04/18の日記

17:27
両極端の時代(3)

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こんばんは。。











ヒットラー/レーニン/シーザー/ナポレオン/ヒロヒト/… 
世界を征服したのは○○・○○○だけ!
ホブズボーム『20世紀の歴史』より。









“短い20世紀(1914-1991年)”は、世界大戦とともに幕を開け、大戦は革命の導火線となり、大小多数の“火薬”を爆発させたあと、“革命の終焉”とともに幕を閉じた。。。

そして、この世紀の間に、人類史上世界征服を予告した6人のうち、じつに4人──正確に言えば3人と1個──が、登場したのですが、世紀の終わりに、ただひとり──正確に言えば1個──生き残って勝利を宣言したのは‥

共産主義世界革命でも、“アーリア人種”でも、大東亜共栄圏でも、‥‥アメリカ合衆国でさえなく、国境を越えた企業体が生産する陶酔的液体であったのです...







世界がこの世紀を経たことが、人類に対して、いったい何を意味するのか?、‥紀元3000年紀の入口にいる私たちには、まだまったく見当もついていないのが現実です。





しかし、この“極端だらけの世紀”★の前と後で、多くのものが変ってしまっていること───、世界がもはや“もとの世界”でないことは、あまりにも明らかです。1991年のソ連・共産主義圏の崩壊も、1917年以前の“牧歌的世界”を復帰させる効果はありませんでした(これを書いている最中にも、ウクライナから、シリア・イラク国境から、次々に新たな震動が伝わって来ます)。




それでは、いったい何が変ったのか?‥この時代、この世界は、どこに向かっているのか?‥わたしたちは、ホブズボームとともに、生起したおびただしい事実の歴史を整理し、この難問を探ってみたいと思います。


★(注) 『20世紀の歴史』の原題 "Age of Extremes" は、「extreme(極端)」が複数になっているので、“両極端の時代”と訳されることもありますが、極端は2つとは限りません。むしろ、著者が描いているのは、世界大戦、大恐慌、共産主義運動、ファシズム、東西冷戦、世界的“高度成長”経済など、どれもこれもが、他の時代にはありえない極端なことばかり生起し続けた時代なのです。したがって、原題の意味を正確に日本語にするとすれば、“さまざまな極端の時代”“極端だらけの時代”になると思います。








ホブズボーム『20世紀の歴史』より。







国際政治という面から見ると、第2次大戦とそれに至る約10年間は、非常に特異な時代でした。

この10年足らずを除いて、近現代のすべての時代において、すべての国家は、自らの国益と現実の力関係の推移だけを基準として行動しました。イデオロギーも伝統も、そこでは、正当化のためのレトリック以上の意味を持つものではなかった。

(あの“冷戦の時代(1947-1991)”でも、国家の行動の指針はイデオロギーではなく、現実の国益と世界戦略でした。)


この“現実政治(Realpolitik)”ないし“権力政治”というしくみは、鎖国の眠りから醒めたばかりの日本の幕末志士たちを、何より驚かせた恐るべき近代世界の現実でした。





しかし、第2次大戦の“10年”は、イデオロギーが“権力政治”を覆した時代でした。この戦争に加わったどちらの側も、現実的な国益を踏み越えて──あるいは、現実的な国益が意味をなさないまでに極限的な状況におかれたために──、それぞれのイデオロギーにしたがって行動したのです。









「世論調査は〔…〕1936年のジョージ・ギャラップとともに始まった。この新しい手法の初期の調査結果の中には、〔…〕第2次大戦後以後に育ったすべての読者を驚かせるような一つの結果がある。1939年1月、ソ連とドイツの間に戦争が始まればアメリカ人はどちらに勝ってほしいと思っているかという質問に対して、
〔アメリカ合衆国民は───ギトン注〕ドイツを支持するもの17%にたいして、83%がソヴィエトが勝つことを望んだのである。〔…〕当時、ソ連におけるスターリン主義の専政ぶりは誰もが最悪の状態にあると思っていた」にもかかわらずである。

「このような歴史的状況は、〔…〕1935年から1945年までの10年間のことであった。〔…〕それは、ヒトラーのドイツの興亡(1933-45年)に」
よって規定されていた。「アメリカとソ連は、ともにドイツを米ソお互いの間の敵対関係よりも大きな危機と見て、それにたいして共通の大義を掲げることになった。

 米ソ二国がなぜそうしたのかという理由は、通常の国際関係、あるいは権力政治の枠を超えて」
いた。「ドイツに対する連合関係を鍛え上げたのは、ドイツ〔…〕の政策と野望がイデオロギーで決定されていたという事実であった。簡単に言えば、ドイツがファシズム強国であるという事実であった。」そのために、ドイツ以外の諸国は、「通常の現実政治(Realpolitik)の計算が通用」しなくなっていたのである。

 “現実政治”のマニュアルにしたがえば、諸国は、
「それぞれの国の国家政策上の利益と全般的状況しだいで、ドイツに対抗したり和解したり、力のバランスを保ったり、必要とあれば戦うことにすればよかった」。じっさいに、ヒットラーがドイツで政権を取った1933年から1941年までの間は、「他の国際ゲームのプレーヤーのすべてが、そのような判断でドイツに対処した。」イギリスとフランスは、ミュンヘン協定でドイツの東方侵略を容認し(英首相チェンバレンは、チェコスロバキアのような「自分の知らない国」のことに構っていられないと発言した)、その結果、まもなくドイツの西への侵攻を受けてフランス全土を明け渡すことになった。スターリンのソ連は、ヒットラーと独ソ不可侵条約を結んで世界をあっと言わせたが、その結果、何の抵抗も受けずに力をつけることができるようになったドイツと枢軸国軍は、やがてモスクワを西と東(スターリングラード)から包囲した。イタリアと日本は、ヒットラーの侵攻戦に対して、最初は局外中立を守ったが、まもなく同調して引き込まれることになった。

アメリカのフランクリン・ルーズヴェルト大統領は、反ファシズム・イデオロギーを信奉していたが、当初は議会の反対のために動けないでいた。しかし、ヒットラーの狂気による(という説が有力)対米宣戦布告と、日本の真珠湾攻撃は、皮肉にも、アメリカの足かせを取り去って(参戦の世論が沸騰した)、独・日を第2次大戦の敗者に決定する効果をもたらした。

 相手が、ヒットラー・ドイツというイデオロギーと野望でのみ行動する強国である場合には、“現実政治”はまったく役に立たないことを、諸国は思い知ったのだった。




「1930年代が進むにつれ、〔…〕力のバランスよりも大きな問題がからんでいることがますます明らかになっていった。現実に、ソ連からヨーロッパをへてアメリカにいたる西欧の政治は、〔…〕国際的なイデオロギー的内戦としていちばんよく理解できるであろう。〔…〕決定的な対立の線は、資本主義そのものと共産主義的社会革命との間ではなく、イデオロギーを同じくする2つの集団、つまり18世紀の啓蒙思想と大革命の後継者──もちろんロシア革命もそれに含まれていた──と、それに敵対する勢力との間に引かれていた。簡単に言えば、戦線は資本主義と共産主義との間ではなく、19世紀に『進歩』と『反動』と呼ばれたものの間にあった。」
そのような呼び方は、もはや“古臭く”なり通用しなくなっていたにもかかわらず。。。 (ホブズボーム『20世紀の歴史』,1994,河合秀和・訳,三省堂,1996,上巻,pp.216-218)



















“反ファシズム共同戦線”の10年に続く30年は、“冷戦の時代”でした。

共同戦線を構成していた各国は、敵が倒れると徐々に“現実政治”に回帰し、同時に、共同戦線の時代には目をつぶっていた自由主義・共産主義のイデオロギー対立が前面に現れて、東西双方の主要なレトリックとなりました。






しかし、第2次大戦後の諸国は、単純にもとの状態に戻ったのではありませんでした。むしろ、1946年と1939年とを比べて、社会・経済・政治全般にわたる烈しい変化の認められない国は無かったと言ってよいのです。




敗戦諸国が、連合国占領軍の強力な梃入れによって、各国史上経験したことのない社会・政治改革を経ることになったのは、周知のことです。

ドイツに占領されていた東欧諸国は、ソ連軍占領下で当初は、“反ファシズム共同戦線”の延長である人民民主主義国家に、ついでまもなくソ連型の社会主義国家に変貌させられました。

第三世界でも、少なからぬ数の植民地が独立への端緒をつかんでいました。

しかし、戦勝した連合諸国もまた、変化の波を免れることはできなかったのです:




「第2次大戦は、勝った側にとってはたんに軍事的勝利のための戦いではなく───イギリスやアメリカにおいてさえも───よりよい社会のための戦いだったからである。

 第1次大戦後、政治家たちは1913年の世界への復帰を夢見ていたが、第2次大戦後には1939年〔…〕への復帰を思った者はいなかった。

 ウィンストン・チャーチルを首相とするイギリス政府は、必死の戦争の最中に、広範囲にわたる福祉国家と完全雇用を公約した。それらすべての政策を勧告したベヴァリッジ報告が、イギリス」
にとって最も戦況の厳しい「暗黒の年である1942年に出されたことは偶然ではなかった。

 アメリカの戦後計画は、〔…〕大恐慌と1930年代が二度とおこらないよう、その教訓を学ぶことに向けられていた。

 枢軸側に敗れて占領された国々
〔フランス、オーストリアなど───ギトン注〕での抵抗運動では、」ドイツ軍からの「解放と社会革命〔…〕とが不可分の関係にあるのは言わずもがなのことであった。」(op.cit.,pp.245-246)




したがって、第2次大戦の結果は、誰の眼にも非常に分かりやすい顕著な社会の変化──それを、よりよいと見なすのであれ、見なさないのであれ──でした。

このような変化をもって終結した理由は、第2次大戦が“イデオロギーの戦い”だったからです。


(これと比べると、わたしたちの1991年が得た“冷戦の終結”というピリオドは、なんと曖昧で灰色なことでしょうか?‥それというのも、のちに見てゆくように、“冷戦”は実際には“イデオロギーの戦い”ではなく、2つの“権力政治”の間の鬩ぎ合いであったからです。)










とは言っても、大戦中に“反ファシズム”の支持者が増えたわけではありませんでした。むしろ、“反ファシズム共同戦線”の結成は、かえって、これに対抗して、ファシスト以外のあらゆる権威主義的政権や党派(たとえば、日本の軍国主義政権や、スペインのフランコ政権)を、ヒットラーの周りに結集させることになりました。

「反ファシズムは」
国民のような「多数者集団よりも、少数者集団のほうをいっそう容易に動員した。」なかでも「知識人と芸術関係者がとくにその呼びかけに応えた。〔…〕国家社会主義〔ナチス───ギトン注〕が傲然と、かつ攻撃的に〔…〕文明の価値に敵意を示していることは、知識人と芸術家の関係していた分野でただちに明白になったからである。」



 たとえば、アインシュタインは、本人がユダヤ人として事実上追放されただけでなく、その理論も“ユダヤ科学”として否定されました。ドイツでは、多くの科学、哲学、前衛芸術が、いちはやくナチスに恭順を示した同僚によって攻撃され、
「知的自由にたいするナチの敵意のために、ドイツの大学からはおそらく3分の1の教師がほとんど即座に追放された。」




 一般の人は、強制収容所に関しても、共産主義的破壊活動に対する予防措置と思っていたし、保守派は
「いくらかの共感を抱いていた。」

 ナチスの政策が、ユダヤ人を、比喩でなく実際に“絶滅する”ことであると本気で考えていた人は、少数だった。むしろ、ヒットラー政権のおかげで、ドイツが西欧でただ一国、大恐慌の影響から脱出して、失業者をゼロに近いまでに減らしていたのは、まぎれもない事実だったのだ。




 ただ、
「およそ本を読むような人々」だけが、ヒットラーの『わが闘争』などを読んで、「人種主義的扇動者たちの血に飢えたレトリックと、」強制収容所での「拷問と殺害の中に、文明の意図的な逆転の上に築かれた」ナチス思想の「脅威を深く認識したようであった。したがって西欧知識人は〔…〕1930年代に反ファシズムのために大量に動員された最初の社会層であった。〔…〕そこにはジャーナリストが含まれており、西欧の非ファシズム諸国のジャーナリストは」、ナチス「の本質について、保守的な読者や政策決定者にたいして警告を発する上で決定的な役割を果たした」(op.cit.,pp.226-227)












 1936年にスペインで起きた内乱は、“反ファシズム勢力”と“ファシズム勢力”の最初の戦いとなった。 フランコ将軍のファランヘ党は、ファシズムではなかったが、スペインの社会革命を鎮圧するために立ち上がったこのクーデター勢力を、ヒットラーは強力に支援した。

 
「社会革命を未然に防ごうとして始まったクーデターが、逆にスペイン各地で社会革命を突発させたのである。それはスペイン全土で長期にわたる内戦となった。」

社会党員、共産党員を含む共和国政府は、
「クーデターを打ち負かした大衆的叛乱の勢力と不安げに同居している状態であった。」

 これに対して、共産主義の脅威を排除しようとしてクーデターに決起した将軍の中で、フランコ将軍が指導者となり、フランコ政権は、内戦を通じて最終的には一党独裁の権威主義的国家となった。

 しかし、西欧各国は、この時点ではまだ“現実政治”を続けていたので、傍観に回った。それは、共産主義国も例外ではなかった。
「ロシアは〔…〕イギリスの提唱した非介入協定に加入した。」(op.cit.,pp.240-241)





 そこで、“反ファシズム”のために、スペインの各地でクーデターに抵抗する人々を支援したのは、各国から個人の資格で外国人義勇兵として集まって来た若者たちだった。

「やがて50か国以上の国からやってきた4万人以上の外国の若者たちが、彼らの大部分がおそらく学校の世界地図で〔…〕知っているだけの国で戦うために駆けつけ、そして死んでいった。〔…〕彼らは傭兵ではなく、またごくわずかの事例を別とすれば冒険家でもなかった」。「彼らは大義のために戦うためにやってきたのである。」
(op.cit.,p.243)




 同時代のイギリスの詩人オーデンは、こう歌って、彼らへの共感を表明した:


「あの乾いた広場〔…〕

 河で刻まれたあの台地に、

 われわれの思想は肉体を持つ、われわれの熱病の恐るべき姿は

 くっきりと現われ、かつ生きている」














ばいみ〜 ミ


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カテゴリ: ホブズボーム

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