったのです。この2国は、ソ連の指導に逆らって独立を果たしました。そして、まもなく中国はソ連と敵対するようになり、ユーゴスラヴィアは、ソ連と袂を分かって、東でも西でもない第三の道を歩み始めました。






 
 ちなみに、中国の毛沢東は、“冷戦の論理”からも外れていました。アメリカ、ソ連の首脳部とは異なって、毛にとっては冷戦はレトリックではなく、じっさいに、地球規模の核戦争を戦って生き残るつもりだったと言います。

 この“偉大な指導者”は、1957年に訪問したイタリア共産党首トリアッチの前で、核戦争の必然性を楽しそうに認め、核兵器の破壊力は、資本主義を最終的に滅亡させる方法として有効だと述べました:


「イタリアが生き残らなければならないなんて、誰が言った?3億人の中国人が生き残れば、人類が存続するには十分じゃないか!」

 自信にあふれた指摘に、西欧の“同志の皆さん”が驚倒したのは言うまでもありませんw(op.cit.,p.344)


















さて、このへんで、冷戦の終結に話題を移してみたいと思います。





最終的に“冷戦の時代”が終ったのは、ソヴィエト連邦が、全構成国の脱退によって消滅した1991年ですが、実質的にはその数年前、米ソの首脳が頂上会談で和解を表明したときに、対立の時代は終結していました:


「冷戦はレイキャヴィク(1986年)とワシントン(1987年)の二度の頂上会談で事実上終わった。」

アメリカのレーガンは
「米ソの共存を信じていた。しかもそれは、相互の核の恐怖という忌まわしいバランスにもとづく共存ではなかった。彼の夢想していたのは、完全に核兵器のない世界であった。〔…〕ゴルバチョフも、同じことを願っていたのである。」
(op.cit.,pp.373-374)











「しかし、社会主義を掘り崩したのは、資本主義およびその超大国との対決ではなかった。〔…〕むしろ、社会主義の経済的欠陥がますます明白になったのに加えて、社会主義経済が、もっと力強く先進的で支配的な資本主義世界経済の急激な侵略を受けたからであった。冷戦のレトリックは、」
自由主義世界と「全体主義」世界を「谷間の両側と見て、橋渡ししようとする試みをすべて拒否したが、実はそのことが、弱いほうが生きのびることを保証していたのである。〔ギトン注──社会主義国の〕非能率でゆるみつつあった中央計画的命令経済でさえもが、鉄のカーテンに守られて存続できた。」

 一例をあげると、
「アルバニアという小さな山国の共産主義国は貧しくて後進的であったが、外の世界をほとんど完全に締め出していた間は、30年あまりも存続できた。その国を世界経済から守っていた壁が崩れると、国は崩れて経済的なガラクタの山と化してしまった。」



「社会主義を弱体化したのは、1960年代以降、ソヴィエト型経済が資本主義世界経済と相互作用をもったからであった。

 1970年代の社会主義指導者が、自国の経済体制の改革という手強い問題」
に立ち向かうことを回避して、「世界市場の新しく利用できるようになった資源(石油価格、安い借款等)を利用していく道〔高騰した石油価格を目当てに、西側の借款とプラントを誘致して、国内で輸出用石油資源の開発を始めた───ギトン注〕を選んだとき、彼らは自らの墓穴を掘っていたのである」










かつて、
「ソヴィエト型の社会主義は、資本主義世界体制に地球規模で代わり得る体制であると主張されてきた」が、「資本主義は崩壊しなかったし、崩壊しそうに見えなかった」。したがって、「世界的な代替体制としての社会主義の見通しは、資本主義──大不況と第2次大戦によって改革され、1970年代のコミュニケーション・情報技術における『ポスト産業』革命によって一変した資本主義──と競争していけるかどうかにかかっていた。」しかし、「社会主義がますます大きく遅れをとっていることは、1960年以降明らかであった。もはや競争力がなかった。」






「二つの超大国は、大規模でとほうもなく高価な軍拡競争のために経済を極度に拡散させ歪曲させた。しかし世界資本主義は、1980年代のアメリカが背負うことになった3兆ドルの負債──基本的に軍事支出のための──を吸収することができた。」
他方で、ソ連の支出のゆがみを引き受けてくれる国は、どこにもなかった。

「1980年代半ばのアメリカの軍事支出は」
GDPの7%であったが、「ソ連の軍事支出は、おそらくはGDPの4分の1〔…〕を占めていた。

 アメリカは〔…〕従属国の経済が非常に繁栄して、アメリカ経済を圧倒するようになった。1970年代末には、ヨーロッパ共同体と日本を合わせるとアメリカ経済より60%大きくなっていた。」
これらの国が、アメリカ経済の負債の歪みを負って支える形になった。

「他方、ソ連の同盟国、従属国は自分の足で歩けなかった。むしろつねに年額数百億ドルという巨大な支出をソ連に強いていた。」
傾いた社会主義大国を支える者はどこにもなく、この体制全体が倒れるほかはなかったのである。

「技術については、西欧の優越性はほとんど指数関数的に増大していたから、勝負にならなかった。一言で言えば、冷戦ははじめから不平等な勢力の間の戦いだったのである。」

(op.cit.,pp.374-376)














ホブズボーム『20世紀の歴史』より。






ホブスボームの“東西冷戦史”の理解、いかがでしたでしょうか?


「勝てば官軍」という言葉があるように、すでについてしまった勝負を描く場合、歴史家といえども、勝った側の正当性をことさら過大に、負けた側のそれをことさら過小に見なし、争いの過程をことさらドラマ化して描きたくなりますが‥、じっさいの歴史過程は、そんなにドラマチックなものではありません。







↑きょうまでの引用部分では、まだあまり触れられていないのですが(この本の下巻に詳しく出てきます)、

“冷戦”に生き残った西側諸国といえども、この時代から、“成長と発展”のイメージで描かれるような幸福な遺産だけを得たわけではありませんでした。




むしろ、経済の高度の発展、“大躍進”は、結果として、不安定化と空洞化をもたらしました。










上の写真は、イギリス、ノース・ヨークシャー州(カウンティ)の・かつての重工業都市ミドルズブラ(Middlesbrough)ですが、工場が無くなったあとの空き地ばかりが広がっています。




先進工業国から、後進国へ、第三世界へと、工業は、安い原材料と低賃金労働力を求めて移転を続けています。かつての先進工業国は、工業の空洞化によって、典型的な“労働者階級”というものが存在しなくなり、それは政治の不安定化をもたらします。









他方、先進地域からの“工業の拡散”を受けた第三世界では、どうかというと‥、“新石器革命”───狩猟社会から農業社会への転換。日本では縄文後期〜弥生初期に起こった───以来8000年続いてきた農業社会が終焉するかに見えますが、その将来は決して透明ではありません。



200年前に西欧に起きた“産業革命”と同じことが起きる保証はまったく無いのです。というのは、先進工業国で開発された高度の労働節約的技術が移って来るのに何の障碍も無いからです。







第三世界に移転してきた工業は、はじめのうちこそ、現地の低賃金労働を“気前よく”使っていますが、現地の人々の教育程度が上がるなどして賃金が上昇するきざしを見せるやいなや、先進国から労働節約技術(先進国には、無人ロボット工場まであります!)を持って来て、人員を減らし、賃金の支払いを節約するようになるでしょう。




しかし、そうなったからといって、いったん“都市化”した第三世界の社会が農業社会に逆戻りすることはできません。



農村をあとにして工業に雇われ、いま、工業からもあぶれた人々は、いったいどこに行けばよいのでしょう?











先進国では、社会福祉制度が、“空洞化”を社会不安に直結させないための緩衝材になっています。



福祉受給者が増えることは、“自分で稼いでいると思っている人々”のイライラをつのらせますが、かれらは酔って文句を吐く以外は、投票するだけで、叛徒にはなりません。そして、彼らの支持する保守政党も、福祉予算を多少出し惜しみする以外のことは何もできません。政治家と経済学者の空想的レトリック以外の意味で19世紀の“夜警国家”に戻ることなど、現実には不可能だからです。

(つまり、この人たちの正当な不満──ギトンには正当に思えますw──を解消する施策は、まだ誰も発明していないのです‥)






しかし、第三世界で、工業からあぶれた人々には、何があるでしょうか?‥社会福祉も、まともに機能している議会制度も、そこにはありません。。。









ばいみ〜 ミ


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カテゴリ: ホブズボーム

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